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2006年6月29日 (木)

ニンニクと、シャンサイ

 数日前に、TVで料理番組をちらっとみた。とても料理の上手なお笑いタレントが、どはでな服をきて調理していた。M1君の話では毎回、衣装が派手になるらしい。

 ニンニクを丸ごと1分間電子レンジでふかして、それを丁度4分間180度の油で揚げる。香ばしくて美味しそうだった。

 案の定、昨夜はにんにく焼きそばだった。かりっとしたニンニクが一杯はいっていて、オリーブオイルかな? だけで作ってあった。早朝の話では、スパゲッティだったが、夕べには変わっていた。これはよくある(笑)。

 ところが添えた野菜スープが、ちっとだけ顔をしかめた。もちろん、Drは異能だから一瞬の表情を読み込まれた。
「シャンサイはお口にあわぬかえ」
「いえ、そんなわけでは~」
 自家製のハーブがいろいろあって、どれも好きなんだが、どうにもこの丸虫の匂いのするシャンサイというか、コリアンダーちゅうか、は苦手だった。
 以後、シャンサイは別置きにするとのことで、内心ほっとした。

 ニンニク。これは非常に好物だ。しかし、一般に女性はニンニクを嫌い、シャンサイを好むらしい。男性の多くは、シャンサイが苦手のようだ。一種の文化現象として、小説とかエッセーにも出てくるらしい。
 
 また、物知りになった(笑)。

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2006年6月27日 (火)

わが名は、またりん

承前 またりん君に朝顔を
    またりん翁、さようなら

 速いもので一年経ってしまった。今日の6月27日は、またりん君の命日になる。
 いまだに、せまい部屋の中を、さっと、そそそっと駆け抜けていく気配がする。
 白が好きな猫君だった。
 白いシーツ、座布団、白にくるまっていた。
 本人は、ほんの少し灰色がまざって、シルバーだったが、白猫にはちがいない。

 古い8mmビデオでとったのを、ディジタル化して、編集しながらスチル写真を拾ってみた。粒子が粗くて、今時の数メガピクセル静止画のような冴えはないが、もにょもにょとして、もふふふとした毛並みは再現されているので、よしとしよう。1994年くらいのタイムスタンプが入っていた。

 彼とすごした18年間は、銀の時代だったなぁ。
 もちろん、銀は金よりも落ち着いて、透明な美しさを見せることがある。
 ときどき腹を空かせると足元に身体ごとぶつかってきたり、あるいはすり寄せてきた感触を、今も味わう。幻猫のたぐいなのだろう。しかし、それを治療する気持はまったくない。失ったまたりんは、たとえ幻でも、幽霊でもいっこうにかまわない。 

 いまだに帰還すると、「またりんは、どこに隠れてる?」と、わずかに一秒程度さがすことがある。
 そういうものなのだろう。
 ペットという言葉は使いたくない。自身の中では禁句に近い。
 優秀な話し相手だった。
 「何、かんがえてるんや?」と、ときどき尋ねていた。まあ、答えはいつも「ふにゃ~」だったが。

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夢かうつつか、幻か

 夢のような半生だったし、これからも幻の中を生きていくのだろうと、想像してみた。
 
 脳が外界を洞察してその結果、どんな判断を示し、どう行動していくかが人間の一面なら、行動した結果や、考えた結果が、現実の姿とどれほど食い違っているのかを、思い知ったときに、夢の中に身を潜める。

 これを夢への逃避とみる見方もあるし、またそれが多くの人の一致した考えだが、他方、夢幻を強く造り出し、そこに確かな手応えを持つ、あるいは持てる者は、夢幻こそが現実世界で、世間これ皆虚仮(こけ)となる。

 私は、記憶の中に生きている時間が長いので、世間みな虚仮という考えに同調する。ことさらに聖徳太子さまのお考えを引用しているのではなくて、虚仮という単語のもともとの意味から考えている。

 虚にして仮とは、つまり「死」に裏打ちされている、担保された人生だからこそ、重く真実を表している。

 悲劇というか、辛さとは、虚仮に夢幻を浸食されることが多いからだろう。
 鬱者は鬱の湖のなかに、不安と一緒に愉しんでいると私は診断している。鬱者は虚仮の世間が土足ではいってくるから、苦痛を味わうのだろう。

 どんな理論で説き明かそうとしても、どんなに道をもとめようとも、悉皆夢幻の中にいるのだから、他の動物よりも人間は、愉悦と苦痛とが複雑になる。

 そんな複雑さのなかで、やはり、人生は夢のような幻のような、旅であったとひとりうなずく。死とはその楽しみさえ跡形もなく消してしまう。だから、まだまだ愉しむために、生きていたい。

 生への欲は際限がない。
 たやすく、死を選ぶは、なんとのう愚かしく見える。
 ただ、生ける屍という言葉もあるから、このことは、まだまだ予断を許さない。

 今朝の夢幻の披瀝だった。

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2006年6月25日 (日)

NHK功名が辻(25)山崎の城

承前[MuBlog:(24)光秀死す

山崎城跡[京都府乙訓郡大山崎町大山崎]地図(航空写真)

 今夜は武田鉄矢さんが山内家の侍女と恋愛騒動。それはそれでおもしろかった。侍女タキは事情で暇をとって宇治に戻ったとなっているが、実は当時山内一豊がいた山崎城と宇治とは、ほぼ東西一直線。山崎から東へ十数キロのところに平等院がある。当時の人だと徒歩でも二時間程度だろう。

 なんとなく、近場の話なのでよけいに興味が湧いた。
 武田鉄矢さんの(きちべい役)、山内家伝承を語る姿は講釈師、お上手だと思った。

 お市さんが、秀吉を卑しい男と、なじった場面が印象深かった。今更、お市の高慢ちきも、秀吉の野卑さも、あげつらっても仕方ないことだが、秀吉出自が水飲み百姓(どうだったか?)だったことは事実である。百姓は国の宝であるはずなのに(公地公民・律令制度・笑)、わけもなくさげすまれるのは、これいかに。
 一方稀代の名将信長の妹、絶世の美女だったらしいが、お市の方。信長が歴史をダイナミックに動かし、当時の武将たちに恐れられても、妹は別人格。お市が信長並みに歴史のスーパースターとも思えない。
 と、書生っぽい話になりそうなので、気持が悪い。

 何を以て卑しいと人を評価するのか。
 卑しいことは罪なのか。
 そんなことしたら、私の知る大多数は、ほとんど監獄にぶち込まねばならなくなる。

 芸術家も卑しい。
 自分のやりたいことをやって、人の迷惑顧みず、良い作品を残そうなんて、天に唾吐く卑しさだ。この筆致で書くと、政治家も、経済同友会も、聖人君子も、大学教授も宗教家も、すくいがたい卑しさ。
 笑止千万。
 まして庶民、市民なんて、生きている値うちもない卑しさ。
 と、まれに本気で思うこともある。

 ……
 止しましょう。
 で、秀吉が着々と天下を固めていく、その最初の頃が今夜のドラマだった。すでに、一豊を前にしたセリフでは、大阪に城を築き、家臣団屋敷で固める話まで出ていた。
 それにしても、越前北ノ荘の柴田勝家とお市さん。三人の娘さん。歴史を遠望すれば、悲しい定めだったなぁ。

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日課と日曜の夕方

 さっき夕風呂に入ってすっきりした。風呂好き日本人の典型かも知れない。ただたんに温度の高い水に身を浸すだけで、どうしてこんなに気持よくなるのか、わからない。

 今日は日曜だけど、たまっていた倶楽部関係の仕事をすこしかたづけた。口を出すのじゃなくて、ときどき関与したほうが、倶楽部幹事の何人かにとっては楽になると、思ってのことだ。たくさんのことを並行して動かしているので、節目には案件を整理したほうが、わかりやすくなる。

