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2006年5月31日 (水)

仏御前(ほとけごぜん)

祇王寺(京都市右京区嵯峨鳥居本小坂町)地図

仏御前:ミュージカル

仏御前:ミュージカル
 そういえば、京都嵯峨野の祇王寺には祇王(ぎおう)、祇女だけでなく仏御前の木像もあるらしい。訪れたのは数十年の昔だから、記憶もさだかならず。

 白拍子と言えば、えぼし・すいかん・つるぎ姿の男舞い。昨年義経で一世を風靡した、静や静の静御前を思い出す。連想的に義経の母・常盤(ときわ)も当代一流の白拍子だった。

 さて。ここに平清盛の寵をうけた祇王がいる。スーパースターである。この女優の口利きで北陸娘・白拍子見習・仏御前は時の権力者、清盛と出会う。さて、このあとどうなるのか~。 

 ミュージカル『仏御前』の案内が届いていた。歌舞音曲スポーツとはまるで無縁なのだが、主役の仏御前が教え子で、そのまたダンナ?が脇役らしい。これは、観ざるをえぬのう。

参考サイト
  仏御前物語

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2006年5月30日 (火)

幻の古代王朝・京都篇/Luna

はじめに
 最近いろんな機縁があって、ついつい何十年かぶりにSONYのSMC-70マシンに、ゲームのフロッピーディスクを入れてオンした。
 動いた!
 この大学に着任して、初めてまともにゲーム・システムを稼働させたことになろうか。
 この15年間で、電源を入れたのは数度あるが、いつもそれで止めた。何故か分からない。動かないかもしれないのが、怖かったのだろう。

幻の古代王朝・京都篇

幻の古代王朝・京都篇 パッケージ
 今日試したのは、1983年に発売された『幻の古代王朝』京都篇である。アドヴェンチャー・ゲームに分類されているが、私はRPGと思っている。ただ、当時のRPGとは異なっていたのも事実である。
 私は、当時1982年、たった一年間で4つのゲームをSONYに納めた。京都篇、吉野篇、飛鳥篇、それに「法隆寺の謎」だった。それで、自宅を売らず、一家離散を防げた。まことに、芸は身を助ける(劇笑)。

 法隆寺の謎は、Cで記述し、前三者はすべてSONY-BASICだった。
 実に、不思議なほど短期間で開発できたのは、SONY-BASICが他に類を見ない開発言語として設定されていたことによる。~が、この話は後日に、別記事で。

 当時の担当課長は、品川という方だった。補佐に桜井という若い人もいた。今にして思えば、マシンの提供、開発援助、全てに於いて深い感謝の念をここに記しておきたい。
 私も、当時のSONYの品川課長も、……。暗中模索だった。そしてご存じFM-TOWNS開発者のふうてん爺さんも、まことに「パソコン黎明期」に生きていたんだ。

 それでは、当時のルナ企画(Luna)開発主任・ゲームプログラマー、浅茅原竹毘古として、パソコン黎明期の記録を残す事にする。
 今回は、その(1)京都篇の解説です。

京都篇タイトル

幻の古代王朝・京都篇タイトル
 パッケージの内容紹介をみてみると、「古代より日本に伝わる三種の神器には大きな謎が秘められていた。今に伝わる「鏡、剣、勾玉」は室町時代に作られた複製である。本物は南北朝時代の争乱の折、ひそかに京都、吉野、飛鳥のある場所にはこばれ、現在も秘蔵されている。この謎をとけるのは誰か~」
「豊富なグラフィックで描き出す京都の全て。チャレンジャーの条件に応じて変わる難易度。三部作の大河異色アドベンチャーゲーム第一弾、京都篇」
 なんというか、あははは。人間は、あんまり変わらないところがあるようだな。今から、25年前の私が、そこにいた。

地図表示

京都篇:論理(ロジカル)地図表示
 さっき少し遊んでみた。あるボタンを押すとLuna-Main-Computerのヒミコに接続し、そこでまとめてサービスを受けられるようになっていた(笑:もう、忘れている)。データベース検索(歴史事典)、状態確認、そしてこの地図表示である。この地図は論理地図だから、どこに御所があり、どこに魔物がいるかまで分かるようになっている。ただし、これらのサービスを何度も受けると、法外な使用料をとられて、あっけなくゲームオーバーになる。

状態表示画面

京都篇:条件(コンディション)表示画面
 たしかに、RPGと考えるとコンディションは少ない。しかし、開発者は、そういう小手先の操作よりも、歴史の流れを利用者が把握することを願ったふしがある。
 もともと、当時のBASICで現今のイベント・ドリブン方式を埋め込んだのだから、オプションを増やすことは可能だった。だが、思い返してみると、一言「納期、時間切れでしんどかった」のだろう、な。当時のSONYは気前よく50%前金だったので、納期は厳守だった。

SMC-70(SONY)

SMC-70(SONY)
 名機だった。一、二年後の富士通FM-TOWNSが名機だったことと二極化していた。SONYはこの時代、実に地味で堅固なCP/Mマシンを出したわけである。当然売れなかった(笑)。しかし、このSMC-70の詳細は後日、別途記事を書く。

トリニトロン・カラーモニター

KX-13HG1: SONY TRINITRON COLOR MONITOR
 モニターが記念碑だった。私は銀座のSONYビルでこのモニターの色、輝度を見て、SONYに手紙を出した。「貴社マシンで、ゲームを作らせてください」と。マシン一式が届いた時、私は狂喜乱舞した。なにしろ、3.5インチFDを付けたSMC70一式は現在の自動車程度の価格がしたのだ。

追想
 未知のSONY本社パソコン部門に、原稿用紙で10枚ほどの熱烈なオファーをした記憶がある。
 当時、RPGにしてもアドベンチャーにしても、いずれも美姫と騎士が多く、なんとなくバタくさいのしかなかったから、純和風を作りたかった、のだろう。
 銀座のSONYビルでみたSMC-70は、まるで宝石に見えた。そしてOSが、当時の日本のパソコンでは絶無に近いCP/Mだった。その上で走るBASICは雑誌で見かけて、これこそ「私が使いこなしたい新しい言語」とおもった。なにしろ、LISPもおどろく定義文埋め込みが可能だったのだ。それを使って再帰的にいくつかのルーチンを使って、ゲームを早々と完成させた、~。

付録1
 以下にパッケージに付された解説書を掲載する。内容は今になって読んでみると、SONYの関係者が随分工夫して書いていたことに気がついた。私は一作目パッケージを受け取ったときは、二作目(吉野篇)の開発に懸命だったので、この20数年間、まともに内容を読んでいなかった。

京都篇解説書0:遊び方→モノクロの金閣寺絵はゲーム中にカラーで表示される。

京都篇解説書0

京都篇・解説書1:あらすじ。ゲームのはじまり、はじまり。
京都篇・解説書1

京都篇・解説書2:なんと「身上調書」をとられてしまうのだ。旅を無事に終えるための親切なアドバイス。
京都篇・解説書2

京都篇・解説書3:最後に→無事「勾玉」を手にすると、あるキーワードが表示される。これが次作『吉野篇』につながる。しかし現在の私はこのキーワードを覚えていない。ソースプログラムを見れば分かるはずだ(笑)。
京都篇・解説書3

付録2
 この作品が出たときに、当時ASCII社で雑誌「Login」を編集していた塩崎さんという方が、はるばる東京から、京都宇治の木幡に尋ねてきてくれた。その記事が雑誌に数頁にわたって掲載された。編集者は有能な方で、いま読み返してみると、「これや、このゲームを買わないと~」という気持ちにさせる。以前記念に掲載したので、ぜひご覧ください。
 雑誌 Login 1983.10月号 『幻の古代王朝』

追伸
 今回の京都篇は、雑誌ログインの記事もあるので内容紹介はこれくらいにした。次回(いつになるやら)の吉野篇は情報がないので、ソースプログラムを解読しながら、できるだけ画面写真を多くして、解説記録する。SONY-BASICのソースレベルでみないと、現在の私は当時の私のロジックを追いかけるのが難しい。つまり、プログラム原本を見ながらゲームしないと、結末にたどりつけないということだ。

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2006年5月29日 (月)

『日本浪曼派の時代/保田與重郎』の可視化と課題

Yasuda2005 昨年の秋に完成した論考を、先ほどサイトに掲載した。
 「保田與重郎『日本浪曼派の時代』の構造可視化」である。
 昨秋のものを掲載するのに今までかかったのは、諸般事情もあるが、論として積み残しが多かったことにもよる。つまり、昭和十年前後の文学や、保田が執筆した昭和45年前後の文学の諸相がいまだ私には見えなかったからである。
 一昨年(平成16年))三島由紀夫『豊饒の海』全四巻を分析し終わった際には、これが小説世界のことに限定できるので、それなりの分明さを得た。しかしこのたびは、評論を対象にしたので、当時実在の人たちが多数現れる回想記を従来の私の方法論で分析したとしても、なお、分かりにくさが残ってしまった。

 具体的には、保田の執筆時すぐ前に亡くなった亀井勝一郎への、保田の批判や、あるいは当時中国での文化革命に対する保田の距離の持ち方が、正確に把握出来なかったということである。「皮肉」としてならわかるのだが、昭和40年代に青年期だった私には、周辺事情がなお生々しく、今にいたって、テキスト現実を私がかりそめに分析したと、言い切ることに躊躇していた。
 むしろ、保田がなぜそれほどまでに、こだわったのか、そこのところを可視化できなかったという、いわば方法論の限界を味わっていた、といえる。

 三島の場合には、いまでも自信をもって彼の『豊饒の海』を分析することで、その作品を言祝いだと言い切りたい。だが、『日本浪曼派の時代』という作品は、物語のようであって、物語ではない。そこにはなお、保田の現実の時代に対する激しい批判が渦巻く。そして、批判されたまま、ますます変わっていった現代日本に生きている限り、その批判を両の手でまともに受け取ることができないままにいる。
 丁度、真剣を素手で受け取るほどの緊張が生じる。

 分析者である私自身を、書き終えて半歳の今、それなりに忖度してみた。
 保田の少年期から青年期、評論家として一家をなしたその過程をつぶさに回想記から回想し、そのわき上がるイメージの中で、遠近の両端を味わい、そのことで高揚感と同時に、世代の違い、時代の違い、人生の違いを深く味わった。そのことの乖離感と親近感とに分裂しているのが、今の私なのだと思った。

 テキストから得たものは、保田の交友関係の広さ、および深さである。保田の文学の基底にはなんであれ、当時優れた文人墨客、芸術家達との幅広い交際、そして対話があり、これを再現することは、少なくとも私の人生にはあり得ないという、距離の遠さである。そしてまた、その原初的なものは肥下恆夫らと創刊した雑誌「コギト」の維持にあったと思った。(この件の深い意義については今回の論述で言及していない)
 さらにテキストを把握した上で、檀一雄にあてたシノビゴト「死とは何であったのか、檀一雄君」(ポリタイア、檀一雄追悼特集号)こそが、一つの文学論を集約した言葉だと思った。つまり、文学とは、死者に対する生者の追悼にあると私は思った。死という絶対的な表現に対峙しうるのは、生ける者の追悼の言葉であり、それが文学の原形だと、私はこのいま分かった。
 文学とは、ただに生者のためのものではなく、死に行く者、さらに死者にたいする追悼の言葉が本源なのである。そのことで生者に「死」を想起させたとき、保田のとなえた文学的な「イロニー」が顕れたと言ってよかろう。
 それが『日本浪曼派の時代』に関する、私の評価であり、かつまた文学に対する、私の立場の告白でもある。

関係サイト
 『豊饒の海/三島由紀夫』の課題(MuBlog)
 保田與重郎『日本浪曼派の時代』の構造可視化--日本語文章の絵解き--(全文:「テキストと情報学」)

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2006年5月28日 (日)

NHK功名が辻(21)黄金十両の馬

承前[MuBlog

安土城跡(滋賀県蒲生郡安土町大字下豊浦)地図

 騎馬武者が花形だった時代、馬は高額だったのだろうと想像できる。黄金十両が現代でどれほどのものかは、耳を澄ませて聞いていたが、解説はなかった。高級輸入車に比定するならば、2000万円程度かもしれない。千代の隠し持参金として不破の家が貯めて渡したものだから、億にはならないだろう。

 山内家、千代の伝説としてこの馬買い話は定番だから、~まず本当だったのだろう。
 しかし当初、可哀想に千代は一豊から「小賢しい」とか「情の強い女」とか、さんざん言われておった。いま私の木幡研究所で突然、「男を上げるために、これでほしい物を買いなされ」と、数千万円渡されたなら、~。さてどうする。~そうだなぁ、葛野の大学図書館に寄付して、特別閲覧室に黄金の胸像でも作ってもらおうかいのう。
 持ち慣れないお金を不意に持つと、ろくな事にならない。
 財布にはいつも一万円しか入っていないぞ。

 この「小賢しい」とか「情が強(こわ)い」とかいう、主に女性への罵倒言葉は、考えようによっては褒め言葉にもなる。ただ、なぜ「小」がつくかというと、それは大局観を見誤った局地的勝利に目がいきやすいことをしめし、情が強いというのは、強情っぱりの意味で使われるから、なかなか褒めたことにはならない。
 小賢しいのは、小才がきいてノリがよくて日常にはよい場合が多い。いつもいつも大局ばかり考えてそれにしたがっていると、現今足下がずぶずぶと蟻地獄や沼に引きずり込まれてしまう。情の強いほうが、めそめそしなくて物事にクールに対応できるかもしれない。

 というわけで、ここぞという節目での集中資本投下は、勝機をつかむことが多いのだろう。
 我が年代の者達は、そろそろ勝負を終えた後のご隠居生活。
 時代が一巡したようだな。
 走るのか、歩くのか、止まるのか、それとも眠るのか。思案のしどころぞ。

