« 2006年7月 | トップページ | 2006年9月 »

2006年8月31日 (木)

首が痛くなるよな終日

 今日は、終日葛野でやっかいな仕事をしていた。午前中から極めつけの秀才が一人来てくれて、随分助かった、というよりもその先生が居なければ、ひとりでは出来ない大仕事だった。
 終わる頃、愚痴に愚痴ってしまった。
 「私は、なぜ、ときどきまれに、できそうにもない仕事を引き受けるのか、自分が馬鹿に見える」
 「ほう」
 「引き受けるときは、どんなことでも、すぐにできる、容易にできる、かんたんかんたん、と思ってしまう」
 「うん、あるね」
 「付き合いがまったくないから、まれに頼まれるとうれしくなってひきうけるけど、その日時が近付いてくると、地獄に嵌りこんでいく気分だね」
 「そうそう。そういうことあるね」
 「私は、自分が馬鹿に見えてきたよ。う~ん。もう、一切人とは話もしない、交渉ももたない、~とおもって十数年。ついふらふらと、その掟を破ると、悲惨な目にあう」
 「同じです」
 「え? 君が? 君ほどの秀才がそんなことで、悩むのかい」
 「なにをおっしゃる、大先生。いっつも、そういう事態におちこんで、胃を痛めておりますよ」
 ~
 というわけで、老若、愚痴合戦になりそうな時刻に、仕事が終わった。

 そういえば、昨日は学生二人に似たような話をしていたなぁ、とふと思い出して、けたけたと笑い出した。
 昨日はこうだった。
 『私は辛いことばかりするハメになる』
 「はぁ~。いつも楽しそうじゃないですかぁ」
 『馬鹿め、おろかものめ、君らは若い。なんぞ、ひよこに火の鳥の気持がわかってたまるか』と、これは口には出さず、目で言った。しかし、まったくこたえていない。
 『来年こそは、なんにもしないで、楽々気分だ。なあ、君』と、まだ未成年の学生に安心感を持たせた。
 すると。
 「お主、そのような、センセの甘言に騙されるでない。いつなんどき、不意打ちをくらうか分からぬぞ」と、ややすこし年長のものが、若い者にさとしていた。

 ~
 で、今日だ。夕方になって、とりあえず終了して、わが友、秀才先生は帰っていった。お礼に、分厚い図書を三冊も貸し出した。
 で、そのあと例によて、横臥して天井をみていると、首スジがいたくなっていた。
 それほどに、ハードな仕事だった。
 私は、こうして毎日仕事をしているのだ。

 かえろうとすると、別の部屋に一ヶ月ぶりの学生が顔をだした。もろもろややこしい話をして、しかしその続きを聞くのも首が痛くて、わるいけどさっさと帰還してしまった。そのかわり、その学生には菓子と飲み物を進呈した。

 というわけで、一日がくれていく。なるほど、人生とは、まれに人々と対話しながらすごすこともあるようだ。何十日も一人で葛野で定常仕事をしていると、ほぼ独り言が頻繁にでるころに秋風がふき、なんとなく学生達も顔をだすようになって、私も、野暮な仕事をする季節になってしまった。
 今日は8月最終日。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年8月29日 (火)

めずらしく散歩とおでかけ

 めずらしくはやく、さっき夕刻にもどってきた。
 クーラーを入れて部屋を暗くしてじっと横になっていると、じーんとした疲労が溶けていった。外は秋の様子で、日はもう落ちている。20年ほど前だと、この暗く冷たくした部屋に横たわるのは大体一時間だったが、今日は30分で復調した。
 引き籠もりも、鈍磨したのか、慣れなのか、気持が早くもとにもどるようだ。

 たいしたことをしたわけではない。
 世間の義理とか義務とか、あるいは友好関係の結果から、今日は葛野以外のところで、ほとんど未知の人達に混じって、会議に参加したわけだ。議長の未知の教授がなれているせいか、正確無比に90分で終わった。葛野の会議もこうであれば、楽なのだが。
 未知といっても、先生方を未知なだけで、陪席する人達は何人か知っていた。
 そして、会議を実質主催したトップも、長年のお知り合いというか、なんとなくお友達(笑)、それほど好条件だから、義理を義理、義務を義務として出掛け、友好関係を保ち(おお)、なにほどか数分間発言もした。
 終わったあとは、冷茶を一杯だけいただいて、木幡へ飛ぶように、逃げ帰った。

 この会議があるから、私は一週間ほど前からいらいらどきどきしていた。
 未知の教授達に混じって、たとえ数分でも何事か話すなんていうのは、とても重い負荷だった。想像するだに、冷や汗が出る。アメリカなんかに生まれて、毎週会議、パーティーがあったなら、私は発狂していたことだろう。
 引き籠もりも、ここまでのレベルにくると、明白に病理対象かと、信じている。私は、なにごとも平均的に内気な日本人世界に生まれて、ときどき、よかったと胸なで下ろす。

 ところで、帰還後の暗冷室治療がわずかに30分ですんだのは、早朝からきっちり3時間難しげな読書をし(頁毎に付箋を貼り、書き込みしないと理解できない難しさ(おお))、昼食は伏見大手筋の上天ぷらそばとおむすび一個、食後はちっこい書店でトンデモ近未来小説をつい買って、気に入りの老舗珈琲店で銅製カップのアイス珈琲飲んで、小説を数頁読んだからだろう。そして、いざ出陣。

 で、帰りは東山にそって空いた道路をはしり、途中今熊野神社の森をながめて、観世元清を思い出して、なんとなく気持が広くなって、木幡の暗冷室に飛び込んだわけだ。

 それにしても、日々判をおすように葛野に行って木幡に帰る、この往還は全く、ぜんぜん、疲労というかいらいらどきどきを感じないのに、ちょっとそのパターンを変えると冷や汗、動悸。
 やはり、これは重度の引き籠もり症なんだろうと、私は密かに、いやいや大々的に実感した秋の夕暮れだった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年8月28日 (月)

家持(やかもち)のお父さん、大伴旅人(おおともの・たびと)

 事情で最近ずっと万葉集関係の図書などちらちら眺めている。なにぶん、万葉学者でもないし、歌人でもないし、ただの人として、なにかしら青年時から、家持(やかもち)が気になって、ついに今夏は長年の宿願というか、大伴家持(おおとものやかもち)のことを、少し骨身にしみるほど味わってみたいと思って、この七月ころからとつおいつ関係図書をぱらぱらと、ひもといてきた。

 今日も午後延々と数時間詠ったり、読んだり、天井を眺めたりしていたのだが、いつになくげらげらと笑い放しになってしまった。なにか、よその案をよもうとしても、つい戻ってしまい、また読んで、天井みてぎゃはは、と笑う。だれとも口をきかない夏期だから、よその人がのぞきみたら、「Muさん、ついに発狂」と、なるだろうな。

 実は、家持さんで笑ったのじゃなくて、お父さんの旅人(たびと)さんの歌なんだ。私が読んでいる本では、山上憶良(やまのうえのおくら)よりも上に位置する詩人らしい。高校生のころに、お酒の詩人として覚えていたが、その歌なんだ。

  あな醜く 賢(さか)しらをすと 酒飲まぬ 人をよく見ば 猿にかも似む
  (Mu翻訳:なんやこいつ 賢こぶって 酒ものまへん 嫌な奴、猿そっくりの顔しとる)

  この世にし 楽しくあらば 来む世には 虫に鳥にも 吾(あれ)はなりなむ
  (Mu翻訳:毎日酒飲んで楽しうくらせたらなぁ 来世にゃぁ、虫でも鳥でも、なんにでも生まれてもええで)
  (Mu深層訳:外来仏教思想への憤怒か、それはうがちすぎか)

  生まるれば 遂にも死ぬる ものにあれば この世なる間は 楽しくをあらな
  (Mu翻訳:そうやな、人間一旦生まれたら、死ぬ定めや。ほたら、生きてるあいだは、飲んであんじょういきまひょや)

  黙然居(もだお)りて 賢(さか)しらするは 酒飲みて 酔泣(えな)きするに なほしかずけり
  (Mu翻訳:こいつ、このむっつりすけべ かしこぶるな馬鹿。酒飲んで泣く奴のほうが、よっぽど可愛いわい)

 ともかく、家持さんのお父さんは魅力のある人みたいでした。
 酒壷にどっぷりつかって、酒を染みこませたいとかいう歌もありました。
 大体筑紫(福岡、北九州でしょうね)時代に佳い歌が多いそうです。
 太宰府の長官だったからでしょうね。
 まだこの時代は、大伴氏も波乱すくなく天平の爛熟文明で愉しんでいたようでした。
 そして悲劇は、長男の、最後の氏(うじ)の長者、家持の代に始まったのでした。
 おあとがよろしいようで、では。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年8月27日 (日)

NHK功名が辻(34)聚楽第と鶴松

承前:(33)異なる質

 今夜は聚楽第や後陽成天皇が登場。またまことしやかな話だが、千代の作った金襴緞子唐絹端布のうちかけが天皇の目にとまったとか、逸話。
 一方、淀殿は鶴松を生んで、「豊臣の女」になったのも、なにやらまことしやかな話。生まれたのは事実だろうが、なぜ今頃秀吉に子ができたかは謎。
 そして京童のうわさは「山内家では捨て子を拾った」と。

 後陽成天皇が107代で、その後は後水尾天皇で108代。このお二方は、歴史でなにかと難しい問題をはらんでいる。秀吉、家康というめまぐるしい時代の狭間に後陽成天皇は晩年幕府と対立した。あとをついだのは家康が支持した第三皇子、後水尾天皇。ところが、後世のことだが、このあたりは物語になるほどいろいろあって、後水尾天皇は幕府と徹底的に対立し、若くして退位し、上皇となり、80代まで生きられる。朝廷の直接関与する戦はなかったが、精神的には後鳥羽院、後醍醐天皇に近しい波乱の天皇の世紀であった。
 秀吉の造った聚楽第の場所は、平安京時代の御所・内裏の跡らしい。秀吉はこれを後日・秀次に譲ったが、秀次謀反事件のあと、取り壊したとのこと。

 秀吉の猜疑心は、鶴松がうまれたことから、跡継ぎ問題でより深くなってきたような筋立てだった。
 いろいろな、後日へのつなぎはほのかくれするのだが、肝心の山内一豊と、千代の物語は、なんとなく平穏無事。最大の山場は、秀吉亡き後、関ヶ原の戦で、東西どちらにつくかの分かれ目だが、これは秋でしょうね。

| | コメント (0) | トラックバック (2)

2006年8月26日 (土)

