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2006年5月29日 (月)

『日本浪曼派の時代/保田與重郎』の可視化と課題

Yasuda2005 昨年の秋に完成した論考を、先ほどサイトに掲載した。
 「保田與重郎『日本浪曼派の時代』の構造可視化」である。
 昨秋のものを掲載するのに今までかかったのは、諸般事情もあるが、論として積み残しが多かったことにもよる。つまり、昭和十年前後の文学や、保田が執筆した昭和45年前後の文学の諸相がいまだ私には見えなかったからである。
 一昨年(平成16年))三島由紀夫『豊饒の海』全四巻を分析し終わった際には、これが小説世界のことに限定できるので、それなりの分明さを得た。しかしこのたびは、評論を対象にしたので、当時実在の人たちが多数現れる回想記を従来の私の方法論で分析したとしても、なお、分かりにくさが残ってしまった。

 具体的には、保田の執筆時すぐ前に亡くなった亀井勝一郎への、保田の批判や、あるいは当時中国での文化革命に対する保田の距離の持ち方が、正確に把握出来なかったということである。「皮肉」としてならわかるのだが、昭和40年代に青年期だった私には、周辺事情がなお生々しく、今にいたって、テキスト現実を私がかりそめに分析したと、言い切ることに躊躇していた。
 むしろ、保田がなぜそれほどまでに、こだわったのか、そこのところを可視化できなかったという、いわば方法論の限界を味わっていた、といえる。

 三島の場合には、いまでも自信をもって彼の『豊饒の海』を分析することで、その作品を言祝いだと言い切りたい。だが、『日本浪曼派の時代』という作品は、物語のようであって、物語ではない。そこにはなお、保田の現実の時代に対する激しい批判が渦巻く。そして、批判されたまま、ますます変わっていった現代日本に生きている限り、その批判を両の手でまともに受け取ることができないままにいる。
 丁度、真剣を素手で受け取るほどの緊張が生じる。

 分析者である私自身を、書き終えて半歳の今、それなりに忖度してみた。
 保田の少年期から青年期、評論家として一家をなしたその過程をつぶさに回想記から回想し、そのわき上がるイメージの中で、遠近の両端を味わい、そのことで高揚感と同時に、世代の違い、時代の違い、人生の違いを深く味わった。そのことの乖離感と親近感とに分裂しているのが、今の私なのだと思った。

 テキストから得たものは、保田の交友関係の広さ、および深さである。保田の文学の基底にはなんであれ、当時優れた文人墨客、芸術家達との幅広い交際、そして対話があり、これを再現することは、少なくとも私の人生にはあり得ないという、距離の遠さである。そしてまた、その原初的なものは肥下恆夫らと創刊した雑誌「コギト」の維持にあったと思った。(この件の深い意義については今回の論述で言及していない)
 さらにテキストを把握した上で、檀一雄にあてたシノビゴト「死とは何であったのか、檀一雄君」(ポリタイア、檀一雄追悼特集号)こそが、一つの文学論を集約した言葉だと思った。つまり、文学とは、死者に対する生者の追悼にあると私は思った。死という絶対的な表現に対峙しうるのは、生ける者の追悼の言葉であり、それが文学の原形だと、私はこのいま分かった。
 文学とは、ただに生者のためのものではなく、死に行く者、さらに死者にたいする追悼の言葉が本源なのである。そのことで生者に「死」を想起させたとき、保田のとなえた文学的な「イロニー」が顕れたと言ってよかろう。
 それが『日本浪曼派の時代』に関する、私の評価であり、かつまた文学に対する、私の立場の告白でもある。

関係サイト
 『豊饒の海/三島由紀夫』の課題(MuBlog)
 保田與重郎『日本浪曼派の時代』の構造可視化--日本語文章の絵解き--(全文:「テキストと情報学」)

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