 午前中に醍醐の電気店に行って、ビデオデッキを買った。店内の主流はとうの昔にDVD時代で、もちろんTVも液晶やプラズマで埋まっていた。壊れた代わりのビデオデッキだが、BSアナログだけに目を付けて新品を買った。ビクターの製品で2万円だった。古いのは葛野研で8ミリビデオの再生用に転用する。つまり、私は昔、結構高価なビデオデッキを買っていたようだ。8ミリとVHSとが入っていて、相互にダビングできるしろものだった。まだ、8ミリビデオ部分だけは生きている。

 店頭で40インチ前後の液晶やプラズマTVを見ていて、欲しいなと思った。倶楽部の学生たちの中には、毎夜それで愉しんでいる者もいる。うらやましい。映画なんかだと、黒がしっかり出て、動きに即応するプラズマがよいと、新聞にあったから、5年後にTVが全部ディジタル化した場合は、買ってみよう。
 こう言うときは、つくづく、お金のある人、資産家が羨ましくなる。40万円~60万円もするTVを、木幡研でもし買ってしまったら、愛車RSのガソリン代にもことかくことになる。

 その帰りに六地蔵のイトーヨーカドーとかに寄ってみた。液晶TVでむしゃくしゃしたので(笑)、景気よく文庫本・上下二冊も買った。小松左京さんの『日本沈没』だった。いま、第一章を少し読み出した。活字が大きくなっていて読みやすい。木幡研を家捜しすれば、大昔の新書タイプの初版があるはずだが、ええいと一声あげて、清水の舞台から飛び降りるノリで新刊を買った。贅沢だが、40インチTVに比べれば、ささやかなものだ。
 小松左京先生の懐もちょっとうるおうだろう、功徳なり。
 ~
 と、小松左京さんのことをいろいろ思い出すと頭が40年以前にすっ飛んでしまうので、止めておく。過去イメージを再現するのは、私にとってものすごい疲労をもたらしてしまう。なんとなく、頭のCPUメーターがフル回転する気分になる。発熱暴走の危険がある。

 しかし、さわりぐらいは。
 私は小松左京、光瀬龍、眉村卓、豊田有恒さんたち、つまり日本SFの黎明期に遭遇した経験がある。MuBlogではあまり記事を出していないが、私の頭の中にはこの人達の作品が渦巻いている。

 日本沈没は、映画になるようだ。昔も観た。だから、ことしも観てみよう。

 木幡研に帰還してから昼寝した。よい日曜だった。

追伸
 明日は月曜日、いささか気の重いような楽しいような日課がある。朝の授業二つは助勤たちとやんややんやと踊りこなし、その後は、白玉ぜんざいパーティでもする。そのあと、痛い足をひきずっておとなりさん。これがちと、辛い。帰学後は某所で判子おし。そのあとが、イレギュラーで、気が重い。市内出張なんだなぁ。ちと気むずかしい会議、おお。木幡帰還はおそらく深夜の9時を過ぎるだろう。
 私は、明日、いつ、ものを考えられるのだろうか。
 辛い月曜日である。?

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2006年6月24日 (土)

ゼリー大福

 朝からぽてんりんことねころんで、天井を見ていました。
 身体は元気なのですが、なにかしら木幡研にいついてしまって、部屋のなかをぞりぞりと歩き回っておりました。

 三時になったころ。
 テーブルに呼ばれて、なにかとおもったら、ゼリー大福がありました。
 小さなプラスティックの器に、透明なゼリーがあって、スプーンでしゅこしゅこと上辺ゼリーをつついて吸い出し、やがて、大福餅につきあたりました。直径1センチ5ミリほどのプチ大福です。

 なんともびみょうな、良き味でした。
 ちなみに、そのお店は歩いて数分のところにある、和菓子屋さんです。
 雪見大福とかイチゴ大福の、超有名な所です。

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2006年6月20日 (火)

6月20日・祝祭日のハッカと黒蜜寒天

 今日は6月20(火)、空は曇っていたが、なにかしら遠く、個人的な祝祭の日だった。
 それで、気持の佳いことが二つあった。

 一つは、シャワーを使った後、ハッカ油の小さな瓶から注意深く少量を手のひらに落とし、これを背中や胸にぺたぺたとすり込んだ。しばらくして、バスタオルで全身をぬぐって、新しいシャツに着替えた。ハッカの匂いと、心地好い刺激に包まれた。
 薬局方・ハッカ油は使い方を間違わずに、ごく少量だと、実によろしい。

 もう一つは、「仙太郎」という和菓子屋が高島屋の地下にあって、そこの黒蜜寒天を食べることができた。口上の小さな紙には、「私共のつくる和菓子は、感性に訴えるよりも、まず機能を第一義に。」とあった。この機能とは、後ろを読むと、美しいよりも美味しい、体を養う正しい食べもの、と続く。
 それは半ば謙遜で、華美ではないが美しいし、実に美味しい和菓子である。

 ただ、私は下戸だが、いわゆる甘党そのものではない。
 結構ウニとか唐墨とか、いくらとかホヤとか、酒の肴も好きだし、酒もなめる程度ならあらゆる酒を美味しくいただく。体が痙攣し麻痺するから飲まないだけだ。
 で、その仙太郎というのは、四条から新京極に入ってすぐ右手の、河原町に出る路地北に、現在も店があるのかどうかはしらないが、大昔は父が通った店で、そのあたりにあった。真向かい南のさらに奥まったところに鶴鶴という蕎麦屋もあった。この二軒は父の常連の店だった。
 と、そういう記憶をひもといていくと甘酸っぱくて、悲しくもなるので、とどめておく。
 今にいたっても、父よ、父よとつぶやくことがある。
 これは世紀末の母の喪失とは異なった感情を伴っている。父は私が26の頃に世を去った、69歳。

 少し大振りのカップに、寒天と中に小豆が埋まっている。そこへ多量の黒蜜を流し込み、食した。
 まず黒蜜。実によい。上品なコクのある甘みだった。私は父の遺伝もあって、黒砂糖とか黒蜜に目がない。
 次に寒天。おそらく最上の寒天を使っていると、想像できる味わいである。というか、歯ごたえ。
 小豆の味はどう表現してよいのかわからない、私は意識を黒蜜に飛ばしてしまっていたから。
 お値段は、おそらく500円に近い。高額だが、はやりのケーキに比べると高くはない。

 と言うわけで、6月20日、蒲柳の質故に最良ではないが、心には明るさがぽっと灯った。
 よき祝祭日であった。

地図→新京極の路地

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2006年6月19日 (月)

純粋物語作法

 ここ数日、事情で横臥して天井をみていた。
 いつもほどよいころに事情がわいてきて、こうなる。
 ただ、宮仕えの愛しさというか、今日にかぎって葛野へでかけ、さらに午後はお隣さん大学へ出前講義に行った。お隣さんは120名ほどの受講生だが、ほろほろになって授業(書誌階層ということでウンチクかたむけた)を終えて黒板を消そうとしたら、前列の男子学生と、女子学生とが、「消しておきます」というてくれた。親切が身にしみた。

 いま、いつもなら白河夜船時間に起きあがってぼんやりしていた。
 プログラミング作法におけるRPG(ロールプレイングゲーム)についてである。最近は、宮仕えの寂しさで、気持をこめて夏の催し物(女子高生が大学見学に大挙してくる)用にアドベンチャーゲームを作っている。これはJavaだ。倶楽部のきれいどころをシェフ司書や野生司書や魔女司書や先生サマ司書になぞらえて、なかなか可愛らしくおもしろく、女子高生にも楽しめるように工夫してきた。司書適正占いアドベンチャーである。
 しかし、いま話そうとしているのはそれとは異なる。

