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2006年7月17日 (月)

花のなごり、殘花餘語/保田與重郎

 昨夕のこと、木幡で夕風呂のあと、気持がよくなったので、気にかけていた保田與重郎の「花のなごり」とその附録「殘花餘語」を読み終えた。保田による伴林光平『南山踏雲録』を若年時、数年前にも読んでいたのだから、もちろんなにかしら記憶があった。

 日本は先の大東亜戦争時に帝都を始め各地でアメリカ軍の激しい空襲をうけ、爆撃された。私の生地福井市もB29の墜とす焼夷弾によって一面焼けこげ野原になったようだ。祖母と母からよくきいた。また縁戚のある広島は原子爆弾で壊滅した。

 しかし幸いにも前朝をことごとく壊すような「革命」がなく、なべて、歴史がそのまま何百年も続いてきた国である。
 もちろん都は何度も打ち払われた。応仁の乱などはその典型であろうか。南都・奈良の寺寺も戦乱の中でなんども燃えた。その間、朝廷は都にあった。雅の継承、文化の引き継ぎ、天皇の日継ぎ、連綿と続いてきた。不思議な歴史ともいえる。

 歴史を学ぶとそれが当たり前のように見えるので、かえってなんの感慨も持たなくなる人が多い。
 ……。と、ここで右派勢力の代弁をするつもりはない。
 あるいはまた、私が青年時に、はなばなしかった左派勢力を顕彰する気持など、毛頭ない。
 さらにまた、「インテリ」「文化人」という、一種言いようのない浅薄な知識人をも、視野に入れない。

 「花のなごり」も「殘花餘語」も、江戸時代、若狭小浜出身の国学者、伴信友(ばん・のぶとも)の考えを、保田が南山(吉野一帯)で味わい、噛みしめた話である。この間、幕末の伴林光平(ばんばやし・みつひら)の事績にも言及がある。

 どういう内容なのかと、私は最初記すつもりだったが、それは止しておく。現代に生きる五百年の後南朝秘史だと、まとめることは可能なのだが、なにかしらそれを解説することが空々しく思えた。
 保田の難しさと、そして保田の日本文明に残した思索は、一々の固有名詞の解説に終わるような軽いものではない。たしかに、ある一定の知識、背景がないと、日本語文章として現代人のほとんどは、保田を読み切れないだろう。ことに、南山踏雲録に入っている昭和十八年頃の作品は、難渋する。

 つまりそういう難しさは、どうにでもなる。
 どうにもならないものが、保田にはあって、そのことを切々と思索した結果が、現今の保田全集であり、選集の中にそのまま埋もれている。昭和四十年代半ば、私は古書店で戦前の保田の本を二十数冊集めたが、いまもあって至宝である。戦局深まるにつれて、手触りの悪い紙質、造本、それらがたとえようもなく懐かしい。その中に、保田の貴重な思索が埋もれていた。

 ただ、昨夕はこんな風に思えた。
 あらかじめの思想体系は人為人工のものであって、そのフレーム内でのわかりやすさ、利便性、継承の容易さはあっても、あくまでモデル、模型、なのだから、実相にそのまま当てはめるとそこここで無理が生じ、自然な考えをねじ曲げてしまう。いわゆる史的唯物論とか、観念論哲学とか、実存主義とか、それぞれがそうである。だから、それぞれが論じ合うのは模型の質を高めはするが、その外の現実、歴史、人心解釈のゆがみを解消することはできない。
 明治以来の大学における学問は、今でもそうかもしれないが、そういう限界の上に立っていた。

 保田を読んでいると、そういった多くのことが虚妄と分かってくる。この世がどれほどに外相にふりまわされているかが、よくわかる。政治、経済、人々の生活、安全。これらに、すべて実相を重視せねばならぬとは、私は思わない。目先の我利や悦楽にひたるのも人生だ。
 ただ、たった一つ、ヒトだけが物事の見えない部分に、大きな実相が隠れていることを知り、味わうことができる。誤解無きように、実相とは、「あの話、実はこうだった、スキャンダル」の真相暴露話ではない。ヒトだけが、歴史の流れの中で、右顧左眄する我が身のなかで、なにか普遍的な、変わらない相を見る能力があるのだから、それが見えるように、心を澄ませ、過去に学び自らを振り返るという所作を、とるのが神意にかなったことである。
 そう、神意とは、そういうものだと、昨夕味わった。

参考
  MuBlog:文学の志についてメモ
  MuBlog:南山蹈雲録/保田與重郎

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