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2006年5月 8日 (月)

水無瀬殿(みなせ)→水無瀬神宮

水無瀬神宮(大阪府島本町広瀬)地図←地図上覧にある「航空写真」をクリックする。

 最近ずっと頭の中に、後鳥羽院の歌が浮かび沈みしている。
 歌人、歌学者でもないので空でしるしてみると、この歌だ。

 「みわたせば 山もと霞む水無瀬川 ゆうべは秋と なに想いけん」

 空のことだから、ちがっているかもしれないが、なにか典拠をひもとくと、記憶のイメージがこわれそうなのでこのまま記す。後鳥羽院は、後白河法王が手招きした時、笑って膝にのった皇子だったらしい。だから天皇にえらばれたが、そのころは源平の壇ノ浦の合戦によって、安徳天皇もろともに三種の神器が海に沈み、そのために神器なき天皇として世に知られ、なかなか複雑な方だった。
 後鳥羽院は、遊び好きな方だったらしく、遊び場として鳥羽殿とか、水無瀬殿を修理して使い込んでおられた。このあたりの事情は、私が高校生のころ学び、その後読んだ増鏡(ますかがみ)に描かれている。

 その水無瀬殿の跡地に後鳥羽院の菩提寺が造られて、後に水無瀬神宮に変わったらしい。後鳥羽院は当時の鎌倉幕府と戦争をして敗れ(1221:承久の乱)島根県の隠岐の島に流され、そこで生を終えた。歴代天皇の中でも最優秀の歌人であり、新古今和歌集という歌集の編集者として有名な方だ。この勅撰和歌集は、藤原定家という人も深く関係している。

 ところで。
 最近地図をみていると、航空写真が見られるもののあることを知った。「livedoor地図情報」とあった。
 これで観てみると、水無瀬川は水無瀬神宮の北に流れている。川筋は変わるものだが、1200年前後ころ、もしこのままだったとしたならば、水無瀬殿と水無瀬川は距離にして200m以内である。後鳥羽院は川のそばまで歩いて歌を詠んだのか、それとも水無瀬殿から詠んだのか、あるいは日頃眺めている景色を思い出して、歌会や宴席で詠んだのか、あれこれ航空写真をながめて想像していた。

 山もと霞むだから、きっと西北西の山を見て詠ったのだと思った。
 しかし歌詠みは作家でもあるから、事実は東の淀川と、その向こう岸にある男山だったのかもしれない(笑)。
 水無瀬川を詠んだふりして、目には淀川の風景があった、と考えるのもおもしろい。

 ただ、私はやはり水無瀬川だったと思う。理由は単純で、地名などの呪縛は相当に強いと考えているからだ。
 ここでもし私が国文学・歌学の専門家ならば、はたして当時、水無瀬川がそこにあったのかどうかまで、こっそり検証しておかないと、あとで酷い目に遭うかもしれない。
 まことに、学者、専門家とは、不自由な仕事である。

 いつかまた水無瀬神宮を訪れてみたい。

参考
  菊帝悲歌/塚本邦雄[MuBlog]
  保田與重郎著作集第二巻/保田與重郎著[MuBlog]

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コメント

島本町水無瀬

宇治に住む姉の旦那が昔、水無瀬で住んでおられました。懐かしい名前ですね。

航空写真で眺めると、山崎の天王山と男山に挟まれた狭い場所ですね。橋本という京阪の駅も見えますが、昔は遊郭が有ったそうです、昔、親から聴きました。

私が育ったのは、水無瀬の淀川を挟んだ向かい側ですがこの辺りは懐かしい故郷ですね。

後鳥羽院さんがこよなく愛された場所のようですが、水運の要の場所だし山崎の油座もあり随分と栄えた商業地ではなかったでしょうかね?

航空写真というのは、結構面白いですね。

投稿: jo | 2006年5月 8日 (月) 11時06分

(春の歌)
 見わたせば~の歌は、新古今和歌集では(春)の部立てに入れられていますね。
 「秋は夕暮れ」という通念があった頃において、(夕べは秋に極まるなどとどうして思っていたのだろう)と思わせるほど、春の水無瀬川の眺望がすばらしかったんでしょうね。

 詞書きにも
(をのこども詩を作りて歌にあはせ侍りしに、水郷の春望といふことを)とありました。

投稿: wd | 2006年5月 8日 (月) 11時15分

航空写真。
 これは気に入りました、早朝7時過ぎについて2時間弱、全国をみておりました。
 しかし関東、関西くらいが拡大100mまであって(50mもあるけど、これは単に100mを拡大しただけ)、べんりな一方、古墳の多い奈良県も、あちゃらこちゃらは全部2.5Km縮尺で、ちょっと荒いですね。
 しかし仁徳天皇陵と応神天皇陵を100mで見たとき、感涙でした。まさに前方後円墳の雄でした。ちかごろこれほどの感動はないなぁ。
 高槻市の今城塚古墳が、はっきりと前方後円墳にみえるのです。すごいです。

箸墓が~、無念。

投稿: Mu→Jo | 2006年5月 8日 (月) 19時33分

高校古文を思い出していました。

 日本古文でも、漢文でも、独特のリズムをつくりながらの完全暗唱が、イメージをつくってくれるので、頭の中がきらきら輝くことがあります。

 たとえば、おどろの下。
 たとえば~。
 そうですね、不意に「とばどの、みなせどの、すりせさせたまひて、……」この、たった一節を思い出して、そうかぁ、後鳥羽院さん、別荘を時々直して、遊びにきて、酒飲んで(美姫とふざけて)、歌、何十首も詠んでましたか。
 そりゃ、エエ歌ができるはずやわぁ。

 文学にはまるごと暗唱が一部必要だと思っています。いまは、私、もう絶対にむりだけど。
 いずれのおんときにか女御更衣~、それだけでなんとはなしに、光り輝く源氏君が脳のなかを走り抜けていくのです。

 ……
 切りがないのですが、文学、文章は、すこしでよいけど、まるまる飲み込むのが良薬と、思っています。

 高校国語古文漢文、大切な授業だと、本気で思います。イメージの素がなければ、将来、なにも心の中でかたちを作れなくなる。

投稿: Mu→Wd | 2006年5月 8日 (月) 20時12分

先生のように、「やまもとかすむ」の解釈を唱える方が多いようですが、私の解釈では「先ず、水無瀬の山を観て、それからぐるりと天王山→男山→その遙か向こうの宇治の山々→生駒山→再度水無瀬の山(又はその逆)を見渡したものだと思いますよ。水無瀬川は殊更「川」を強調したものではなく、こよなく愛する水無瀬の土地の代表として詠んだものと思えるのですが、いかがでしょうか。

投稿: 水無瀬より | 2006年12月12日 (火) 11時00分

水無瀬より、さま
 いずれの御方か存じませぬが、ここのところは後日、忘れた頃に(笑)、水無瀬へ参りまして後鳥羽院さんになりかわって、冬の水無瀬を詠んでみないことには、あなたの説にしっかりお答えすることができません。
 水無瀬は昔行っただけで足を運んでいません。住んでいる宇治からはすぐなので、きっと行って実地検分します。
 なお、生駒山が男山→宇治とその後にあるのがちとげせません。もしかしたら、後鳥羽院さんはアマノジャクで、物事を順番に見たり書いたりするのが、お嫌なんかもしれませんなぁ。
 本当にコメントありがとうございます。水無瀬紀行・写心への渇望が蘇って参りました。

投稿: Mu→水無瀬より | 2006年12月12日 (火) 13時41分

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