『日本沈没/小松左京』その壱
昨夜遅くまで『日本沈没』を読んでいた。上下二冊のうち、下の最初の方まで読み進み、眠った。
最初に読んだ頃、つまり20代の末の印象よりも鮮烈なイメージがわいた。
あのころは私自身が根無し草のような気持でいたのかもしれない。だからたやすく、日本が沈んでなくなってもいいじゃないか、という実に安直な気持で世界をみていた。ニヒリズムといえば聞こえはよいが、つまりは、想像力が貧困だったのだ。自らの目先のことに心をうばわれてしまっていたからなのだろう。
ところで、まだ完読もしていないのに、6割程度読んで、小説の感想文を書き出すのは、これまであまりなかった。
こらえ性がなくなったのか、短気になったのか、分析したわけではないが、こういうやり方もあってよいだろうし、妙に書きたくなったわけだ。
いくつか気になったというよりも、なにか肺腑を突かれたところがあった。
1.東京大地震が、京都大地震の一年後に起こったのだが、この描写がものすごかった。250万人が死亡。その多くは、備蓄石油や、化学薬品の爆発炎上による、高熱や毒ガスに倒れた。シアンも発生し、瞬時に万のレベルで死んだ。
東京という密集地帯でのこの大災厄は、小松左京の緻密な延々とした状景描写によって、息が詰まってくる。マグニチュード8.5の地震が東京湾沖合30キロの海底で発生すると、生きているのが奇蹟に思えた。
2.その一年前、大文字の送り火を眺めながら、鴨川の床で杯を傾けていた者達が、その一瞬後に壊滅的になった状景も、非常に印象に残った。
このイメージは30年前からずっと残っていたので、惨状を読み返しながらも、記憶に心地好かったが、これも、木屋町祇園界隈が壊滅し復興すらできないことに、心痛が激しかった。
3.政治家のトップ。つまり首相の権力とカリスマ性について、思いを新たにした。
いまなら小泉さんが該当することになるが。
要するに、政治家はときどき、暗黒の未来に向かって決断をしなければならない。それは人間の出来ることではなくて、その決定の一瞬は、神か悪魔になっているかもしれないという、凄惨な姿だった。
うまく行っても、行かなくても、大衆・民衆のための生贄であるという、怖い立場が丁寧に書いてあった。
リアルだった。
4.マスコミや政治経済の情報操作に、踊らされているようで、踊ってはいない大衆の肌で感じる世界認識について、うむ、とうなずいていた。大衆が賢明だとは書いていないし、私も大衆は馬鹿だと思う。しかし、全体を通してマスコミの声高な屁理屈にうなずき納得しながらも、結局大衆は肌で感じた未来を知っているという、事実。
5.若者への手厳しい批判があった。肌で感じる経験も少なく、考えも浅薄で、行動が傲慢で派手な若者達が、日頃我慢している大衆に次々と撲殺されていく様子は、地獄絵だった。大衆は、いつも我慢している。会社に対して、隣近所に対して、家族を養うために、もくもくと恥をかき、いやな仕事をし、我慢している。せめて息子や娘たちだけは、まともに大学を卒業し、就職できるように、せっせと仕事している。その我慢が、突発的な災厄のなかで、プチンと切れる。
現代の風潮だと、各地の少年鑑別所がわけもなく襲われる予感がした。
阿鼻叫喚が耳についてきた。
6.肝心の、日本が沈没して無くなる事への痛み。
これが私にも乗りうつってきた。
国土を無くし、国家を無くすことの痛みが身内を走り抜けた。
それだけではない。
愛宕山も比叡山も、宇治平等院も、飛鳥の酒船石も、法隆寺も明治村も、嵯峨野も、大覚寺も嵐山も、……。全部無くなってしまう。
やがて、日本語も無くしてしまうのだろうか。
*.完読したなら、また書いてみよう。
この図書は、緩やかな意味で、倒叙小説なのだ。
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