夏の充実時間
8月の第二週はようやく充実した一週間を過ごせた。「充実した」と思えるのは活動自体よりも、心身を動かしたあと、木幡や葛野でじっくり論文書いたり、読書したり、プログラミングしたり、横臥して半睡の中でものを考えたりするときに訪れる。
その内容から考えて、私は身体行動的であるよりも、筆やキーボードという手先を動かす職人的な質のようだ。
瞑想は、大抵半睡状態なので、人が観察すれば、たんに「居眠り」しているとしか見えないだろう。
それと一種の贅沢ともいえるが、手先職人資質は連続して5時間とか終日継続しないと、「やったね」という気持にはなれない。
実際になにかがどれだけできたかよりも、この「やったぜ」という気持がわいてこないと、鬱々しい額縦皺男のまま徘徊することになる。徘徊ともうしても葛野研の部屋の前の廊下を行きつ戻りつするだけのことだが。
オープンキャンパスの楽屋裏
もちろん、どんなことも準備万端調えるには時間がかかる。倶楽部員たちはなんかかんか、この七月は準備に奔走していた。
今年もよくやってくださった。うまく行った。葛野図書倶楽部2001、万歳。
このオープンキャンパスが終わってやっと、世間で言うところの大学の夏期休暇が始まる。ただ、噂では大学によっては毎週開催しているところもあるので、それはそれで難儀だなぁ。
さてオープンキャンパスを終えてこの一週間、私は何をしていたか。
となると、書くことは少ない。要するに葛野研へ毎日でかけて、延々と論文を書いておりました。
それがどういう意味を持つのか、考え込み出すとなにもできなくなるので、ともかく「毎年夏期の二ヶ月は最もディープな思考と作業と論文作成に励む」と、決めているだけのことかも知れない。
すこしMuBlogで息抜き、ガスぬきすると。
なんにしても、生きていることの、なしていることの、意味や意義を深く考え出すと多くのことが馬鹿馬鹿しくなってしまう。特にマイナーな学術分野のマイナーな研究者が、マイナーな研究をして、一体それがどうしたの? と自問自答すると、冷や汗がでてくる。「余のなしてきたことは、総て無意味だったのか」と。
けだし、こういう自問自答は永遠に続くし、つきつめると「生」そのものに鬱思考が及んでくる。だから、この深淵の恐怖から楽になるための手法をいつのまにか、あみ出していた。
それは、たった二つ。
1.深淵をのぞきこむだけでは駄目だ。深淵に降りていくこと。つまり、無駄無意味と徹底的に考えながらも、ひたすらそれまでの経験や思考を全力投入し、深い穴を降りていく。そこに、恐怖感が去る。
2.よく眠ること。脳は身体の一部なのだ。脳の疲労は筋肉労働に匹敵する。脳疲労回復は睡眠しかない。眠くなったら眠る。ただし飽食怠惰の眠りは覚めたときよけいに辛くなる。心身をスリムに保つには、筋肉労働や脳労働の果ての眠りを目指すべし。
などと、一家言をしるしてしもうた。教師癖かな。
ともかくこうして、この十数年夏期の二ヶ月を「やったね」と、過ごしてきた。だから、笑顔が絶えない(自笑)。
私はいつも上機嫌なので、ときどき人様から「どんな楽してる」と思われてきた半生だった。しかし、ときどきむかっ腹がたつ。「おまえ、俺とおなじこと、やってみぃ~や。死ぬでぇ」
あははは。
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