 やはり、プログラミングシステムにおけるイベントドリブンメソッドによるRPGとは、これは純粋物語志向の、実に優れたモデルだったのではないか、という確信である。

 登場人物をここではオブジェクトとみなす。しかしなにもオブジェクトオリエンテッドなシステム作法の話ではなくて、まさしく人物を、対象とみなす客観視、抽象化のことである。
 どういうことかというと、登場人物・オブジェクトAやBや~nは、自律的に行動するという点においてオブジェクトである。そこに人工思考の組み込みとまでは言わない。このことは高度な、SFに近い知能システムが必要とされる。しかしそれは、現況、この環境、この野暮用満載余生では難しい。だから、自律しているかのように振る舞うと言う点に絞る。

 イベント、つまり事件(魔女が飛び出してくる、落とし穴に墜ちるなど)、行動、物語世界での物事の生起の引き金は、プレイヤーの介在と、そして乱数というサイコロにまかせる。せんじ詰めてもうすなら、サイコロがそのモデル世界を動かすエンジンになる。
[注:サイコロまかせでは統一感がなくなる。人は別種の幻視を求めている。それに対応するのは因果の鎖であろう。それには、ある時点でのイベント選択枠内の次期イベント要素の選定と、現イベントと次期イベント候補群の関連強度の設定が必要だろう。これで、擬似的な因果律をつくることができる]

 システムはある一定の確率で、引き金を引く。どのトリガーをひくかはサイコロまかせにする。引き金によって、対応するイベントが動き出す。イベントが次のイベントを引き起こし、つぎつぎと世界が回転していく。

 そのイベントの一つでもある登場人物という対象は1~nあるから、その相互に入り組んだ世界は現実以上に複雑になる。

 そこで。
 物語とは、何なのか。

 私はぼんやりしながら、さっきまで考え込んでいた。
 おそらく、プレイヤーがどのように介在するかによって、プレイヤーの深層イメージにある物語断片は異なった意識浮上をし、浮上した時点で明確な完結性をもった「物語ユニット」となる。その選ばれた物語ユニットが、次のイベントによって、次の物語ユニットを引き起こす。
 ここで物語ユニットとは、記憶断片の連想的な励起をもってまとまった、ある「物語の一こま」とする。
 これは様々なイベントの連鎖反応とかぶっている。

 なにがもうしたいかというと、物語とは、プレイヤーの介在時における選択と、イベントに反応する精神状態によって、各人に生まれてくる一連の、物語ユニットの連鎖であると、私は考えたのだ。

 もうすこしかみ砕いて言うと。
 一般に、作家によって与えられた所与の「物語」をともかく理解できるのは、各人の深層にある物語断片が、たまたまその「物語」に都合良く合致したばあい、その作品は、よい作品、おもしろい作品として、「物語」の自立をする。もしも、読者に一片の知識も、隠れた経験もなければ理解不能となる。
 理解できるのは、各人の世界内経験にある隠れた物語断片が、外の「物語」に照応して、励起した場合である。
 と、するわけだ。

 ここで始めて、その外の「物語」を、RPG世界に置き換えたとき、単純な事実に気がつく。つまり、RPG世界とは、サイコロによって生じるイベントと、プレイヤーの心に明確化した物語ユニットとの、相互干渉によって生じる新しい回転する世界だということだ。

 ……
 さらに話は続くのだが、疲れたので止めておく。
 答えは出ている。
 そういうRPG世界を構築する事自体が、秘められた物語断片を、明なる物語ユニットの連鎖にする根源であるということを。
 うむ。Delphi 万歳、PASCAL至高。

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2006年6月18日 (日)

NHK功名が辻(24)光秀死す

承前[MuBlog:NHK功名が辻(23)敵は本能寺

明智光秀最後の地・小栗栖付近地図

 今夜もそれなりに堪能しました。
 光秀が当時宇治か山科の小栗栖(現在は京都市伏見区小栗栖小阪町)で落ち武者狩りの百姓に刺し殺され、55歳で亡くなりました。信長よりも5~6歳年長の、有職故実を知った武将だったわけです。近江坂本の水城からの景色はよかったと想像します。
 あっけない最後とは思いますが、信長と差し違えたと考えれば、当時の55歳、九掛けとして現代なら60歳ほどでしょか。多分60~65歳の天命と思いました。

 細川に嫁いだ光秀の娘・タマ(後世のガラシャ夫人)さんは、随分苦しんだことと思います。
 ドラマでは逆賊明智の最後の血縁として、離縁どころか自害を強要され、ないし殺されかけたようですから、むごいものです。名家細川クラスになると、そこまで追いつめられるのでしょうか。そんなことなら、明智に味方すれば佳かったのに、と後世の私は思いました。細川はその後も細々と生き、熊本にはいり、昭和か平成に宰相まで出しましたが、はて、かくのごとく名家とは先祖代々のことを何百年たっても、言われるようで、なにかとご苦労なことと思いました。

 いえ、足利以来の名門細川、古今伝授で戦乱のさなかに朝廷まで動かした幽斎一家を貶すつもりは毛頭無く、なぜにあのとき細川藤孝(幽斎)、忠興父子は明智に味方しなかったのかという、IFの愚痴です。ドラマではさかんに明智光秀を逆賊と申しておりましたが、ほう、そんな儒教倫理があったんでしょうかいのう。朝廷を滅せんとした信長こそ、そういう文化概念を飛び抜けた真性の逆賊だったのですから、我が邦の道に従えば、朝敵を滅ぼした殊勲のひとこそ、光秀だった。恩ある光秀(光秀が藤孝を信長に紹介した)、光秀の娘を嫡子忠興の妻に迎えた細川家。なかなかに、その過去には様々な事情があったのでしょうぞ。

 さて。清洲城での、信長跡目評定。
 結局、信長の嫡孫三法師を引き立てた秀吉の勝利となった。そして一豊は三千石加増、長浜城の城番となりかけたが、これは柴田勝家の斡旋で信長の三男が入城することになった、はず。いやしかし、その詳細はそれぞれ来週以降あって、やがて山内一豊は長浜城主になる。

 今夜。
 光秀が小栗栖の竹藪で死なず、後の徳川幕府、黒衣の宰相・天海大僧正になったという、以前からの説を思い浮かべながら、見終わりました。大河ドラマも例年梅雨明けころからノリがでてきて、なんとなく今夏、今秋が楽しみです。

追伸
 随分以前のドラマで、現在細川幽斎役の近藤正臣(ファンなんです(笑))が、光秀役でした。なつかしいです。

参考
 明智光秀と天海/井上友幸

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2006年6月14日 (水)

六月の木幡ガーデン:紫陽花

承前[MuBlog:木幡花々平成十七年夏8月

 木幡ガーデンに、花火を見ました。

紫陽花火

紫陽花火

紫陽花火二景

紫陽花火二景

紫陽花

紫陽花

 木幡ガーデンに深海とジャングルと、里を見つけました。

珊瑚礁

珊瑚礁

水中花

水中花

熱帯のオブジェ

熱帯のオブジェ

ジャングル

ジャングル

夕暮れの薔薇

夕暮れの薔薇

里の初夏

里の初夏

里のプチトマト

里のプチトマト

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2006年6月13日 (火)

立原道造の別れ

 夕方葛野研で、疲れてぼんやりしていると、目に立原道造の特集がはいってきた。
 中をのぞいてみた。

---それが、私たちの別れであつた。……
  Ⅱ
 ある夏の日であつた。
 そのとき私ははじめて、私のなかに、
 しづかに集つて来て熟する憧憬の泉が脈打つのをきいた、生まれてはじめて、
 私の外に、花はにほひ 風はそよぎ 白い昼が訪れた
 私はおまへをそのとき見た ふしぎな未来につつまれて
 まつくろな瞳でおまへは私をそのとき見つめたのを
 ~(略)

