夢かうつつか、幻か
夢のような半生だったし、これからも幻の中を生きていくのだろうと、想像してみた。
脳が外界を洞察してその結果、どんな判断を示し、どう行動していくかが人間の一面なら、行動した結果や、考えた結果が、現実の姿とどれほど食い違っているのかを、思い知ったときに、夢の中に身を潜める。
これを夢への逃避とみる見方もあるし、またそれが多くの人の一致した考えだが、他方、夢幻を強く造り出し、そこに確かな手応えを持つ、あるいは持てる者は、夢幻こそが現実世界で、世間これ皆虚仮(こけ)となる。
私は、記憶の中に生きている時間が長いので、世間みな虚仮という考えに同調する。ことさらに聖徳太子さまのお考えを引用しているのではなくて、虚仮という単語のもともとの意味から考えている。
虚にして仮とは、つまり「死」に裏打ちされている、担保された人生だからこそ、重く真実を表している。
悲劇というか、辛さとは、虚仮に夢幻を浸食されることが多いからだろう。
鬱者は鬱の湖のなかに、不安と一緒に愉しんでいると私は診断している。鬱者は虚仮の世間が土足ではいってくるから、苦痛を味わうのだろう。
どんな理論で説き明かそうとしても、どんなに道をもとめようとも、悉皆夢幻の中にいるのだから、他の動物よりも人間は、愉悦と苦痛とが複雑になる。
そんな複雑さのなかで、やはり、人生は夢のような幻のような、旅であったとひとりうなずく。死とはその楽しみさえ跡形もなく消してしまう。だから、まだまだ愉しむために、生きていたい。
生への欲は際限がない。
たやすく、死を選ぶは、なんとのう愚かしく見える。
ただ、生ける屍という言葉もあるから、このことは、まだまだ予断を許さない。
今朝の夢幻の披瀝だった。
| 固定リンク
「小説木幡記」カテゴリの記事
- 小説木幡記:楠木正成のこと(2013.06.07)
- 小説木幡記:腰痛と信長(2013.05.28)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント