北九州の旅:仲哀天皇大本營御舊蹟(ちゅうあいてんのう・だいほんえい・ご・きゅうせき)
承前:北九州の旅
仲哀天皇橿日宮(かしひのみや)跡:古宮(福岡県福岡市東区香椎)地図
わが国の古代の大王家(天皇と記す)は、記紀に詳しいがいずれも遠い昔のことなので伝説のひとつとして捉えている。しかしそれが架空のことだとか、「嘘」とかとは基本的に思わない。この記事は、景行天皇の皇子日本武尊、その子の仲哀天皇についてである。
ともかく本当に大昔のことだ。
皇統譜からの基本知識として、以下の系譜がうかがえる。仲哀天皇の時代は、3世紀ころのことだろう。
崇神天皇(10代)→垂仁天皇(11)→景行天皇(12)→成務天皇(13)→仲哀天皇(14)→
神功皇后→応神天皇(15)→仁徳天皇(16)
景行天皇皇子日本武尊(やまとたけるのみこと)は伊吹山の神と争い、非命の死をとげたので、後の仲哀天皇を子として残したが、自らは大王にはならなかった。
成務天皇の甥が仲哀天皇となる。
さて、仲哀天皇の宮はもともと滋賀県の穴太・地図(あのう)にあった。高穴穂宮(たかあなほのみや)である。いろいろな事情があって、妻の神功皇后とともに、現在の福岡県香椎の地に宮をたてた。それが、橿日宮(かしひのみや)である。なぜ大和ではなくて、近江に遷り、そして福岡市東区香椎に遷ったのか。これは後世、天智天皇(38代)が大和から近江に遷ったことと併せて、国内外問題に対処することが目的だったのだと推量する。
大和を中心に考えてみると、近江への遷宮は、大和及び国外勢力からの守備・退避、そして北琵琶湖を通っての日本海へのルート造り。九州への遷宮は、攻勢・攻めの姿勢かと思われる。ちなみに、天智天皇の母にあたる斉明天皇(37)は博多に行き、ついで広庭宮(福岡県朝倉郡)で亡くなられた。これは唐・新羅が百済を攻めたため、百済救援のための遠征(660年頃)であった。このあと、天智天皇は近江の大津宮(現在の近江神宮付近・地図)に遷った。
さて、仲哀天皇が近江からはるばる北九州に宮を移したのは、もともとは九州南部の熊襲(くまそ)との戦いであった。しかし、後述する、宮の沙庭(さにわ:聖域)での神功皇后の神託は、新羅を討つべしと出た。これに首肯しなかった仲哀天皇は、琴を弾いたまま暗黒の中で事切れた。
黒岩重吾『女龍王・神功皇后』は小説の中で、この場面を現代に甦らしたと言えるほどの描写だった。
皇后は神懸かりした巫女。仲哀天皇は和して琴をひく者、神の審判をうける人。
そして、参謀・武内宿禰(たけしうちのすくね)は、神懸かりした皇后の言葉を翻訳する人。
この仲哀天皇の死は、父親・日本武尊と同じく、神に言挙(ことあ)げしたための死と考えられる。
他方、政治的に見るならば、天皇家は、このとき崇神天皇の三輪朝の系列を無くしたとも言える。なぜならば、神功皇后の息子は、後の応神天皇となって、河内にそれまでとは異なった新たな王朝を開いたからである。ここで、私は仲哀天皇の息子とは言わず、あえて神功皇后の息子と記しておく。まことに、子の実父を知るは母のみとは、古来言い尽くされた言葉である。神功皇后は、このあと臨月であるにもかかわらず、新羅を討ち、帰国後香椎宮の南「宇美」で応神天皇(15代)を出産した。JR香椎線は、香椎→香椎神宮~宇美(うみ)が終点となっている。
仲哀天皇大本營御舊蹟
また出歩くことも少ないので、こういう事例が他にあるのかどうかも知らない。この石柱をみたことが、今回の北九州紀行の大きな収穫だった。
戦前の人ならば「大本営発表」というセリフを思い出して、辛くなる方も多いだろう。負け戦を勝ち戦に変えて宣伝するほど悲しいことはない。そしてまた、別の人達ならば「侵略の悪夢」と過剰反応することもあるだろう。
そのことについて、話すことはない。
ただ、古代、もしかしたらはるばる大和から大王夫婦が軍船を率いてこの地に着き、ここで作戦を練ったのだろうと、想像する。九州南部を平定するのか、渡海して新羅を先制攻撃するのか。当時の小さな日本にとっても、重要な決断だったのだと思う。長い人類史の、そこここで繰り返されたことが、この地でもあった。
そして、後世、記念に石柱を立て、金色に文字を飾った。
棺かけの椎
歴史の暗闇を象徴するような伝承である。「棺かけの椎」という言葉がいつ生まれたかは知らない。ただ、事実の断片が潜んでいるのだろう。
神木・香椎
伝説に彩られた香椎が青空にそびえていた。
