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2006年10月19日 (木)

配所の月とは望郷か

 月に惹かれて気持が方々に散っていったので、心鎮めるためにMuBlogまた一通記すなり。

 永遠の女たらしかどうかはしらないが、在原業平(ありわらのなりひら)は光源氏とはちがってどうにも実在したようだ。その人の歌に、月やあらぬ・春や昔の春ならぬ・我が身ひとつは・もとのみにして、というのがある。こんなやさしい歌のわりには、神に仕える伊勢斎宮とか、もうすぐ皇后になる人とか、とかく相手にする女性がとんでもない立場の人ばかりである。女性の方も、なんで危険を顧みず業平に心開くのか、女心は永遠の謎。不思議だ。

 それで「月」がでてきた。この場合、この月は、昔の月も昔の春も昔の女ももう今はない。どうして自分一人は変わらずもとのままの気持なのだろう。という、憎たらしいような歌いぶりである。歌うたえるほどなら、まだ生きている。実は今は、せっせと危ない女性にまめまめしくせまっているというのに。

 だからこの「月」は、配所の月(つまり島流しとか、左遷地で見る月)とは異なるが、空間の距離ではなく、時間の距離という点では、過去の栄光を懐かしんでいる象徴がこの「月」なのかもしれない。ここで、罪無くして配所の月をみる風情は、実は今またしても禁断の恋に生きているという点で、罪無くしてという心が「今も元気に恋している」という気持と同じに思えた。罪があれば、あるいは本当の失恋ならば茫然自失生きる力を失って、とてものこと新たな恋などできない。歌もない。つまり、業平のこの心は、一つの「罪無くして配所の月を見る」心かと、今朝思った。

 月といえば、当然のように私は口ずさんでしまう。おなじ世に・また住之江の月やみん・きょうこそよそに・沖の島守、後鳥羽院さんのうた、のはずだ。これこそ政治の罪あって配所の月を見ている。いま眼前の隠岐の島に月があるのだろう。その月は住之江でも見られているのだろう。その月はかつて住之江で見た月なのだろう。今生住之江で月はみられるのだろうか、いや、見られない。私は隠岐の島の島守として、流されたままだ。
 ただ。
 後鳥羽院というお方は相当な御仁だったので、そして歌があったのだから、お元気だったと思う。

 すこし理屈が過ぎてきた。
 つまり、時間と空間と両方にわたって月は見上げたとたん、人に望郷懐古の思いを抱かせるのだろう。
 今、同時的に遠国で見られている月。過去に見た月。
 なかなかに、日本の歌にはそれが方々にちらばって残っている。花鳥風月。よいことだ。

 歌物語、文学って、なかなかによいものだね(笑)。

参考
  MuBlog:薄紅天女(うすべにてんにょ)/荻原規子 [注:業平につながっていく物語]

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小説木幡記」カテゴリの記事

コメント

 (望郷の月)

 天の原 ふりさけ見れば 春日なる 
       三笠の山に 出でし月かも

この歌を思い出しますね。
仲麻呂が、遣唐使として中国から帰国する際に詠んだ歌と言われていますが、これを詠むには日本で(三笠の山に出でし月)を見ていたことになりますよね。
東院庭園での宴の時に見た月を思い出しているのだろうかとか、(あれっ?)三笠の山だと後ろの春日山が邪魔になって、月が出てくるところ見えないのになとか、想像してみるのが楽しいです。
それに、若くして異国の地でなくなった遣唐使井真成の無念の思いと重ねると、古代の人々の月に抱く(望郷の思い)には、現代人にとっては計り知れないものがあるなと思っています。