茶六別館・丹後の宮津・あるいは梅安湯治

承前:天橋立

茶六別館(京都府宮津市島崎)地図

温泉(外に岩風呂)「小町」

温泉(外に岩風呂)
 池波正太郎さんによると、仕掛人梅安さんたちは、大仕事を終えると大抵熱海あたりに長湯治へでる。もちろん身を潜める意味もあろうが、やはり大枚ずっしりとした黄金を手にするからだろう。しかし不思議なのは、湯治というもの、何日も何日も美味いものたべて温泉に浸かって~。これはよほど神経が摩耗した後でないと、退屈で耐えられないだろう。現代人の私は、そのあたりでもせこせこして、結局湯治にでかけても、宿には半日しかいなかった。

広縁

広縁
 ところが、その半日がこたえられない時間だった。宇治の木幡からうろうろと車に乗って、丹後一宮籠(この)神社にお参りして、天橋立を「絶景かな」と味わって、よろよろとついた旅館が、茶六(ちゃろく)別館。姫アワビなるおつくりの、アワビ本体は当たり前としても、そのキモのおいしいこと。岩がき、はも、……。湯上がりのビール一杯で極楽浄土に行けた。あとは自然な眠り、涼しくなる頃に丁度目がさめるという、この仕掛けの巧みさ。よかったです。

 江戸の池波・梅安さんほどではないが、それなりの仕事を夏期にこなした後だから、この温泉半日はとても身にあっていた。宿の茶六別館は、うわさでは旅行会社での宮津ベストに入っているらしい。と、ひとごとのような宣伝に想うかも知れないが、たしかに、ちょっと古体のそれでいて清潔な、あざとさのまったくない、誠実な旅籠(はたご)だった。
 仲居さんが、その時は、ものすごく素人ぽくって爆笑だった。最初はぎこちなかったのに、だんだん言葉が地元(いや? ちょっと別の田舎かな?)になってきて、話を聞いているだけで、料理が美味しくなった。
 写真の風呂は、小町温泉のほうで、露天は岩風呂。男性の「太郎」温泉は、露天が信楽焼の壺だった!? 壺だから一人しか入れないが、なんとも言えない味わいでしたな。
 なお、部屋は羽衣。二階にあって、十畳+三畳で、広々としていました。至福。

参考
  茶六別館

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年8月24日 (木)

天橋立(あまのはしだて)

天橋立(京都府宮津市)地図

 この八月、天橋立へ行ってきた。日頃にないことなので、何故と自問してみると、よい景色をみて、美味しいものをたべて、温泉にはいって、~。と、まことに国民性に合致した性向を発見したというわけ。

 この日は一泊どころか、朝にでかけて夕べには帰還していた。
 私は短時間で外界の情報を受容できる範囲で消化し、短時間で眠りにつくようだ。つまり、正午に宿に着いて、温泉も食事も済ませた後は、広い座敷で眠ってしまっていた(笑)。つまり、午睡をしに行ったと言ってもよかろう。なんだか、高校野球がTVに写っていた。早稲田実業が勝った後に目が覚めた。片道三時間、午前七時出発で午後の七時前には木幡に着いた。楽々。

 七月末の北九州旅行も、わずかに一泊二日だというのに、まだMuBlog記事掲載が終わらない。一つ一つ思い出しながら、少し歴史や風土を確認しながら、えんえんとまだ書いている。猫も犬も読まない、だれも読まない記事にこれだけ手間暇かける性分からみて、これはすでにホビーかもしれない(英国では、趣味とホビーとは、異なるもののようだ、と識者が書いておられたぞ(邪笑))。

 というわけで、この天橋立紀行もそうなると、いささか心身に不調をきたすので、これは気楽にさらりと記しておこう。ホビーとは、命がけに近いからなぁ。
 天橋立の景色は今回で終わりだが、実は~。
 丹後一宮・元伊勢・籠(この)神社を午前中にお参りしたわけである。これがとてつもなくやっかいなことになる。どのようであるかと申すと、……。それは近未来のお楽しみ。充分気力を込めて後日に書こう。

 では、天橋立。写真二葉。

天橋立全景

天橋立全景
 これは、麓の籠(この)神社近くから載るロープウェイでみた景色です。終点は笠松公園というところですが、このあたりからの天橋立は絶景です。並行してケーブルカーもありますが、なんとなくこちらを選びました。真っ正面の奥が宮津市でしょうね。右側が地名としての「天橋立」だと思います。

天橋立阿蘇海

天橋立阿蘇海
 これは頂上の笠松公園で例の「股のぞき?」、つまり両足を開いてその間からサカサマに見る、なんともおもしろい風景鑑賞、そういう地点から撮しました。眼下は内海と言ってもよいのでしょう、阿蘇海と、変わった名前が付いておりました。

 というわけで、あっさり、これだけ。
 京都に住んでいて、天橋立は幼稚園にはいる前後に一度だけ父母と行った記憶があるのです。懐かしかったです。

| | コメント (4) | トラックバック (2)

2006年8月23日 (水)

宇治・平等院の航空写真(Google)

平等院(京都府宇治市)航空写真

 平等院は近くだし、MuBlogでもいくつか記事を書いたのだが、最近Googleが世界地図サービスを日本でも本格的に開始したので、試しにみてみた。平等院が絵に描いたように、小綺麗な写真で見られた。

 Googleは、記憶が曖昧なのだが、先年あたりから米国でこのMapサービスを始めたはずだ。航空写真というよりも、衛星写真とかの噂があったような~? だれかがどこかで詳細に説明しているだろうが、ともかく、ここしばらくは無心に眺めている。毎回画面構成が変化しているので、日本版としてβサービスなのか、完全サービスなのかよくわからない。

 うれしいような、怖いような、しかしこれからどんどん使っていくような、なんとも言えない気持になって、この記事書いた。

 うれしさは、これこそ昔、夢に描いたものだった。日本だけでなく、世界中をピンポイントで指定して、それをまるで手に取るように見ることができる。魔法だな。
 怖いのは二点。一点は、こういう麻薬的サービスをアメリカの企業に任せきっていると、心配性、情報断に見舞われると辛いし、困るね。もう一点は、これはもう軍事そのものだ。想像するだけで冷や汗がでる。……。射的場で人形をパンパン狙うのと同じ気分で、巡航ミサイルを、がんがん撃ち込まれると、うむ。

 悪夢。

 いやそれにしても、便利なサービスだ。先日、カーTVで、政令指定都市になった堺が、観光客のために度はずれた安い観光巡回バスを提供すると言っていたが(2500円)、肝心の仁徳天皇陵が、いまひとつぱっとしないと嘆いていた。そりゃそうだ。以前立ち寄ったことがあるが、あの陵は巨大すぎて、側によっても単に山か森としか見えない。飛行船かヘリコプターでないと、前方後円墳とは分からない。
 しかし、航空写真なら、とてもよくわかる。

 ところで。今日はどうかしらないが、数日前に奈良市をみてみたら、雲がかかっていた(笑)。もし、写真の更新頻度が高いなら、今日あたりは昨日の豪雨が写っているかもしれない。

 まだまだ、地方によっては精度が落ちるが、それでも随分上等な航空写真だ。
 慣れてきた頃に、じっくりGoogleの考えをネットで探して、お勉強しよう。
 「衛星写真の洗練された使い方」なんかを考えてみたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年8月22日 (火)

北九州の旅:和布刈神社(めかり・じんじゃ)

和布刈神社(福岡県北九州市門司区)地図

承前:北九州の旅

 門司港レトロを後にして、次に和布刈(めかり)神社に行くことになった。2006年7月30(日)の午後だった。アリバイは完璧だ。証人もいる。
 ここは松本清張『時間の習俗』(未読)で、容疑者峰岡が陰暦元旦(2月7日)の未明に、神事をカメラに納めていたところらしい(笑)。つまりアリバイだな。しかもフィルムは連続していて、次のコマには小倉の宿で7日早朝に撮った写真まである、らしい。これはおもしろそうだ、どうなる!?(わかりません)

和布刈神社境内

和布刈神社境内
 アリバイを確かにするために当日午後の様子を記録しておく。門司港でぼんやりと横臥していた。同行の三人はすでにいなくなっていた。三十分ほどうとうとしていると声があった。目を開けると局長2006だった。

 「どうした?」
 「ええ、二番隊長2006とHさんの馬力には勝てません。港を一回りして、あとはメカリ神社近くのトンネルまで、てっきりバスかタクシでと思っていたら、全部徒歩で行くと言うもんで~疲れましたぁ」
 「そうか。なら、メカリ神社だけでも、タクシで今から行くか?」
 「ええっ」と、言外に(タクシ代、どうなるのかなぁ)
 「まかせておけ」と、私は威勢良く言った(笑)。
 学生達は、どこへいこうが、ひたすら歩くのが信条のようだ。半日、一日でも。身体にはよいが、この日は熱中症になってもおかしくないほどの、晴天だった。

屋根:和布刈(めかり)神社

和布刈(めかり)神社神殿屋根
 門司港の町並みをタクシは進んだ。わずかに10分ほどだったか、1メータで着いた。そこは、関門橋の真下でもあった。局長は幼き頃、門司港の町を母上と散歩したことがたびたびあったようだ。父君が船からあがって、陸上勤務を始めてからのようだ。勤務地が門司港だった。そういう次第。だから、小倉からまだ西の八幡に住んでいたわりには、小倉も門司港もよく知っていたのだ。(小倉が高校時代、局長の遊び場だったことは、以前の記事に記した)

和布刈神社(由緒)

和布刈神社(由緒)
 仲哀(ちゅうあい)天皇が創建したと伝説にあるようだ。別の伝説では西暦200年頃となっていたが、ふむふむ。おなじみのヒミコさんが活躍したのは三世紀だから、さて~。話はあうのかあわぬのか。ともかく、二世紀には、このあたりはなにかと意味のある土地だったのだろう。しかし、そのことは北九州・古代世界を少しく学ばないと、なにも言えない。ただ、案内板に、このメカリ神社が近世頃まで、隼人(はやと)神社と呼ばれていたと記されていた。隼人といえば熊本・鹿児島。これは、なにかと不思議がもよおしてくる。仲哀天皇と神功皇后が大和からこの地を通って香椎に行ったのは書紀にある。そしてまた伝説だが、神功皇后は後にこの神社の祭神となった、阿曇磯良神(あづみ・いそら)から潮の干満を教えてもらい、三韓戦に応用したと。
 仲哀天皇は隼人討伐のためにこの地を通ったはずだ。

謡曲「和布刈」と和布神事

謡曲「和布刈」と和布神事
 和布刈神事は、対岸下関の住吉神社でも同日同時刻行われるらしい。ただし、帰路のバスガイド(車掌さんがガイドをしてくれた)の話では、住吉神社では秘祭らしく、公開されていないとのこと。そのことと、謡曲の中身を味わっていると、なんとなく旧暦の元旦早朝には、関門海峡が完全な干潮で、陸続きになるのかもしれないと、幻想にひたった。竜神と天女が一緒なら、そのくらいのことは簡単にできそうだ。

