風の万里 黎明の空:十二国記/小野不由美
承前[MuBlog:東の海神 西の滄海]
風の万里 黎明の空:十二国記/小野不由美
国内外の声は「またもや女王。慶国はさらに荒れ、民は苦しむ」という噂の中での、陽子即位だった。
上下二冊の物語の筋を書くのは煩雑だし、書いている内に感興が労苦になるをおそれ、要点をいくつか述べる。
(1)三人の同年代の少女たち
陽子は景王である。十七歳前後であろうか。
鈴という少女も蓬莱から流れ着いたのだが、言葉が話せずに辛苦にあえぐ。鈴の流転が描かれる。
陽子はもともと景王候補だったので、神仙の特権から言葉に不自由はなかった。
あと一人、祥瓊(しょうけい)という芳国の公女。もともと各国の国王は麒麟に選ばれてなるものなので、王の娘といっても世襲はない。少女期、王宮の宝玉のように扱われ育ったが、父国王と正妃だった母は、眼前で部下に惨殺され、国を追われた。
二人の辛苦にあえぐ少女が景王陽子にであうまでのスリルがあった。どう、スリルなのか。私は小野さんの筆致に感動した。それは、二人の少女それぞれが世界をどのように見つめ解釈し、そして自らの不遇をどのように他に転嫁し、さらに復讐、そねみ、ねたみの心をはぐくんでいくのかという、そらおそろしい人の心の闇をみせられたことによる。本来ならそういう作品は一蹴してきたのだが、場面展開と、各人の環境における対人関係の描写によって、中断できなかった。というのは、そういうねじくれた少女たちを、遭遇する幾人かがどのように突き放し、なだめ、教導していくのかという、絶妙の描写が随所にあったからである。本人達、鈴も祥瓊もなかなかに、くどいほど自覚できず、ますます怨嗟の沼に墜ちていく。
どう立ち直って、景王・陽子に胸はって出逢えるのだろうか。
それは深いところのものであった。
そして思った、現実の少年少女が真にこのような描写を受容したなら、少しは世の中も清明になるかもしれないという、希望だった。(本心)
(2)景麒の説く仁道とは
私は少年期から、孔子に興味を持ってきた。なにも中国哲学とか政治学のレベルではない。宗教でもそうなのだが、当時も今も分からない「至宝の言葉」を分かりたかった。その一つが「仁」だった。さて、この作品を読了後わかったとは言わないが、おもしろい箇所があった。
「景麒。……私にはこの国のことが分からない」
「主上、それは」
「民が何を考えているのか、何を望んでいるのか、どんなふうに暮らしているのかさっぱり分からない」
「まず、道を知っていることが重要なのですよ」
「--道?」
陽子は軽く笑う。
「授業は週六日、必須クラブがあって塾に行って、さらにはピアノを習ったりお稽古ごと。定期テストは最低でも一学期に二回、その他にも模試があって偏差値で将来が決められる。赤点が幾つかで留年、入試に合格できなきゃ浪人。スカート丈は膝まで、リボンは紺か黒。ストッキングは肌色か黒。--そういう子供の幸せがなんだか分かるか?」
「……は?」
「そういう社会での仁道とはなんだ?」
「失礼ですが--その--」
「分からないだろう?」
陽子は苦笑する。
たしかに、景王陽子が説明する社会にあって、仁とは何なのか、私にもわからない。現代では大学浪人は徐々に減ってきただろうが、陽子のいう細やかな日常を繰り返さなければ、疎外され、道を外したと思われても不思議でない世界である。仁道を、この少年少女期に身につけることができるのだろうか。
大学に入ったら入ったで、数年後には就職試験面接という試練に直面する。それに対応するために、大学一年から、またしても受験勉強、体験就職と繰り返し、両手で余るような資格をとり、スカートの丈のチェックはなくなるが、今度は面接官の目を意識して、修道尼のような生活を半歳~一年強いられる。
仁道いずこ。
仁道とは政治用語なのか。たしかに、孔子自身にもそれはあった。しかしそれは仁政と区別するなら、仁道は人道に通じると私は理解してきた。
話をもとにもどす。
私がこの作品に強くうたれたのは、統治する景王陽子の苦しみや悩み、それに対応する景麒の辛さ自失、それらがすべて我が身に切々と迫ってくるような、それほどの筆力、物語の展開があったからである。入魂の小説、世上ではファンタジーであろうか。力及ばず詳細には申せないがこの点では、小野さんの『屍鬼』よりも胸にこたえるものがあった。それはおそらく、私自身が、組織に長くい、今は教員という立場にあることからの、いろいろな思いにもよると思った。読者の経験・体験によって、また作品の色合いもかわってくるものなのだろう。
(3)戦いの中での邂逅(かいこう)
終盤は、往時のヤクザ路線映画のように痛快だった。これがよいと思う。小野さんの城ぜめ、軍の配置、瞠目した。勢力を持つ者がそそのかし、王以外触ってはならぬ禁軍を、景王を攻めるために動かした将軍を、少女景王陽子がただ威厳をもって面罵左遷する様子は、圧巻だった。これでよいと思う。その爽快さは、丁度北方水滸伝や三国志に似る。手に汗握ると記せば、凡庸な感想と言われもしようが、私は終盤、頁をめくるたびに雄叫びを上げていた(笑)。
さて。
三人の少女は、敗色濃い戦場で出会った。この状況設定にも感心した。
そして心が融けあっていった。
それでよいと思った。
ここにはアンチロマンも、メタファンタジーも、袋小路純文学も不要である。
以上
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