立原道造の別れ
夕方葛野研で、疲れてぼんやりしていると、目に立原道造の特集がはいってきた。
中をのぞいてみた。
---それが、私たちの別れであつた。……
Ⅱ
ある夏の日であつた。
そのとき私ははじめて、私のなかに、
しづかに集つて来て熟する憧憬の泉が脈打つのをきいた、生まれてはじめて、
私の外に、花はにほひ 風はそよぎ 白い昼が訪れた
私はおまへをそのとき見た ふしぎな未来につつまれて
まつくろな瞳でおまへは私をそのとき見つめたのを
~(略)
詩なんだと思った。気に入った言葉がいくつもあった。
「憧憬の泉が脈打つ」
しょうけいとも、どうけいとも読む漢字だが、私は以前からどうけいと読んでいた。なにかにあこがれる気持ちなんだろう。泉があるようだ。私にあったのかどうか、あったのだろう。そしてあこがれる先は、いつもぼんやりしていて、それが人か物か未来なのか、判然とはしなかった。いまも。
花が匂い、風がそよぎ、白い昼がまわりにあるというイメージは、私にはずっと明るすぎる情景だから、ここは道造さんとちがって、黒い夜が訪れた方が、気持ちが落ち着く。
「ふしぎな未来につつまれて」
これは、これをここにはさんだ道造さんの気持ちがよくわかる。分かるのだが、それを説明するとなると、なんとも言いようがない。未来につつまれて、これが主だ。そして、それがふしぎな未来なのだ。これが詩なのだろう。
そして。
私は男性だが、女性から見つめられることはあまりない。少年期はたしかにあった。真っ黒な大きな瞳で見つめられることを想像すると、今でも心がさわぎ、脈打つ。生きている証なのだろう。
それにしても、詩。
ことばをこんなに上手に繰り出して、その情景をくっきりさせる詩語。と思ったのだが、ここに使われている言葉に何一つむつかしいものも、そして斬新な単語もない。ごく普通の言葉がつらなって、なぜこんなに気持ちを惹きつけるのだろう。だから、詩。
現実と詩世界を比べるのは野暮な話だが、黒い瞳というものを、どんなイメージよりも鮮烈に思い浮かべることができるのに、それを現実の中にもとめてみると、どこにもそんな瞳はなかった。
そうしてみると、詩とは、此の世にないものを、しっかりと作り出すほどに、強烈な力をもった様式なのだろう。
詩とは、すばらしいと思った、梅雨の葛野の夕べでした。
参考
立原道造(国文学解釈と鑑賞、別冊)平成13年
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