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2006年9月28日 (木)

家持と保田與重郎

 ずっとぼんやりしてきた。いろいろあった。この2006年の9月は。それで思い出したが、9月は残酷な月だ。

 『萬葉集の精神 --その成立と大伴家持』保田の32歳の作品だ。この夏はあけてもくれても読んでいた。たしか500頁ほどあったが、一日十頁ほどずつの、遅々とした読書だった。大学生の頃の一夏、クーラーもなかった当時の閑散とした学食で一夏かけて読んでいたのが、この夏も頭の中にダブっていた。畏友のH氏は私の前でDHロレンスをもちろん原書でどんどん読んでいた。

 なにかしら大部で難解な読書をするのは、行をしているようで、時々ふふふと笑ってもいた。
 そのことの小論はすでに十日ほど前に脱稿していた、というよりも初稿を造っていた。読みながら書き、書きながら読んでいた。今夜が寝かせておく最後、あと数日で完成させる。
 私の保田論には読者が居ない。ムキになってこの十数年書いているなぁ、と思っている。しかし、なにかしら保田について書いておかないと寝覚めもわるかろうし、何十年か何年か後、悔やみながらおさらばするのも嫌だ。

 この記事のタイトルには、萬葉集の精神/保田與重郎、として正式な評論文にするつもりだったが、沈み込んでしまって、その気力がわかない。描かれた家持が去来し、ため息ばかりつく。そして、そういう家持を今から70数年も昔に書いた若干32歳の保田がちらちらとし、やはりこの世は同じ「人」でも、ものすごい違いというか、差があるなと、深くため息をふたたびついた。

 保田の結論じみたことだけを書いてもしかたないのだが、万葉集と東大寺文化(仏教、唐制)、これは大伴氏と藤原氏とも言える。保田は、藤原仲麻呂を蘇我馬子の再来といい、その陰湿さ陰険さは比較もできず、国傾ける新興貴族の露骨さといい、奈良時代とは藤原氏の大伴氏排斥の歴史であったと記す。それほどの確執の中で、家持は万葉集に歌をよせ、自ら大部分を編んだ。その精神は一体どのようなものなのか。大伴家持は、建国以来の国風の伝統を、わが家、氏上としての自らの責任において万葉集を編んだ。伝統を回想し、大伴の子として責任を果たすこと、それが藤原氏への唯一の対抗策であり、同時に人々への語りかけだった。
 その遙かなる歴史への想いが、万葉集を、他に比較できない古典とした。

 当時の政治状況は家持の回想と自覚とをより深めるための引き金だったのか。あのような(詳細は省くが、藤原氏は他氏族、皇族を讒言の限りを尽くし、次々と血祭りにあげていった)世界がなかったなら、やはり一般的にいわれる、柔和優美な若い頃の家持(現代風に申すなら、上品な貴族武人、しかも容姿端麗:内舎人(うどねり)の採用条件にあるらしい、いわゆる女性に騒がれる貴公子)のままで、近代的な心をひめた歌を残しただけなのかも知れない。

 かといって甘やかな優美さをすぎた家持の、三十過ぎ頃からの歌は、政治についても仏教についても、歌言葉としての批判はほとんど漏らしていない。
 ひとえに、大君をたたえ、建国神話以来の大伴家の数々の誇りを異立てする。異立てというのは、言挙げともまた異なるようだ。

 立つる異立(コトダテ)とは、つねならず異(コト)なることをなすを云ふ、言葉に立てることは、即ちつねならぬ異(コト)を云つて、志を述べる意味であるから、輕々しく言立とよんではならぬのである。今のことばで志を立てるといふ意味にあたり、志をたてるとは、誤つた考へのものを今の現實にひきもどすために異立てるのではなく、新に生れ出て來るもののために言ふのである。生れ出るもののために言ふものは、生むといふ働きが神のものであることを信ずる。

 天皇や上皇が寺に住んでいた時代に編まれていた万葉集には、仏教に関してわずかに一首、二首しか歌がないと保田は言う。仏教はその後の仏教ともまた異なる。今でいうなら、国際的(アジア)共通文化、新知識のようなものだったのだろう。そこに「精神はない」と保田は言い切る。ファッションだったのだろうか。それをつかって、天皇家外戚藤原氏は陰謀を重ねた。何か瑞兆を作り上げると、やれ寺に寄進の、それにあわせて藤原一族に土地が下され、官位が上がる。旧氏族は京外に追いやられる。任地三年がしらぬまに五年六年となって、藤原一族以外は、すべて都から離れざるを得なくなる。

 と、ここで人は国際情勢と国の方針に出遅れた大伴ら、旧態然とした旧氏族と言う。
 保田は歌を(現代定義での)芸術作品としてはみていない、と人は言う。

 家持は建国以来の武門の名族として、国風を護ることに、力を尽くした。
 芸術とは、一首一首の言葉の綾をいうてもしょうがない、と私は思った。
 万葉集全体が巨大な詞書きと私は思った。保田は歴史書という風に言っていた。続日本紀には絶対に現れず、表現できない歴史が記されていた、と私は思った。
 そしてそれが感動と追想とを、この夏、私にもたらした。これは、やはり私の芸術なのだろう。
 劍大刀(ツルギタチ)、いよよ研ぐべし、古ゆ、淸(サヤ)けく負ひて、來にしその名そ(家持・喩族歌・反歌)

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コメント

保田先生の書籍を読んだことが有りませんが、大伴氏が藤原氏に権謀術策で陥れられた悲運の歴史は判ります。

 大伴氏とは大いなる伴ですから、大王家の親衛隊として束ねた氏族だったんでしょうね。このような歴史を背景に家持の歌を詠めば、より一層悲しみが伝わるんでしょうね。

 しかし、春日山の阿倍氏も藤原氏に追われたが、現代では安倍氏として首相にもなりましたよ!藤原氏支配の日本の歴史も戦後はダイナミックになりました。

投稿: jo | 2006年9月30日 (土) 21時38分

JOさん、お元気ですか。
 コメント受付時間をみたら、昨夜の9時過ぎなんですね。
 Muは、そのころ寝ておりました。
 貧しいながらも、睡眠だけは豊かにめぐまれておりまして、夜は9時をすぎると、ほろほろしています。
 そうですね。
 睡眠障害の方には申し訳ないのですが、羊が一匹など、まじないなど、一切の入眠儀式なしで、「あっ」と思って横になったとたん、朝です。便利です。

 大伴氏のことですが、大君の楯であり、国の楯であるという意識が滅びる直前の家持に強く甦ったのでしょうね。
 20代前後は生来の詩才が文学青年らしい雰囲気で、回りの人を魅了したのだと思います。相聞歌というか、歌で女性の気持ちなんかをくすぐったのでしょうね(笑)
 内舎人(うどねり)という職は、貴族子弟のなかから容姿端麗、かっこいい青年がなったようです。ものすごく女性達にもさわがれたのじゃないでしょうか。

 30歳頃から40歳まで、だんだん雰囲気が変わってきます。
 41歳ころから68歳まで、歌は残っていないようです。

 家の誇り、自分の誇り。
 誇りは、人をも自分をも縛りますが、誇りがなくなったら、人と禽獣の違いはなくなりますな。
 実力の裏付けなき誇りとか、虚偽の上の誇りは害だけをまき散らかします。

 さて、私の誇りは、……。
 宇治木幡の人、文士Muとして、死せんと欲す。
 というところでしょうね。
 

投稿: Mu→Jo | 2006年10月 1日 (日) 04時35分

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