邪魅の雫(じゃみのしずく)/京極夏彦
邪魅の雫(じゃみのしずく)/京極夏彦
講談社ノベルス、2006年9月26日 第一刷
重さ:580グラム
原稿枚数:(812頁x23文字x18行x2段/400字=1681枚
毎度のことだが今度は三日間かかった。そのうち丁度真ん中にいたったのは二日半後だった。つまり、残り半日で後半を読み切ったことになる。京極夏彦作品のうち、京極堂シリーズはわたしにとって立ち上がりが遅く、前半をよむのは重労働になる。しかしたった半日で後半原稿800枚分を読み切るというのは、遅読なわたしにとって、これも異様なことである。不思議だ(邪笑:読んだ人なら、不思議という言葉は使えないだろう)。
しかし「わたしにとって」立ち上がりが遅いだけで、世間には数頁も読まないうちに引き込まれる人達が何人もいるのを知っている。
京極堂を初めて奨めてくれた人などは、当時顔をあわせると毎日のように、
「もう、読み終えましたか?」と、吹き出しそうな顔をした。
「やめた、やめた、京極さんは合わない。もう、読まない」と、Muは心底苦り切っていた。
「そう、おっしゃらずに、もう少しの我慢です。そのうち、……」と、妖しい笑みをたたえて言った。
「なんだ、そのうち?」と、Muはまた期待した。
「じゅわ~っと、染み込んできますから」
そしていつも、半分を過ぎた頃、重さにして300グラムほど読み終えた頃から、その「じゅわ~」とした、身内に溶け込んでくるような京極世界に、いつしか、たゆたっている己(おのれ)を発見していた。終盤、黒衣の京極堂がマントを翻し、手甲みせて、ガラリと戸を開ける頃には、日常がすっぽりまるごと染まっていた。そして、わたしのなかで、なにかが、そう憑きものがはらりと落ちるのであった。
リン、と鈴が鳴った。
これまでの京極世界の知識で分析すると、この世界は売れない強鬱の作家関口と、古書店主人・神主・お祓い屋の京極堂とによって、300グラム、100グラムの両界に別れている。残りの100~200グラムは、木場(きば)刑事と榎木津(えのきづ)探偵とが受け持っている。あわせて500~600グラムの小説世界だが、今回は580グラムで収まった。
それにしても重いノベルスだった。横臥読みなので右腕が何度も痺れた。すでに左右の視力はズレが大きい。
前半、関口が全面的に出るわけではなく、それに変わる何人かが、関口的収拾のつかない絡まった濁った心象風景を開陳する。延々と。何人もの入れ替わりがある。一応(笑)ミステリだから、だれとだれとは言わない。これまでに登場してきた人も、初めての人も、何人もが時には名乗りもせず、性別もわからず、居場所も明かさず、背景なしで、呟いている。会話と独白と地の文とが融け合って、ずぶずぶと沼にはまりこんだような心象風景が、逆に読者のわたしに形成されていく。
わたしが今回、前半の重労働と言ったのはこういうことだった。つまり、わたしはこの関口的まとまりのない、地を這うような、精神世界に強い反発を持つ読者だったのだ。
それはとりもなおさず、明治以降の日本文学本流の大部分を見捨てた、止めた証でもある。わたしは、普通の意味での文学を受けつけなくなってしまったようだ。多くの文学というものは、その多くが半分狂った、怯懦(きょだ)自己憐憫、悲惨貧困、淫乱酔っぱらい作家の世迷いごとにしか思えなくなってしまっていた。
その点、ミステリは良かった。社会派と言われたものを除いては、大体明るく、単純で、すっきりして、なぞなぞがあって、爽快だった。血と狂気とが渦巻いていても、巻を閉じれば「これは、フィクションです」と、作者のお墨付きがあって、安心だった。
ところが、この関口世界をなによりも愛好する人達が、京極ファンには多いのも事実である。傍証枚挙にいとまない。彼等は一冊で二冊楽しんでいる。うらやましい。わたしは重労働苦役をへて、やっと蜜とミルクの地にたどり着く。