 詩なんだと思った。気に入った言葉がいくつもあった。
 「憧憬の泉が脈打つ」
 しょうけいとも、どうけいとも読む漢字だが、私は以前からどうけいと読んでいた。なにかにあこがれる気持ちなんだろう。泉があるようだ。私にあったのかどうか、あったのだろう。そしてあこがれる先は、いつもぼんやりしていて、それが人か物か未来なのか、判然とはしなかった。いまも。
 花が匂い、風がそよぎ、白い昼がまわりにあるというイメージは、私にはずっと明るすぎる情景だから、ここは道造さんとちがって、黒い夜が訪れた方が、気持ちが落ち着く。
 「ふしぎな未来につつまれて」
 これは、これをここにはさんだ道造さんの気持ちがよくわかる。分かるのだが、それを説明するとなると、なんとも言いようがない。未来につつまれて、これが主だ。そして、それがふしぎな未来なのだ。これが詩なのだろう。
 そして。
 私は男性だが、女性から見つめられることはあまりない。少年期はたしかにあった。真っ黒な大きな瞳で見つめられることを想像すると、今でも心がさわぎ、脈打つ。生きている証なのだろう。

 それにしても、詩。
 ことばをこんなに上手に繰り出して、その情景をくっきりさせる詩語。と思ったのだが、ここに使われている言葉に何一つむつかしいものも、そして斬新な単語もない。ごく普通の言葉がつらなって、なぜこんなに気持ちを惹きつけるのだろう。だから、詩。

 現実と詩世界を比べるのは野暮な話だが、黒い瞳というものを、どんなイメージよりも鮮烈に思い浮かべることができるのに、それを現実の中にもとめてみると、どこにもそんな瞳はなかった。
 そうしてみると、詩とは、此の世にないものを、しっかりと作り出すほどに、強烈な力をもった様式なのだろう。

 詩とは、すばらしいと思った、梅雨の葛野の夕べでした。

参考
 立原道造(国文学解釈と鑑賞、別冊)平成13年

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2006年6月11日 (日)

NHK功名が辻(23)敵は本能寺

承前[MuBlog:NHK功名が辻(22)明智光秀と愛宕山]

元・本能寺址(小川通蛸薬師)地図

 今夜は「本能寺の変」だった。
 見応えがあった。
 信長が光秀の謀反を聞いて「是非に及ばず」と言ったのを、だれが耳にしたかはしらねども、そのような死だったのだろう。

 本能寺のことだが、現在は河原町三条の少し北にある。秀吉が移したようだ。ただ、現在の本能寺でも、なんとなく光秀謀反の頃が偲ばれる。幻視かもしれないが、信長と森欄丸が仁王立ちしているイメージがわく。
 正面は御池通だが、河原町通りの御池と三条の間、西側に小さな通用口があって、なんとなく秘密めいた寺だ。信長は死んだ。そして信長の息子も、近くの二条城で攻められ死んだ。親子が近くにいたのは、良いような悪いような。昔の事だ。

 秀吉の大返しについては、一日に軍が20キロだったかな、走ったようだ。軍装は重いし、輜重もあったろうから、驚異的だったのだろう。ドラマでは、毛利への知らせの間諜に山内一豊がでくわして、秘密文書を得たようだが、どうなんだろう。当時の秀吉は、京都および信長が孤立していることを知っていたように思える。
 大将の行動を知らない将軍は、当時いたのか?、どうだったのだろう?

 山崎の合戦、いまでも山崎を走ると、イメージがわく。天下分け目の天王山とか、光秀の三日天下とか、あるいは洞ヶ峠の筒井さんとか、子どものころにすでに知っていた。500年近くたっても、この戦いは、人のこころに残った戦だったのだろう。役者、ドラマツルギーがそろいすぎているな。

 宇治の小栗栖とは言っても、はて当地では、そこは六地蔵近辺だから、宇治という感じはしない。ただ、天智天皇が靴をのこして死んだのも宇治と言われているので、当時の宇治とは広大な領域を指していたのかも知れないな。

 長浜城に残るネネや千代、これは大変なことだ。光秀ほどの武将なら、手抜かり無く安土、長浜、おさえどころは押さえたはずだ。千代がはたしてこれほどの働きをしたのかどうか、私はまだ確証を得ていないが、ドラマとして出色のできばえと思った。これでこそ、千代の緻密な、洞察力が、ぱっと花咲く。

 安土城は残念だった。その炎上は実に無念だった。しかし、しかたあるまい。信長流のセリフなら「是非もなし」と、なる。

 細川家、ガラシャ、この細川の動き。これは足利以来の名門だから、光秀の娘玉を嫁にしていても、動きはむつかしかったろう。しかし、なぜここで光秀を見限ったのか。父子が秀吉、光秀に分離して味方する案も当然あったろう。
 ただ、ここで父を見捨てられたガラシャの気持ちは、私には悲しい。

 明智光秀と坂本と徳川幕府とくると、三題噺じみてくる。要するに光秀は死ななかった。徳川の闇の軍師になって、日光に葬られた、……。ああ、歴史っておもしろすぎるな。

 千代と一豊のはたらき。
 本当は、この夫婦が、光秀クーデターに、どのように動いたかをしっかり私も知らなければならぬのだが。
 ドラマとしては、上手な処理だったと思う。
 うむ。また来週だね。

追伸
 1996年『信長』秋山駿、これを感動のうちに読んだ覚えがある。世評でも、高い評価を得た。
 無論、信長びいきが強すぎるという反論もあるが、まあ、信長は昔の人のことだから、よいでしょう。
 意外にも、『邪馬台国はどこですか』では、信長を徹底的に自殺志願の精神病理対象として扱っている。
 前者も、後者もおもしろい。
 後者で、私は目から鱗がおちた。
 さて、どっちなんや、と問うなかれ。
 昔のことです。

再伸
 今回の信長役、舘さんという役者でしょうか。絶品だと思いました。信長の狂気、甲高い声、あますところなく再現したと思いました(信長にお会いしたこともないけどね)。

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日曜の雑記帳

 週末になると、通常睡眠以外に、約3時間程度熟睡すると翌週が楽になる。今日もそうしようと思ったが、なにか思いめぐらすことが多々あって、先程一時間ほど横になったが眠りにつかない。一種の不眠症にかかったようだ(笑)。
 おもいたって起きあがり、気になる種々を記しておこうと思った。

国銅
 最近文庫上下の『国銅』という小説を手にした。大仏造営時代の物語で、作者は帚木蓬生さんだ。未読だが、あたりは良さそうだ。ところで、たしかに帚木さんのこれまでの名作はいくつか読んだのだが、いまなぜ国銅かというと、理由は二つあった。
 一つは、ずっと聖武天皇のことが気になっていたこと。最近もNHKの歴史物で解説があったので録画した。これは古代史ものとして、いつかMuBlogに記事を掲載したい。
 もう一つは、今をさる15年、私は友人に「大仏開眼」をテーマにした物語を語る、ないしゲームにするという約束をした。それが果たせていない。
 とりあえず、TownsGEARという当時のオーサリングシステムで、プロトタイプはつくったはずなのだが、~。思い出せない。
 後者は、最近のプログラミングシステム教本で、さまざまなシミュレーションゲーム作法があるので、比較的簡単に復元、あるいは原型を作れるはずだ。言語は、Delphi、VisualC、Javaといろいろあるが、どれも本質的なアルゴリズムは同じなので、難しくはない。
 ただ。
 ただ、湯水のような時間をとるのは、目に見えている。それで、悩んで、眠られなくなった、今日の午後。