 最近、森博嗣先生の記したじり貧の奨め、つまり「維持のすすめ」というか、現状維持の意味とかに、感動した。(MLA:2006年05月21日(日曜日))
 一豊&千代は、発展途上、まだまだ登り坂。それを観ながら、じり貧であることを噛みしめるのは、今夜の教訓としてここに記しておく。教訓とは、以前N恩師にいわれたのだが。

「Mu先生、9割以上は日常の努力です。成功した人とか、天才と言われる人は、チャンスが眼前を通り過ぎるとき、それを掴みきれる人ですなぁ。常の努力や準備なしでは、チャンスがすっと消えていきます」

 じり貧の維持と、N先生の教えがどう関連するのかは、宿題。
 というわけで、いろんなことを思い出して見終わったのだから、今夜はおもしろかったのだろう。
 附録の木之本町については、以前その町の出身者に話をきいたことがある。長浜の少し北の湖北の町だ。多分数回先のドラマでは、その近くの賤ヶ岳が話題になるだろう。 

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木幡の日曜:金魚水槽の掃除と無敵の電気スイッチ

承前[MuBlog:春のぐり銀とぐら赤

狂乱のRPG製作
 昨夜、土曜の夜は昼間しっかり葛野で働いて、夕食にビールを飲んで、酔いが覚めた頃、気がゆるんだのか目がランランと輝いてきた。で、今朝の二時まで約5時間、ゲーム作りに没頭した。
 さすがに今朝は眠かったなぁ、午前6時起床。
 RPGの骨組みを作りそこに、実写写真やディフォルメした人物、魔女とか鬼とか、少年少女とか、……を組み込むのだが、基本の基本だから人数を増やしたり減らしたりするたびに、膨大なパラメタを増減させて、……。いや、実によいぞぉ。
 魔女とか鬼とか悪魔の実写モデル写真は山ほどあるので(邪笑)、それには困らない。ただ、音楽や音声を組み込むほどには、私の手もまだもどってはいない。

 参考書を読むと現代では、マイクロソフト社の無料のDirectXとかを組み込んで作ると3Dでも何でもすぐに出来るようだが、なにしろ浦島太郎だから、まだそこまで頭が回らない。
 人物や風景の属性を構造体の変数にすぱっと組み込んで、それを縦横無尽に使いこなす、この快感、この悦楽、ああ眠れない。
 そうそう、Javaで3Dゲームを作る図書も買ったが、これは当面おあずけ。ひたすら手慣れたDelphi で昨夜は遊びまくった。書店でのこの世界は、またしてもマイクロソフト社のVisualCとかが標準になっておった、スカン蛸。

起死回生の家電修理
 今朝はそう言うわけで怠けてしまったが、心機一転、近所(宇治の手前の三室戸)へ車をとばして、DIY店で玄関のスイッチと、もう10年消えたままの風呂脱衣所のスイッチを買った。前者は一週間前に壊れた。後者は、洗面所の電球が明るいので無くてもよかった。
 私はすべてに、思い立ったら百年目のようだ。
 たちどころに回路ブレーカーを切断し、スイッチを取り出して、こちょこちょと結線して、はめ込んだら、嗚呼素晴らしい文明の利器、玄関は常に明るく、脱衣所も入居した頃のように明るくなった。しめて千円くらいだったか、もちろん手間賃はゼロ。
 これで、以後は家中のスイッチがへたれても、たちどころに新しいスイッチに変える目処がたった。新しいスイッチは、カバー全面のどこで押してもよいしろものなので、使いやすくなった。それに真っ暗でもわかる豆蛍の光までついておった、~なんという進化、知らなんだ。

やっと金魚水槽掃除
 ほっとするまもなく、グリ銀とグラ赤の水槽をすでに一ヶ月以上洗っていないことに気付いた。途中二度ばかり水を70%ずつ取り替えたから安心していたのだが、さすがに底が汚れてきた。それにしても、二匹とも、なんとなく会話しながら日々を過ごすようになってしまった。「おっちゃん、もう、そろそろ綺麗にしてな」と、空耳が聞こえてきたような気分になったのだ。

眠るがごとき夕風呂
 さて、これで日曜の責務は果たした。
 あとは夕風呂に入って、すき焼き食べて、一豊さんの名馬買いを観て、眠りましょう。
 いや、またしても今夜もRPG製作。Delphi 乱舞、ついでにJavaとEclipse環境開発三昧。
 就寝午前3時の悪い予感。
 それはならぬ、なぜなら、明日は朝から晩まで授業と会議、……。
 つらいねぇ(笑)。

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2006年5月27日 (土)

ダ・ヴィンチ・コード/ロン・ハワード監督 (映画)

承前[MuBlog:ダヴィンチコードとキリスト密教史

ダ・ヴィンチ・コード/ロン・ハワード監督 (映画パンフレット)

ダ・ヴィンチ・コード/ロン・ハワード監督 (映画パンフレット)
 映画、ダ・ヴィンチ・コードを観てしまった。とてもよかった。ネットで「失笑があった」と書いてあったようだが、その理由もなくて、わからないままに映画館(京都のMOVIX)へ行ってみたのだが、私は失笑しなかった。映画館や芝居で、まとめて笑ったり、ブーイングしたり、失笑するのは、そういうことをする人達の品性(訳知り顔が多い)が嫌で、あんまり同調しないようにしてきた。嫌なら出ればよい。

 さて。結論としては、大いに褒め称える内容なのだが、最初にいくつか断っておく。否定△、肯定◎とりまぜて、忘れぬ間に(最近、文章を書いている最中に、「何故こんなこと、書いているのだろう」となるのでな)。

△主役ラングドン教授が常識人を装う
 変わり者のイギリス人貴族・研究者リー(イアン・マッケラン)が、ラングトン教授(トム・ハンクス)とフランス司法警察の暗号解読員・ソフィー(オドレイ・トトゥ)をフランスのシャトーに匿ったとき、リーは丁寧にキリスト密教史をソフィー相手に説明する。ダ・ヴィンチの最後の晩餐の絵の説明に始まり、キリストのそばにいた「マグダラのマリア」の真の素性と彼女のフランスへの脱出と、そして中世のテンプル騎士団、さらにシオン修道会(英語風にサイオンと発音していた)の存在についてである。

 この説明は要領よくまとめてあるので、原作よりもわかりやすい。DVDを買って数度みれば、こういう異教徒の歴史がよくわかるだろう。ローマ帝国でのキリスト教公認と、その後の教会分裂、発展史がわかりやすい。
 さてそこで、一般のキリスト教信者が思ってもいなかった話を、リーが説明するたびに、ラングドン教授は「そういう考えもあり得るが、史実とは言えない」と、まるで一般キリスト教史の側にたって、つまり常識人である装いをする。
 そこが唯一、白々しかった。ただ、宗教問題をはらむので、ぎりぎりの妥協線だったと思えば、まあよかろうか。

△終盤の表現がやや手間取った
 映画の章末には、大きなエピソードが三つある。
 1.ロンドンで首謀者(導師:teacher)が分かる。これで一般ミステリの犯人判明。
 2.スコットランド・エディンバラ郊外のロスリン礼拝堂へ、ソフィーとラングドンは行く。物語の謎の解明。
 3.パリに戻る。キリスト教史の、現代における謎の解明。

 この一連の流れが、原作を熟読したものには、なぞる気持がわき、未読の人にはおそらく、意味がとれないかもしれない。つまり映画化の難しさに直面した。

◆コンスタンチヌス大帝余録
 余談だが、ローマにおいてキリスト教がどのように扱われていったかの、いわゆる西洋史はおもしろい。この歴史解説は上手だった。エジプトやギリシャなど(明確にはなかったが深ヨーロッパのケルトなどなど)、いわゆる日本と似通った多神教の世界が、キリスト教・国教化によってどういう風に扱われていったかのイメージが、実に豊かだった。

 私は30代前後に、辻邦生『背教者ユリアヌス』を読んで、その時始めて、ヨーロッパ文明と言ってもギリシャ・ローマ世界文明とキリスト教文明とは全く別の世界だと明確に認識した記憶があるが、この映画はそのショックを再現していた。(参考サイト

 つまり、どれほどキリスト教が世界宗教であっても、新約聖書世界観は歴史的に2千年である。その前に、メソポタミアや中国、エジプト、インド、少なくとも3千年の歴史があり、その後も日本に顕著なように、2千年の別の世界観がある。
 で、映画では背教者と呼ばれたユリアヌス帝の話がでてこなかったのが、興味深く思えた。

◎イギリス人貴族リー
 俳優はイアン・マッケランという人だ。リチャード三世、ロードオブザリング(ガンダルフ)とかで、印象があったのだが、やはり上手だと思った。なんというか、加齢の魅力を十分にだしていた。役柄リーについては、原作ではもっと太った野卑な、がらがら声の変人という印象が残ってしまっていたのだが、この映画で、すっきりした。貴族でマニアックな研究者、こういう複雑なリー役をうまくこなしていた。

 彼はシャトーに逃げ込んできたラングドンに質問する。
   珈琲か紅茶か
   もし紅茶ならミルクかレモンか
   三つ目の質問は?
 映画も、そして原作も、作者ダン・ブラウンの手腕はこういうリーの描き方に出たと思った。

◎修道僧シラス
 少年の頃、アリンガローサ司教に助けられ、司教を父とも兄とも思う殺し屋シラス。この設定が実によかった。また俳優のポール・ベタニーの演技も悪魔的だった。
 鑑賞中に感じたのは、彼のむち打ちによる自罰(宗教用語が思い出せぬ)描写が迫真だった。自分の背中を鞭で何度も打ち据えるのだが、その間隔に時間があり、一度打つたびに顔をしかめ喘ぎ、つま先立ち、前後にゆらりとし、その苦痛を神の前に耐える自傷が印象深かった。
 先程映画のパンフを見ていると、ベタニー自身もインタビューに答えて、そういう演技を工夫したと答えていた。

 というのも、最近も映画『薔薇の名前(ウンベルト・エコ原作)』をみて、太った修道僧がびしばしと鞭で自罰する場面があって、印象に残っていたわけである。この場合は、おそらく男色に走る自らを戒めるためなのだろう。シラスの場合は殺人をすることへの、神への申し開きだった。演技、および描写が今回は相当に新鮮だった。
 しかし、この異教徒の気持は本当はよく分からない。
 あまりに神の名を軽々しくとなえすぎではないか。なんでもかんでも神の導きとする、殺人すらも。そして神に懺悔する。やはり、異国(とつくに)の異教徒の気持ちには、計り知れないところがある。

◎アリンガローサ司教
 その信仰の深さ、そして狂信。シラスへの信頼、教会への忠誠、そしてバチカンをすら恫喝する自負。
 アリンガローサ司教が登場してくると、画面がぐっと重くなった。
 こういった脇役陣が、この映画ではすぐれていた。俳優は、アルフレッド・モリーナ。イギリスのロンドン生まれと記録してあったが、映画を見ている間中、私はスペイン系と思っていた。
 後日DVDで確認せねば正確には分からないのだが、「キリストは、人々に代わって自らを犠牲にした」というセリフがあった。だから、……、と。
 なんとしても、中世初期から現代に続くキリスト教思想の本流を守ろうとする、意思の強さが現れていた。彼にとっての異端撲滅は、彼自身の保身ではなく、キリスト顕教の守護にあった。
 こういう異教徒の熱心さには、もちろんついて行けない。しかし、映画という物語の中では、彼の狂信が理解できた。もちろん私は明確に否定した。

◎結論いろいろ◎
 いろいろあった。
 しかし、もうよかろう。またDVDがでたなら再見するだろう。
 映画は、私にとって異教徒の話である。顕密、どちらの言い分が正しいとか間違っているとかは言わないことにする。先にあげた映画『薔薇の名前』では、中世修道院で、当時のインテリ・各派代表達が命がけの論争をしていた。そのテーマは「キリストの着衣は、神のものか、キリストのものか」だった。あるいは「キリストはお笑いを認めたか、認めなかったか」。
 ともかく、こういった他の世界のことはよくわからない。
 その良くわからない点が今回の原作にも映画にもある。時代が現代といっても、同じことだろう。
 そして、そういう異教徒が、そう、異教徒どうしがこの地球には一緒に住んでいる。

 少なくとも、キリスト教の影響が強い人々にとっては、この映画は、原作以上になんらかの影響を残すと感じた。パンフレットをみるかぎり、関係者達は「フィクションです」と口裏を合わせていたが、それは宗教問題の難しさを含んだ現れであろう。
 いろいろな意味で、良い映画だった。ルーブル美術館を使い切った撮影には、心から感動した。おそらく製作関係者達ひとりひとりが、常にない緊張の中で、造り公開したのだろう。

追伸
 セントラル・ドグマ(中枢教義)は、倒れると再起が難しい。
 山々に翠なし、岩清水流れる大和の国に生をうけ、育った私には、そこのところがよそ事としてよく分かる。
 逆に、私のドグマは、七転び八起き。
 依然として鳥居に唾ははかないし、仏様の前に立つと頭を下げる。この信仰は、ドグマが何万回倒されても、蘇る。「神仏」とは実に正鵠を射た言葉である。 

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2006年5月26日 (金)

記憶の更新と思い出

 記憶をもっているから、そういう記憶の内容と現在現実とがとけあって、いつも夢のような世界に棲んでいる気持になる。

 こうしているまにも時間が1秒、1秒とすぎていき全部過去になっていく。
 1秒後に息が止まるかもしれない。
 いま目の前の現実よりも、過ぎ去った、過去の方が記憶の質とか量は圧倒的に多い。