海中灯籠

和布刈神社海中灯籠
 この海中の石灯籠は、夜間にもしも火がともされると、航行する船舶にとっては燈台の役割もする。これが細川忠興寄進のものかどうかは、まだ調べていない。当地でうかがえば佳かったのだが、そういう曖昧としたままもよろしかろう。この灯籠、実に気に入った。

 さてこの後だが。
 二番隊長2006とHさんと、神社の鳥居のあたりで遭遇した。二人は汗まみれになっていた。ところが、疲れているにもかかわらず、なにがなんでも下関まで歩くと言い張って、結局、局長もそれに加わり、私はまた一人関門橋の下で行き交う船を眺めることになった。約一時間、たっぷり船を見た。
 しかしその間の詳細をもう少し細かく話さないとアリバイが完全ではないので、それは次回「関門海峡夏景色」で記すことにする。「二番隊長、局長を叱る。局長、おでんの誘惑に負ける」という塩梅になろう。

参考
  松本清張事典決定版/郷原宏著.角川書店、2005
  北九州市「県指定・和布刈行事」
  若布刈神事(Mu注:島根県の大社町日御碕神社での神事について)

追伸
 『時間の習俗』を未読なのに何故和布刈神社とミステリとがむすばれたかというと、この未明、じゃなかった当夜、局長2006のお父さんが「ほう、和布刈神社もお参りになられましたか。先生、あそこは松本清張さんの小説にでてきますよ」と、言うことだったのだ。つまり、私は神社に参った後で、それを知った。

| | コメント (2) | トラックバック (2)

2006年8月20日 (日)

男たちの大和(DVD)/辺見じゅん原作、佐藤純彌監督

戦艦大和終焉海域・昭和20年4月7日(北緯30度43分 東経128度4分)地図

 映画「男たちの大和」が公開されてから八ヶ月後にDVDを入手し、初めて観た。
 佳い映画だった。

戦艦大和・菊花紋章

男たちの大和(DVD箱表紙)
 事情が重なったのだろうか、あるいは意図がことなったのか、「海ゆかば」のメロディーはなかった。ただ、鑑賞中、それがずっと私の中に流れていた。だから原作の辺見じゅんさんや、監督の佐藤純彌さんのお気持ちとは少し離れたところで、大伴家持の長歌を思い出していた。お二人とどのくらい離れていたのかはわからない。最後まで、気持を込めて見終わったので、違和感なく、おそらく接したところも多かったのだろう。

 家持が萬葉集に残したのは「陸奥国で金が出たことの詔書に、歌一首をもって賀する」(賀陸奥國出金詔書歌一首)という背景がある。時代は東大寺の大仏建立前後だった。歌の中に仏は現れない。少し長いが引用しておく。
  ……(略)
  いよよ思ひを 大伴の 遠つ神祖の その名をば 
  大来目主(おおくめぬし)と 負ひ持ちて 仕えしつかさ

  海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね) 
  山行かば 草生(くさむ)す屍 
  大君の 辺(へ)にこそ死なめ 顧(かえり)みは せじ

  と異立(ことだて)て ますらをの 清きその名を 古よ 
  今のうつつに 流さへる おやのこどもそ 大伴と 佐伯の氏は
  ……(略)
  異(こと)のつかさそ 梓弓(あづさゆみ) 手に取り持ちて
  剣大刀(つるぎたち) 腰に取りはき 
  朝守り 夕の守りに 大君の
  御門(みかど)のまもり 
  われをおきて また人はあらじ と いやたてて
  思ひしまさる 大君の 御言の幸(さき)の 聞けばたふとみ

 この歌を天平時代、当時の世界観のなかで理解することは、現代人にとっては非常に難しいことだと思う。そしてまた昭和初期、信時潔(のぶとき きよし)が作曲(1937)した当時も、現代の者にはわかりにくいものである。ちなみに、信時さんは、私の勤務大学・校歌の作曲もされている。私は気に入っている。

男たちの大和より、戦艦大和

男たちの大和(DVDケース)
 映画を見終わって真っ先に浮かんだ言葉は、「海行かば、水く屍」だった。屍(かばね)は人の気持ちや思いの抜け殻だった。抜け殻を布に包んで大勢の生者が最高の敬意を表し、水底に祀っていく。そして、大和が沈んだとき、見送る生者もなく、ただ水没していく。誰が見送るのか、と思ったとき落涙した。

秘録・大和伝説

秘録・大和伝説
 映画は、生き残った人や、その縁者が現代から60年前の昭和二十年四月七日、北緯30度43分・東経128度4分の海域を振りかえったものだった。生き残った漁船の老船長は、会うこともなかった戦友の戦後の死を知り、その養女を片道15時間もかけて洋上に運んだことで、昭和の終わりを確認した。養女は戦災孤児だったのか、養父は戦後十数人の養子を育てた。その一人として、生前養父の気持ちを理解出来なかったまま、なにかにせかされるように東シナ海にたどり着き、骨を海に沈めた。この間、老船長の回想の中で、初めて深く養父の気持ちを理解した。
 傍にいた魚船員見習いの十五歳の少年も、老人の昔の気持を理解した様子だった。

しおり(映画 男たちの大和 YAMATO)

しおり(映画 男たちの大和 YAMATO)
 どのように考えても、日本は菊花紋章を燦然と輝かせた世界最大最強の戦艦大和を、呉で造った。造るだけの技術と思想があったからだろう。その技術と思想とを、人を殺めるためのものと考えるか、国を護るためのものと考えるかで、この映画もとらえ方が異なってくる。

 ただ。
 と、いま書きながら思ったのだが、水く屍、草むす屍となった人のことは忘れない。
 そうしてもう一つ。こんな風に考えている。様々な法で人を裁くのが法治国家であり、このことによって時代時代の秩序安寧が保たれる。そして戦勝国による東京裁判での戦争犯罪者に関して、それが破廉恥犯罪なのか、政治・思想犯なのか、この違いは熟考するべきだと思う。
 コスモポリタニズム(世界市民)は、国を半ば否定しながらも、その国々あってこそ各国を自在に歩き回り、活動し、生活ができる。国々が無くても、まったく別の世界秩序が保たれると考えるのはユートピアンであろう。そしてこれまでユートピアはこの世になかった。

参考
  長迫公園:旧海軍墓地(MuBlog)
  呉鎮守府司令長官官舎(MuBlog)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

NHK功名が辻(33)異なる質

承前:秀吉と家康

  近江八幡(関白秀次の開いた町)地図
  淀城(茶々、後の淀君居城)地図

 功名が辻は一晩でいくつものエピソードを重ねるので、あとになってなにを思い出してよいのか迷う。兄弟喧嘩があった、一豊たちの母が死んだ、秀吉がキリシタンバテレンの追放を命じた、一豊の弟・康豊はどうやらキリシタンのガラシャ夫人を見そめたようだ、しかし千代たちの斡旋で別の娘さんと結婚した。秀吉はついに茶々に手を出した。その前夜、石田三成と茶々の主従の恋が流れる。その間、正妻ネネ・グループは、近江勢(茶々、三成)への対抗心を抱く。
 大坂城、長浜、近江八幡、都の聚楽第と、場所も次々と変わる。

 以前からうっすらと気付いてはいたのだが、このドラマをみていると、はっきりと後の関ヶ原が分かってきた。いや、わかるように構成してあるのかもしれない。後日に、正妻ねねと、側室茶々との争いに割って入ったのが徳川家康だったと理解しやすく、もうドラマは準備している。このころから石田三成が茶々に付いていたならば、今夜からおよそ十七年後の1600年、関ヶ原の両陣営は分かってしまう。

 それと、女性に城を与えるということも、はじめから「淀君」と頭にあったので、淀城に住んでいたから淀君という考えも、淀城をもらったから淀君と考えを変える必要に迫られた。古来、歴史上側室レベルで城持ちになった女性は、いたのだろうか? 思い出せない。もしかしたら、淀君は特筆に値する人だったのかも知れない。権力者の、寵の重さにおいても、城持ちであるということについても。秀吉に迫られた茶々が「さあ~」と、言うたのには失笑した。しかしなお、あの場合、茶々は秀吉の寵をうけざるをえなかった。なぜなら、政治的には、茶々の存在価値はほとんどなかったはずなのだから。追い出されぬためには、秀吉の機嫌をとらざるを得ぬ。三成との恋を表沙汰にすることは死を意味していた。

 かくしてドラマの終わりは、千代が門前の捨て子を抱きかかえるところで終わった。
 山内家が土佐でその後どうなったかは、今の捨て子を実子扱いの養子としたのだろうか? 弟はどうなるのか。関白秀次も、秀吉に子が生まれて微妙な立場になった。その守り役の山内一豊も来週あたりは難しい分かれ道にたつことだろう。関白秀次は、後日、一族皆殺しの災厄にあう。逆に、一豊さんはよく無事にきりぬけたものよと、冷や汗がわく。と、これらは後日のこと。まず、あの拾い子がどのような数奇な運命にまきこまれていくのか、現代ドラマも往時の講談のように、次は? 次は? と、気持を惹く。

 ではたのしみに。

| | コメント (0) | トラックバック (3)

2006年8月18日 (金)

日本沈没第二部/小松左京、谷甲州

 日本の近未来と、現代を考えるのによい作品と思った。小松左京で以前味わった哀感のようなものが、読後にあった。時代はおそらく2020年頃だろう。日本がすべて沈没してから25年後の世界である。

 さまよえる一億の日本人が、どういう形で生きていくのか。中田首相(元、研究者)と鳥飼外務大臣(元、外務省官僚)との間で論争がある。
 中田首相は日本を忘れないナショナリズム(国家主義、民族主義)、鳥飼は世界各地に溶け込むコスモポリタニズム(世界市民)を主張した。物語の流れは、ある種の政変があって日本の方針は転換した。しかし、そう言う意味での政治小説ではなくて、考える条件をいろいろ示唆する内容だった。

 中国の4000年の歴史経験から、中国の持つ考えがある程度わかりもする。日本という国土がなくなっても、中国にとって日本は、まつろわぬ辺境異民族、すなわち蛮族のようだ。日本という蛮族相手なのだから大人の話し合いの余地など無く、懐柔か恫喝しかうまれてこない。他方、懐の深いナショナリズムでまとまっていると思われたアメリカは、パトリオティズム(愛郷心、愛国心)に左右され、結果として国家エゴをむき出しにする狡猾な国と、なる。ただアメリカはフレンドリーである、しかもアメリカ流の規(のり)を外れない異国人に対してのみ、親戚友人とかわらないフレンドリーさである、とあった。これは、朝貢する国にたいして、歴代厚くもてなした中国王朝と似てもいる。

