時間の習俗/松本清張(新潮文庫)
いつもの日曜の午後、『時間の習俗』を読み終えてほっとしていると、できたての仙太郎(新京極)特製おはぎが届いていたので、熱い茶をすすりながらいただいた、満足。
読了する小一時間前に、T君に夕風呂の準備をたのんでおいたので、一休みして肩までつかった、満足。
以前『点と線』で少し記したが、松本清張は年齢によって肌の合う合わないが比較的はっきりするようだ。大体、二十代の人や、本格推理、新本格、現代ミステリを好むひとは、手に取らないようだ。もちろん、そう言う中でも、いまどき風変わりな若い人もいて、読む人はいる。
私は圧倒的な読者ではなかった。二十代ころから数冊読んで、肌に合わないとおもって、特別な歴史物以外は読書も、TVドラマも、避けてきた。事情はわからない。世界が違うと単純に思ってきたからだろう。
『時間の習俗』は、今日の昼に読み出して半日で終えた。『点と線』で好意を持った東京警視庁三原警部補と、福岡署鳥飼刑事がでてくることに気がついたので、これはよさそう、と思って一気に読み、満足した。
全編、九州が主要な舞台になっている、と言って過言ではない。
もちろん、神奈川県の相模湖、昭和三十年代の名古屋駅裏と、いくつかが舞台になるが、やはり和布刈神社(めかり・じんじゃ)がキーになっている。これは門司港からすぐの、関門海峡トンネル近くにあって、私も今夏そこを訪れた神社だ。他には、太宰府の都府楼址(とふろうし)、大野城あたりの水城、このあたりが主要地として描かれていた。これだけで、旅情をさそわれ良い気分になった。
推理小説の結構としては『点と線』と同じく、犯人Yはすぐにわかり、あとはその鉄壁のアリバイをどうやって三原警部補が崩していくかにあった。
相模湖(地図)で、夕食をとったアベック(いまならカップルというのだろうか)が旅館から散策に出たが、帰ってこない。捜してみると、昭和3X年2月6日の夜9時~10時に、男(40代)が首を絞められて殺されていた。同伴の和服女性(20代の美形)が行方をくらませていた。しかし、女手ではてにあまる事件だった。
同じ日の深夜から、7日早朝(旧暦元旦)にかけて、Yという人物が北九州門司港近く、古風な和布刈神事を、あの狭い境内三千人の参詣者の中で、写真を撮っていた。そのうえ、同七日早朝、小倉の旅館で神事の後のフィルムに可愛らしい女中さんを記念に写していた。
どう考えても、Yが相模湖絞殺事件の時間帯に、失踪女の共犯(主犯?)者として現場にいるわけがない。しかし、三原警部補はなにか、そのYのアリバイの完璧さに作為を味わう。福岡署の鳥飼刑事に、相談を始める、……。失踪した女は見つからない。
この作品の佳さは、『点と線』と同じく、東京と福岡の警察官の書簡往復や対話にある。丁寧だし、人生の含蓄を味わわせる。社会派といわれる作品の優れたものの属性として、こういう上品さがある。淡々として、突拍子さがない。三原警部補がときどき入る喫茶店も、なんとなく、おとなしい感じで、しかも味が良さそうである。
そういう好ましい背景のもとで、幾つかのトリックを推理していく過程が楽しい。三原警部補も鳥飼刑事も、決して直線的に解にたどり着きはしない。いくつも「これだ!」と、思っては壁にぶつかり御破算となる。その、たゆまぬ粘りがよい。
作品全体の構造枠から考えると、相模湖、和布刈神社、福岡、太宰府・水城という諸地域がなぜ現れてくるかという、必然性が、直線として最後にはっきり分かる。
小道具としては、俳句とカメラ。これが上手に使われている。
そして、それまで見えていなかった二人の人物が、なにかの拍子に突然姿を見せ、それが太い幾何学補助線となる。
というわけで、気持のよい日曜の午後だった。
(注:上品な作品を好むからと行って、私が目をむくような、異様な、突拍子もない作品を嫌っていると誤解されないように、読者諸兄。私はもともと、とんでもない、ありえないようなSFとか、オカルト、こてこての風変わりな作品が好きである。しかし、上品さや、穏やかさを嫌っているわけではない。)
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