ダ・ヴィンチ・コード/ロン・ハワード監督 (映画)
承前[MuBlog:ダヴィンチコードとキリスト密教史]
ダ・ヴィンチ・コード/ロン・ハワード監督 (映画パンフレット)
さて。結論としては、大いに褒め称える内容なのだが、最初にいくつか断っておく。否定△、肯定◎とりまぜて、忘れぬ間に(最近、文章を書いている最中に、「何故こんなこと、書いているのだろう」となるのでな)。
△主役ラングドン教授が常識人を装う
変わり者のイギリス人貴族・研究者リー(イアン・マッケラン)が、ラングトン教授(トム・ハンクス)とフランス司法警察の暗号解読員・ソフィー(オドレイ・トトゥ)をフランスのシャトーに匿ったとき、リーは丁寧にキリスト密教史をソフィー相手に説明する。ダ・ヴィンチの最後の晩餐の絵の説明に始まり、キリストのそばにいた「マグダラのマリア」の真の素性と彼女のフランスへの脱出と、そして中世のテンプル騎士団、さらにシオン修道会(英語風にサイオンと発音していた)の存在についてである。
この説明は要領よくまとめてあるので、原作よりもわかりやすい。DVDを買って数度みれば、こういう異教徒の歴史がよくわかるだろう。ローマ帝国でのキリスト教公認と、その後の教会分裂、発展史がわかりやすい。
さてそこで、一般のキリスト教信者が思ってもいなかった話を、リーが説明するたびに、ラングドン教授は「そういう考えもあり得るが、史実とは言えない」と、まるで一般キリスト教史の側にたって、つまり常識人である装いをする。
そこが唯一、白々しかった。ただ、宗教問題をはらむので、ぎりぎりの妥協線だったと思えば、まあよかろうか。
△終盤の表現がやや手間取った
映画の章末には、大きなエピソードが三つある。
1.ロンドンで首謀者(導師:teacher)が分かる。これで一般ミステリの犯人判明。
2.スコットランド・エディンバラ郊外のロスリン礼拝堂へ、ソフィーとラングドンは行く。物語の謎の解明。
3.パリに戻る。キリスト教史の、現代における謎の解明。
この一連の流れが、原作を熟読したものには、なぞる気持がわき、未読の人にはおそらく、意味がとれないかもしれない。つまり映画化の難しさに直面した。
◆コンスタンチヌス大帝余録
余談だが、ローマにおいてキリスト教がどのように扱われていったかの、いわゆる西洋史はおもしろい。この歴史解説は上手だった。エジプトやギリシャなど(明確にはなかったが深ヨーロッパのケルトなどなど)、いわゆる日本と似通った多神教の世界が、キリスト教・国教化によってどういう風に扱われていったかのイメージが、実に豊かだった。
私は30代前後に、辻邦生『背教者ユリアヌス』を読んで、その時始めて、ヨーロッパ文明と言ってもギリシャ・ローマ世界文明とキリスト教文明とは全く別の世界だと明確に認識した記憶があるが、この映画はそのショックを再現していた。(参考サイト)
つまり、どれほどキリスト教が世界宗教であっても、新約聖書世界観は歴史的に2千年である。その前に、メソポタミアや中国、エジプト、インド、少なくとも3千年の歴史があり、その後も日本に顕著なように、2千年の別の世界観がある。
で、映画では背教者と呼ばれたユリアヌス帝の話がでてこなかったのが、興味深く思えた。
◎イギリス人貴族リー
俳優はイアン・マッケランという人だ。リチャード三世、ロードオブザリング(ガンダルフ)とかで、印象があったのだが、やはり上手だと思った。なんというか、加齢の魅力を十分にだしていた。役柄リーについては、原作ではもっと太った野卑な、がらがら声の変人という印象が残ってしまっていたのだが、この映画で、すっきりした。貴族でマニアックな研究者、こういう複雑なリー役をうまくこなしていた。
彼はシャトーに逃げ込んできたラングドンに質問する。
珈琲か紅茶か
もし紅茶ならミルクかレモンか
三つ目の質問は?