探検
 今度、琵琶湖一泊にいくつもりだ。それは、まずMuBlogに掲載する予定。以前から気になっていた所へいくので、感慨ひとしお。そのことと、長編第四作目のテーマを上手に組み合わせて、なにかしら次のステップに足をかけたい。
 昔、三島由紀夫が創作ノートかなにかに、『豊饒の海』全四巻を完成したなら、その先が見えない、もう何も書くことが無くなる、と漏らしていた。そして事実、散った。
 最近、森博嗣がblogで「小説を書いているときは、とにかく、その行為から早く脱出したい、という気持ちが強い。だから、最後まで書けたときは、少しだけ『ああ、終わったなあ』と思う。機関車を作っているときに、それがまったくないのは、誰かのために作っているのでもないし、また作る行為を終わらせたくないからだろう。」(MLA:2006年06月07日(水曜日)【HR】 完成とは) と、書いていた。
 私は三島の言うことも、森の言うこともそれぞれに、納得できる。
 だから、私は森のいう機関車作りのように、物語を作っていく。三島が強いられて書いていたとは思わないが、すでに三島由紀夫の生き方を私は20代前半に見たのだから、作品の完成の後が空だけにならないようにすればよい。
 次を書けばよい。
 森の機関車模型のように、永遠に未完のまま、書くことにしよう、次から次へと。それで、琵琶湖行きが第四巻のコアになることを願っている。もちろん楽しみに行くわけであって、刻苦呻吟して調査旅行するわけではない。
 ちなみに第三巻は草稿レベルで完成している。
 そう言う意味では、まだまだ行きたい所はたくさんある。全部楽しみにしている。中国地方にあるピラミッドなんかはいつ行けるだろうか。広島か岡山か島根なのか、どこか知らない。
 書き出すととまらなくなるので、まあ、いっぱいある。
 探検。
 なにかしら、心が躍る。

システム
 なにかしら、こまったことに、時間があくとDelphi やらJavaを起動させてしまっている。そのうち、VisualCも買うことでしょう。いろいろお手本がたくさんあるから、MS関係は気楽とも言える。
 それにしても、~冷や水とはいうが、ほどほどにすれば佳かろう。と、おもいつつ、心身ともにディスプレイに溶け込んでしまっている我が身に気がつく。
 そのうち、目と肩をこわして~(笑い事ではない。気をつけよう)

読書
 ちょっと、図書・活字に飽きてきた。人様の難解な評論や歴史論や小説を読むよりは、自製のものに塩振りかけたり、胡椒をかけて、味付け佳くして読む方が、今は楽しい。


 というわけで雑記帳をしるしていたら、眠くなってきた。
 音楽のことはあまり言わないが、実は、うむ実は、私はベートーベンが好きなのだ。モーツアルトよりもベートーベンが好きなのは、きっと、ハ短調男なんだと自覚している。しかし、マニアではないので、音楽のことはめったに書けない。

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2006年6月10日 (土)

脳年齢検査を遊んでみたら

 近頃話題の脳年齢検査を一度やってみることにした。
 東北大のセンセが関係している雰囲気のアドレスは、ニンテンドーのなにかを使うように見えたので、諦めた。

1.脳年齢鑑定

あなたの脳は現在31 歳です。
あなたの脳は全盛期とはいえませんが、かなり活発に働いています。

実際の年齢とは-29 歳差があります。
ということは、実際の年齢と比べてあなたの脳は若いです。
周りの人よりも考えが柔軟であったり、革新的であったりしませんか?
しかし、それも善し悪しで、考え方が甘かったり、夢のような事ばかり
考えている可能性があります。

あなたの脳機能が停止するまでの年数: -22 年です。つまり、あなたの脳はすでに機能が停止しています。

 どうにも、めちゃくちゃ若いようだ。しかし最後の段がおかしい。-22年で脳が停止しているというのがわかりにくい。お前はもう死んでおる、といわれたような。要するに、ちと当該スポンサーに投資せよというのかな。(笑)
 投資すると、社会相応の脳が老ける教育を授かるのだろうか、社会訓練とかもうしてなぁ。

 (実は、本当は、最初本心で入力したら、ああははは、17歳とでた。これは、いくら何でも、馬鹿っぽい。で、やりなおして、普通の社会人をよそおって、やっと31歳になれた)

2.あなたの脳は何歳
 35歳だった。
 これは、自分の年齢も入れずにチェックするのが、わかりにくい。絶対脳年齢なのかな?

 以上、いずれも実年齢に比べて若いようだ。
 事情は、毎日若いもんと一緒にいるからだろう。成長がどっかで止まったようだ(笑)。
 葛野研と木幡研以外、ほとんど一歩もでない、まるで無菌状態だからかもしれない。
 人呼んで、浮世離れの苦労知らず、とな。
 (ふん、人のことも分からずに、勝手に言いなさい)
 あ、そうだ。
 MuBlogやJavaゲーム作りに、入れ込んでいるのが、脳若さの秘密。

追伸
 多分実情は、実年齢相当だと思う。私はキーボードに触れたり、ディスプレイを注視すると、活性化するようなので、以上の診断は、私の場合にはあてはまらない。
 平静は、ごく自然でまともな、社会人ですよ。
 ただし、こういうことをして、記事を書くのが、若さというか、幼稚さのあかしでしょうかぁ~。

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枝魯枝魯(ぎろぎろ)の一夜

Mugirogiroimg_1161
 昨夜教室秘書さん達の歓送迎会があった。場所は五条木屋町近くの「枝魯枝魯ひとしな」と言って、ぎろぎろ、と読むらしい。五条に近い西木屋町。もらった地図(掲載写真は正確です)には高瀬川の東に位置していたので、随分迷った。京都の古い家をリフォームした小料理屋だった。客スジは、外国の若いカップルが数組あって、私がいつもいくような店とは違っていた。

 一階は調理場が真ん中にあって、その周りをぐるりとカウンターがしつらえてあった。言ったように、欧米系の若者が数組いて、あとはアジア・日本系。調理関係者はほとんど若い男性だった。板前たちは、みなよい男ぶりで、笑顔がよかった。

 急な階段、これは下から見られるとちと恥ずかしい、を昇るとそこに一間あって、テーブル席だった。
 ミステリ風に当夜の席を記しておく。

  若い女性心理学者      ←→  女性スポーツ学者 
  最年長の教育学者♂    ←→  中国文学教授♂
  辞めた若い秘書       ←→  現役若い秘書 
  若い新人秘書        ←→  現役若い古参秘書 
  キルケゴール・哲学者♂  ←→ 私♂
  香道の仏教学者♂     ←→  空席(仏文学者予定♂)

 で、ここで一夜の惨劇があったわけではない。
 つぎつぎと料理が運ばれてきて、そのひとつひとつを、景気のよさそうなお兄さんや、髭の貫禄あるお兄さんが、丁寧に解説してくれた。たとえば、大根おろしのうえに鮎のキモを少量のせたものとか、三角形の大きいグラスに暖かい鱧おろし梅肉添え。

 で、いつものように仏頂面した私はひたすら柚のジュースを飲んでいた。
 なにかわからないが、一番緊張するのが宴席なのだ。
 ところが、当夜は結局、いつのまにか随分話し込んだ。

 お相手は、宗教哲学教授と、仏教学教授だった。話の内容は「死」だった。詳細は省くが、いつも「死とは何であったのか」という言葉が私の気持ちの中にある。その解に近づくいくつかのヒントをいただいた。

 死とは、人生最後の、大仕事らしい。
 死に対しては、悲観論と楽観論とが、常に、交互にある。
 逝く人よ、逝く人よ、彼岸に向かい川を渡るひとよ、幸いあれ。
 今までは、私も送る立場だった。これからは送られる立場に近づいていく。
 死はだれにも訪れ、誰にも辛いことでもあり、楽なことでもある。

 私は、生き抜こう、死の直前まで、一時間一時間を慈しもうと思った。
 執着ではなく、時々刻々を愛し、大切に生きることを、気持ちの中に込めた。
 だから、このMuBlogもあの物語も、講義も、研究も、倶楽部も、食事も、こころして楽しんでいこう。

