図南の翼:十二国記/小野不由美
承前:風の万里 黎明の空:十二国記/小野不由美
図南(となん)の翼:十二国記/小野不由美
つまり昇山するものは、場合によっては王になるかもしれない。王は玉座にすわり贅沢をするのではなくて、国を民を背負う者である。決めるのは麒麟なのだが、その前に様々な試練が待っている。試練を乗り越えるためには、人としての工夫がいる。その工夫は本人の考えから生まれるものもあるが、ガイド(剛氏)との関係にある。これらが条件設定となっている。
そして毎年一回春分に開く門があり、そこには数百名の昇山者が集う。杖身(じょうしん:護衛)や剛氏(ごうし:黄海を知り尽くすガイド)もいるから、実質は80名程度の昇山者である。彼らの多くは道に迷い、妖魔、妖獣に喰われ、毒水にあたり、命を落とす。
だから、昇山するというのは、たとえ麒麟に王と認められなくても、無事下山することで、その者の名誉を増し、ひとかどの人として待遇される。
その昇山に、珠晶(しゅしょう)がいどむ。大富豪の娘。
たった十二歳の少女である。
その設定に、この物語の良さがにじみ出てくる。
十二歳のお嬢様が、そういう冒険にでることの真意は最後まで説き明かされない。ひたすら小賢しい、生意気な、傲岸不遜、莫迦なガキと周りから思われ、そして読者である私も、たびたび苦虫をつぶしていた。「莫迦ガキ!」と。
しかしもし、そのまま、そうであるなら、このような荒唐無稽の物語に、かくまで私は心酔しない。なるほど、作者小野不由美の真骨頂というか、終盤にいたって、私は珠晶の心映えに涙した。
同行者は二人いる。
一人は頑丘(がんきゅう)、黄海で騎獣(きじゅう)を狩って商う浮浪民(浮民)の出である。こういう民を訳あって黄朱の民ともいい、日本で申すなら「道々の輩」、中世の「くぐつ師、芸能人」を想像するとよい。一所不住。
彼がさんざん手を焼きながら、珠晶を助ける。この二人の掛け合いが、この物語の背骨になっている。頑丘は経験を積んだ大人。対する珠晶は勇気があって聡明で勝ち気な少女。お互いに常時、喧嘩状態で黄海を旅する。
彼は騎獣の駮(はく)に乗っている。飛行もできるが、この世界でのランクは1000万円程度の高級車である。
もう一人は、青年利広(りこう)。後から珠晶を案じて黄海にやってくる。身元不明だが、頑丘と珠晶の諍いには仲裁する。珠晶にわかりやすく、怒りっぽい頑丘の真意を説く先生でもある。利広の乗る騎獣は星彩(せいさい)と名付けられた「すう虞:すうぐ」、一種の妖獣である。これはこの世界のランクでは3000万円程度の、ランボルギーニカウンタック並で、王侯貴族がごくたまに乗っている騎獣である。
この三人が、黄海を他の数百人達とともに、どんな風に渡っていくのか、これは圧巻だった。頁をくるたびに心が躍った。冒険小説と言ってもよいだろう。そして、三人は無事、蓬山にいる黄金の髪をした麒麟に出会えるのだろうか~。
なお、「図南の翼(となんのつばさ)」とは本文中にもあるが、鳳凰が南に向かって翼を大きく広げるイメージから、大志を抱くこと、あるいはそれだけの大きな人物を指す。荘子が原典。珠晶は十二歳の少女だが、国と民の労苦を救おうとする大志によって、艱難辛苦の道のりを黄海にもとめた。
追伸
終盤に、珠晶が黄海で危機に立ったとき謎の人物に出会った。彼は請われて名乗るが、それは「東の海神 西の滄海」で重要な位置を占めた者だった。コアな読者ならその意味を分かるのだろうが、私には時代がつかみきれず、不明なままとした。十二国記の講談社文庫を、私は発刊順に読んでいるが、物語自体はその前後関係とは異なるようである。しかし、なにしろ登場人物は場合によっては500~1000歳なのだから、年表を作っても、作者やコア読者以外は茫洋として、分からなくなる。そして、そのわけのわからなさの残るのも、このシリーズの奥深さとも言えよう(過褒ではない)。
再伸
しばらく小野不由美を読まずに、久しぶりに再会すると、私は実は「ファンタジー」が好きだったのかな、と今更ながら自覚し始めた。私は少年期からずっとファンタジーが嫌いだった記憶がある。それが。ここ数年、空色勾玉や、十二国記に遭遇して、なにかしら記憶もない時代への先祖返りをしているような気分である。不思議な気持だ。
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