 記憶の重層によって、ある時点で未来を考えた記憶もそこここにある。だから、いま目の前の数秒後や、数時間後、数年後のことを過去の経験から、推量することはできる。
 いまここで、おっとりして、さて朝シャワでも頭からかぶって、気持ちよくなろうとおもって、数十分後を推量すると、その効果も大抵思ったとおりになる。

 プログラミングをしたり小説を書いたりするのは、過去の経験では、一旦それらしい世界を作り上げて、そうやってから、その世界の過去や現在や未来を自由に行き来することに楽しみがあった。そういう楽しみ、つまり快楽をえるために、現実眼前のしんどさを堪え忍んで、日々こつこつと頭をうごかし手を動かし、働いている。

 ふと蘇る記憶の断片がある。
 幾度となく想起してきたことだから、なにか象徴があるのか、それとも、脳のそのあたりの記憶が焼き付いているのだろうか、理由はわからない。

 二十歳の誕生日の深夜、バイクで一人走っていた。時間的に19歳→20歳の端境時だった。場所は、右京区嵯峨から1号線にでて山科を通って、大津、瀬田のあたりから右折して、宇治川にそって宇治に向かっていた。丁度、南郷洗堰のあたりで、「何十年か後、この時のことを思い出すのだろうな」と、考えたことを、これまで何年かごとに思い出して、今日まで来た。

 その思い出になんの意味もなかろうし、小説のように、シンボライズされた事象でもない。ただ、そう言ったある時点で将来を想起した記憶が、他にもある。

 人間は、というよりも私はそんな風にして、刻々と現実、眼前の現在が流れていくのを見てきたのだ、と思った。
 で、当然、いま書いているこのblog記事も、未来に脳が停止する数秒前、思い出すのかも知れない。
 
 今朝。人生は、刻々に、味わって行こうと、ことさら強く思った。

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2006年5月24日 (水)

私の京都:薮そば(伏見桃山大手筋)

薮そばの付近地図

 なかなかたどり着けないでしょう{薮蕎麦、薮そば、藪そば、藪蕎麦}。
 お店が混まないように、地図は概略にしておきました。

 時々はTVクルーとか、雑誌記者にでくわす。前者だと6~7名もの大所帯。以前みていたら、終了後昼食をとっていたが、親子どんぶりとか、きつねうどんとか、手打ち蕎麦の神髄を味わう様子もないのに苦笑。後者は女性でも、でっかい一眼レフを首に肩に三台くらいぶら下げ、うどん。

 この「薮そば」は、日本の、京都の蕎麦世界で有名なようだ。
 客筋はというと、これは周山の登喜和(ステーキ)にそっくり。私は大抵昼間だが、近所のおっちゃん、おばちゃんで混み、定食が多い。しかしこの日の、離れた席のご夫人は、威勢良く「天ザル、大盛りやで。そいで親子丼ぶりも、……。熱燗、はよしてな」(うっと、息が詰まった)。六十代前後の上品なおばさまだったが、私より二回り頑丈そうだった。

薮そばの店頭

薮そばの店頭
 路地の奥にある。近所にお店はない。細い道が直角にまがり、直角に曲がる。正面に立ってはじめて蕎麦屋とわかる。その先はまた直角に曲がり、さらに直角に曲がって、やっとそれらしき道に出る。そこらあたりで黄桜のカッパが見える。まるで、イスタンブール(未踏地)の迷路か。

天ぷら蕎麦(上)

天ぷら蕎麦(上)
 「上」にすると天ぷらが二つつく。しかし四条河原町にくらべると鄙のせいか、お値段は980円と割安。勿論、海老は注文とともに揚げるようだ。ホウレンソウが浮き、海苔の天ぷらもつく。海老は、噛むと味が広がる。つまり上等だ。世間には、ぷりぷりするだけで、味はすかすかの海老天ぷらが多い。ここは違う。お出しは、この店では全て飲み干す。
 ラーメンは家訓によってどれほどの美味でも二口で止めるが、蕎麦に関しては、飛鳥井町に一軒、四条寺町に一軒、嵯峨野に一軒、そして伏見桃山薮そば。都合四軒の蕎麦屋で、飲み干す。
 うどんは弁慶なら飲み干すこともあるが、大抵キンピラの辛さに涙がでて、残す。

天ぷら蕎麦とかやくご飯

天ぷら蕎麦とかやくご飯
 江戸るん君の話では、江戸で友人に、うどんや蕎麦定食の話をすると、大抵目を点にして驚くようだ。「蕎麦食べながら、ご飯~? 関西って、わからなぃ」と。
 味のデータベースを適切に構築するには年季がかかる。
 旨いものを旨いとわかるようになるには、それなりの修練が必要、……。
 江戸るん君は丁寧に、「関西のおそばは、おだしが上等なのよ。辺境と都の差があるね。つまり、極上のスープと思えば、スープにパンが添えてあるのと同じ」と、友人に教えるそうだ。

薮そば、店内風景

薮そば、店内風景
 店内はなんとなく、鄙鄙している。落ち着く。ここでお蕎麦をいただいて、茶をのんで一息。ついでに、近所で鄙にはまれな珈琲を飲んで、ちっこい書店によって、そいで、ぽてぽて散歩すると極楽。京都の伏見桃山、伏見港界隈はじつに、私の京都、なのだ。

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2006年5月23日 (火)

ヒストリアン/エリザベス・コストヴァ(その2)

承前[MuBlog:その1

その2:いろいろなメモ
 作品のテーマ自体は、東欧の吸血鬼伝承と、15世紀に実在したワラキア公、つまり自国民衆やオスマントルコ兵を数万人のオーダーで杭に串刺しにしたヴラド・ツェペシュ、通称串刺し公。おそらくブラム・ストーカー『吸血鬼ドラキュラ:Dracula』のモデルになった実在人物との、歴史的な交差だった。

 映画などでみるルーマニアのトランシルバニア古城は、その南のブルガリアに近いワラキアの古城が適切だが、遠隔地なので私にも、ぼんやりしてしまう。

 不死の人、吸血鬼そのものよりも、500年の歴史の重層したカーテンの影から見えるドラキュラを、三代にわたる歴史家がどういう風に追跡していくのか、その未知への冒険に私は時を忘れた。

 と、ここまで書いたところで幾つかの想念が頭の中を走り出したので、ここにメモをしておく。あわてなくてもよかろう、と最近は、年齢とは逆の気持が強くわき上がってきている。

1.小説作法として、私はこれが気に入った。気に入らないところも少しあるが、それは個性や国民性のようなものと思う。緻密だがくどい。しかし対象によってはもっとくどく描いてほしい(たとえば、オックスフォード大学図書館の緻密な描写)と思うのだから、これは読者の感性や受容力によって、変化する。
2.作風として、検証ぬきでいうならば、ウンベルト・エコのたしか『論文の書き方』だったか。それを思い出した。
 何故か。
3.作風として、意外にも、スティーブン・キングの大作『It』を思い出した。何故か。
4.作風として、ボルヘスの図書館や司書を思い出した。何故か。
5.作風として、アン・ライスの『レスタト』などの深ヨーロッパ遍歴部分を思い出した。何故か。
6.作風として、これも意外だが、『旅涯の地/坂東真砂子』を、強烈に思い出した。何故か。

 もちろん、以上にのべたどの作品とも異なる独立した『ヒストリアン』なのだが。

 それと、もう一つ。
 実は、実に偶然なのだが、私は2006年の3月1日にNHK『地球ドラマチック』というそれまでみたこともない番組を録画した。タイトルは「ドラキュラ伝説」だった。なぜ乏しいハードディスクにこのNHK番組を記録したのか、今から考えるとよくわからない。その時『ヒストリアン』はまだ私の机上にはなかった。

 これは、NHKの「その時歴史が動いた」のような雰囲気で造られていた。今朝、クレジットを確認すると、「デビッド パラダイン テレビジョン(イギリス)」とあった。ごく少ない明記には、フロレスクという名前もあった。このフロレスクはこのTV作品の中で意味深い名前だ。

 ただ。
 これは再度見るつもりだが、妙に、地名などが隠されている。謎をかもし出すためのもって回った言い方とも思わない。最初に観たときは気にならなかったのだから。しかし、それにしても変わった放映内容だった。

 ヒストリアンを読了したあと、メモとして、このTV「ドラキュラ伝説」がいろいろな事実を半ば隠していると、思った。何故なのか。
 なにか、史実を隠さざるを得ぬ事情が、まだ東欧にも、ヨーロッパにもあるのかも知れない。ワラキア公は15世紀、グーテンベルグが印刷術を開発した時期の領主である。日本でいうと、戦国末期にあたる。

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2006年5月22日 (月)

ヒストリアン/エリザベス・コストヴァ(その1)

その1:複雑な小説構成
 ヒストリアンを完読したが、感想というよりも、批評というよりも、読書メモとして記録しておく。

主テーマ
 500年間にわたるヨーロッパの歴史の中で、ワラキア公ヴラド・ツェペシュ(ヴァンパイア)の足跡を、歴史学者(ヒストリアン)達が探索する。

主要な視点が4つある
 1.ロッシ教授:歴史学者(ヒストリアン) 1930年代の世界
 2.ポール大学院生:ロッシの愛弟子 1950年代の世界
 3.ヘレン:大学院生:ポールとともに失踪したロッシを探索する 1950年代の世界
 4.「私」:ポールの娘:21世紀の視点 1970年代の世界

 ロッシとポールとは師弟関係。
 ポールとヘレンは、友人、共同研究者、愛情で結ばれた関係。
 ポールと「私」は、親娘関係。

 ポールは失踪したロッシをヘレンと共に追う。
 ポールは失踪したヘレンを追う。
 「私」は失踪した父親ポールを追う。
 
 ロッシ教授←ポール院生+ヘレン←ポール教授←「私」
 「私」は、こういう関係を2008年の今、オックスフォード大学で、文書、手紙、インタビュー、記憶によって図書にまとめている。

緻密な描写
 図書館や文書館、修道院や城跡。ヨーロッパ(南)全体が舞台になっていて、その描写が60%程度あるように味わった。旅行記と思って佳い。
 一千年続いたビザンチン帝国の崩壊と、メフメト二世によるオスマントルコの隆盛、大都市コンスタンチノーポリス=イスタンブール、そしてドラキュラが埋葬されたと歴史的にいわれているルーマニアのスナゴフ湖の島にある修道院。これらの描写が緻密で美しく、印象にのこる。

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2006年5月21日 (日)

NHK功名が辻(20)いろいろ

承前[MuBlog:竹中半兵衛の死

 いろんなことが45分間に少しずつ入っているので、「そうですかぁ」と、ただ時間がたった。
 軍師黒田が有岡城の土牢に八ヶ月ほど幽閉されていて、足腰立たない状態で救われた話は種々聞いているので史実なのだろう。
 三木城が兵糧攻めにあって二年近くの末に、開城したときは城中悲惨な状態だったと想像できた。
 小りんさんの汚れ役が、なんとなく、まあよかろう(笑)。女優さんも大変じゃ。

 信長が宿老二人を放逐した話は、ドラマではみんなの前で言い渡したようだが、放逐する理由を丁寧に記した二人あての書状が残っているとか耳にした。

 今回のドラマは、信長や秀吉の影を色濃く残忍に描くことによって、一豊に光をあてているようだ。

追伸
 一豊さんの槍遣いが、なんとなく上手に思えた。練習なすったのじゃろうか。
再伸
 考えてみるに、一豊さんを描くのは、これまでの多くの大河ドラマ流から見ると、難しい。千代と一豊は、まだまだ一軍を率いる大将軍ではなくて、現代のサラリーマンだから、家庭の話になりがちとなる。
 歴史の流れの中で、それを動かす原動力には成りにくいので、戦国ドラマとみると、つまずく。
 いわゆる風雲児、英傑ともいいがたい。
 うむ。

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ミステリの誤植は謎にみちている

風の噂
 最近、とても有名な出版社(仮に巷談社としておく)の出した作品で、おそらくベストセラーになるだろうミステリ小説に、致命的な誤植があって、業界ではてんやわんやの大騒ぎになっていると、風の噂に、聞いた。
 作者(仮に、木望としておくが、林望さんのことではない)は、怒りにうちふるえ怒髪冠を指し貫き、東京の巷談社へ、蛙タイプ変形主翼で著名な模型飛行機に乗って決死の直談判に出向いたと、また、風の噂に聞いた。

 ここで、模型飛行機と言っても、実は「GBリサ2001タイプ・フロッグ」という実機製品で、人一人が乗って300キロや400キロを飛び、ジャンプできる代物のようだ。ただ、あまりにその姿形が蛙のように可愛らしいので、「模型飛行機」とよばれているらしい、と、これも風のような噂。
 ちなみに、業界スジでは木望がフロッグ・タイプにまたがる姿を想像しただけで、蛙アレルギー反応から失神する若い女性編集者もいるとのこと。

 こうして噂が噂をまきこみ、いつもは木幡に逼塞している翁の耳にも入り、その事実を確認したくなったので、今朝調べてみた。

 しかしまだ、木望先生が「巷談社とは縁切りする、これまでの巷談社分一千万部を、以後すべて絶版にする」「編集部に蛙の卵をぶちまけてやるぅ」と言ったとの噂もないし、また巷談社がわびて「お許しください、そのかわりに印税を13%→25%にし、ただちに初版初刷を回収し、あらたに一挙にまとめて198万部を市場に投入いたします」といった、噂もまだ耳にしない。おそらく、自然にありのままに任せるところで折り合いがついた、のかな。