追伸
 歓送迎会で、にぎわっている最中に、長いテーブルの端で、ロートル三人が延々と「死談義」をするなんて、実に愉快な一夜だった。私の仏頂面は溶けてなくなっていた。
 そして、昨夜もよう眠れた。

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2006年6月 8日 (木)

時間の進み具合

 今週はものすごいスピードで時間がすぎてしまって、もう木曜日から金曜日になりかけになってしまった。あと十分程度で、週末。

 最近倶楽部の寄り合いで、年齢による時間感覚の違いを、倶楽部員達が話していた。若いほど、時間がゆっくり過ぎるという話だった。事情や、理由はわからないが、確かにそうだと思った。
 極早朝に目覚めて、葛野の研究室について、珈琲を一杯飲むと8:50の始業時になる。葛野到着は、大抵七時前後だというのに。

 すぐに日曜の夜になってNHK大河ドラマを見終わったとおもったとたんに、月曜の午後遅く、とぼとぼとお隣さん大学から葛野研にもどる自分に気がつく。

 この三月に、なつかしい先年度の倶楽部員達、そして現員と一緒に伏見の黄桜で送別会を行った。その時痛切に思ったのは、かつていろんな人達と伏見でお別れしてきた、そして来年三月は、今送る人達が送られる席に着く。あっというまに一年間が過ぎていく、……。

 何事も、過ぎていく。
 しかもその速度が毎年ますます速くなっていく。
 それが自然な姿なのか、とふと思った。
 そろそろ金曜になる。

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2006年6月 5日 (月)

二十四万アクセス

承前 二十三万アクセス

 なんとなく、しらぬまに24万アクセスになっておりました。
 しかし、じっくり先週のデータをながめても、突発的な傾向も見えません。
 MuBlogの標榜してきた古代史や、読書関係が少ないのは、新たな傾向ともいえましょうが。
 では、ちょっといつものように、記録して感想を記しておきます。

(1)本日記録
 対象日: 2006年06月05日(月)
 観察時間: 10:14
 合計数:58(本日)
 累計アクセス数: 240005
 1日あたりの平均: 296.30

 記事数: 751 | コメント数: 3202 | トラックバック数: 517 | ライター数: 1

 現在利用中のプラン: プロ
 利用可能なディスク総容量: 10,000 メガバイト
 利用中のディスク容量: 261.859 メガバイト (2.62%)
 ココログの利用開始月: 2004年3月

(2)先週:検索ワードランキング(4件以上のみ)
対象日: 2006年05月29日(月)~ 2006年06月04日(日)
合計数:1882

順位 検索ワード 件数
1 じぶり 67
2 京都 35
3 一ノ谷の戦い 27
4 ロトカの法則 18
  12 ブラッドフォードの法則 11
5 地図 18
6 功名が辻 16
7 ハードディスク 15
  8 ハードディスク交換 14
  10 ノート 12
  16 交換 9
  36 ノートパソコン 5
  57 メビウス 4
  59 vaio 4
9 写真 13
11 竹中半兵衛 11
13 黄金十両 10
14 ダヴィンチコード 9
  24 ダヴィンチ 8
  50 ダヴィンチ・コード 4
  61 ダビンチコード 4
15 登喜和 9
  60 ステーキ 4
  62 ときわ 4
17 新撰組 9
18 ブログ 8
19 伏見 8
20 森正 8
21 常照皇寺 8
22 航空写真 8
23 ヒストリアン 8
25 前方後円墳 7
26 そうめん 7
27 小説 6
28 聖徳太子 6
29 十二国記 6
30 相関図 6
31 奈良 6
32 宇治平等院 5
33 森博嗣 5
34 小りん 5
35 佐野藤右衛門 5
37 NHK 5
38 NHK 5
39 京都市 5
40 河原町 5
41 千代 5
42 修理 4
43 平城京 4
44 分解 4
45 周山 4
46 うぶめのなつ 4
47 方法 4
48 ND-2500A 4
  66 Powermacg5 4
49 十両 4
51 東華菜館 4
52 ワイン 4
53 スタンプス 4
54 義経 4
55 黄桜 4
56 小川珈琲 4
58 金魚 4
63 大阪 4
64 京北 4
65 一豊 4
67 三条大橋 4
68 ミスター 4

 ざっとみたかぎり、NHK大河ドラマ、ノートパソコンのハードディスク修理、ダ・ヴィンチ・コ-ド(映画)がめにつきます。
 4 ロトカの法則 18+12 ブラッドフォードの法則 11 は先週限りの特例。
 京都の北の登喜和が人気あるようで、おもしろい。
 ノートパソコンが長く続くのは、困っている方が多いのだろう。現状マシンはメーカとか販売店の保証もあるのでよかろうが、古いのになると手が付けられなくなるのかも知れない。お困りの節には、ブラック・Muにどうぞ。ただし保険がきかないので、修理費の方が最新マシンよりも高額になるのかなぁ(笑)。{内容の秘密厳守

(3)先週:検索フレーズランキング( 3件以上のみ)
対象日: 2006年05月29日(月)~ 2006年06月04日(日)
合計数:594

順位 検索ワード 件数
1 ダヴィンチコード  相関図 3
2 ミスター  スタンプス  ワイン  ガーデン 3
3 εに誓って  誤植 3
4 鹿畑町  建築物 3
5 ND-2500A  imac 3
6 京都  軍装 3
7 森正  そうめん 3

 ミスタースタンプスワインガーデン、これほどのお店が六本木にあるというのに、わざわざ京都のMuBlogまで来られるというのは、なるほど「知る人ぞ、知る」のお店なのかもしれない。東京はお店がたくさんありすぎて、目利きも細分化してしまっておるのでしょう。
 ε(イプシロン)と誤植については、はて?そんな記事を書いた覚えはまったくないのですが、よく調べてみると、画面サイドバーに記事名としてεがあって、記事として某書に関する「誤植叙述トリック」があるので、検索エンジンが間違って、来訪があるのだと思いました。検索エンジンの持つ、AND機能はいささかおおざっぱすぎますねぇ。
 京都と軍装は、たしかに寺町通り四条から少し北にあります。ピストルの模型や迷彩服がありました。興味はあるのですが、仕事柄、若い人に誤解を与えてはならないので、我慢しとります(あのセンセなぁ、軍国主義やで、こわー)。人はなんとでも人のことをいうもんですから、まあ、李下に冠ですな。

(4)週:曜日別
対象日: 2006年05月29日(月)~ 2006年06月04日(日)
合計数:1995

曜日 アクセス数
MON 391
TUE 301
WED 317
THR 212
FRI 236
SAT 215
SUN 323

 たしかに土曜日はまたしても最低に近いアクセスです。月曜は多いですね。しかし実は今週は、月曜といえども200程度でしたなぁ。

(5)先週:記事ごとランキング(1%以上のみ)
対象日: 2006年05月29日(月)~ 2006年06月04日(日)
合計数:1995

順位 URL パーセント
1 http://asajihara.air-nifty.com/mu/ 12%
2 http://asajihara.air-nifty.com/ 10%
3 http://asajihara.air-nifty.com/mu/2004/05/post_6.html 4%
   → じぶり美術館
4 http://asajihara.air-nifty.com/mu/cat573003/index.html 2%
5 http://asajihara.air-nifty.com/mu/2006/05/nhk_6373.html 2%
   → 功名が辻・黄金十両の馬
6 http://asajihara.air-nifty.com/mu/2005/07/post_388f.html 1%
   → 義経・一ノ谷の戦い
7 http://asajihara.air-nifty.com/mu/2006/01/post_e704.html 1%
   → ノートパソコン修理:SONY VAIO
8 http://asajihara.air-nifty.com/mu/2006/06/post_0a16.html 1%
   → 詩仙堂と猫町
9 http://asajihara.air-nifty.com/mu/2006/05/__4bef.html 1%
   → ダ・ヴィンチ・コード(映画)
10 http://asajihara.air-nifty.com/mu/2004/07/post_2.html 1%
11 http://asajihara.air-nifty.com/mu/2006/02/prius_62b1.html 1%
   → ノートパソコン修理:日立 Prius