 日本は。
 25年たったその時、国籍を捨てる人達が増えてきた。成功した移住もあるが、世界各地で暴動も起こし、犯罪集団も結成し、総体的に日本国政府への求心力も激減してきた。

 四季を持つ国土がどれほど国民にとって大切であるのか、痛感した。
 聡明な鳥飼はいう。ナショナリズムもパトリオティズムも日本を支えるには、100年しかもたない。世界市民として、各地に完全に溶け込むことが日本の将来であると。ここで思ったのだが、コスモポリタニズムも、各地に各民族に各文明に溶け込む、それはすなわち新しい国土を各人が持つと言うことなのかも知れない。もちろん偏狭な個人主義とコスモポリタニズムは異なると釘はさしている。

 日本国統合の象徴として「天皇」への言及がなかった、そんな印象が強い。現今の日本にあっても「天皇」とは、一種の強い宗教的心情をはらむので、小説として扱いが難しいのかも知れない。
 ただ、日本の宗教について、生活基盤のなかで「嘘をついてはならない」「約束は守るべきだ」「迷惑をかけてはならない」こういう感情が日本人の一人一人にしみこんでいることが、日本の宗教であるという考えもあった。そう言う意味で、天皇も政治の対象にはなりえない、この日本的宗教の中に、本書は組み込んでいたのかも知れない。
 宗教について付言するなら、日本には、あらゆる世界宗教が根付かなかったと言っている。仏教ですら、これは「日本仏教」という、原始仏教とも、大乗仏教ともまったく異なる日本的なものだと記されていた。

 作品は、中央アジアでの難民生活を克明に描いていた。どれをとっても重い内容だと、思った。
 読み物として、おもしろかった。それが小松流の哀感と、冒頭に記したところである。果てしなき流れを充分に味わった。

参考 日本沈没(MuBlog)

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2006年8月16日 (水)

お盆の休暇

 今日は8月16日、曜日も思い出せない。葛野に朝からきていた。極早朝は、9月23(土)に行われる倶楽部の五周年記念「Truth誠会特集号」、の原稿を整理していた。私が編集長じゃなくて、ただの助っ人。送付してそのあと葛野に走った。お盆休みだから自動車は楽だった。

 お昼は冷麺をセブンイレブンで買った。いつ食べたか思い出せない。ずっと夏期論文に専念していた。なんとなく先ほどから、目の奥が痛くなってきたので、もう止めよう。八時間程度続けただけで、音をあげるようになった、これを称してヤキがまわった、というのだろうか。

 勤務先が仏教系からかもしれないが、ここ数日は休業中らしい。ただし警備の人はいる。ここへ奉職して十数年、毎年夏期とか冬期はこんなだったから、つまり無人のキャンパスへとことこでかけて、研究している変人で通っているようだ。だから誰何(すいか)はされない。電話もない、人もいない、要するに一言も話さなかった。あんまり専念したので、独り言もなかった。

 今日は都は送り火、大文字だ。一昨日も無人キャンパスにきて、なにかのついでに最上階まで登ってみたら、大文字、左大文字がバルコニーから見える位置だった。しめしめと思ったが、今夜十六日、そんなことをしていると深夜九時になりそうなので、もう帰るとしよう。

 仕事とか研究とか、専念した結果は、問わないことにしようとしている。生きる知恵だな。もともと人生とは、無意味なことの積み重ねだから、いまさら子供っぽく、ああたらこうたら言うてもしかたない。ともかく、夏期は無人の環境で、なにかをしかしか、しこしこしている。それは加齢とともに、結構疲れる。脳が痺れるような感じになる。だから、帰還して夕食をとれば、朝になる。良きかな。

 人と話はしないが、終日ただ幻聴の中で、幼児期の夏の昼下がりの蝉の鳴き声が聞こえていた。

追伸
 昨日の大東亜戦争敗戦日は木幡研で、掃除していた(笑)。そしてときどき、小松左京&谷甲州の『日本沈没 第二部』を読んでいた。押さえた筆致、人物達がそれぞれ案件を処理していく姿がとてもよい。まだ数章しか読んでいないが、私は好きだな。彷徨える日本人。四季折々の国土を一挙に失い、世界に散らばって25年。そろそろ日本人であることを忘れかけようとしている、そういう中で、人々はどうやって生きていくのか。なかなか、難しい問題が一杯あった。今夜もまた読もう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年8月15日 (火)

北九州の旅:門司港レトロの午後

承前:北九州の旅
門司港レトロ界隈地図

 門司港駅をぶらぶら散歩したあと、噂の門司港レトロを歩いてみることにしました。駅にいても、潮の匂いがしました。港町なんですね。
 想像以上にたくさんのレトロ・アイテムがそろっています。おもに大正ロマン調の建物が目に付きました。幾つかは国指定重要文化財でした。岐阜県の明治村を考えてみると、ここは「大正ロマン港」です。
 ただ、日曜の午後、すっと通り過ぎただけで、ひとつひとつの建物見学は、また後日にしておきます。
 受容できる、キャパシティ(容量)が少なくて、たとえばこのあとも、巌流島とか舟遊びはしておりません。ひたすら町並みと、港と、海峡を眺めておりました。もちろん、同行者達はあれこれ歩き回っておりました。私は港で寝ておりました(事実)。
 
門司三井倶楽部

門司三井倶楽部
 駅前広場の噴水の向こうに見えました。なんとなく以前の三井ホームのツーバイフォーとかいう建築様式を思い浮かべました。根は和風好みなのに、建築はそれぞれをそれぞれに好ましく思うわけです。記事を見ていると、昔はここにはなくて近所から移築したようです。アインシュタインが泊まったそうです。いまはレストランとか。

ピラッミッド?→三角山

三角山
 三井倶楽部、そうか、葛野図書倶楽部もこういう建物があればよいなぁ、と思って振り返ると、おお、そこにピラミッド! こればっかりは大正ロマン調ピラミッドには見えません。しかし、この山は山じゃなくて純粋にピラミッドに木々が生い茂ったと、私は感じました。おそらく、そうなんだと思うわけです、どうでしょう? 200m前後の高さですね。

門司港と対岸「火の山」(下関)

門司港と対岸「火の山」(下関)
 港に、小型の遊覧船?、貨物船、関門橋、そして下関の火の山が見えました。空蒼く、潮風がありました。これが、門司港の原風景かもしれませんなぁ。どこで読んだのか聞いたのか、日本には内海、瀬戸内海のおだやかさがあるから、佳い、と言われる人がおるようです。

関門橋と同行者達

関門橋と同行者達
 関門橋が大きく見えます。私はここで同行者達と一旦お別れすることにしました。皆さん、これから関門トンネルを歩いて下関まで行くという、壮挙。私は、風があるとはいえ夏日にそこまで体力を消耗させると、翌日にこたえると考えて、一人で寝ていることにしたわけです。

青空

青空
 丁度、あとで紹介するCoCoCafeという店の前に、横長の石がベンチ代わりにあったので、木陰も幸いして、横臥することが出来ました。無心になれました。ただ、空があまりに綺麗に見えたので、空に向けて一枚だけシャッターを切りました。未知の街角で、横臥できるなんて、これは極楽でしたな。

 さて、ここから後の写真は、その間に「めかり神社」「関門海峡夏景色」遊覧という時間を挟んでの物です。おおよそ二時間近く後の話です。本当に、こういう建物がいろいろあって、大正ロマン港と言っても過言ではないです。どれも、大きいですね。

(旧)門司税関

(旧)門司税関
(旧)大阪商船
旧大阪商船

CoCo Cafe のお嬢さん達

CoCo Cafe のお嬢さん達
 門司港レトロ旅の仕上げはここになりました。この海辺のカフェ、CoCoCafeはなかなかよいお店でした。異国風ですね。いろいろ複雑な事情(笑)の果てに、私はカフェラテとかいうのを飲みました。新式のカフェは本当に、なにを注文してよいのかよく迷います。二番隊長2006とHさんの笑顔をもっとはっきり撮したかったのですが、ネット掲載を考慮して、こういう結果にしておきました。局長2006をいれて三人、ご機嫌だったです。

 さてこれからは、門司港駅にもどって快速電車に乗りました。小倉を通過して、黒崎の二つ向こうの折尾(おりお)という駅で下車した記憶があります。四人が座れて空いていた。四十分程度だったかな。そして、タクシーにのって、一路局長2006実家に向かったのでした。そこには、意外な~、局長のお父さんとの話は戦艦大和にまで及び~、と次次回をお楽しみに。

 次回は、わかめ、じゃなかった、めかり(和布刈)神社紀行になりまする。この神社が、また、そんじょそこらにあるものじゃなくて、仲哀天皇さんや、松本清張さんゆかりの神社なんです。

参考
  COCO-Cafe - いぬ とCafe Latte -[Mu注:なかなかに、現代的な香りのする記事でしたよ]
  CoCo Cafe HP
  三井倶楽部
  税関広報展示室(旧門司税関内)
  北九州市旧大阪商船(文化遺産オンライン)

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2006年8月13日 (日)

NHK功名が辻(32)秀吉と家康

承前:(29)小牧・長久手・家康

 大坂城(大阪市中央区大阪城)航空地図

 今夜蜂須賀小六が死んだ。秀吉が妹旭だけでなく、母をまで家康に人質に出そうとしたので、怒りの余り、憤死した。脳溢血のように見えた。この蜂須賀家は幕末まで残った。阿波、淡路両国の徳島藩として25万石、外様大大名であった。
 秀吉は知らぬ間に関白(従一位)となっていた。位人臣(くらい・じんしん)を極めるとはこのことなのだろう。朝廷からの官打ちというよりも、むしろ秀吉がむしり取った雰囲気だが。

 それにしても、家康懐柔にでかけた山内一豊は、家康から千代の賢女ぶりをほめられ、「大阪に帰ったなら、秀吉の妹よりも、山内の妻女をもらい受けたい」と、秀吉に言うようにいわれ一豊は愕然としたが、これは家康の戯れ言ですんだ。千代の才女ぶりは、そこここで噂されていたのかも知れない。なんとなく、一豊は家康のもとに使者に使わされることが若年から多かった。大抵、家康に逆に懐柔されっぱなしがおもしろいが、今回は、なんとか旭の輿入れが決まった。そのあと、続けて秀吉の母親も家康のところへ人質に出た。

 大坂城で秀吉と家康とが対面したとき、家康は秀吉の派手な陣羽織を所望し、座が緊張した。陣羽織は兵馬権をあらわすのだろうか、参謀黒田が家康を制した。しかし、「殿下は、もう戦にでる必要はありません。家康が、代わって戦をいたします」というセリフで、決着がついた。
 両雄が折り合いを付けるには、それなりの儀式が必要だと思った。

