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2006年5月26日 (金)

記憶の更新と思い出

 記憶をもっているから、そういう記憶の内容と現在現実とがとけあって、いつも夢のような世界に棲んでいる気持になる。

 こうしているまにも時間が1秒、1秒とすぎていき全部過去になっていく。
 1秒後に息が止まるかもしれない。
 いま目の前の現実よりも、過ぎ去った、過去の方が記憶の質とか量は圧倒的に多い。

 記憶の重層によって、ある時点で未来を考えた記憶もそこここにある。だから、いま目の前の数秒後や、数時間後、数年後のことを過去の経験から、推量することはできる。
 いまここで、おっとりして、さて朝シャワでも頭からかぶって、気持ちよくなろうとおもって、数十分後を推量すると、その効果も大抵思ったとおりになる。

 プログラミングをしたり小説を書いたりするのは、過去の経験では、一旦それらしい世界を作り上げて、そうやってから、その世界の過去や現在や未来を自由に行き来することに楽しみがあった。そういう楽しみ、つまり快楽をえるために、現実眼前のしんどさを堪え忍んで、日々こつこつと頭をうごかし手を動かし、働いている。

 ふと蘇る記憶の断片がある。
 幾度となく想起してきたことだから、なにか象徴があるのか、それとも、脳のそのあたりの記憶が焼き付いているのだろうか、理由はわからない。

 二十歳の誕生日の深夜、バイクで一人走っていた。時間的に19歳→20歳の端境時だった。場所は、右京区嵯峨から1号線にでて山科を通って、大津、瀬田のあたりから右折して、宇治川にそって宇治に向かっていた。丁度、南郷洗堰のあたりで、「何十年か後、この時のことを思い出すのだろうな」と、考えたことを、これまで何年かごとに思い出して、今日まで来た。

 その思い出になんの意味もなかろうし、小説のように、シンボライズされた事象でもない。ただ、そう言ったある時点で将来を想起した記憶が、他にもある。

 人間は、というよりも私はそんな風にして、刻々と現実、眼前の現在が流れていくのを見てきたのだ、と思った。
 で、当然、いま書いているこのblog記事も、未来に脳が停止する数秒前、思い出すのかも知れない。
 
 今朝。人生は、刻々に、味わって行こうと、ことさら強く思った。

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