 ジブリへのアクセスは考えれば考えるほど分からなくなる。たしかにJoさんのおもしろいコメントもあるのだが、~(笑)
 NHK大河ドラマが二つあり、昨年の義経・一ノ谷は、なにか例外とも思った。はて。
 ノートパソコン修理は、Vaio、Prius、メビウスと順調で、最近のMuBlogはこのハードディスク交換でにぎわっている。私も富士通のを買ったが、当面修理をするつもりはないです。
 詩仙堂と猫町は、最近の記事としては丁寧な仕上がりだし、詩仙堂はなにかと有名なのでアクセスが増えたんだと思いました。
 ダビンチコードは、2004年頃の読書録で、軒並みそれだけで単純アクセスが一週間に100を越えた時に比べると今回の映画記事は少ないですね。一巡して、めずらしいことではなくなったのでしょう。

 以上、これを見ていると、お得意の古代史とか読書がまったくないです。替わりにパソコン修理記事は、ちとおもしろい。NHKは記事数も毎週なので、こういうもんでしょう。
 以前からの考え、平安京今昔は、なんとかしたいですね。江戸時代の詩仙堂も、興味を持ってくれるのだから。

(6)感想
 傾向がこれまでと異なり、やけにノートパソコン修理という実用記事への来訪が多いです。なんか、こう、私もパソコン・パーツ・ジャンク屋でも弟子入りして、ゆくゆくは余生にジャンクショップでも作りたいです。それこそブラックジャック先生のようにピノコ、あるいはフランケンシュタインのように、そこら中から古いパーツを寄せ集めて、此の世に一品のマシンをつくりたいような気分。

 ところで、今回の23万→24万アクセスは、丁度一ヶ月、31日でした。これを日割りすると、
   一日あたり:323アクセスほどでしょうか。
   一週あたり:2261アクセスになります。

 さて、別の観点から、キーワード検索をされる一見さんがどのくらいかを想像してみました。
 ココログの統計処理がよく分からないのですが、おおざっぱに仮に、1キーワード一回で1アクセスと仮定してみました。すると。

 a.先週のキーワードアクセス 1882回((2)から)
 b.先週の総アクセス 1995回((4)から)
 a/bx100→94%

 となり、94%が一見さんというか、キーワード検索の結果MuBlogに来られたひとになりますが?
 これは、おかしい。
 はて、どこが考え方としておかしいのか?
 宿題ですね。

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2006年6月 4日 (日)

NHK功名が辻(22)明智光秀と愛宕山

承前[MuBlog:黄金十両の馬

愛宕山(京都市右京区嵯峨愛宕町)地図 航空写真

愛宕山写真集(MuBlog)
  2004.11.17 嵐山・愛宕山
  2004.12.17 葛野の早朝
  2005.08.05 嵐山暮景
  2005.08.24 宇治川鵜飼い船・愛宕山

 今夜は急ぎ愛宕山の写真や地図を整えて、いざ感想をしるそうとするだんになって、疲れた(笑)。
 信長は、関白・太政大臣ないし征夷大将軍を朝廷から示された、と光秀にもらした。しかし断ることを告げ、朝廷は無用と言った。
 光秀は徳川家康を安土城で接待し、信長の勘気に触れた。丹波・近江を召し上げられて、出雲・石見を切り取りごめんと、言われた。さらに、秀吉援軍として備中派遣を命じられた。

 光秀は京都の愛宕山に登り、なにごとか祈念した。
 翌日の連歌のあつまりで、「時はいま、雨(天)が下しる、五月哉」と残した。

 さて私にとって、愛宕山は故郷の山である。幼稚園から24歳までこのあたりで育ったのだから、故郷と言ってもよかろう。今も、愛宕山が間近に見える葛野で職に就いている。
 というわけで、今夜の「功名が辻」、語り出せば長くなるので、このくらいにしておく。

 来週の楽しみは、光秀・信長の本能寺よりも、山内一豊と千代とが、この修羅場をどのように生き抜くのか、そこが見てみたい。

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2006年6月 3日 (土)

詩仙堂と猫町:私の京都

詩仙堂(京都市左京区一乗寺門口町)地図
  京阪出町柳駅から叡山電鉄に乗り換えて、一乗寺下車。真東へ約800m、徒歩15分以内。
猫町(京都市左京区一乗寺築田町100-5)詳細地図

詩仙堂・小有洞の門 (しょうゆうどう)

詩仙堂・小有洞の門 (しょうゆうどう)
 詩仙堂は寛永18(1641)年に、元徳川直臣・石川丈山が凸凹窠(おうとつか)という名称で建てた。「詩仙」はその凸凹窠の一間を指していた。でこぼこの斜面に上手に家屋を配置したのだろう。そして丈山は十の見立てを行い、この入口の門は小有洞と名付けた。由来はあるのだろうが、知らない。確かに洞窟の雰囲気はあった。当日は晴れていたが、天候の悪い日には実感できると想像した。
 なおモデルは、葛野図書倶楽部2001の助勤を勤めてくれている人達で、福岡や島根や岡山から、この四年間葛野の地で遊学している。今後なにかと出演を依頼することになるだろう。

詩仙堂・嘯月楼 (しょうげつろう)

詩仙堂・嘯月楼 (しょうげつろう)
 詩仙堂は『幻の古代王朝:京都篇』で主要なキーの一つになっている。20代のころから、嘯月楼 (しょうげつろう)が気になっていたからだろう。登った記憶はないから、京都を遠望したわけではない。しかし、こういう施設が59歳だった丈山の隠居所にあるのは、どう考えても腑に落ちない。私は伊賀の忍者屋敷をすぐに連想する。徳川の三代家光時代であり、二年前には島原の乱、原城がやっと陥落した「戦時体制」の匂う時代である。家光と禁裏との関係も相当に複雑だったはず。

詩仙の部屋から庭を見た

詩仙の部屋から庭を見た
 細い柱が屋上の楼を支えている。庭は丁寧に整えてあり、閉塞感は全くない。しかし、目を上げるとそこは深山のおもむきがある。内障子も襖も取り払われている。
 周り廊下が気持よい。
 父が昔自宅を設計していたとき、私はいつもこの、内障子と周り廊下とそして庭を夢見ていた。贅沢にも廊下は一間幅がよい、と父に言った記憶がある。中学か高校生の頃だった。
 私は何故かしら、こういう家屋、結構に深い愛着があるようだ。気取って言えば、自然と人工とが融け合ったような空間に、私は惹かれてしまう。明確な仕切がない。それがよい。

庭から詩仙堂を観た

庭から詩仙堂を観た
 詩仙堂は家屋も庭も広い。ここに石川丈山が扶持もなく59歳から30年間住まいしていたのは、なにもなければ奇蹟に近い。
 それと、隠棲した文人の住まいとしては艶がある。反照のために武骨さを探した。石川丈山は旗本だったのだから、なにかあるはずだ。楼と、そして大きな台所があった。まるで近衆を幾人も側に置き養うほどの豪華さだった。もちろん台所は、後世の寺への変化が原因かもしれない。
 それにしても、全体に艶々としていた。わけが分からなかった。

鹿おどし (ししおどし)

鹿おどし (ししおどし)
 ときどきカタンと高い音がする。これを知ったのは、高校時代の日本史だったはず。だから、詩仙堂=鹿おどし、と私の記憶には収まっている。音については、この鹿おどしとともに、水琴窟を並行して思い出す。これは同時代の小堀遠州が考案したらしい。石川丈山も小堀遠州も武士だった。なにかしら、静粛の中の「音」に気持を惹かれたのかも知れない。