ミステリの誤植とテクニック
 こういったミステリの誤植は難しいと、思った。
 作家とはもともと騙る人だから、担当編集者も校閲者も、「いつものことサ」と、見過ごしたのかも知れない。
 書名自体が、いわゆる誤植の一番発生する箇所とは、以前、辛本という編集長が話されていたのを、風の噂に聞いた。その書名すら、騙る作者は、じゅ、じょじょちゅ法というか、まともに発音できないのだが「呪術、じゃない、叙述トリック」とかがあって、一筋縄ではいかないこともまれにあるらしい。

事例背景
 作品名を仮に、『Muに誓約しよう』としておく。どんな内容かは、いわゆるこの業界スジでは「ネタばれ」ともうして、作者も巷談社も、さらに未読読者も不愉快になり、怒るだろうから伏せておく。

 ここに三人の「人間」を登場させる。すべて仮称にしておく。性別すら不明にしておく。
   赤枝:秘密探偵らしい。
   蛸田:大学院生、聡明寡黙。携帯電話も持っていない変人。らしい。
   山崎:大学院生、蛸田の友人。らしい。
 日時はおくとして、場所は蛸田のいる下宿の玄関先、らしいとする。
 章節の前方部分では、山崎はこの時間帯、東京→西に向かうバスに乗っている事になっている、らしい。

 誤植と大騒ぎになった文章例は以下である(文意を損ねぬ範囲で、翁が加筆修正した)。
 「山崎は携帯電話を赤枝(探偵)に手渡し、靴をぬいで奥へ入っていった」(2章2節終段)

 なぜ誤植とさわがれたかについては、木望氏も半ば邪笑を浮かべ(と、想像した。極めて高度の知能を備えた作家なので、すべてについて尋常ではない考えに基づき行動する)、「そこにいない人が、そこにいる」と、インタビューに答えたのか、ネットに書かれたのか、それはしらないが、著者メッセージとして広まったようだ。
 分析するに、
(1)山崎はまだバスに乗っているという前提でここまで来たので、急に蛸田がいる下宿先に、山崎がいるのは変だ。
(2)なぜ山崎は携帯電話を赤枝に渡したのか。赤枝は秘密探偵だから、電話くらいもっているはず。山崎も変人には描かれていないので携帯電話くらいは持っている。

 という結果がでて、これは以下の文章が正解であると、一般に流布した。私も、一読時はそう思った~。
 「赤枝(探偵)は携帯電話を蛸田に手渡し、靴を脱いで奥へ入っていった」

ミステリ作家のトリック・騙し
 と・こ・ろ・が、作家木望は、深夜密かに「くくくっ」と邪笑したとのイメージが、昨夜翁の脳を去来した。巷談社の編集部では、「誤植説」読者完敗の知らせに、祝儀が部屋一杯に飛んだのかもしれない。
 というのも、翁はこの10年、木望作品の犯人とかトリックを見破ったことがない。いつも、ギョエーと悲鳴をあげてきた。まことに、「騙されやすい翁」というのが真実なのか、木望が希代の文章詐欺師なのか、答はようとして知れない。

 こう考えた。
 一見誤植と思わせる、単純な叙述トリックだったのだ。

 *「山崎は携帯電話を赤枝(探偵)に手渡し、靴をぬいで奥へ入っていった」
 このままでよいのだ。

→手渡しと書いてあるので、返却した意味ではない。なんらかの携帯電話のやりとりがあったのだろう。たとえばメルを相手に見せるため、手渡した。
→山崎が、自分の家に靴を脱いで入った。これは山崎が外から他人の家に訪ねてきたように、読者を騙すための叙述である。ここは蛸田に一時的に貸している山崎自身の家なのだ。単にちょっと出かけようとして、戻っただけ。大体、奥までずかずか入る来客者は少ない。
→前後から考えて、やっぱり変だという意見もあるだろう。これは、要するに普通の作品ならば、この地の文の前に、空白行とか☆とかをおいて、視点や場面が変わったと強調するところだが、木望先生は尋常な御方ではないので無視なされた。そしてまた、無視することで後述するナラタージュの時空間溶解性を端的に表現した。


 バスに乗っていたのは、蛸田だったのだ。蛸田と連れになっている同乗者は、RPG(ごっこ遊び)をして、呼びかける時は、常に蛸田を山崎と「ごっこ」していた。
 地の文での車中の山崎指示文章は、これは実に簡単で、山崎のナラタージュによる地の文だから、いわゆるミステリの掟を破ってはいない。ナラタージュ世界では一見地の文と見えるのが、ナラタージュ主体の想念だから、当然虚偽は生じる。本当の地の文はまだ未見、ないし、我々読者が発見していない。むしろ、この誤植騒動の対象文こそ、隠れた地の文だったのかもしれない。
 山崎(実は蛸田)と連れの会話は、会話主体同士だけが虚偽、つまり「ごっこ」をしていた。
 要するに、ミステリ小説としては異例にも、(一見)地の文、会話文、双方が華々しい虚偽の花を咲かせていたわけである、おお。

 シリーズの1である『壊れたMu』での末尾は、山崎のナラタージュ(過去の回想を現在の視点で語る、騙りながらも時空間遷移がぐにゃりと溶けるのを良しとする技法)によって終わっている。作家木望の最近の傾向は、厖大なシリーズをパラレルワールドとして扱い、古典的な単行図書ユニットでの論理的解決を忌避している。故に、この今回の『Muに誓約しよう』単体では、まだ山崎のナラタージュが継続していると考えた方がよかろう。いつか、またメタなエピローグがシリーズ全体に付き、そこでこそ初めて真相が解き明かされるのだろう。

 ナラタージュ、回想、そして入れ子状態の中で、RPGを取り入れたのだから、ミステリ作家の手法もここまで来たのか、という感慨が去来する。作家木望は、おそらくそういう超複雑な文章構造のロジカル・エラーを検知するシステムをすでに手にしていると、翁は想定する。おそるべし、ハイブリッドな文理系作家。

結論
 よって、この作品に関する巷の「誤植騒ぎ」は、作家木望に乗せられた我ら読者の完敗である。噂では、木望への「誤植発見、指摘メール」は、日に500通を越えて、それが一ヶ月続いたようだ。まこと、読者とは、赤子のごときものなのかなぁ、と思ったが。いやそれは違う。読者サービス精神が豊かな木望センセのことだから、これこそ長年夢に描いた大サービスなのかも知れない。
 当初より、その一大イベント詐欺に乗ることが出来なかった翁は、久しぶりに悔しい思いがした。

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2006年5月20日 (土)

吉田屋・エスプレッソ珈琲:私の京都・河原町通{四条→三条}

承前[MuBlog:勤王志士・古高俊太郎邸跡:私の京都・河原町通{四条→三条}]
吉田屋(京都市中京区石屋町)地図

吉田屋:エスプレッソ珈琲

吉田屋:エスプレッソ珈琲
 吉田屋は、随分以前から通っている。しかし明確な記憶では15年前までしか遡れない。おそらく20年は通っている。しかしこれがいわゆる古民カフェなのかどうかは、担当者がいないので分からない。スタバやドトールと違うことは分かる。いずれにしても、私の珈琲屋通いは、書店通いや蕎麦屋通いと同じく、新しい店はあまりない。古い人間と言うよりも、行動パターンの総てが20代に凝縮しているのだと思う。もしかしたら、人生の総ての「仕込み」はその時期だけに限られていたのかも知れない。考え方も読書傾向も、なにもかも。その模倣が吉田屋を30代か40代に見つけたのだろう。
 場所は、この写真のすぐ右手が鴨川で、三条大橋、京阪電車に近くて足の便もよい。

珈琲とタイル・カウンター

珈琲とタイル・カウンター
 カウンター席しかない。座る場所は100%、この奥の席になる。ドアをあけてここに客がいたら、そのまま帰った記憶もある。写真でみるとタイルにヒビが入っているが、いつも綺麗に拭いてある。珈琲カップも、スプーンも絵に描いたようにスッピンだ。なにか銘柄を選んで飲んだことはないのだが、この日に限り炭火焙煎とか、言った覚えがある。夏場は大抵アイス珈琲だ。美味しい。雰囲気に似合ったおいしさだ。

ジュンク堂の手提げ袋

ジュンク堂の手提げ袋
 この日、ジュンク堂で小説を何冊も買った。いま、あとすこしで完読するヒストリアンもこの袋に上下入っていた。正面、お兄さんの向こうにでっかい古風な珈琲製造機械がある。レバーを押すと「ジュボッ」と音がするような~。今度行ったら、新しい機械に変わるそうだ。そして、店は空いていた。理由は知っていた。つまり、客筋が観光客とかお嬢さんたちではなくて、先斗(ぽんと)町や木屋町で飲んだオジサンや芸能人が中心で、昼間は近所の旦那衆やおばさんに限られているようだ。そう、判断した。だから、書店で好みの本をたくさん買って、帰りに吉田屋でそれを眺めるのに好都合。人いきれのするような混んだ店は似合わない。時間差の妙。

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2006年5月19日 (金)

勤王志士・古高俊太郎邸跡と、しる幸:私の京都・河原町通{四条→三条}

承前[MuBlog:ジュンク堂BAL店
しる幸(京都市下京区真町)地図

「しる幸」は古高邸跡だったのか

「しる幸」は古高邸跡だったのか
 一昨年のNHK新選組!を思い出した。昔から、映画などで、池田屋事件は大抵京都の祇園祭のお囃子の中で近藤さんや沖田さんが走り回るものだが、大河ドラマの場合にはより精細に、その前後も描いていた。土方さんが拷問部屋のような小屋に桝屋(古高俊太郎)を押し込めて、何をしたかは近藤さんにもはっきり言わず、志士たちの京都焼き討ち計画を吐かせた、という記憶がある。

勤王志士・古高俊太郎邸跡(こたか・しゅんたろう)(ふるたか・しゅんたろう)
 土方副長の凄惨な拷問に耐えかねて、勤王志士たちが謀議のために集まることまでは分かったが、それがどこなのかは新選組には分からない。その緊迫感が、池田屋事件の扱いのテーマになっていた。しかし、桝屋・古高の立場から見るならば、集めた武器を押収され、アジトがわれて、拷問された、よもやこの捕縛が百数十年先まで話題になるとは思ってもいなかっただろう。

勤王志士・古高俊太郎邸跡(こたか・しゅんたろう)

古高俊太郎邸跡石碑

古高俊太郎邸跡石碑
 明治維新、幕末の京の騒乱を勤王佐幕、どちらの立場からみるかによって、歴史は色を変えてくる。グラデーション、色が微妙に変わっていく。そんな「変化」に後世の者は、気持を昂ぶらせたり悲傷、あるいは憤怒する。今朝の私は幾分、一昨年の余波があり新選組党。しかし、勤王志士のことを調べだしたら、一挙に「おのれ、壬生狼(浪)、近藤、土方ぁ~」と憎悪するかもしれない。

参考サイト
 ≪新選組の情報活動と土方歳三≫古高俊太郎という存在/現代マンガ館[?]
 なお関連する池田屋事件など、当時の京都の様子を探索した 「ミステリー舞台三条界隈探訪」は、長州藩邸や桂小五郎が難を免れた対馬藩邸などの位置が、写真入りで説明されていて、おもしろい。
 「見直し・新選組」3-池田屋事件その1:古高俊太郎(ふるたか・しゅんたろう)とは何者だったのか/中村武生

 志る幸/Yahooグルメ
 「しる幸」については、ちょっとおもしろい記事があった。
 「木耳と焼き麩と法蓮草の白味噌汁
 私は大昔に、このお店に入ったが、それが二十代だったので、なにも分からなかった。最初、ぜんざいとかお汁粉やさんと思った(笑)。いま行ったなら、勤王志士の味がする、お昼和定食だと思って味わうだろう。

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2006年5月17日 (水)

定番の寄り合い:鳥せい伏見本店

鳥せい(京都市伏見区上油掛)地図
  グルナビ情報

定番の鳥せい伏見本店

定番の鳥せい伏見本店
 四月も終えて、五月病のGWも終えて、なんとなく疲労感がただよう日々、すこしでも気持ちがみなみな晴れるように、寄り合いを催した。集まれるものだけ集まって、あれこれ考えるのもおっくうなので、いつもの定番、伏見港、鳥せい伏見本店に集まった。定番の良さは、気持ちがいらつかず、料理に迷いもないので、格別なものだ。
 何を話したかは覚えていない。なんにも話さず、むしゃむしゃと、食べている内に皆の顔色に喜色がもどってきた。四年生というのは、就職活動や卒業論文やら、もろもろあって、気持ちが落ち着かない日々のようだ。そういうときは気心知れた者で、うまいモン食べて、おっとりしたら、落ち着くような気がしていた。で、そんな雰囲気になって、よかった。

鳥せい伏見本店前と、妖しい鳥
 この暖簾を背景にこれまで何十回写真をとったことか。通い始めて30年は経つ。それぞれの、伏見港がまた、昨夜もあった。機嫌の良さそうな顔をみていると、私も笑い顔になる。道行く人たちも、写し終えるまで前を通るのを待ってくれていた。ありがとう。
 鳥も写しておいた。ものすご美味しい、骨ばりばりなんだが。そしてお値段も格別なんだが。名前は明かさない。今朝、耳にしたところ、だれかがこの鳥をペットにしているらしい、バリボリ(笑)。

鳥せい伏見本店前

宇治の田舎の喫茶店

宇治の某所
 おっとりした夜だったし、酒ザル学生もいなくて、私は例によって伏見水ばかり飲んでいたので、出たときも明るかった。そうそう、割り勘だった。みんな、私的寄り合いは割り勘のほうが気楽なんだ。で、あんまり夜が明るい時間なので、ひとっ走りした。宇治川が黄昏に映えていた。巨大前方後円墳も車中案内した。しかし到着した頃には、夜が始まっていた。なかなか幻想的な喫茶店だった。