追伸
 事情で、30回、31回をお休みした。どちらかで長浜地震があって、千代は娘を亡くしたはず。見なくてすんだのも、また、よかったと思っておこう。

| | コメント (2) | トラックバック (7)

夏の充実時間

 8月の第二週はようやく充実した一週間を過ごせた。「充実した」と思えるのは活動自体よりも、心身を動かしたあと、木幡や葛野でじっくり論文書いたり、読書したり、プログラミングしたり、横臥して半睡の中でものを考えたりするときに訪れる。
 その内容から考えて、私は身体行動的であるよりも、筆やキーボードという手先を動かす職人的な質のようだ。
 瞑想は、大抵半睡状態なので、人が観察すれば、たんに「居眠り」しているとしか見えないだろう。
 それと一種の贅沢ともいえるが、手先職人資質は連続して5時間とか終日継続しないと、「やったね」という気持にはなれない。
 実際になにかがどれだけできたかよりも、この「やったぜ」という気持がわいてこないと、鬱々しい額縦皺男のまま徘徊することになる。徘徊ともうしても葛野研の部屋の前の廊下を行きつ戻りつするだけのことだが。

オープンキャンパスの楽屋裏

オープンキャンパスの楽屋裏
 小さな行事だが、毎夏オープンキャンパスがあって、この五年間葛野図書倶楽部2001の人達に汗を流してもらっている。世間では最近漸く学生主体の手法を取り入れだしたようだが、なんというか、ここでは初めから倶楽部主体なので手慣れたものだ。相手は高校生主体なのだから、私がのこのこ出て行くと、客が逃げていく。ちょっと賢そうで優雅な大学生が応対する方が、よほどに効果がある。
 もちろん、どんなことも準備万端調えるには時間がかかる。倶楽部員たちはなんかかんか、この七月は準備に奔走していた。
 今年もよくやってくださった。うまく行った。葛野図書倶楽部2001、万歳。

 このオープンキャンパスが終わってやっと、世間で言うところの大学の夏期休暇が始まる。ただ、噂では大学によっては毎週開催しているところもあるので、それはそれで難儀だなぁ。

 さてオープンキャンパスを終えてこの一週間、私は何をしていたか。
 となると、書くことは少ない。要するに葛野研へ毎日でかけて、延々と論文を書いておりました。
 それがどういう意味を持つのか、考え込み出すとなにもできなくなるので、ともかく「毎年夏期の二ヶ月は最もディープな思考と作業と論文作成に励む」と、決めているだけのことかも知れない。

 すこしMuBlogで息抜き、ガスぬきすると。
 なんにしても、生きていることの、なしていることの、意味や意義を深く考え出すと多くのことが馬鹿馬鹿しくなってしまう。特にマイナーな学術分野のマイナーな研究者が、マイナーな研究をして、一体それがどうしたの? と自問自答すると、冷や汗がでてくる。「余のなしてきたことは、総て無意味だったのか」と。
 けだし、こういう自問自答は永遠に続くし、つきつめると「生」そのものに鬱思考が及んでくる。だから、この深淵の恐怖から楽になるための手法をいつのまにか、あみ出していた。
 それは、たった二つ。

 1.深淵をのぞきこむだけでは駄目だ。深淵に降りていくこと。つまり、無駄無意味と徹底的に考えながらも、ひたすらそれまでの経験や思考を全力投入し、深い穴を降りていく。そこに、恐怖感が去る。
 2.よく眠ること。脳は身体の一部なのだ。脳の疲労は筋肉労働に匹敵する。脳疲労回復は睡眠しかない。眠くなったら眠る。ただし飽食怠惰の眠りは覚めたときよけいに辛くなる。心身をスリムに保つには、筋肉労働や脳労働の果ての眠りを目指すべし。

 などと、一家言をしるしてしもうた。教師癖かな。
 ともかくこうして、この十数年夏期の二ヶ月を「やったね」と、過ごしてきた。だから、笑顔が絶えない(自笑)。
 私はいつも上機嫌なので、ときどき人様から「どんな楽してる」と思われてきた半生だった。しかし、ときどきむかっ腹がたつ。「おまえ、俺とおなじこと、やってみぃ~や。死ぬでぇ」
 あははは。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年8月11日 (金)

二十六万アクセス

承前 二十五万アクセス

 先回の25万アクセスは2006.07.19の記事だったから、今回26万件アクアセスに至った期間は一ヶ月を切っていて、これはそのまま受け取れる数値ではない。この間に、ココログでは大規模な変更を伴ったアクセス解析システムを導入したので、そこでカウンターのとらえ方に変化があったのかもしれない。あるいは、先頃ココログは長期にわたって機能不全に陥り、基本システムを根本的に変更したので、その間に漏れたデータ、その他が混入したのかもしれない。
 いろいろな憶測をしても、一般利用者としては分からない点も多いので、このまま本日(2006年8月11日(金))をもって、26万アクセスを得たとしておく。

 また今後使う「アクセス解析システム」はこれまでとは異なるものなので、新たに使い方を考えることになった。よって従来の方法を継承することは難しくなった。本日の所は、最善とおもわれるデータを使って26万件アクセスの実体を調べておくことにする。今後、変更することも多いであろう。

 グラフ表示を掲載した方がわかりやすい点について、ここしばらく考えてみる。おそらく次回からは、統計グラフ・イメージを切り取ってそれを写真扱いすることになろう(予想)。

(1)本日記録(MuBlog)
 対象日: 2006年08月11日(金)
 観察時間: 09:35
  累計アクセス数: 260001
  1日当たりの平均: 296.47

 本日の観測時でのアクセス数: 45 (前日値:271)
 本日の観測時での訪問者数: 28 (前日値:167)
 記事数: 794 | コメント数: 3235 | トラックバック数: 537 | ライター数: 1

★参考:Muサイト全体は以下
    累計アクセス数: 383218
    1日当たりの平均: 436.96
 ↑Mu注:Muサイトには他にいくつかのblogがあります。また、写真集についてのアクセスも個別に記録されているようです。それらをあれこれ併せると、38万3千アクセスと、Muにとっては目をむくような数値になっておりました。

★アカウント情報の概要
  現在利用中のプラン: プロ
  利用可能なディスク総容量: 10,000 メガバイト
  利用中のディスク容量: 276.156 メガバイト (2.76%)
  ココログの利用開始月: 2004年3月

↓以下は、MuBlog個別データに関する統計です。

(2)検索フレーズランキング( 30日分 順位約50位)
Mu自注:ここには、ワードとフレーズとが併せてでている。従来のワード統計は付録とした。

解析対象期間: 2006年7月12日(水) ~ 2006年8月10日(木)
検索ワード/フレーズ
 「訪問者がどのような言葉を組み合わせて検索して訪れたかがわかります。
 検索時に入力された語句をそのまま集計しています。」
 集計対象検索サイト: 全てGoogleYahooMSNgooExciteInfoseek@niftyBIGLOBElivedoorAOLAsk.jp
 集計対象アクセス数:4,522

順位 検索ワード/フレーズ 頻度 割合(%)
1 じぶり  → 373 8.2%
2 20世紀少年  → 98 2.2%
 ↑多いですね。もしかしたら連載が終了でもしたのでしょうか?
3 竹中半兵衛  → 62 1.4%
 ↑なんとなく幼少時からこの人のことは気になっていました。
  現今の人も、なにかしら、きになるのでしょうか。
4 20世紀少年  → 41 0.9%

5 功名が辻  → 38 0.8%
6 九絵家  → 36 0.8%
7 ぎろぎろ  → 28 0.6%
8 佐野藤右衛門  → 25 0.6%
9 山崎城  → 21 0.5%
 ↑壬申乱で、大友皇子(弘文天皇)は山前(やまざき)で
  自殺したことになってはいるのですが。
  この山前は天王山の山崎かもしれません、と謎?!
10 常照皇寺  → 20 0.4%
11 キルヘボン  → 19 0.4%
11 むらさき太鼓  → 19 0.4%
11 宇治平等院  → 19 0.4%
14 天皇陵古墳  → 18 0.4%
15 鍵善  → 17 0.4%
16 京都 大型書店  → 15 0.3%
16 vaio ハードディスク交換  → 15 0.3%
18 京都 行きつけ 全部 美味しい 予約 人気  → 14 0.3%
18 宇治川鵜飼い  → 14 0.3%
18 レスタト  → 14 0.3%
18 みたかのもり  → 14 0.3%
22 北の荘  → 13 0.3%
22 じぶり美術館  → 13 0.3%
24 鮒寿司  → 12 0.3%
24 伏見桃山城  → 12 0.3%
24 PowerMacG5  → 12 0.3%
24 一豊  → 12 0.3%
24 桜田 京都  → 12 0.3%
29 長尾真  → 11 0.2%
29 EG-SATA3525  → 11 0.2%
29 スマート珈琲  → 11 0.2%
29 壬申の乱  → 11 0.2%
29 ハードディスク交換 prius  → 11 0.2%
34 森博嗣 退職  → 10 0.2%
34 うぶめのなつ  → 10 0.2%
34 じぶり   → 10 0.2%
34 金魚 水槽 掃除  → 10 0.2%
34 仁徳天皇陵 上空から  → 10 0.2%
39 古民家 デザイナーズ 看板  → 9 0.2%
39 五色塚古墳  → 9 0.2%
39 京都 書店  → 9 0.2%
39 枝魯枝魯ひとしな  → 9 0.2%
39 ほづがわくだり  → 9 0.2%
39 飛鳥板蓋宮  → 9 0.2%
39 大型書店 京都  → 9 0.2%
39 新撰組  → 9 0.2%
39 五藤吉兵衛  → 9 0.2%
39 長篠の戦  → 9 0.2%
49 登喜和 池波正太郎  → 8 0.2%
49 京北町ときわ  → 8 0.2%
49 ソニー ノートパソコン ハードディスク 交換 修理  → 8 0.2%
49 みしまゆきお  → 8 0.2%
49 弁慶うどん  → 8 0.2%
49 登喜和 京北  → 8 0.2%
49 京都の書店  → 8 0.2%
49 森正 そうめん  → 8 0.2%
49 ぎろぎろひとしな  → 8 0.2%

58 そうめん処 森正  → 7 0.2%

 従前はワードとフレーズとを分けてきたが、今期以降は、新しい方式をそのまま取り入れることにした。
 語の組み合わせと、独立した語との関係は、一語に対する検索者の執拗度によって同じ意味を持つこともある。
 ともあれ、あいかわらずMuBlog制作者としては、古い「言葉」へのアクセスが多いことに、満足(笑)。