香椎宮周辺絵図
香椎宮には、その他、武内宿禰神社など、古伝に彩られている。古宮は香椎宮の奥にある。
参考
「香椎宮へようこそ」
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コメント
仲哀天皇さま
名前から悲劇の王ですね?三輪王朝最後の大王でしょうかね?Muさんはここで、九州の王朝に歴史が転換したと、みておられるんでしょうね。
即ち、出雲王朝に終止符が打たれた。新しい九州の香り高い勢力が東征し宇治に最後まで残存していた旧勢力を打ち倒した。そして、河内王朝が築かれたという考えでしょうか。
確か、仲哀大王が身罷ったモガリを”鬼”が眺めていたという話が伝承されていますね。
出雲政権、三輪政権は新羅との友好関係が色濃いですから、反新羅勢力と結んだ九州の勢力に負けたんでしょうか。明らかに、神功皇后・応神大王という人々は従来の王朝の人々では無いでしょうね。
投稿: jo | 2006年8月 5日 (土) 07時20分
Joさん、ひさしぶりのJo節、ありがとう。
さて、仲哀天皇さんですが、なんとなく悲しげであるとは、以前から私もそう感じてきました。
もともとは、これは平安時代に、漢風諡号(しごう)、つまり諡(おくりな)として、淡海三船(おうみのみふね)さんが定めたもののようで、淡海公は、歴史を知った上で、付けたのでしょうね。
ところで。この淡海さんは、実は大友皇子の、四世の孫らしいです。要するに、近江朝・天智天皇五世の孫ですね。歴史って、あらふしぎ(発見)。
なぜ仲哀さんが悲しげかというと、おそらく、妻の神功皇后と、参謀の武内宿禰に、政治およびナイショのことで、謀殺されたのでしょう。
名にしおう日本武尊の忘れ形見が、奥さんと部下の共謀によって、謀殺されたのだから、これ以上の、親子二代の悲劇はないでしょうね。
伝承とはいえ、棺かけの椎、って背筋が寒くなりましたなぁ。
とはいうものの、かねがねJoさんの薫陶によって、国際的視野で物事をみることになれてきた私は、当時の、高句麗とか新羅とか百済と、倭国との関係の中で、(出雲)三輪王朝→河内王朝への転換期の話としても、見た方がよいと思っております。
最近よく口にだすのですが、当時は、北九州と朝鮮半島南部とは、まるで一つの文明圏だったと、松本清張さんが言っていたのが、リアルに感じられます。
仲哀天皇は旧時代の大王として、暗殺されたのだと、私は考えております。
……。よい本があったら教えて下さいな。
追伸
鬼が覗きこんでいたのは、斉明天皇が亡くなられた時のことじゃないでしょうかぁ~
投稿: Mu | 2006年8月 5日 (土) 08時40分
鉄で栄えた出雲安来王権の流れをくむ最後の天皇が仲哀帝ですね。夏休みを利用してこのあたりの古社めぐりなどをしてとても興味深かったです。
投稿: 古都須賀 | 2009年8月22日 (土) 22時32分
古都須賀さん
「出雲安来王権」とか「三輪王権」とかの古い話はよく知らないのですが、伝承であれ、大和の国からこの地へ来て亡くなったというのが不思議でした。遠いですからね。逆にこの地に戻ったという可能性もすこし味わっています。
ところで<古都須賀>というお名前は、別途いろいろ想像していました。Muよりも「歴女、歴男」の雰囲気が濃厚で、よいお名前です(笑)。ご本名なら、お詫びします。
投稿: Mu→古都須賀 | 2009年8月23日 (日) 04時14分
しかし安来とは日立金属さんの特殊鋼工場があるてこですね。ナイフマニアには垂涎の地ですね。そこが古代においてそんなに重要なところだなんて知りませんでした。
投稿: 古都山 | 2009年10月 2日 (金) 22時22分
古都山さん、初めまして。
当時の銅や鉄、ハガネは現代では想像もつかない貴重品だったと思います。現代人でも、ほとんどだれも土中から金属を精製することはできないですし(笑)。
以前『国銅』という小説で、銅をつくる様子を想像しましたが、昔も今も個人ではできないことですね。
だから、そういうことが出来る場所には時代の王朝とか豪族から人が派遣されて、賑わったと、これも想像です。
ナイフマニアって、ちょっと怖いですが、昔は刀剣を集めたり鑑賞するのは芸術的に思われていましたから、そう考えると「綺麗だろうな」と思います。
投稿: Mu→古都山 | 2009年10月 3日 (土) 08時05分