お茶を楽しく待っている学生たち
 五月の夜風は肌に心地よかった。随分気に入ったようだ。なんとなくワイルドで、幻想味たっぷりで、町中では見られない喫茶店に、喜んでいた。伏見からも遠隔なので、ここまでディープな地場を案内することは皆無なのだが、まあ、思い立ったときが吉日。しかし、なかなか席をはなれない風情にはとまどった。時間を見ると、深夜8時(笑)を過ぎてしまった。あはは。むづかる三人を店から引き離して、まとめて連れて帰った一夜でありました。

待つ女たち

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2006年5月16日 (火)

日々雑感:老後のこと:裁判の行方

昨夜のこと
 昨夜遅くに帰ってきた。私には、深夜に近い夜の9時前後だった。
 月曜は朝から午後遅くまで授業があって、昨日はそのあと図書館によって、そのあと倶楽部の局長と副長から、倶楽部例会の報告を受けて、そのあと市内出張して、八時すぎまで少しややこしい内容の打ち合わせをすませた。
 昨日朝は例によって午前三時起床だったので、実働時間は数えるのも嫌になる。
 で、遅い夕食を、即席にだされた卵焼き食べながら(木幡では滅多に食べないが大好物)楽しんでいたが、ふと背中のNHK-TVの番組に聞き耳をたてた。

実母殺し
 数年前に京都の桂川(だいぶ南)のそばで、54歳の男性が、車椅子に乗った80代の実母を殺害し、自らも首にナイフをあて自傷するも助かり、その裁判の模様を解説していた。
 判決は知らない。
 NHKは最初から、めずらしく犯罪者の息子に同情する構成だった。
 普通ならば、そんなやり方はまずいよね、というところだが、番組に知らず知らずのめり込んでいった。

結論をいう
 要するに、これだけ豊かに見える日本でも、54歳の元気な男でも、年老いた母親ひとり介護し、収入を得ることが、条件によっては至難の業のように思えた。
 つまり、この事件は母親合意の心中事件だったわけである。
 昔なら、尊属殺人として、法的にも極刑に処せられる可能性もあるだろうが、その点は現代は少し救われる。だが、聞けば聞くほど、見れば見るほど、私は暗い穴にすべり落ちていった。

状況
 覚えている範囲で記す。
 一人息子は独身で、殺害にいたる数ヶ月前までは派遣社員をして母親を養っていたようだ。
 母親はそれ以前10年前から認知症、つまり高齢者にみられる徘徊、わけのわからない言動におそわれだしていた。
 母と息子は二人暮らしで、小さなアパートに住んでいた。
 それなりに、幸はあったと感得した。
 しかし認知症が深まると徘徊が強まり、デイケアとか施設に相談しても、対応できないくらに進んでしまった。あずかってもらっていても、仕事中に警察から保護されたと電話があったり、……。

(ここ書いていて苦しくなった。私の場合、ひっきりなしに授業中に、警察や施設から家族のことで電話があったら、講義も会議も、そして研究も読書もできなくなり、呆然とする。しかし捨て置くわけにはいかない。涙がでる)

 結局仕事を辞めざるを得なくなった。
 アパート代の未払いが貯まってきた。
 もうすぐ、家も出なければならなくなった。
 生活保護をうけようとして相談に行ったら、失業保険をうけているので駄目だと断られた。
 その息子は、それによって、方策を失った。

 事件を起こす前日、母親を車椅子に乗せて、小さい頃なつかしく出歩いた街にでかけた。母親は喜んでいた。そして、心中を二人で決めた。

なんとかならなかったのか
 一つは、息子も母親も自立心が強かったようだ。
 しかし列車の競合脱線のように、複雑な社会システムにひっかかり、打つ手、打つ手がうまくはまらなかった。男性は、それなりに打開策を図り、行動した。しかし、なにかちょっとしたことで、解決出来ないままに、母親の認知症や老化が進んでしまった。
 気がついたときは会社を辞めて、アパートも出ざるを得なくなった。

 この豊かな、飽食の日本。
 きらびやかな、爛熟した文化、文明。
 そのどこかで、漏れ墜ちた人が、京都桂川のそばの、木立の茂る道筋に車椅子をとめて、母親の首を絞めざるをえなくなっていた。男は、54歳とはいえ、健康な男性だった。
 万策尽きて、自らの首にも刃物をあてざるをえなかった。
 
 私は、深いため息をついた。

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2006年5月15日 (月)

日々のこと:終日安閑

 代わり映えのない日々なんだが、ためしに記録しておく。
 これを読む人の人生観にもよろうが、暇と言えば暇だし、コマネズミのようにしているとも言えるし。自分自身がどう考えているかというと、半ば充実し、半ば諦観であるなぁ。

1.授業
 楽しんでやっている。研究室でひっそりと準備しているときは充実感がある。
 助勤と名付けた学生達と一緒にする演習は、さらに楽しい。
 これは、若いもんらが、だんだん変わっていくのを目のあたりにするからだ。
 立場とか役職は大切だと思っている。
 よく見られる社会人の、立場とか役職にしがみつくのではなくて、若いもんらは、それをやり遂げよう、こなしきろうとする気持の表れがあって、見ていて爽快なのだ。

2.研究
 時間を湯水のように使う。延々と徒歩で山から山を越えていく感じがする。 
 葛野に来たときから、用意周到、あらゆる肩書きとか立場を無くしてもやっていける方法論を模索した。
 研究者は職業らしいが、昔はルンペンみたいな数学者もいたし、王侯の庇護を受けない者もいた。
 職業なんだが、社会に直結した寄与も少ないし、金銭に直結したものでもない。
 研究するということは、見えないことを見えるようにすることだと、思うようになってきた。
 だから華々しく社会に貢献する研究とは、たまたま、なにかの都合でそうなるだけであって、研究総体とはもっと大きなものだと思っている。

3.会議
 急になまなましい言葉がでてきた。社会に生きて組織に属する限り、会議というのは避けて通れない。
 呪術社会であれ、専制国家であれ、現代日本であれ、会議があって合議ということがつきまとう。
 命令を聞くのも合議なら、ケンケンがくがくいいあうのも、合議なのだろう。
 私は自分のなかに数名私がいて、いつも会議を招集し、そこで合議している。
 合議するのが会議なのだ。
 まとまったような結果を前にして、なっとくした振りをしたり、分かった振りをしたり、決定した振りをする。
 ……
 私にとって会議というのが、一番効率の悪い時間帯である。
 暴力的な時間剥奪だと思っている。
 それでもいろいろな会議に参加したり、招集したりする。
 生きている証。
 生きている税金なのだろう。
 合議とは遠く、いつも折れている自分を発見している。

4.創作
 どうであれ、世界をつくることが、プログラミングであれ、小説創作であれ、目的となっている。
 自分の求める世界を創ること。
 これは社会を否定的に考える帰結かもしれない。
 社会も人も、私の思うようには思わず、行動もしない。人の考えた規制が私をぎりぎりと縛り上げてくる。なんとなく、水を含んだ革紐のようだ。
 会議と創作とは、ペア概念のようだ。
 会議があるから創作する。創作するから会議が紛糾する。

5.鑑賞
 読書でも、芸術鑑賞でも、人の観察でも、鑑賞するのは目によい、心によい。

*.まとめ
 私は日々、こうしている。
 鑑賞が一番気持ちよい。エネルギの源泉のようだ。
 暇と言えば暇だし、とはいうものの、上記1~5を日々定常的にこなすというのは、なかなか気苦労も多いし疲れもする。五つのうち、3の会議だけが無闇に否定的になっている。ところが、もし3がなくなると、想像だが、おそらく私はなにもしなくなるかもしれない。会議という外圧があって、はじめて内圧が高まるのだろう。

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2006年5月14日 (日)

NHK功名が辻(19)竹中半兵衛の死

承前[MuBlog:軍令違反
参考[MuBlog:竹中半兵衛

 昨夜(日曜夜9時すぎ)は、ココログ入力がいつもの20倍もおくれる。故障しているみたいだった。
 今朝(月曜の朝)見てみたら、投稿したのに、表示されていなかった。
 故障だな。

さて、
 摂津(伊丹市)にこもる、荒木村重の有岡城攻撃の陣中で竹中が死んだ。
 安土城が着々と建設されていった。
 「天主」、天守閣と思っていたが、天主とは信長の傲慢さのあらわれか。

 明智光秀の娘「玉」が細川家に輿入れした。
 相変わらず、一豊は信長や秀吉に不信感をつのらせていった。
 ドラマとしてはいささか暗い一夜だった。 

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三番隊長2005レスタトの置きみやげ

肖像画

MuPhoto
 ユトリロが、酔っぱらいだから町に出ると官憲にしょっ引かれたにもかかわらず、モンマルトルの下町を数百枚描いた、どうやって街の白い壁を~。TVでそんな番組があった。答えは、絵葉書を見て、とのことだった。葛野の三番隊長2005レスタト氏は、デジカメの写真を見て、現代の若者や初老を肖像画にした。そんな置きみやげが、今春あった。

荒木飛呂彦のデザイン

ユニクロ+荒木飛呂彦のTシャツ拡大
 あたかもレスタトのように、影も見せずに、ある日突然部屋にあらわれ、もう一つの置きみやげを、置いていった(笑)。たまたま在室だから直接受け取ったが、本来ならば不在の日、時間だった。部屋に飾ればよいでしょうとのこと、~。荒木先生のユニクロとの提携で作られたTシャツで、即日完売のしろものらしい。ありがたい、と合掌。

ユニクロ+荒木飛呂彦のTシャツ

ユニクロ+荒木飛呂彦のTシャツ

 年に何回か、倶楽部ご隠居さん達が立ち寄ってくれる。ドアノブに大抵なにかぶら下がっている(笑)。うれしいもんだ。今回のお礼には、いま読書中の『ヒストリアン』を貸しだそうと決めた。
「ドアにかけておくから、帰りに持っていってください」と、こんな様子だなぁ。

 ヒストリアンは、いずれ感読し終えたなら、記事にする。ただ、途中経過ではあるが、吸血鬼伝承の極みになる図書だと味わっている。これは、想像以上の作品だ。ベストセラーの要件を何一つ兼ね備えていないのに、じんじんと迫ってくる。賞賛する言葉を、……もどかしいのだが。一巻の終盤に至るも、波瀾万丈がない。なのに、イスタンブール、ビザンチン帝國陥落、オスマントルコの隆盛が眼前に迫る。現代の作品であり、歴史小説ではない(と、言い切る)。
 オックスフォード大学キャンパス、図書館が身体全体を包み込んでくる。そんな図書館、図書、古書、街の片隅に見え隠れする串刺し公、というよりもヴァンパイア。
 なんとも、言語芸術とはすばらしいものだ。
 これを、いずれ置きみやげへのお礼に、お貸ししよう。気前よく差し上げないのが、図書館学者根性(笑)。

追伸 『ヒストリアン』メモ
 この作品は、私も以前熱中したダ・ヴィンチ・コードとは、別の文藝世界観によって描かれている。強いて申せば、アン・ライスの極上部分だけを、さらに極めたともいえる。いや、そういう比較はしない方がよかろう。自立した現代作品だ。

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2006年5月13日 (土)

εに誓って/森博嗣

承前[MuBlog:τになるまで待って(Gシリーズ3)]

εに誓って/森博嗣

εに誓って/森博嗣
 予定通り、購入してその日の内に読了した。実は今日土曜日午後のこと。「涙」というものについて味わった。それも青年の涙だ。心のおりを洗い流すということに、青年は切実に涙をもとめているのだと実感した。そういう涙を恋愛以外の場で登場人物に流させ、そして読者に流させると言う点で、作家森博嗣をあらためて見直し、眺めてみた。

 森読者の多さについては以前から分かるようで分からないことが多々あった。小説というよりも、モリログアカデミを日々読んでいて、随分難しい内容や、そして表層文だけなら皮肉な内容が多いのにもかかわらず、依然として、そうこの十年、読者を手放さない作家に、いつも不思議な目眩をあじわってきたのだ。今日も京都駅新幹線南の大規模書店に、まっさらな森・新刊書が『国家の品格/藤原正彦』以上に大きなスペースをとって、山積みしてあった。

 そのことのわけが、今回のGシリーズ4にあたるε(イプシロン)で解けたかどうかは、実は私にはわからない。分からないところが、私なりの自立だと思ってはいる。私は森博嗣に味わう目眩を確認するために、こういう記事を書いている。分析しようとか、物まねしようという気持ちからは遠い。私には、永遠に若い人たちの気持ちはわからない。ともかく、なぜ森博嗣が、このわかりにくい世界や青年の気持ちを捉えているのか、そういう謎にいつも惹かれてしまう。

 「死」とか「人生」を現代青年のある部分がどのように味わって今、生きているのか、そういうところが切々と胸に迫ってきた。それは、どれほどのものかというと、おそらく四十代半ばを過ぎたであろう作家森博嗣がどうして、こういった、フリータのような、卒業後三ヶ月で辞職、転職する現代青年の気持ちを理解できるのか、そこが不思議でならなかった。と、おもわせるほどリアルに若い人の気持ちを、さらさらと描ききっていた。
 さらさらというのは、軽くという意味ではない。今回の印象では、色彩が少なく、かといって水墨画のような枯れたものではなくて、水そのもので人物やその気持ちを描いた、と、そんな風に思えた。
 そういう描写が、青年の気持ちを捉えて離さないのだろうと、半ば得心した。

 恐ろしいのは。
 青年のそんな心象風景が実は「死」と隣り合わせになっていることだ。
 私の感想としては、数年前にスカイクロラを読んだ時、痛切に味わった怖れだった。実はこの記事にそれを書くのも躊躇する内容だ。と、おもったまま数年経ってしまった。だから、私はスカイクロラ・シリーズの以後を読んでいない。読者、ファンとして怠けているのじゃなくて(笑)、よくまあ青年はああいう怖い小説を読むもんだ、という本心からである。