(3)記事ごとランキング(30日分 順位約50位)
解析対象期間: 2006年7月12日(水) ~ 2006年8月10日(木)
  ページ別アクセス数:「どのページが多く見られているかがわかります。」
  アクセス数: 7,921
  訪問者数: 5,719

凡例★ 1 トップページ 583 1,413  10.2% 17.8%
 記事名の後ろの数値は[訪問者数 総アクセス数][訪問者数%][アクセス%]
 となっている。
 具体的な順位は、総アクセス数によって付けられているようだ。
 また、記事名のうち、太字とアンダーライン付きは、MuBlog内でのカテゴリーを意味する。
 記事名のうち、日付だけの太字は、日付(月ごと)検索を意味する。

順位 解析ページ 訪問者数 アクセス数
1 トップページ 583 1,413 10.2% 17.8%
2 みたかのもりじぶり:三鷹の森ジブリ美術館 352 453 6.2% 5.7%
3 地図の風景 203 255 3.5% 3.2%
 ↑このカテゴリーは、25 地図の蠱惑:未踏地とペア。
  最初の意図は、未踏地をしらべまとめて、「地図の風景」化しようとしていた。
  むやみに「地図の風景」カテゴリが多くなったので、将来ある時点で、
  固有地名に分類し直した方が良いかも知れない。

4 ノート・パソコンのハードディスク交換、取り扱い処方 177 254 3.1% 3.2%
5 20世紀少年(21)/浦沢直樹 185 201 3.2% 2.5%
6 『蛇神祭祀』(はむかみさいし)の連載 14 142 0.2% 1.8%
 ↑この記事へのアクセスは、訪問者が14人で、アクセスが142回となっている。
  ともかく、この記事へのアクセスがあったことに気付いて、喜ばしい。

7 Prius(日立製ノートパソコン)のハードディスク交換 108 129 1.9% 1.6%
8 美味しいところ 72 113 1.3% 1.4%
9 NHK功名が辻(28)昇進・傷心 97 109 1.7% 1.4%
10 京都の書店 81 94 1.4% 1.2%
11 Blogメモ 77 88 1.3% 1.1%
12 NHK功名が辻(03)竹中半兵衛のこと 75 87 1.3% 1.1%
13 枝魯枝魯(ぎろぎろ)の一夜 62 74 1.1% 0.9%
14 うじがわ・うかいふね・あたごさん:宇治川鵜飼い船・愛宕山 46 66 0.8% 0.8%
 ↑多分、「鵜飼」という言葉でのアクセスだと思う。
  この記事に掲載した宇治川の写真は、Muも気に入っている。

15 前方後円墳の航空写真 24 64 0.4% 0.8%
 ↑単に別会社サイトの航空写真サービスへリンクしただけだが、
  慣れないと、あるいはじゃまくさいと、特定ポイントを観るのは難渋する。
  だから、この記事へのアクセスがあるのだろう。

15 2006年01月 53 64 0.9% 0.8%
17 登喜和(ときわ)のステーキと春の京北周山町 37 63 0.6% 0.8%
18 もりしょう:そうめん処・森正 32 57 0.6% 0.7%
19 古民カフェ:私の京都・河原町通{四条→三条} 43 55 0.8% 0.7%
19 NHK功名が辻(25)山崎の城 37 55 0.6% 0.7%
21 NHK功名が辻(24)光秀死す 40 52 0.7% 0.7%
21 Santa Monica Beach : サンタモニカ・ビーチ 48 52 0.8% 0.7%
21 じょうしょうこうじ:常照皇寺 31 52 0.5% 0.7%
21 PowerMacG5の内部 44 52 0.8% 0.7%
 ↑世の中はすっかり、インテル社CPUが席巻し、ついにアップル社の
  マシンもG5タイプはなくなった。なぁ。

25 JO記事『クエ料理 九絵家(大阪)』のこと 33 50 0.6% 0.6%
25 地図の蠱惑:未踏地 40 50 0.7% 0.6%
27 2006年02月 39 49 0.7% 0.6%
28 ダヴィンチコードとキリスト密教史 41 43 0.7% 0.5%
28 小説木幡記 40 43 0.7% 0.5%
30 謎の大王継体天皇/水谷千秋 34 41 0.6% 0.5%
 ↑啓蒙書(新書)とはいえ、こういう感想文記事にアクセスがあると、
  書いて良かった、と思う。

31 桜の森:佐野藤右衛門邸の桜 29 40 0.5% 0.5%
 ↑時折「森」じゃなくて「守」の誤植ではないかと、思われふしもあるが、
  これはMuが意図的に「森」にしたものだ。
  佐野家のお庭は、桜の森だから。

31 さくらだ:桜田 19 40 0.3% 0.5%
31 イメージの素 33 40 0.6% 0.5%
34 NHK功名が辻(29)小牧・長久手・家康 26 39 0.5% 0.5%
34 スマート珈琲店(京都・寺町)のホットケーキ 29 39 0.5% 0.5%
 ↑この記事へのアクセスもうれしい。はずれの地の寺町に
  こういう上等な喫茶店があるのが、都振り。

36 ふしみぶぎょうしょ:伏見奉行所跡と魚三楼 21 38 0.4% 0.5%
36 2005年10月 34 38 0.6% 0.5%
38 NHK功名が辻(23)敵は本能寺 27 36 0.5% 0.5%
39 葛野図書倶楽部2001 19 35 0.3% 0.4%
40 辨慶うどん 27 34 0.5% 0.4%
40 ヴァンパイア・レスタト/アン・ライス 32 34 0.6% 0.4%
40 MuBlog 目次 :記事 逆掲載順 25 34 0.4% 0.4%
43 日々雑感:老後のこと:裁判の行方 26 33 0.5% 0.4%
43 二十四万アクセス 32 33 0.6% 0.4%
43 二十五万アクセス 30 33 0.5% 0.4%
46 NHK功名が辻(26)五藤吉兵衛の死 28 32 0.5% 0.4%
47 私の京都:薮そば(伏見桃山大手筋) 22 31 0.4% 0.4%
47 NHK功名が辻(27)越前・北の荘炎上 24 31 0.4% 0.4%
47 『豊饒の海/三島由紀夫』の課題 22 31 0.4% 0.4%
 ↑なんというか。Muが生真面目に書いた記事に限って
  なんの人寄せもないのだが、稀にこういう記事へのアクセスが
  ランキングに入るとほっとする。

47 しじょうかわらまち:私の京都;四条・三条・河原町 22 31 0.4% 0.4%
47 飛鳥寺と蘇我馬子のこと「消えた聖徳太子」 26 31 0.5% 0.4%
47 NHK功名が辻 27 31 0.5% 0.4%

53 そういえば 15 30 0.3% 0.4%

(6)感想
 ということで、ココログが採用した新しいアクセス解析ツール、その統計データはこれまでと異なり、その使用法にいささか難渋した。が、つまるところ、上述のような方法論におちつき、しばらく様子をみることとなった。ただし、棒グラフなどの表示に工夫があるので、次回27万アクセスでは、そういう図版も付ける予定だ。
 今回の決定事項をまとめると、調査期間を過去30日分にした。MuBlogは昔の調子だと月あたり1万件のアクセスがあるので、手頃である。現在は一万件に達するに二ヶ月弱かかりそうだが、まあよかろう。
 ランキングを約50位までにした。当初は100位までとも考えたが、煩雑な印象もあったので、短縮した。
 調査項目は、「ワード/フレーズ」ランキング、「記事アクセス」ランキングの二つに絞った。特に後者はMuにとって役に立ちそうである。

(付録)検索ワードランキング( 30日分 順位100)
Mu自注:フレーズ/ワードランキングと重なるので無駄にも思えるが、後のことを考えて当面付録として処す。

解析対象期間: 2006年7月12日(水) ~ 2006年8月10日(木)
検索ワード
  「訪問者がどのような言葉で検索して訪れたかがわかります。」
  集計対象検索サイト: 全てGoogleYahooMSNgooExciteInfoseek@niftyBIGLOBElivedoorAOLAsk.jp

集計対象アクセス数:4,522

順位 検索ワード 頻度  割合(%)
1 じぶり 398 8.8%
2 京都 237 5.2%
3 20世紀少年 109 2.4%
4 ハードディスク 85 1.9%
5 ハードディスク交換 84 1.9%
6 地図 82 1.8%
7 功名が辻 79 1.7%
8 交換 71 1.6%
9 竹中半兵衛 70 1.5%
10 ノートパソコン 49 1.1%
11 ノート 46 1.0%
12 vaio 45 1.0%
12 20世紀少年 45 1.0%
14 写真 43 1.0%
15 九絵家 42 0.9%
16 森博嗣 37 0.8%
16 桜田 37 0.8%
18 鵜飼い 36 0.8%
19 ぎろぎろ 35 0.8%
20 分解 34 0.8%
20 prius 34 0.8%
22 大型書店 30 0.7%
23 登喜和 28 0.6%
24 森正 27 0.6%
25 宇治平等院 26 0.6%
25 佐野藤右衛門 26 0.6%
25 伏見 26 0.6%
28 奈良 25 0.6%
28 キルヘボン 25 0.6%
28 PCG-FX 25 0.6%
31 VAIO 23 0.5%
31 ブログ 23 0.5%
33 山崎城 22 0.5%
33 宇治川 22 0.5%
33 PowerMacG5 22 0.5%
36 明智光秀 21 0.5%
36 常照皇寺 21 0.5%
38 五色塚古墳 20 0.4%
38 むらさき太鼓 20 0.4%
40 裁判 19 0.4%
40 大阪 19 0.4%
40 退職 19 0.4%
40 金魚 19 0.4%
40 うどん 19 0.4%
40 そうめん 19 0.4%
40 長篠の戦 19 0.4%
47 日本沈没 18 0.4%
47 鍵善 18 0.4%
47 京都市 18 0.4%
47 壬申の乱 18 0.4%
47 天皇陵古墳 18 0.4%
47 弁慶 18 0.4%
53 魚三郎 17 0.4%
53 新撰組 17 0.4%
53 ダヴィンチコード 17 0.4%
53 誤植 17 0.4%
53 三島由紀夫 17 0.4%
58 航空写真 16 0.4%
58 美味しい 16 0.4%
58 書店 16 0.4%
58 NHK 16 0.4%
58 一豊 16 0.4%
58 レスタト 16 0.4%
64 画像 15 0.3%
64 認知症 15 0.3%
64 予約 15 0.3%
64 魚三桜 15 0.3%
64 じぶり美術館 15 0.3%
64 京北 15 0.3%
64 宇治 15 0.3%
64 前方後円墳 15 0.3%
72 北の荘 14 0.3%
72 EG-SATA3525 14 0.3%
72 全部 14 0.3%
72 人気 14 0.3%
72 宇治川鵜飼い 14 0.3%
72 行きつけ 14 0.3%
72 ラーメン 14 0.3%
72 小松左京 14 0.3%
72 水槽 14 0.3%
72 みたかのもり 14 0.3%
82 鮒寿司 13 0.3%
82 枝魯枝魯 13 0.3%
82 古民家 13 0.3%
82 弁慶うどん 13 0.3%
82 伏見桃山城 13 0.3%
82 カフェ 13 0.3%
82 修理 13 0.3%
89 スマート珈琲 12 0.3%
89 掃除 12 0.3%
89 河原町 12 0.3%
89 pcg-fx 12 0.3%
89 豊饒の海 12 0.3%
94 長尾真 11 0.2%
94 四条 11 0.2%
94 仁徳天皇陵 11 0.2%
94 メビウス 11 0.2%
94 ビザンチン 11 0.2%
94 二十世紀少年 11 0.2%
94 ダヴィンチ 11 0.2%
94 小りん 11 0.2%
94 マック 11 0.2%
94 五藤吉兵衛 11 0.2%
94 ジュンク堂 11 0.2%

| | コメント (1) | トラックバック (1)