映画も、そして原作も、作者ダン・ブラウンの手腕はこういうリーの描き方に出たと思った。
◎修道僧シラス
少年の頃、アリンガローサ司教に助けられ、司教を父とも兄とも思う殺し屋シラス。この設定が実によかった。また俳優のポール・ベタニーの演技も悪魔的だった。
鑑賞中に感じたのは、彼のむち打ちによる自罰(宗教用語が思い出せぬ)描写が迫真だった。自分の背中を鞭で何度も打ち据えるのだが、その間隔に時間があり、一度打つたびに顔をしかめ喘ぎ、つま先立ち、前後にゆらりとし、その苦痛を神の前に耐える自傷が印象深かった。
先程映画のパンフを見ていると、ベタニー自身もインタビューに答えて、そういう演技を工夫したと答えていた。
というのも、最近も映画『薔薇の名前(ウンベルト・エコ原作)』をみて、太った修道僧がびしばしと鞭で自罰する場面があって、印象に残っていたわけである。この場合は、おそらく男色に走る自らを戒めるためなのだろう。シラスの場合は殺人をすることへの、神への申し開きだった。演技、および描写が今回は相当に新鮮だった。
しかし、この異教徒の気持は本当はよく分からない。
あまりに神の名を軽々しくとなえすぎではないか。なんでもかんでも神の導きとする、殺人すらも。そして神に懺悔する。やはり、異国(とつくに)の異教徒の気持ちには、計り知れないところがある。
◎アリンガローサ司教
その信仰の深さ、そして狂信。シラスへの信頼、教会への忠誠、そしてバチカンをすら恫喝する自負。
アリンガローサ司教が登場してくると、画面がぐっと重くなった。
こういった脇役陣が、この映画ではすぐれていた。俳優は、アルフレッド・モリーナ。イギリスのロンドン生まれと記録してあったが、映画を見ている間中、私はスペイン系と思っていた。
後日DVDで確認せねば正確には分からないのだが、「キリストは、人々に代わって自らを犠牲にした」というセリフがあった。だから、……、と。
なんとしても、中世初期から現代に続くキリスト教思想の本流を守ろうとする、意思の強さが現れていた。彼にとっての異端撲滅は、彼自身の保身ではなく、キリスト顕教の守護にあった。
こういう異教徒の熱心さには、もちろんついて行けない。しかし、映画という物語の中では、彼の狂信が理解できた。もちろん私は明確に否定した。
◎結論いろいろ◎
いろいろあった。
しかし、もうよかろう。またDVDがでたなら再見するだろう。
映画は、私にとって異教徒の話である。顕密、どちらの言い分が正しいとか間違っているとかは言わないことにする。先にあげた映画『薔薇の名前』では、中世修道院で、当時のインテリ・各派代表達が命がけの論争をしていた。そのテーマは「キリストの着衣は、神のものか、キリストのものか」だった。あるいは「キリストはお笑いを認めたか、認めなかったか」。
ともかく、こういった他の世界のことはよくわからない。
その良くわからない点が今回の原作にも映画にもある。時代が現代といっても、同じことだろう。
そして、そういう異教徒が、そう、異教徒どうしがこの地球には一緒に住んでいる。
少なくとも、キリスト教の影響が強い人々にとっては、この映画は、原作以上になんらかの影響を残すと感じた。パンフレットをみるかぎり、関係者達は「フィクションです」と口裏を合わせていたが、それは宗教問題の難しさを含んだ現れであろう。
いろいろな意味で、良い映画だった。ルーブル美術館を使い切った撮影には、心から感動した。おそらく製作関係者達ひとりひとりが、常にない緊張の中で、造り公開したのだろう。
追伸
セントラル・ドグマ(中枢教義)は、倒れると再起が難しい。
山々に翠なし、岩清水流れる大和の国に生をうけ、育った私には、そこのところがよそ事としてよく分かる。
逆に、私のドグマは、七転び八起き。
依然として鳥居に唾ははかないし、仏様の前に立つと頭を下げる。この信仰は、ドグマが何万回倒されても、蘇る。「神仏」とは実に正鵠を射た言葉である。
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コメント
観られましたか?
まずまずの様子ですね?それでは、私も観て見ます。(笑)
世界の幾多の宗教というのは、本人の教えよりは後の世の後継者により体系化されたわけですよね?
生まれた時は極めて鋭い危険な教義であるのが、世の常ですよね?二千年間、ヨーロッパを支配したキリスト教についての断片を知る事は出来そうですね?
なかなか、暇がとれないのですが、早く観てみたいです。
投稿: jo | 2006年5月28日 (日) 19時59分
Joさん、おはようございます。
映画には映画の良さがありますね。情報をギュッと圧縮し、その上、ルーブル美術館の内部が、人影なしで観られるのですから。
本文には記しませんでしたが、ジャン・レノが演じる警部役かな、これも気に入りました。
ラングドン教授がアナグラムを解いていくシーンの処理も工夫がありました。上等な教授は頭の善し悪しだけではなく、なにかしら特殊能力がないと駄目だなぁ、と思いました。
と言うわけで、一読されたJoサンなら、スジを追うよりも、個々の絵(建物とか、挿入話)を観るのがよろしいでしょうね。
「最後の晩餐」の解説・プレゼンテーションなんて、上手でしたよ(笑)
投稿: mu | 2006年5月29日 (月) 04時31分