 そういう怖さが、このGシリーズにも色濃い。にもかかわらず、私が喜々として毎回一気呵成に読むのは、これがミステリだからだ。ミステリは文学総体から考えると、工作したり、プログラミングをしたりする楽しみに似ている。文学好きには「ミステリは文学じゃないよ。死からもっとも遠い世界のものです」といい、ミステリ好きには「ミステリは、やりようによっては、読みようによっては、文学総体を司る機能をもっているね」と、使い分けてきた(笑)。
 しかしなお、ミステリであると標榜しているかぎり、ミステリは死から最も遠い地点に立つ文芸の一派である。
 にもかかわらず、この青年の死への、死に急ぎするものたちへの、挽歌ではない、観察の鋭さ、冷徹さはいかなるものぞ。

 さて。
 ではミステリとしてはいかが相成る物か。私は、またしても、そう幾度となく、今度もまた、森センセの詐術にまんまとひっかっかった。雷鳴の暗黒西洋館も、笑う双子の姉妹も、夜歩く西洋甲冑も、なんにもないのに、しらずしらず騙されて、やがて、ギャーと叫んだ。高速道路を深夜パトカーに伴走されてたった一台走るバス。作家は騙り、詐術を弄する。その落とし穴に、まんまとはまって「にっこり」笑う読者ここにあり、あははは。
 お見事。
 というか、ああいう繊細な若者の気持ちを描き尽くしながら、どうして、またああいう大技を考えつくのでしょう。やはり、悪魔的です。

追伸
・森博嗣はこのたび、ヘルマン・ヘッセのシッダルタを巻頭に上げた。章ごとにある。青年の心象に合致していた。
・φ(ファイ)、θ(シータ)、τ(タウ)、ε(イプシロン)と、ギリシャ文字Gシリーズは、ここまで来ると、なんとかコードみたいな、というかアナグラムというか、文字並べを疑りだしたが、残念ながら私はギリシャ文字がよくわからないので、だれかがどこかで解き明かしてくれるのを待つより仕方ない。

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2006年5月12日 (金)

文学の志についてメモ

 授業も会議も無かったが、午前中一仕事して、葛野にきた。
 しばらく学生と図書購入手続きを相談したが、やがていなくなった。
 
 そのあと、心つもりはいろいろあったが、結局MuBlogのダウンロードを片付けることにした。だが、ダウンロードしたデータが、少しずつ増大してきたのでDBMSに格納する変換ソフトがおかしな振る舞いをするようになり、またXMLデータを上手に処理しなくなった。いずれ根本的な治療が必要なのだが、昨今プログラミング言語を操る気力と時間がなくて、一応応急処置をして、この件おわった。

 ぼんやりしていると、目に、日本思想大系が入った。ずっと以前から、伴信友『長等の山風』をよみさしたまま机上に飾ってある。どこまで読んだかも忘れた。いろんな想念がこの十年あったので、少し読んでは後戻りして、放置して、また読んでの繰り返しだった。幕末ころの作品なので、現代文のようにはうまく読み取れない。
 ふと気になって、学者の解説文を読んだ。よくまとまっていたし、信友の限界も記されていて、1973年ころの研究者の信友評価がよく分かった。現代は知らないが、いまから30年ほどまえの学問、思想解釈では、信友はそれほど高い評価はされていなかったようだ。

 うむ、とうなずいて次に、保田の全集に手を伸ばした。なぜ「信友をしっかり何度も読まねばならぬ」と、この20年近く考えてきたのか。
 保田の『萬葉集の精神』を読み解きたかったからである。
 万葉集の精神を最初に読んだのは、22歳ころ大学の学食で、クーラもない当時、夏休みに読み終えた。それから時々部分部分を読み返し、今に至ってしまった。
 今年2006年の夏は、ようやく一夏かけて読み直そうと決心している。
 その為には、準備が必要だ。わかいころのように、猪突猛進するわけにもいかない。いわゆる熟読玩味をしてみたい。いくつもの準備が必要になる。
 家持のこと、壬申乱のこと。

 近世の国学者は、国文よりも国史にいったという一説を思い出した。

 それで、保田の中からいくつか確認した上で、さっき『皇臣傳』の中から「伴信友」を抜き出し、一気に読み終えた。「志」という言葉がキーになっていた。方法論、技術、別の思想の導入、そういうことは後でついてくることだし、思想にいたっては、はなから別の定規を用意して古典に当てはめるのは、逆立ちした考えであると、激しく描いてあった。
 私は、皇臣傳は、いささか文章が硬いので保田の中ではあまり読んではいなかったのだが、選んだ文中で、本居宣長を記したあたりから、俄然、伴信友が光ってきた。どう光ったかは、まあよかろう(笑)。

 それで得られた今夕の心おぼえは、やはり信友の「長等の山風」は何度もよんでおかないといけないこと。それと、保田の記した伴林光平『南山踏雲録』のうち「花のなごり」を読むこと。この二つを得た。いずれも読んだが、いつよんだか忘れてしまっている。別途、古語拾遺についても言及があったが、これは以前から古事記と同じ扱いをしてきたので、まあよかろう。

 それで。
 日本思想大系による「長等の山風」に関する結論は、それが、大友天皇の考証と、園城寺が大友皇子の遺命によって建立されたことの考証であり、二つともそれほど大きな意義はないと記してあった。
 もしこの通りならば、私が今夏『萬葉集の精神』を読み解くのは、なんというか、田舎老人唯野教授の暇つぶしにしかならない。つまり、保田は萬葉集解釈を、信友の志から解き明かしているのである。

 私は、今夕、保田から「志」について、より切実に教えられた。
 おそらく、人の志が、家持に万葉集を編ませたのだろう。無意識に、人の志が国の歴史の顕れと感じたから、万葉集は残ったのだろう。いま、ふとそう思った。詞藻、言葉、歌、~言葉の綾が人を動かすのじゃなくて、志が時々光るのだろう。 
 歴史鑑賞も、文学鑑賞も、人の「志」のなんたるかを意識して、臨めば、また別の相が顕れてくる。そう思った。

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2006年5月 9日 (火)

前方後円墳の航空写真

 最近になって航空写真が見られるインターネット上の地図サービスを知った。知り合いのblogがなにげなく使っているのに気がついたわけである。
 以下に、私が気にかけてきた前方後円墳を航空写真として見られるポイントをしるしておいた。おいおいに、追加しようと考えている。
 地図サービスは、「livedoor地図情報」を使った。関東と関西以外は、2.5km縮尺図なので古墳を見るには小さいが、富士山なんかは驚くほど鮮明だ。
 しばらくは、100mの縮尺で見られる関西を中心にまとめておく。三輪山や崇神天皇陵などのある奈良県は、ざんねんながら、2.5km縮尺しかない。

注意:
 クリックしたなら、画面上部に「航空写真」とあるのでそこを再度クリックします。
 ブラウザの画面は最大に広げておくとよいです。

1.仁徳天皇陵(学術的には、「伝」としたり、単に大仙古墳と言うようだ)
  大阪府堺市堺区大仙町
  感動的写真です。250m縮尺でないと全体がおさまりません。大きいです。現地に行ったことがありますが、そばでみても、単に大きな森にしかみえません。航空写真の威力はすばらしいです。

2.応神天皇陵
  大阪府羽曳野市誉田6
  堺から奈良へ向かう時、高速道路からちらっと見ただけです。これが河内王朝を開いた方の前方後円墳だと思うと、身が震えます。

3.日本武尊白鳥陵
  大阪府羽曳野市軽里3
  あさじのはら こしなづむ そらはいかず あしよいくな~
  応神天皇陵のすぐ南です。なんとなく小綺麗に見えますね(気のせいかな)。ファンがおおいのでしょうか(笑)。

4.今城塚古墳(真説・継体天皇陵)
  大阪府高槻市郡家新町
  空から見るとやはり前方後円墳に見えます。ここは100m縮尺です。つまり拡大したわけですが、それでも仁徳、応神に比べると小ぶりに見えます。もちろん現地にいくと、大きいですよ。

5.明治天皇伏見桃山陵(円墳です)
  京都府京都市伏見区桃山町古城山
  明治天皇さんの御陵は上空からみますと円墳です。小さく見えますが、陵域は相当にあります。桃山全体が明治さんのお休みに成られるところと、明治政府は考えたのでしょう。100m縮尺です。
  なお、現在明治さんのおられる近辺が、秀吉の造った桃山城天守閣跡のようです。たしか徳川家光の時代に破城となったように記憶しています。さらに、この陵の北西隅に桓武天皇陵があります。

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2006年5月 8日 (月)

水無瀬殿(みなせ)→水無瀬神宮

水無瀬神宮(大阪府島本町広瀬)地図←地図上覧にある「航空写真」をクリックする。

 最近ずっと頭の中に、後鳥羽院の歌が浮かび沈みしている。
 歌人、歌学者でもないので空でしるしてみると、この歌だ。

 「みわたせば 山もと霞む水無瀬川 ゆうべは秋と なに想いけん」

 空のことだから、ちがっているかもしれないが、なにか典拠をひもとくと、記憶のイメージがこわれそうなのでこのまま記す。後鳥羽院は、後白河法王が手招きした時、笑って膝にのった皇子だったらしい。だから天皇にえらばれたが、そのころは源平の壇ノ浦の合戦によって、安徳天皇もろともに三種の神器が海に沈み、そのために神器なき天皇として世に知られ、なかなか複雑な方だった。
 後鳥羽院は、遊び好きな方だったらしく、遊び場として鳥羽殿とか、水無瀬殿を修理して使い込んでおられた。このあたりの事情は、私が高校生のころ学び、その後読んだ増鏡(ますかがみ)に描かれている。

 その水無瀬殿の跡地に後鳥羽院の菩提寺が造られて、後に水無瀬神宮に変わったらしい。後鳥羽院は当時の鎌倉幕府と戦争をして敗れ(1221:承久の乱)島根県の隠岐の島に流され、そこで生を終えた。歴代天皇の中でも最優秀の歌人であり、新古今和歌集という歌集の編集者として有名な方だ。この勅撰和歌集は、藤原定家という人も深く関係している。

 ところで。
 最近地図をみていると、航空写真が見られるもののあることを知った。「livedoor地図情報」とあった。
 これで観てみると、水無瀬川は水無瀬神宮の北に流れている。川筋は変わるものだが、1200年前後ころ、もしこのままだったとしたならば、水無瀬殿と水無瀬川は距離にして200m以内である。後鳥羽院は川のそばまで歩いて歌を詠んだのか、それとも水無瀬殿から詠んだのか、あるいは日頃眺めている景色を思い出して、歌会や宴席で詠んだのか、あれこれ航空写真をながめて想像していた。

 山もと霞むだから、きっと西北西の山を見て詠ったのだと思った。
 しかし歌詠みは作家でもあるから、事実は東の淀川と、その向こう岸にある男山だったのかもしれない(笑)。
 水無瀬川を詠んだふりして、目には淀川の風景があった、と考えるのもおもしろい。

 ただ、私はやはり水無瀬川だったと思う。理由は単純で、地名などの呪縛は相当に強いと考えているからだ。
 ここでもし私が国文学・歌学の専門家ならば、はたして当時、水無瀬川がそこにあったのかどうかまで、こっそり検証しておかないと、あとで酷い目に遭うかもしれない。
 まことに、学者、専門家とは、不自由な仕事である。

 いつかまた水無瀬神宮を訪れてみたい。

参考
  菊帝悲歌/塚本邦雄[MuBlog]
  保田與重郎著作集第二巻/保田與重郎著[MuBlog]

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2006年5月 7日 (日)

NHK功名が辻(18)軍令違反、秀吉謀反

承前[MuBlog:秀吉と柴田

信貴山(奈良県平群町信貴山)地図

 今夜の一話はいくつか含みのあるものとなった。

1.秀吉の暗さ
 秀吉が一豊を、槍だけのイノシシ武者として扱い、粗略にしだした。そう言う意味では蜂須賀一党も、似たようなものだが、なぜ一豊だけを、信貴山攻略中に、危険な松永弾正説得の使者につかわしたのか。もしかしたら、秀吉は千代に横恋慕したのか。部下を死地に追いやり、残された女性をわがものにするという悪辣さは、いかにも秀吉らしい。
 なんとなく一豊は、秀吉や信長のやり方に疑念を強く抱くようになった。
 先回は、山内夫婦は光秀の坂本城に招かれおだやかな日を過ごしている。
 後世、一豊が徳川に味方したことの伏線かもしれない。ちょっと早すぎるが。(まだ、信長、秀吉は生きておる)

2.光秀と濃姫
 信長の妻、美濃の道三の娘、濃姫が明智光秀と昵懇(いとこ?)だったことを強く描写していた。二人の逢瀬にちかい現場を、信長の妹、お市の方に見られている。
 となると、このドラマでは、後日の光秀謀反は、濃姫と信長と光秀の三角関係を匂わす。

3.猿楽師たち
 秀吉の能狂いはつとに有名である。この時代以降、徳川も、そして伊達も能が好きだったようだ。
 観たことはないが「秀吉」という、秀吉の生涯を描かせた演目があるらしい。
 今夜は、この猿楽師たちが、芸能人スパイとしてほのめかされていた。さもありなん。
 一説には(笑)、足利義満時代以来、能楽師(申楽師)達は権門勢家に出入り自由な間者集団だったと、ある。
 能という言葉は大体明治以降に使われ出したようなので、当時は猿楽、申楽というておったようだ。
 