北九州の旅:門司港駅

承前:北九州の旅

JR門司港駅(福岡県北九州市門司区西海岸)地図

 小倉からJRに乗って、終点門司港駅に着いたのは2006年7月30日(日)の午後だった。あっという間だった。この度(旅)は午前を小倉・松本清張記念館見学、午後は門司港レトロを案内してもらう手はずになっていた。
 ずっと古い知識や記憶では、北九州一帯は炭坑の町、八幡製鉄の町、重工業の町と、どれをとっても「重い」雰囲気の地域だった。小中学の社会科ではそう習っていた。その中で門司といえば関門トンネル、関門海峡・壇ノ浦、だった。
 それが、到着したとたんに何とも言えない気持になった。懐かしさのようなものだ。もちろん「レトロ」という宣伝文句に染まったせいもあろうが、駅舎に立ったとき、「門司港」は値うちのある場所だと感じた。
 海と港と近代史と町並みと、鉄道終着点。そういうものを、過去を捨てずに組み合わせ甦らせた町として、特筆に値する。

 わずかに数時間の旅だから、詳細を知らないまま通りすぎただけなのだが、写真は数葉残しておいた。下手な解説は最小限にして、まず、古い様式の門司港駅をありのままに写真記録しておく。

門司港駅プラットホーム:到着時

門司港駅:到着時
 案内の局長2006が「天井!」と言って指さした。つまり、この様式は明治か大正に造られた時代のままのようだ。鉄骨と角材と天井板が組み合わさって、良い雰囲気だった。横棒の蛍光灯じゃなくて、丸い電灯傘がぶら下がっているのも気に入った。降りたとたんに遠く正面が改札口という様式は、終着駅特有のものだ。確かにここはJR鹿児島本線の端だった。
 「門司港駅」というのは、ややこしい話だが、もともとは「門司駅」だったらしい。現在の「門司駅」は、名称変更して二駅手前になっている。ネット話をながめていると、観光客が時々、「門司駅」で降りてしまうようだ。まあ、よかろう。

門司港駅:中からプラットホームを見た

門司港駅:中からプラットホームを見た
 この写真は自動改札口がなければもっと上等に見えたかも知れないが(笑)。しかし、こういうフラットなJR駅も珍しいのではなかろうか。段差や階段、陸橋が全くなかった。もちろん関西に住んでいると私鉄では終着駅があるので、たとえば京都の北の鞍馬駅、琵琶湖の坂本駅(京阪)、阪急の嵐山、京福の嵐山、……。いろいろあるが、JRは思いつかない。始発終点駅はどこかにあるはずだが。
 帰りに、この改札を抜けてホームに立ったときの開放感は実によかったなぁ。

門司港駅の切符売場
 この写真、いやに古色蒼然としているが、修正したわけではなくて、自然にこういう色合いで写っていた。たまたま『点と線』に等しい偶然で、同行者達も、他の客達も途絶えた瞬間にシャッターを下ろした。駅員さんが一人立っていた。この方の制服は他のJR駅とは異なるようだ。遠くから見るとなんとなく水兵さんに見える。典拠未確認だが、この駅だけは制服が異なるとのことだった。奥に切符売場があった。
 しかし。どこも同じに見える階段だらけの新幹線駅と比較するのは野暮だが、「門司港駅」はよいなぁ~と、心底思った。

門司港駅の待合所

門司港駅の待合所

門司港駅の紗舞館(しゃぶかん)
門司港駅の紗舞館(しゃぶかん)

門司港駅の洗面所
門司港駅の洗面所

門司港駅の手水鉢
門司港駅の手水鉢

門司港駅の駅長室
門司港駅の駅長室

門司港駅での記念写真
門司港駅での記念写真

 この門司港駅は、後日掲載する「門司港レトロ」の出発点として、なくてはならぬ施設である。この洋式(ネオ・ルネッサンス)駅舎は国の重要文化財としても、そして門司区にとっても大切な所だと考えた。

参考
  門司港駅物語(門司港レトロ地区散策と歴史 NO232 2002.11.22)
  鹿児島本線 門司港駅
  観光施設(門司港レトロ地区)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年8月 9日 (水)

北九州の旅:松本清張記念館

承前:北九州の旅

松本清張記念館・銘(地図

松本清張記念館・銘:北九州市立
 旅の目的はこの記念館(博物館)だった。以前、未踏地のまま記事を掲載(2004.06.01)したので、心の半分には「行った気」になってはいたのだが、やはり現実に足を運ぶのと、仮想イメージの中で考えるのとは違うものだ。第一、ここまで来るのに汗をかいた。いや、晴天の夏の北九州なのだから、当然のことだが。さらに、松本清張は「せいちょう」であって、<きよはる>という本名ではなかった。それも銘で確認できた。

松本清張記念館前

松本清張記念館前
 記念館への入り口は写真奥にタクシーが止まっていて、そこのところを右折したら玄関になる。この写真は同行の二番隊長2006がカメラを回した中から抽出した。日傘もあって、中天からの短い影もあって、まるで夏という風情がよくでていた。夏だから、な。場所は地図を参照しての通り、小倉城の場内に位置する。小倉北区(以前は市)も郷土の誉れとして松本清張を待遇したのだろう。私は、よいことだと思った。なぜなら、異国の私がそれに引き寄せられてこの地に舞い戻るのだから、潜在的求心力は強いと思う。人が列をなしているわけじゃないから、奈良博物館の正倉院展のようには行かないが、維持して行くのは小倉北区の誇りだと考えた。

入場パンフレット(1)

入場パンフレット(1)
入場パンフレット(2)
入場パンフレット(2)
 記念館は地下一階、地上二階の約3400平方メートルである。各階1100平方メートルだから、巨大とは言い難い。展示室は大きく二つに分けられていて、展示室1には松本清張の歴史と全作品の案内がある。後者は目測十メートル程度の高さを持つ壁面に、著作の表紙が展示してある。展示室2は、書斎・書庫・応接室の再現展示で、地上二階分を使って中央にある。展示室1の内容は書籍などでも味わえるが、この展示室2の再現建物は博物館ならではのものだ。

 圧巻は書庫だった。約3万冊の蔵書と言われているが、これが当時を再現したまま累々たる書架に並んでいる。そして書架のある部屋は目測で六畳から八畳ほどの部屋に別れていて、分野や、現代物、古典ものという風に、部屋単位で別置されている。展示目録で確認したところ、8つの書庫に別れていた。
 書架によってはレプリカか本物かまではしらないが、古物が並べられていたり、あるいは付箋のついた古典籍が平積みされていた。また大型の美術書なども多数あった。
 こういった三万冊の蔵書をガラス越しに見ながら、これが自由に手に取ってみられる図書館方式を想像してみた。貴重図書も多いことだし、いわゆる万人が自由に、別の意味では図書を手荒く扱える公共図書館方式では無理だろう。いつか併設専門図書館が生まれたらよいと、思った。

「火の路」誕生秘話:古代史家との往復書簡を中心に

「火の路」誕生秘話:古代史家との往復書簡を中心に
 『火の路』は愛惜する作品である。私は清張をこの視点から眺めてきた。通説の社会派推理作家という面では、それほど大きな感興を持っていなかった。当時は若かったし、社会とか社会の底辺とか、社会の裏側には興味がなかったこともある。実は今もそうだ。これは質だからしかたないと、あきらめている(笑)。しかし、『火の路』で清張がとった創作方法や、対象については、私がもっとも切実に考えていることなので、この冊子を見つけたときは喜びが大きかった。そして内容も、豊富な写真と図版、創作メモに該当する多数の研究者との手紙のやりとりが録されていて、小倉に来たかいがあった。熟読しよう。

点と線のころ:常識の盲点。虚線に隠された実線。

点と線のころ:常識の盲点。虚線に隠された実線。
 社会派推理小説は分からぬと言った矢先に、『点と線』を案内するのは、われながら変な質だと思うが、主義主張のもとに生きているわけではないので、常に例外はある。心理トリック、時刻表の錯綜、北海道から九州まで、そして巧妙なアリバイ、普通の熱心な刑事。安心して読める作品だった。写真の冊子には、A4判見開きで登場人物たちのアリバイ、旅程などが図示されていて、みているだけでわくわくする。そのうえ、最初の現場が香椎宮の近くにある香椎潟とくれば、天にも昇る気持ちとなる。ただ、香椎潟は埋め立てられていて、今はないそうだ。(地図:香椎宮頓宮、このあたりまで海岸線だったようだ)というわけで、この冊子も手にした。

松本清張記念館図録

松本清張記念館図録
推理小説作法/江戸川乱歩、松本清張 共編
推理小説作法/江戸川乱歩、松本清張 共編

 博物館では大抵図録を入手する。なんとなく記念という意味もあるが、廉価版だからだろう。日本の印刷物は諸外国に比べて安価で美しい図書冊子を提供してくれる。ついでにというと申し訳ないが、江戸川乱歩と清張の共編による文庫も手にした。記念館オリジナルと思われるカバーが欲しかったわけだ。以前、ここのカバーをつけた『火の路』を頂き、感動した覚えがある。図書とはメディアであるが、内容はメッセージだから文庫も初版本もメッセージとしては大きな違いはないのだが、その図書固有のメッセージを持ったメディア、つまり物神化したものもある。私は、この日、記念に文庫本を記念館で買った。だから、そこには固有のメッセージが込められたのである。

参考サイト
  松本清張記念館(記念館の公式サイト)
  松本清張記念館(MuBlog:2004.06.01)

| | コメント (2) | トラックバック (4)

