定稿『蛇神祭祀/浅茅原竹毘古』(はむかみさいし)
この九月末に蛇神祭祀の連載を無事終了し、定稿とした。始まりが今年の四月だったから、半歳100回の連載になる。原稿枚数はおおよそ600枚となった。随分刈り込んだものだ。すでに終了挨拶は別のblogで記したので、ここでは余話のようなものを書いておく。
人にもよるが作者は自作の解説や宣伝をしないものである。
何故か。
いろいろあるだろうが、人は人。浅茅原は浅茅原だから、また考えがある。
作者の作った作品は、公開されると作者の制御を離れる。作者の意図や意志とは関係なく作品は読まれ、解釈され、了解される。書いている間は、作者の子供のようなものであっても、公開されたとき、それは成人になる。だから自分の息子や娘が世間でどんな風に扱われても、親は口出しをできないのと、同じことになる。
親のできることは、もう、昔話になってしまう。「あの子がうまれたときはね、可愛らしかったよ」とか、「小学校のころはね、成績が~」というような話しかできない。その昔話を書くのも読むのも、なんの制限もない。私は今、不意に書きたくなった。
それに、私自身がすでに読者の一人になっているのだから、MuBlog好評(?)の「小説の感想文」みたいなものを書くのも一興。
脳裏には、大昔なんとなくはやって、読んだような(内容は覚えていない)ノーマン・メーラーの『僕自身のための広告』というタイトルが、やけに大文字で流れていく。
『蛇神祭祀』 私は気に入っている。最初に公開した『犬王舞う』よりも、物語化がすすんだようで、内心「まずまず」と思っている。特に、御杖代(みつえしろ:宗教教団の教祖さま)だけが歴代言い伝えられている「からくり」を書いているときはほくそ笑んでいた。(ところが、意外にも読み飛ばされたという情報がいくつかあった)もちろん、最近森博嗣さんの『カクレカラクリ』を読んだときは呆然として、「ああ、もう少し大規模に書き込むべきだったなぁ」と、思いはしたが、そこはそれ「我が子かわいさ」。人の子供よりも、自分の作品の方が愛着が増す。仕方ない親ばか。
それと、以前から、ずっと考え感じてきた三輪山というものを舞台にできたことが、ことのほかうれしかった。ひとにもよるが、私は考えることについては偏食ぎみで(現実食事については好き嫌いはない)、ほっておくと好きなものしか読まない、書かない、見ない、接しない、考えないというところがある。だから何十年も、ずっと三輪山のことを考えてきたから、作品の舞台としてその近辺を選び、なんとかかんとか物語を完成することができたので、すっきりしている。
そういう意味では全くの日曜作家、アマチュアだと自覚する。だれかに、どこそこを舞台にして小説書いてください、お礼はたっぷりですよ、と言われても、全く書けない、自信がない。
作っているとき、考えていたのは、一つはモデルについてだった。
まず、笠御諸道(かさ・みむろみち)教団。これはまったくの想像である。もちろん関係図書をいくつか読んだり、人の話をいくつも聞いてきたので、私の脳の底にはそういう情報・知識が蓄積されているだろうが、こんな教団あるわけない(笑)というのが、作者の気持。しかし、公開されると、人はどうとるか分からない。もし、「うちのことを、かかれましたな」なんて言われたら、わたしはぼそりと答える。「いえいえ、私が教団つくったら、こんな風にするんです」と。しかし、つくっているとき、一人笑いを何度もしていた。特に「神離帖(かむさりちょう)」に気付いたときは小躍りした。(しかし、またしても読み飛ばしたという話も耳にする)。版図、木簡時代からの巫女さんの日記だなんて、そんなの現実にあったらどうしましょう。
次にモデルといえば、ヒロイン達。なにしろ谷崎教授は京都の葛野女子大学となっているから、ここから混乱が生じる。これは作者のいたずら心と思われるのもシャクなので、ここでちゃんと記しておく。一般に原作者の知り合い達は、身近な者が小説を書くということに慣れるまでは、人物が登場するたびに「僕のことかな」「私のことにきまっている」と、思うものだ。しかし、ひとたび物語を書く立場になると、それが嘘であることがしっかり分かる。もちろん、名前などが一致するとドキリとするだろうが、それは偶然とか、語感のよさとか、別の要因が大きい。蛇神でも書いていて気付いたのだが、女性名は何人も同じ名前の者が近辺にいる。まずいなと、思うこともないのだが(笑)、名前なんて一致するのは山のようにある。連載開始の四月ころには、数少ない読者から「あの、佐保という名前ですが、~大丈夫なんですか」と言われた。しかし、大丈夫もなにも、小泉佐保は生まれながらにして佐保なんだから、どうにもならない。ひとから、「君はなんで、竹毘古なんだ」と詰問されても、それこそ「さあ」としか、言いようがない。
いわゆる伝統的というか、純文学小説には、なんとなく作者をモデルにして、登場する人物すべてが実在のだれそれに当てはめられるような装いをもつものが多いが、これとて、私小説の歴史も長いのだから、そんな、モデル小説と言わない限りは、あくまでフィクションである。
「そんなこと言って、嘘でしょう。私がモデルでしょう」と、もし思われる方がいるならば、そのように実在人間をモデルにして書いてご覧なさいよ。似ても似つかぬ人物が、小説世界を歩きまわることになります。
本当は物語の結構をそれとなく、言ってもらいたいのに、数少ない感想は、もう定まってきている。第二作目で定まるのがいいのか悪いのか。
小泉佐保→この人、ちょっと理想的過ぎる。ときどき老成しすぎている、そんなわけない、25歳の女性には見えない。と、なんとなく不評。作者はものすごく気に入っているというのに、可哀相な佐保(泣)。
小沢トモコ→愛らしい。一番できがよい。谷崎と小沢の掛け合いのほうがおもしろい(犬王舞う、以来)と、一番評判がよい。看板娘かも。
谷崎教授→?
長田君→登場すると、ほっとする。おもしろい。(犬王舞う、以来)なんとなく、人気がある。作者には、なにがおもろいのか、とんと分からない。あははは。
というわけで、作者が一番好みの人物は、それは、「さあ~」と、ナイショです。
まだまだ書き足りないが、今夕はこのくらいにしておきます。また機会あれば、おもうところを「僕自身のための広告」として記します。そうですね。なぜミステリ形式にしたのか。そのあたりのことを、書いてみたいとも思っています。
参考
小説『蛇神祭祀』の連載完了(DuoBlog)
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