☆松永弾正(久秀)の描き方がよかった。今夜、最期はヒラグモの釜に火薬をいれて信貴山で自爆した。
 なお戦国、下克上の雄(笑)松永弾正については、山田風太郎『伊賀忍法帖』(講談社文庫)に、うそうそしいまでにおもしろく、波瀾万丈の悪役として色濃く描かれていた。これは凄いですよ。

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2006年5月 6日 (土)

GWのおわり:2006年5月

 今日は5月6(土)、四月末から始まった私のGW:黄金休暇週も、明日で終わりになる。またはてしない労苦が始まる、とそわそわ。
 今年は計画らしいものもなく、信楽の山中に美術展を観に行ったり、いつのまにか京都市右京区になっていた京北周山町(旧京北町)へ、ステーキを食べに行っただけだ。あとは木幡と葛野で交互に昼寝していた。本当に黄金週だったなぁ。
 のんびりして、読書してご飯食べて、お風呂にはいって~。新幹線や高速道路で難儀している人を想像して、うふうふと邪笑していた、この人の悪さ。

 さて昨日は夕方早々に葛野の机上をさばき、京都駅までエドルン君の帰京を、迎えにいった。60分P(駐車場)で待ち行列するほどに混んでいた。新幹線改札の前は人の山、近所のトイレでは、ご婦人たちが通路まであふれて10mほどの待ち行列。店店はどれも満員だった。近辺ホテルの小型バスが何種類も、ひきも切らずに出入りしていた。お客さん、間違って乗らないかと心配だった。

 新幹線に乗るのはいまだに贅沢に思える。高額所得者だけが乗る乗り物だと、心の片隅で思っている。その駅に、かくも人、人、人。日本は豊かになったんだねぇ。

 エドルン君は重いバッグを持っていた。中身はプレイステーション2、一式と、幻想水滸伝。私が所望というか、「見たい」と頼み込んだ代物だ。帰路、現今のゲーム業界の話になって、幻想水滸伝は一種のクラッシックだと知った。『幻の古代王朝』というクラッシックを、復刻しようと話が煮詰まってきた頃に木幡について、それでゲーム話は終わった(笑)。
 その夜は、周山「登喜和」肉ですき焼きだった。いや。うまい。本当に美味しい肉だった。

 さて、今日土曜の午後は黄金週最後の催し物、出雲会・総会がある。
 この話は、またいずれ。
 けど、みんな社会人になって青息吐息なのに、この五月病時期、集まるのが不思議だ。座長は旧・副長2005、さすがにしぶといなぁ。

 明日は日曜なので、木幡で完全に田舎老人唯野教授のふりして、歌でも一首、二首。(想像すると自笑)へぼ俳句もよかろうか。そろそろ余生の趣味をな。

 忘れていた。読書のこと。
 あまり読めなかった。読む前に書け。自分の書いたものは読むとは言わない。しいてもうせば、査読するだな。
 それで、一ヶ月ほど前に買った図書のうち、『ヒストリアン』(NHK出版)という上下大作に取りかかっている。まだそのⅠの数節なので何とも言えないが。16歳くらいの少女が、父と父の恩師の話を、現在大学教授の立場で語っている。ヨーロッパの15世紀ころに端を発した、見てはならない、知ってはならない歴史の重層に、絡め取られてしまった現代小説である。
 帯には「全米No.1ベストセラー、ついに日本上陸。ハリウッドで映画化決定!」としるされていたが、はて、仲人口というか、こういう情報はよくわからんなぁ。

 ただ、私のその数節の感想では、おそらく読み切ってしまうことだろう。今は、ヨーロッパを父親と16歳の少女が旅行している最中なのだが、行く先々の描写が丁寧で、雰囲気がじわりじわりと濃くなってきている。アン・ライスの時もそうだったが、私はこのエリザベス・コストヴァという女流の描く、歴史と風景の融け合った表現に気持が入っていくようなのだ。
 おたのしみ。

 ああ、そうそう連休あけに森博嗣『ε』(イプシロン)がどうしたという、Gシリーズが出る。9(火)らしい。これこそ、一気呵成に、半日で読むつもり、眼鏡をなくさないようにしよう。最近自動車免許の更新で「次、五年後には眼鏡が必要ですねぇ」と言われた。今も、読書は眼鏡なしではまったく無理。そのうち、自動車も免許と眼鏡必携になるのかなぁ。生まれて以来、歳月がたったのだろう、のう。

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2006年5月 5日 (金)

登喜和(ときわ)のステーキと春の京北周山町

登喜和:ときわ(京都市右京区京北周山町・JR周山駅、信号の北)地図(概略詳細

登喜和のヒレ・ステーキ

登喜和のヒレ・ステーキ
 周山のトキワ(登喜和)の噂は随分前から聞いていた。もしかしたら私が20代末に耳にしていたかもしれない。二年前にMuBlogで「常照皇寺」を掲載したとき、旧知が登喜和のコメントをくれたので、それ以来意識に登ってしまった。2006年5月4日、GWの真っ直中、午前11:30開店と同時に入り、ヒレ・ステーキにした。150グラムとこぶりだが、これはグラム単位でなんとでもできる。私は一番小さいのにした。店を出た後、次回は250グラムにしようと思った。塩と胡椒で焼いた、見かけの数倍上品な味だった。このお店は実質勝負だと思った。店を出るときは、行列ができていた。大抵グラビア雑誌、旅行雑誌を手にしていた。なかには近所のオジサン、おばさんも混じっていた。
 ここは、11時半必着の店のようだ。

登喜和の店内
 ステーキとすき焼き肉は、牛の識別番号を公開していた。オーナーの気合いが入っていた。

登喜和の店内

登喜和のメニュー
 純粋国産牛肉、ステーキがこのお値段というのは、なかなか真似のできないことだ。とはいうものの、絶対額としてお昼にこれだけ出すのは、夕食はお茶漬けか、ぬきにするかの瀬戸際だ。今度行くときには、定食もよかろう(笑)。

登喜和のメニュー

登喜和の建物
 JR周山バス駅の北に信号があって、すぐそばに看板が見える。

登喜和の建物

周山の春

周山の山の春
 周山の春の山。ここは北山杉の里だから、直立した杉の植林が自然の景観になっている。しかしその間にところどころ、モミジなのかイチョウなのか山ザクラ。よくわからないが杉とはことなる樹樹が春を楽しんでいる。圧倒的な色彩だった。言葉がみつからないのだが、だれかが山々をキャンバスにして、さっさと筆を流した、そんな気がした。

山模様
 こんな不思議な山の姿はみたこともない。どんな事情だったのだろうか。想像→この山の一部だけ杉嫌いの人の所有だったかも(笑)。

周山の山模様

慈眼禅寺

慈眼禅寺
 ステーキは午前11時半からだったので、登喜和の裏に駐車して回りをあるいてみた。こざっぱりとして、それでいて威厳のある禅寺があった。中には入らなかったが、近所にお寺の会館もあったので、遠くからの参拝者もあるように思えた。信仰心の薄い私は、寺を風景として捉えた。古色。それが落ち着きの原因なのだろう。仏陀や禅師が古色とは思わない。日本の寺が風景の中で古色なのだ。佳い。

銀杏の巨木
 古色の寺を際だたせているのが日本の山や木や水。田園風景なのだろう。寺の裏山は色彩にあふれていた。

慈眼禅寺裏の銀杏の巨木

古井戸
 なぜこの井戸を撮したのか、うふふ。私は、こういうのが好みなんだ。それだけのこと。この古井戸に由緒があるとは思わない。

慈眼禅寺近くの古井戸

篠山藩周山代官所跡
 丹波篠山は数年前に行った。何年も印象に残るほどによい地勢だった。その領域はこの周山にまで及んでいたのだ。

篠山藩周山代官所跡

 こうして、
 宇治の木幡を5月4日(木)の午前9時に出発し、11時前に着いた。登喜和のレストラン部は11:30開店なので、それまで販売部の方で肉を買ったり、近くの慈眼禅寺や、代官所跡を写真に撮し、それに鞍馬方面の道のそばの、木材を中心にした土産物店ものぞいてみた。
 その中で、山々の姿がよかった。春の山は見飽きなかった。

 木幡帰還は、まだ三時前だった。ひととき昼寝した。ゆっくり、あっさりの休日は佳い。

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2006年5月 4日 (木)

山ツツジと522号線:滋賀県信楽町朝宮

朝宮(滋賀県甲賀市信楽町上朝宮)地図

 一昨日、山中の曲がりくねった道を走っていた。
 一車線しかなく、普通なら走らないような道だった。
 ……。
 そこに入るまでの、宇治から宇治川添いの天ヶ瀬ダムを通って、琵琶湖瀬田・唐橋にぬける道は近頃味わうことのないドライブの良さだった。水が豊かに流れ、奇岩はないのだが、おちついた山水図絵をつぎつぎと巻き上げていくようだった。山にはまだ山桜が点描され、地は緑で光っていた。遠くの山なみは徐々に空の青に融け、眼前には明るい翠、風、行き交う車もなく、爽快この上なかった。
 鹿跳橋で右折して宇治川を渡った。南郷洗堰の手前だった。
 そこからが、冒頭の山道、県道522号線に通じていた。

山ツツジ

山ツツジ
 狭い山道の両側に、突然水彩画が現れだした。鮮やかだった。車を停めてそばによると、花が桜ほどに小さく見えた。躑躅(つつじ)だった。町中でみるのはもっと花々が大きくてどっしりしている。しかしこの滋賀県甲賀の山中では、小さなツツジが紗のように山の翠を透かしていた。目を遠くに向けると、色が互いにすっと融け合いながら、波打っていた。

岩谷川
 熊笹の間に水があった。おだやかな流れだった。蕨(わらび)があった。

岩谷川
 

山ツツジと翠
 山はなぜ、春になると色鮮やかになるのだろう。薇(ぜんまい)もあった。

山ツツジと翠

RS

RS
 平坦地でしばらく車を、アイドリングのまま休めた。それまでシフトはずっと「S」にしていた。昔風にいうと、3速:サード位置。RSのオートマティックは無段変速で、とりわけSにする必要はないのだが、そうしてみると、なんとなく縦横無尽に走る感がした。どんなヘアピンカーブも、どんな上下道も、タイヤが山道に吸い付いたように走った。ライトをつけて左右の窓は空けて走った。一車線だから対向車にできるだけ派手に走行を知らせたかった。音も聞きたかった。さらに路面状態を知りたくて、靴を脱いでペタルに足を置いていた。ルール違反と言われそうだが、ブレーキは両足で踏ん張った。

山ツツジ姫
 花知らずの私には、ツツジなのか桜なのか分からなくなった。

山ツツジ姫


 雉も鳴かずば撃たれまい。茂みにフラッシュを向けたら、一斉に四羽飛び立った。

雉

 休日の一日は、このあと「ニューヨーク・バーク・コレクション」に続いていた。

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2006年5月 3日 (水)

二十三万アクセス

承前 二十二万アクセス(2006.04.02)

 みなさんいかがお過ごしでしょうか。今朝の今は、五月三日の午前3時ころです。夜更かしとは思わないでください、昨夜も例によって八時過ぎにはこてんと倒れてきがついたら午前一時すぎでした。何の気無しにMuBlogを覗いたら23万アクセス+22あって、あわてて記事作成にはいったのです。
 ゴールデンウィークだというのに、深夜にblogを書いているなんて、まことに根暗なことです。

 先週はアクセスが低調でした。
 また掲載も4月23(日)に書いて、次は29(土)でした。原則毎日を決めていたのに、異例でした。
 今年は桜狩りを全くできなかったのも事実ですが、事情がかさなって四月の掲載記事数は平均を下回り、22記録でした。こういうこともあるのでしょう。

(1)本日記録
 対象日: 2006年05月03日(水)
 観察時間: 01:44
 合計数:9(本日)
 累計アクセス数: 230022
 1日あたりの平均: 296.04

 記事数: 720 | コメント数: 3163 | トラックバック数: 500 | ライター数: 1

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(2)先週:検索ワードランキング(4件以上のみ)
対象日: 2006年04月24日(月)~ 2006年04月30日(日)
合計数:1543

順位 検索ワード 件数
1 じぶり 58
2 京都 40
3 地図 27
4 常照皇寺 27
5 ハードディスク 21
6 継体天皇 13
7 佐野藤右衛門 13
8 交換 12
9 小りん 11
10 ノート 10
11 伏見 9
12 魚三郎 9
13 ラーメン 9
14 ノートパソコン 9
15 EG-SATA3525 8
16 キルヘボン 8
17 カフェ 7
18 宇治平等院 7
19 功名が辻 7
20 長岡京 7
21 奈良 7
22 宇治 6
23 分解 6
24 写真 6
25 十二国記 6
26 桜 6
27 浅井長政 6
28 19巻 6
29 じぶり美術館 5
30 PowerMacG5 5
31 ダヴィンチ 5
32 ハードディスク交換 5
33 河原町 5
34 北方 5
35 メビウス 5
36 水滸伝 5
37 西京極 5
38 コード 5
39 細川 5
40 漫画 5
41 謎 4
42 ダヴィンチコード 4
43 長岡京市 4
44 平等院 4
45 李富 4
46 本店 4
47 聖徳太子 4
48 パソコン 4
49 平等� 4
50 甘樫丘 4
51 三条 4
52 新撰組 4
53 万葉集 4
54 20世紀少年 4
55 シャープ 4
56 大阪 4
57 淀川河川公園 4

 とりたてて変わったアクセスはないようです。

(3)先週:検索フレーズランキング( 3件以上のみ)
対象日: 2006年04月24日(月)~ 2006年04月30日(日)
合計数:475

順位 検索ワード 件数
1 北方  水滸伝 3
2 ラーメン  西京極  細川 3
3 文庫本  法隆寺の七不思議 3
4 桜守  佐野藤右衛門 3
5 奈良  大伴  藤原  氏族制 3