 秋に(月)のテーマで、いろいろお話するのって、いいですねぇ・・。

投稿: wd | 2006年10月19日 (木) 08時28分

月とスッポン

 お月さんの話題ですね?先日、ハノイでスッポン料理を庭園の夜の宴会で頂きました。残念ながらハノイは昼も夜もモヤ(靄)で覆われており、太陽も月も見えないのだす。

 だから、残念ながら日本と同じ月を眺める事が出来ませんね。木幡の旦那が月を眺めて、風流に酔われているのに、私はスッポンを食べていました。

 今晩夜の十一時の深夜便にて帰国します。朝の六時には成田でしょうかね?疲れたどす。

投稿: jo | 2006年10月19日 (木) 13時25分

 1998年に読売新聞社刊で、辻原登『翔べ麒麟』という冒険小説があります。阿倍仲麻呂が大唐帝国で波瀾万丈の活躍、とでもいうのでしょうか。

藤原真幸(まさき)「私は、この歌を朝衡(仲麻呂の中国名)さまとおもって持ち帰ります」
朝衡「万葉集に間にあうかな。阿倍仲麻呂が蘇州にて故国をしのんで詠める歌、とでもして家持に渡してくれたまえ。いや、冗談、冗談……」

 と、ありました。
 まともには行き来できない唐に16歳でわたり高位高官に昇った仲麻呂でしたが、こういう場合の望郷の月とは、本当に凄まじいものを味わいますね。唐にも、同じ月が見えたのでしょうか。想像すると、歌の力がよけいに迫ってきます。
 まず私なら、国偲ぶ思いでつっかえて、歌を詠む気力が湧かないことでしょう。

投稿: Mu→Wd | 2006年10月19日 (木) 15時59分

Joさん、明朝にむけて、お帰りなさい。
なんとなく、すっぽんたべて気力旺盛、怪我もなく事故もなく、うれしいことです。

 月見て風流にひたっていたわけでもないのです。風流を風流として、身内から離れた外に置くのじゃなくて、余生が世間から風流と名付けられる世界に、なにも意識せずに住みたいですね。
 なにかしらねど、心地よい、身にあっている。そういう世界が望ましい。

 今はまだ時折なんですが、西方浄土を眺めるのはよくあります。眺めると言うよりも、目に入ってきて、ああ綺麗だなぁ、ですね。

 毎朝MuBlog書いて、メル返して、ご飯食べるような自然な風に、歌でもよめるようになったら、万歳です。

 私は、散文はしこしこと書けるのですが、詩(うた)は、歌いにくいですね。意識してしまう。大抵、数十年口ずさんできた歌ばかり浮かんでしまって。まあ、本歌取りとかいう技法もあるので(笑)、そういうことから入ってみたい気もします。
 しかしなんですな。
 毎朝、MuBlogに、自製のぼけた歌が載り出したら、ますます、……。

投稿: Mu→Jo | 2006年10月19日 (木) 16時08分

 私の記憶違いかもしれませんが。

仲麻呂は万葉の歌人ですが、この歌は『古今集』にとられていたように思います。

投稿: wd | 2006年10月19日 (木) 18時10分

wdさん
 阿倍仲麻呂 698-770
 大伴家持  717-785
   万葉集   8世紀末:~782~
 紀貫之   971-946
   古今和歌集 9世紀末:905?前後 

 小説の中で、仲麻呂が万葉集に載せといてと言ったセリフは、時間的には合いますね。
 ただ万葉集とかいうものを家持が編纂していた時代は、晩年だろうし、その家持晩年に「万葉集」という言葉があったのかどうかは、知りません。
 仲麻呂の最晩年は70歳ころでしょうね。そのころ家持は、50歳前後です。さて、家持が50のころどの任地に居たのか、それは続日本紀をみないと分かりません。家持は40代で歌止めましたし。

 だから、小説だと思わないと無理なセリフです(笑)。
 ところで、阿倍仲麻呂の、春日なる御笠の月について、おもしろ記事がありました。むつかしいので、流し読みしましたが、この歌はなかなかひとすじなわではないような。 
http://www.geocities.jp/yasuko8787/0-0hakken3.htm

投稿: Mu→Wd | 2006年10月20日 (金) 05時49分

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