少し考えてみた。
作品の中に人格があるのかどうかはさておき、一人の人格を次元とする。すると『邪魅の世界』は、何人もの人達が、ほとんど脈絡なくつぶやくのだから、これはn次元の心象描写と考えることができる。それぞれが独立した世界であって、考えも日常も事件らしきことへの関与もその次元内で進んでいく。ちょうど、n個のパラレルワールド(並行世界)が同時進行しているわけだ。そこここで、殺人が起こる。合計何人か、少なくとも片手の指を超える。それぞれに関与する者は相互に知らない場合が多い。出会ったとき、片方が死ぬともいえる。
人が死ぬ、事件となる、その場所だけははっきりしている。東京と、神奈川との数カ所である。名宰相吉田茂の別業ある大磯が中心と、わたし読者には思えた。(地図)
調べると相互に関係の無い事件なのだが、東京本庁は連続殺人だと考える。死因は青酸カリらしい。
被害者には、男もいる。この男はつぶれかけの会社のサラリーマンにすぎない。
女がいる。
そこで、物語が動きだすのだが。被害者の女達は、榎木津探偵と見合いもせぬまま破談になった者達である。財閥旧子爵次男の榎木津だから縁談は舞い込んでくる。もし本人を知れば躊躇する女性も多いだろうが、映画俳優のような顔立ちと、資産ある名家の御曹司だから次々とある。次々と破談になる。その中の関係者の一人が、後日捜査線上に被害者として浮かんでくる。しかし警察上層部は、この榎木津縁談話と事件との関わりを中盤以降になるまで知らない、と言えばよい。
n次元の相互に無縁な世界が描かれるのだから、それに対応する登場人物達も、支離滅裂な考えや動きを示す。ほとんどの場合、自分の世界でつじつまを合わせ、如何にももっともらしい理屈を生み出す人も居る。それは読者をして、ふっと、それが本当なのか、もう事件は解明されたのか、あとは犯人にたどり着くだけ、とまで思いこませてしまう。そして次の章で、覆す事件が起こる。
もしこの『邪魅の雫』がそのままで終わったなら、要領を得ないメタ小説じみてくる。まさか、京極さん今度はメタ・メタでいくのかと、何度も思ったわたしであった。とどのつまりは、「事件はなかった」「すべて君の幻想だ」と、言いくるめられる恐怖も味わった。もしそうなら、もうよい「ファン止めた宣言だ」。
そうはならなかった。
良くしたものだ。京極堂はあわやという時、突然闇鴉のようにふいと現れた。
そこでお祓いが始まる。憑きもの落としである。
漆黒の影法師が現れた。
「君は--」
誰だ。
「世界を騙る者です」
はらりと、落ちた。
今回のお祓いレシピにはほとほと感心した。もともと学究肌の京極夏彦だから、回を追う毎に分野が広がり深まり、まるで柳田国男か折口信夫(これは、薄いかな?)世界を予習復習しているような気分になる。ハイデガーのような哲学話はあまり感じられなかった。n次元パラレル心象風景を描写することが京極の哲学だったかもしれないが。しかし、その要素は以前からあった。
さて。やはり一応ミステリなのだから、種明かしはできない。ただ、キーワードは並べ、それを京極堂がどのような塩梅で組み合わせ、解釈し、作中世間をして、読者をして、了解させるにいたったかは、読後のお楽しみ。
「うっ」と、声も出なかったのが、日曜作家でもあるわたしの感動だった。
{世界、社会、世間}
{世間話、昔話、伝説、歴史}
{正史、稗史(はいし)}
こういう言葉が出てきたならば、襟を正そう、正座しよう。京極堂先生のお言葉、静聴!
参考
MuBlog:姑獲鳥の夏:うぶめのなつ(映画)
追伸
あっというまもなく苦渋の二日半、恍惚の半日がすぎてしまった。次の恍惚まで、あと何年待てば良いのだろうか。ファンとは、切ないものだ。
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