2006年8月 5日 (土)

北九州の旅:小倉と小倉城

承前:北九州の旅
承前:松本清張記念館(旧記事→2004.06.01)

小倉城(福岡県北九州市小倉北区城内)地図

 北九州市の小倉は十数年前に、22年間に及ぶ大学図書館生活の終わりに訪れた懐かしい土地である。深い理由もなく、なんとなく気になって駅を降りただけの町だったが、その後現在にいたるまで特別な町として、記憶に残った。だから、この日、2006年7月30日の宿は、いろいろな事情をすてて、JR小倉駅にある「小倉ステーションホテル」にした。

森鴎外・京町住居跡

森鴎外京町住居跡碑
 京都を朝早くでたおかげで、小倉駅には午前九時半ころに到着した。予定通り、三人の学生が改札口で待っていてくれた。この一日、夕食までをご一緒することになった、葛野図書倶楽部2001の局長2006、二番隊長2006、そして倶楽部賛助会員のHさんだった。三人はすでに前日に九州入りを済ませていた。なにかの縁あって、八幡西区在住の局長の招きもあって、二番隊長は美作(みまさか)、Hさんは三重県賢島のあたりから、はるばる小倉に集まったわけである。
 局長は、高校時代の遊び場は小倉だったらしく、案内はスムーズだった。それで、最初に見たのが、この森鴎外京町旧宅跡だった。詳細は写真メモに翻刻した。

伊能忠敬 測量200年記念碑

伊能忠敬 測量200年記念碑
 次ぎに案内されたのが、後述の常盤橋で、局長はいろいろ考えてくれたのだろう、いかにも私が好みそうな橋だった。しかし、これが保田與重郎の名著『日本の橋』にあったかどうかは不明。で、その側に伊能忠敬翁の記念碑があった。このごろ、友たちも私自身も余生を考えることが多く、こういう第二の人生を歩んだ故人を偲ぶのは、小倉に来て良かったことの一つだった。(伊能さんが、ここまで来ていたとは、知らなんだ)

常盤橋

常盤橋
 次の案内写真のメモに納めたが、これは「木の橋」だった。緩やかなカーブが優しい風情だった。まさしく、日本の橋は、木の橋が似合う。



常盤橋案内
 最初は橋の案内までは~と思ったが、よく見るとシーボルトの図版が刻印されていた。ああいう好奇心の旺盛な外国の人のエネルギーには、ほとほと感心するが、絵を描く能力が、時代を経ても、言葉を違えても、強いメッセージを残すものだと、印象が深かった。

小倉城全景

小倉城全景
 私は以前の記事で、小倉城を見ていないと記したが、訪れてみて記憶が蘇った。人の記憶はあてにならない。いつぞやは、桜島は行ったことが無いと言う記憶を、修学旅行の記念写真で間違いだったことを知って愕然としたが、この日も驚いた。私は、小倉城に登っていた。

小倉城の石組み

小倉城の石組み
 石組みにもいろいろあって、切石で正確に積み重ねる方法、これはよく古代史で、カミソリ一枚入らぬほどの正確さ、といわれているが、小倉城の石垣はその逆だった。野面積(のづらづみ)と言って、自然石を積み重ねる方法らしい。

庭園からみた小倉城

庭園からみた小倉城
 小倉城の眼下に庭があって、そこに大名屋敷が再建されている。現地の案内がわかりやすくて、畳にも上中下(畳縁の色とか幅)、天井にも上中下(格子の細かさなど)があるらしい。その縁台というか広い廊下から、天守閣を眺めた。

小倉城の鯱(しゃちほこ)

小倉城の鯱(しゃちほこ)
 この鯱については局長といささか論争があった。メモすれば後日にまた思い出されるだろうが、メモするとまた論争になるので止めておく。すなわち、この鯱は天守閣から眺めると、顔が虎、身体が魚に見えるのだが、地上から見上げると、○○○○にしか見えなかったという、次第。しかしこの○内を埋められる人は、私だけだろう。小倉住民が知れば、葛野研が焼き討ちに遭う。
 なお、この鯱と、次の大名かごは、二番隊長がビデオで撮り続けてくれたものから、抽出したものである。

大名かご

大名かご
 まあ、こういう左右に揺れる仕掛けもあった。私は意外に、好奇心があるようだ。かごに乗って思ったのは、防御策がほとんど無いことだった。槍や刀で刺されれば非常に危ない。しかし鉄板などを張ると重くて担げない。どうしていたのだろう。

参考
  小倉城:小倉文化史の散策

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年8月 4日 (金)

北九州の旅:仲哀天皇大本營御舊蹟(ちゅうあいてんのう・だいほんえい・ご・きゅうせき)

承前:北九州の旅

仲哀天皇橿日宮(かしひのみや)跡:古宮(福岡県福岡市東区香椎)地図

 わが国の古代の大王家(天皇と記す)は、記紀に詳しいがいずれも遠い昔のことなので伝説のひとつとして捉えている。しかしそれが架空のことだとか、「嘘」とかとは基本的に思わない。この記事は、景行天皇の皇子日本武尊、その子の仲哀天皇についてである。
 ともかく本当に大昔のことだ。
 皇統譜からの基本知識として、以下の系譜がうかがえる。仲哀天皇の時代は、3世紀ころのことだろう。

 崇神天皇(10代)→垂仁天皇(11)→景行天皇(12)→成務天皇(13)→仲哀天皇(14)→
 神功皇后→応神天皇(15)→仁徳天皇(16)

 景行天皇皇子日本武尊(やまとたけるのみこと)は伊吹山の神と争い、非命の死をとげたので、後の仲哀天皇を子として残したが、自らは大王にはならなかった。
 成務天皇の甥が仲哀天皇となる。
 さて、仲哀天皇の宮はもともと滋賀県の穴太・地図(あのう)にあった。高穴穂宮(たかあなほのみや)である。いろいろな事情があって、妻の神功皇后とともに、現在の福岡県香椎の地に宮をたてた。それが、橿日宮(かしひのみや)である。なぜ大和ではなくて、近江に遷り、そして福岡市東区香椎に遷ったのか。これは後世、天智天皇(38代)が大和から近江に遷ったことと併せて、国内外問題に対処することが目的だったのだと推量する。

 大和を中心に考えてみると、近江への遷宮は、大和及び国外勢力からの守備・退避、そして北琵琶湖を通っての日本海へのルート造り。九州への遷宮は、攻勢・攻めの姿勢かと思われる。ちなみに、天智天皇の母にあたる斉明天皇(37)は博多に行き、ついで広庭宮(福岡県朝倉郡)で亡くなられた。これは唐・新羅が百済を攻めたため、百済救援のための遠征(660年頃)であった。このあと、天智天皇は近江の大津宮(現在の近江神宮付近・地図)に遷った。 

 さて、仲哀天皇が近江からはるばる北九州に宮を移したのは、もともとは九州南部の熊襲(くまそ)との戦いであった。しかし、後述する、宮の沙庭(さにわ:聖域)での神功皇后の神託は、新羅を討つべしと出た。これに首肯しなかった仲哀天皇は、琴を弾いたまま暗黒の中で事切れた。

 黒岩重吾『女龍王・神功皇后』は小説の中で、この場面を現代に甦らしたと言えるほどの描写だった。
 皇后は神懸かりした巫女。仲哀天皇は和して琴をひく者、神の審判をうける人。
 そして、参謀・武内宿禰(たけしうちのすくね)は、神懸かりした皇后の言葉を翻訳する人。

 この仲哀天皇の死は、父親・日本武尊と同じく、神に言挙(ことあ)げしたための死と考えられる。
 他方、政治的に見るならば、天皇家は、このとき崇神天皇の三輪朝の系列を無くしたとも言える。なぜならば、神功皇后の息子は、後の応神天皇となって、河内にそれまでとは異なった新たな王朝を開いたからである。ここで、私は仲哀天皇の息子とは言わず、あえて神功皇后の息子と記しておく。まことに、子の実父を知るは母のみとは、古来言い尽くされた言葉である。神功皇后は、このあと臨月であるにもかかわらず、新羅を討ち、帰国後香椎宮の南「宇美」で応神天皇(15代)を出産した。JR香椎線は、香椎→香椎神宮~宇美(うみ)が終点となっている。

仲哀天皇大本營御舊蹟

仲哀天皇大本營御舊蹟
 この石柱を、参道から見て、傍によって、深く感銘した。穿った文字のひとつひとつに金粉、金泥が塗り込められていた。まさしく燦然としていた。香椎宮の人なのか、篤志家なのか、どなたさんがそういう工夫をしたのかは知らない。
 また出歩くことも少ないので、こういう事例が他にあるのかどうかも知らない。この石柱をみたことが、今回の北九州紀行の大きな収穫だった。

 戦前の人ならば「大本営発表」というセリフを思い出して、辛くなる方も多いだろう。負け戦を勝ち戦に変えて宣伝するほど悲しいことはない。そしてまた、別の人達ならば「侵略の悪夢」と過剰反応することもあるだろう。
 そのことについて、話すことはない。

 ただ、古代、もしかしたらはるばる大和から大王夫婦が軍船を率いてこの地に着き、ここで作戦を練ったのだろうと、想像する。九州南部を平定するのか、渡海して新羅を先制攻撃するのか。当時の小さな日本にとっても、重要な決断だったのだと思う。長い人類史の、そこここで繰り返されたことが、この地でもあった。
 そして、後世、記念に石柱を立て、金色に文字を飾った。

棺かけの椎

棺かけの椎
 由緒板にはおおよそ次のようなことが記されていた。仲哀天皇、神功皇后、武内宿禰が深夜、神託を聞き、仲哀天皇が変死した沙庭(さにわ)跡がここだと伝承にあって、7~8世紀に作られた香椎宮からみると、このあたりは古宮となる。この椎は、沙庭で事切れた仲哀天皇の喪を秘するため、神功皇后と参謀・武内宿禰は相謀り、ご遺骸を棺にいれたままこの木にたてかけ、あたかも天皇存命であるかのごとく、朝議を行ったという。その時、香りたち、よって香椎と名付けたとのこと。
 歴史の暗闇を象徴するような伝承である。「棺かけの椎」という言葉がいつ生まれたかは知らない。ただ、事実の断片が潜んでいるのだろう。

神木・香椎
 伝説に彩られた香椎が青空にそびえていた。

神木・香椎

香椎宮周辺絵図
 香椎宮には、その他、武内宿禰神社など、古伝に彩られている。古宮は香椎宮の奥にある。

香椎宮周辺絵図

参考
  「香椎宮へようこそ」

| | コメント (6) | トラックバック (1)

« 2006年7月 | トップページ | 2006年9月 »