 細川ラーメンは一週間に一度は訪れているのですが、独立した記事にはまとめていません。なんとなく、食べることに専念しすぎると、そういうわずらわしいこと(笑)は、考えたくないものです。
 {奈良、大伴、藤原、氏族制}という固い内容があがりました。これは三月に長岡京についてまとめたことが原因だと思います。今年は前倒しして、もうすぐ保田與重郎『万葉集の精神』について考え出すので、徐々にこの関係記事がMuBlogのそこここに漏れだしてくることでしょう。

 過去の歴史を考えるとき、以前も今も、タイムマシンがあったなら、と考えてきました。しかし。しかしですね、現代に住んでいても、生きていても、現代の歴史をきっちり把握できるわけではありません。おそらく、現代の個々のインテリや政治家や芸術家にインタビューしても、それぞれがばらばらで、よい結果は生まれないことでしょう。

 となると、逆に、タイムマシンの有無は歴史を考えるに、最適のツールでもないということです。
 歴史とは、おりおりに才能のあるかたが、えいとつかみ取って、やぁと、把握するのが像を明確にするのかもしれません。
 保田というひとは、たしかに、私に長期間にわたって、日本の古代、そして歴史を、見せ続けてくれた昭和のすぐれた文人でした。あえて文学とは申しません、歴史です。だからこの人が想像した大伴家持を、ふたたび探ることによって、私は日本について、なにか確かな像をえることができるのかもしれません。

 というわけで、図書というものがあればこそ、この我が身の小さい身体の中で、過去も、そしてなにがしかの全体像も、分かることができるのです。図書館とか蔵書とかは、大切だと思った次第です。

(4)先週:曜日別
対象日: 2006年04月24日(月)~ 2006年04月30日(日)
合計数:1459

曜日 アクセス数
MON 248
TUE 169
WED 167
THR 173
FRI 205
SAT 222
SUN 275

 アクセス数の少なさが目立ちます。しかし。これが普通なのかも知れません。季節物の「桜」への手当がなくて、掲載記事数も少なくなるとアクセスは減るものですが、なんとなくほどよい手触りとも、味わっております。

(5)先週:記事ごとランキング(1%以上抽出)
対象日: 2006年04月24日(月)~ 2006年04月30日(日)
合計数:1459

順位 URL パーセント
1 http://asajihara.air-nifty.com/mu/ 11%
2 http://asajihara.air-nifty.com/ 7%
3 http://asajihara.air-nifty.com/mu/2004/05/post_6.html 5%
4 http://asajihara.air-nifty.com/mu/cat573003/index.html 2%
5 http://asajihara.air-nifty.com/mu/2006/02/prius_62b1.html 2%
6 http://asajihara.air-nifty.com/mu/2004/04/post_13.html 2%
7 http://asajihara.air-nifty.com/mu/2006/01/post_e704.html 2%
8 http://asajihara.air-nifty.com/mu/2006/04/post_184c.html 1%
9 http://asajihara.air-nifty.com/mu/2006/03/post_c8a0.html 1%
10 http://asajihara.air-nifty.com/mu/2004/04/post_2.html 1%
11 http://asajihara.air-nifty.com/mu/cat592694/index.html 1%

(6)感想
 最近、鮮やかな写真を掲載できません。出歩くことが少ないのと、意外にも手ぶれがおおいのです。あわててとると大抵ぶれていますね。写真は写心と考える私の気持ちからは、これは世界を観る目がゆれているのかもしれません。それはそれで、万華鏡をみている気分にもなり、よいものです。

 やたらと、世に言うファンタジーものが私の前に積まれていきます。ファンタジーとは考えてはいなくて、読みたい物、読む物、見る映画(DVD)が、たまたま世上ではファンタジーと言われているような、それだけのことです。

 五月には森博嗣先生のGシリーズ新刊がでるようです。はて、これはファンタジーなのか、ミステリィなのか、小説なのか、難しいところです。
 かくして、MuBlogの2006年5月も、日々更新されていくことでしょう、生あるかぎり。
再見 

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2006年5月 2日 (火)

五月二日の端午のよもやま話

 昨日の五月一日は昼前だったか、四条大橋での外気温が27度cあった。噂では静岡で30度を超えたらしいので、春というよりも初夏なんだろう。今朝は予報では20度を切ると聞いたが、なんとなく暖かくて、さっき午前六時にはものすごい雷があった。

 昨日は、南座北のとんとん来でチャーシューメン、750円。久しぶりにチャーシューの旨味を味わった。そのあと、寺町のドスパラによって2.5インチ、5200回転の80GBハードディスク(東芝)と、マウスを買った。前者は以前の60GBの値段で80GBが一万円、後者は二千円だった。

 ハードディスクの値段も時価というか、変動が激しい。全般に下がる傾向がある。マウスはロジテックの赤くてちいこいやつで、ケーブルをマウス本体に巻き上げぴたりとおさまる仕組みがよかった。持ち運びするときに、USBケーブルがぶらぶらするのは気色悪い。なら無線にすれば、と耳に幻聴、ところがなMS社の無線マウスはでっかい、重い。非力な私には、マウスの重ささえちかごろ身にしみる。

 昨日は葛野について無人とおもいきゃ、授業もないのに学生の姿が散見し、屯所にも某が来ていて、なにやら仕事をしていたのか、音楽をきいていたのか、わからない。私は、研究室で並行して二つの仕事をやりはじめた。一つはいくつかの会議の合議を教室ではかるために、解説をつけて資料をメールでまわし、必要な物は紙にコピーして同僚達のポストに入れた。こうして書けば簡単に思えるじゃろうが、まあ簡単なことだが、会議数が多くてメモも散乱し、その中から必要なことを抽出し、自分でも原案を作成し、~なんのこっちゃ、事務官僚がみんなやっておることだな。
 もうひとつは、2.5インチの80GBハードディスクを使えるようにするために、完全フォーマット。これが結構時間のかかることだった。その上に、昔出雲や祇園で撮影し格納してあるいくつかの長大なAVI動画ファイルを新品のハードディスクにコピーして、ひたすらハードディスクの青目が点滅しているのをながめながら、事務仕事。……。

 なんのこともなく、時間だけは湯水のように使った果ての夕方5時、約束通り隣の建物の某所に行った。
 そこの関係者が一名、昨年私の授業をうけていて、優秀完了。そのお祝いごとを全員十数名で催して、私も呼ばれたわけ。
 行った先は近場の西大路四条・西院、「北平」(記事地図)。
 300坪の敷地の旧家を改造したお店で、京風おばんざい。まずまずのお味。屋敷の結構を、私は何度も中座し、見学してまわった。錆びた鉄扉の蔵もあったし、旧客間らしきところはまるで明治村。ダービー優勝杯もかざってあった。
 ……
 無事木幡に帰ったのは夜中の九時すぎ。茶を一杯飲んで寝てもた。

 ああ~、脳がかすむほどのGW。あと、確たる計画も予定もなく、ひなが木幡で昼寝するか、葛野で昼寝するか、二つに一つ、さあ毎日どうする、どうする。

追伸
「北平」に参加した人達はみんな若い人がおおくて。教え子も三人いる。わたしが、親爺ギャグを親爺ギャルと言い間違えたら、結構ウケテ、それこそ死語の親爺ギャグと、いわれた。あははは。
 世も大平なり。

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2006年5月 1日 (月)

風の万里 黎明の空:十二国記/小野不由美

承前[MuBlog:東の海神 西の滄海

風の万里 黎明の空:十二国記/小野不由美

風の万里 黎明の空:十二国記/小野不由美
 新潮文庫で上下二冊、圧巻だった。読み終えると頭がぼーっつとなる。このシリーズの中心人物は、もしかしたら初回の『月の影 影の海』のヒロインだった陽子なのかもしれない。ここでは明確に慶国の景王陽子(けいおう・ようこ)である。そして一国に一人しかいない麒麟は、景麒(けいき)、なにかしら真面目一徹、優柔不断に見える、優男(やさおとこ)である。記憶に間違いがなければ、慶国の先の女王は景麒に道ならぬ恋をして嫉妬に苦しみ、国中の女を全員国外退去追放し、失道、早くに亡くなった。それで景麒が女子高生陽子をはるばる蓬莱(日本)まで探しにきたわけである。
 国内外の声は「またもや女王。慶国はさらに荒れ、民は苦しむ」という噂の中での、陽子即位だった。

 上下二冊の物語の筋を書くのは煩雑だし、書いている内に感興が労苦になるをおそれ、要点をいくつか述べる。

(1)三人の同年代の少女たち
 陽子は景王である。十七歳前後であろうか。
 鈴という少女も蓬莱から流れ着いたのだが、言葉が話せずに辛苦にあえぐ。鈴の流転が描かれる。
 陽子はもともと景王候補だったので、神仙の特権から言葉に不自由はなかった。
 あと一人、祥瓊(しょうけい)という芳国の公女。もともと各国の国王は麒麟に選ばれてなるものなので、王の娘といっても世襲はない。少女期、王宮の宝玉のように扱われ育ったが、父国王と正妃だった母は、眼前で部下に惨殺され、国を追われた。

 二人の辛苦にあえぐ少女が景王陽子にであうまでのスリルがあった。どう、スリルなのか。私は小野さんの筆致に感動した。それは、二人の少女それぞれが世界をどのように見つめ解釈し、そして自らの不遇をどのように他に転嫁し、さらに復讐、そねみ、ねたみの心をはぐくんでいくのかという、そらおそろしい人の心の闇をみせられたことによる。本来ならそういう作品は一蹴してきたのだが、場面展開と、各人の環境における対人関係の描写によって、中断できなかった。というのは、そういうねじくれた少女たちを、遭遇する幾人かがどのように突き放し、なだめ、教導していくのかという、絶妙の描写が随所にあったからである。本人達、鈴も祥瓊もなかなかに、くどいほど自覚できず、ますます怨嗟の沼に墜ちていく。
 どう立ち直って、景王・陽子に胸はって出逢えるのだろうか。
 それは深いところのものであった。
 そして思った、現実の少年少女が真にこのような描写を受容したなら、少しは世の中も清明になるかもしれないという、希望だった。(本心)

(2)景麒の説く仁道とは
 私は少年期から、孔子に興味を持ってきた。なにも中国哲学とか政治学のレベルではない。宗教でもそうなのだが、当時も今も分からない「至宝の言葉」を分かりたかった。その一つが「仁」だった。さて、この作品を読了後わかったとは言わないが、おもしろい箇所があった。

「景麒。……私にはこの国のことが分からない」
「主上、それは」
「民が何を考えているのか、何を望んでいるのか、どんなふうに暮らしているのかさっぱり分からない」
「まず、道を知っていることが重要なのですよ」
「--道?」
 陽子は軽く笑う。
「授業は週六日、必須クラブがあって塾に行って、さらにはピアノを習ったりお稽古ごと。定期テストは最低でも一学期に二回、その他にも模試があって偏差値で将来が決められる。赤点が幾つかで留年、入試に合格できなきゃ浪人。スカート丈は膝まで、リボンは紺か黒。ストッキングは肌色か黒。--そういう子供の幸せがなんだか分かるか?」
「……は?」
「そういう社会での仁道とはなんだ?」
「失礼ですが--その--」
「分からないだろう?」
 陽子は苦笑する。

 たしかに、景王陽子が説明する社会にあって、仁とは何なのか、私にもわからない。現代では大学浪人は徐々に減ってきただろうが、陽子のいう細やかな日常を繰り返さなければ、疎外され、道を外したと思われても不思議でない世界である。仁道を、この少年少女期に身につけることができるのだろうか。
 大学に入ったら入ったで、数年後には就職試験面接という試練に直面する。それに対応するために、大学一年から、またしても受験勉強、体験就職と繰り返し、両手で余るような資格をとり、スカートの丈のチェックはなくなるが、今度は面接官の目を意識して、修道尼のような生活を半歳~一年強いられる。
 仁道いずこ。
 仁道とは政治用語なのか。たしかに、孔子自身にもそれはあった。しかしそれは仁政と区別するなら、仁道は人道に通じると私は理解してきた。

 話をもとにもどす。
 私がこの作品に強くうたれたのは、統治する景王陽子の苦しみや悩み、それに対応する景麒の辛さ自失、それらがすべて我が身に切々と迫ってくるような、それほどの筆力、物語の展開があったからである。入魂の小説、世上ではファンタジーであろうか。力及ばず詳細には申せないがこの点では、小野さんの『屍鬼』よりも胸にこたえるものがあった。それはおそらく、私自身が、組織に長くい、今は教員という立場にあることからの、いろいろな思いにもよると思った。読者の経験・体験によって、また作品の色合いもかわってくるものなのだろう。

(3)戦いの中での邂逅(かいこう)
 終盤は、往時のヤクザ路線映画のように痛快だった。これがよいと思う。小野さんの城ぜめ、軍の配置、瞠目した。勢力を持つ者がそそのかし、王以外触ってはならぬ禁軍を、景王を攻めるために動かした将軍を、少女景王陽子がただ威厳をもって面罵左遷する様子は、圧巻だった。これでよいと思う。その爽快さは、丁度北方水滸伝や三国志に似る。手に汗握ると記せば、凡庸な感想と言われもしようが、私は終盤、頁をめくるたびに雄叫びを上げていた(笑)。
 さて。
 三人の少女は、敗色濃い戦場で出会った。この状況設定にも感心した。
 そして心が融けあっていった。
 それでよいと思った。
 ここにはアンチロマンも、メタファンタジーも、袋小路純文学も不要である。

以上

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