「さつき」と茅葺き

「さつき」と茅葺き屋根
 重ねて、庭は広い。しかも立つ位置によっては迷路じみている。それが、実に丁寧に整えられている。これだけ広く複雑な庭を維持するのは、素人目にも大変なことだと感じた。
 こういった結構の多くは、足利義政の趣味が色濃く残っているのだろうか。私の印象では、足利義政の美の探求に比べて、もう少し艶やかな生活臭があるように思えた。一見「ご隠居さん」である。
 さて、やはり日本風の庭には茅葺きが似合っている。
 そこに現代のモデルを二名配した。どうだろう(笑)。

池と鯉

池と鯉
 来る季節によっては、あやめかさつきかかきつばたか、知らねど、さきほこっているはずだ。手をさしのべている池の鯉は、実に人なつこい。「こい、こい」と呼びかけると離れなくなったようだ。別の写真では、鯉が口を開けているのが映っていた。

竹林

竹林
 今回詩仙堂探訪の終わりには、人影もない竹林を配した。天候が佳すぎて陰影がなくなったが、私はこの風景に堪能した。さつきとモミジに包まれた庭に、竹林があることに驚いた。しかも奥が深く見えた。植物の背の高さを上手に配置して、なにかしっくりする絵画をそこに描いていた。石川丈山は400年も昔の人だ。その人の作庭構想が現代まで直接残っているとは思わないが、長い歴史の中で、詩仙堂全体の構造が、こういう絵をいまも造り出しているのだろう。

猫町の六景

猫町の六景
 喉が渇いた。猫町は、詩仙堂からだと自動車で数分の所にある。近所だから寄ってみた。京都のカフェでは有名な店だが、奥まった所なので界隈以外の人は訪ねにくい。撮影に疲れたモデルさん達には申し訳なかったが、自動車を近所の大学前の駐車場において、数分歩いてもらった。
 私はダッチアイス珈琲をブラックで飲んだ。よかった。他には、オムライスを四分の一、食べた。コクがあって工夫のある味わいだ。卵がとろけそうだったのが印象深い。

猫町の図書コーナー

猫町の図書コーナー
 この写真がデジカメで撮った最後だった。電池切れを起こしたのだ。だから、先の六景はすべで携帯電話カメラによるものだ。どんな場合にも、私も同行したモデルさんたちも、図書とか図書館には気持が向く。だから撮った、最後の一枚。
 萩原朔太郎から「猫町」を引用してあるが、気分の上では、銀河鉄道よりも朔太郎が好みなので、名前だけで好きになるカフェだ。私の研究室も、青猫とか月吠(ああ、奈良市にそんな店があった)に改名したくなる。
 オムライスは無理だが、葛菓子とかなら常時作っておいておいてもよい、と思った。

参考サイト
  京都・心の都へ・詩仙堂
  京都のカフェ~猫町
  カフェ京都・猫町

参考図書
  石川丈山忍者説の図書があります。後日紹介します(笑)

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2006年6月 2日 (金)

千年の帝国・ビザンチン/NHK(TV)

千年の帝国 ビザンチン~砂漠の十字架に秘められた謎~
  2006年6月2日(金) 午後10時~10時49分・総合テレビ

予備知識 
 コンスタンチノープル=現イスタンブール、を中心として千年帝國ビザンチンがあった。これはオスマントルコに破壊されたが、文化の継承はあった。オスマントルコ帝国は20世紀まで生きながらえた。

 歴史の概略では、現在のトルコのイスタンブール(旧都ビザンチン帝国首都コンスタンチノープル)を中心にして次の様な変遷がある。

  ビザンチン帝国(4世紀にローマ帝国がコンスタンチノープルに遷都)→
  オスマン帝国(15世紀にメフメト2世がコンスタンチノープルを陥落させて、建国)→
  トルコ共和国(20世紀)

 日本に生まれ育っていると世界の歴史をとりちがえてしまうことがある。
 その一つが、東欧への無知である。
 ローマ帝国の後継者でもあるビザンチン帝国がコンスタンチノープルを首都として栄えた千年キリスト教帝国であり、そこを滅ぼしたイスラム教徒が同じ場所をイスタンブールと改名して20世紀まで栄えた。現代のトルコである。
 こういう東欧の歴史は、現代のパクス・アメリカーナ(アメリカの平和)の目から、こぼれ落ちてしまう。ヨーロッパ史や中国史までは、なにかと身近だが、ビザンチン帝国が千年続き、そしてオスマントルコがどれほどのイスラム文化を成熟させたかとなると、抜け落ちてしまっている。

 かくいう私は知識が浅い。
 以前「ビザンツ・幻影の世界帝国/根津由喜夫(講談社選書メチエ154)」を一読し、ビザンツの華やかさに目をうばわれ、最近はヒストリアンで、聖ソフィア大聖堂の華麗さや、メフメト2世とワラキア公ドラキュラ(ルーマニア)の関係を知った、程度である。

 今夜NHKで、その栄光のビザンチン千年帝国が現代に蘇る。楽しみだ。

鑑賞感想
 幾つかの点で、理解が深まった。

1.ビザンチン帝国での、モザイク絵画、金細工、そして聖堂作り。
 私は、このあたりの場面をみていて、小説や映画になった『砂の惑星』を思い出していた。モデルはビザンチン帝国だったのかもしれない。

2.エジプト、シナイ半島にある、聖エカテリニ修道院。
 イスラムのモスク併設の正教が、現実にあったことに驚いた。
 正教修道院で、ヴェドウィンがイスラムの礼拝を行っていた。
 砂漠の民ヴェドウィンと、キリスト教修道士とが、毎週金曜日に同じテーブルでパンをこねていた。そのパンには十字の型をつけ、イスラム教徒が焼いていた。
 修道院には、ムハンマドを歓待した際、修道師を保護し尊重する盟約書をムハンマドが書いたという伝承があった。

 他にもいろいろあったが、この二つには特に感銘を受けた。
 手元にある『ビザンツ・幻影の世界帝国』には、第三章「コンスタンチノープルという名の快楽」第一節「世界の首都、異邦人の楽園」があり、ビザンチン帝国が融和世界であると思いだした。今風にいえば、なんでもありの世界だったのだ。モンゴル、元の大都もそうだった。

 現代のローマカトリックと、ギリシャ正教と、イスラム教の違いなど、私にはそれら異教徒のことは分かるはずもないが、同じキリスト教でも性格が随分異なると知った。小説「ヒストリアン」では、15世紀メフメト2世がコンスタンチノープルを墜とし、イスタンブールと改名し、オスマントルコ世界が飛躍した前後が詳細に描かれていた。そこで、スルタンはコンスタンチノープルを破壊したが、数年後にキリスト教を許可したと記してあった。宥和政策であろうか。~とはもうしても、フィクションの中での話だが(笑)。

 なお、エカテリニの修道士が、十字軍を苦々しく、批判したのはこれまでの知識からよく理解できた。つまり「十字軍は、聖地奪回どころか、破壊と混乱を生じさせただけである」と。ビザンチン帝国は、1204年、十字軍に襲われ破壊されて、多数の宝物を略奪された。なんとも、歴史の皮肉を味わった。

 というわけで、聖エカテリニ修道院が現在もあり、毎朝四時から3時間のお勤めをし、そして金曜日には異教徒イスラム・ヴェドウィンの住民たちとパンを焼いて歓談するという姿に、人間世界の、軽やかな未来を味わった。

 すると、葬式を仏式でおこない、結婚式はチャペルへ行き、年始には仏教寺院、神社、交互にお参りに行くわれわれ大多数の日本人は、まことによいスジをもっていると、感心した。ただ、これを無宗教と考えるのは良くない。強いて申せば、アニミズムなんだろう。この世の森羅万象すべてに神が宿っているのだから、磐座も、モスクも教会も寺も神社も、すべて大切にしているわけだ。

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