魔性の子/小野不由美
さていつもの前言はよしにして、核心に入る。よい作品だ。点数で申すと優に90を越える。私の読んだ『東京異聞』よりも上等で、『黒祠の島』や『屍鬼』に準じる。(と、比較する作品が少ないのが、今回の弱み)
ここで三人の人間ないし人間らしき者を考えてみる。
少年(高校二年生、異能)
教生(この高校の卒業生で、いま教育実習に来ている)
大先生(二人の恩師にあたる現役高校教諭)
三人の共通項は、同じ高校にいること。男性であること。外れ人間であること。キャラ属性からいうと、少年は外れすぎ、教生はやや少年より、そして大先生はバンカラ風での外れ人間。三人とも、まともな社会人という尺度を想定するなら、大いに外れている。
ここで私が一番感銘をうけたのは、前二者での人間のエゴないし自己防衛本能のありようについての表現だった。少年はひたすら、神隠しにあった時期の世界を憧憬する。こんな世界よりは、あちらへ帰りたい。そういう気持ちで日々過ごしている。教生もそれに近いが、神隠しの経験はない。
そこで、まず教生が、その温和しい少年のエゴを鋭く突く。どう突くかは未読者にはわからない(笑)。
それで終わらない。
真に少年があちらの人であることがわかり、教生はこちらの普通人であると教生が自覚したとき。教生のエゴが露わに、教生自身に自覚される。
大先生はさすがに酸いも甘いもかみ分けた年長者として、二人の確執をあらかじめ悟っている。それ故に、ある時点で教生に、少年を見捨てることさえ勧める。その時の、まだ無自覚の若い教生の衝撃はいかばかりか。わけもなく、大先生を恨みさえする。
単に世代の異なった男性の経験値の違いによる人生観を教訓的に述べた小説では決してない。どうしてこのような深い感情を作品のなかで、女流小野さんが三人の男性にかけて描き尽くしたのか、そういう点に深い感銘をうけた。単純なエゴの衝突ではなくて、人間存在の深淵こそを味わった。
実は、事情はある。私は若い時分、長年教生と同じ状態だった。つまり、気質異能人だった節がある。真性ではないところに苦しみがあった(笑)。だから、よけいに教生の嘆きや苦しみに同調してしまった、という裏話。
ただの人が深く感じていることを、作品として表現しうる人は、これは才能がある証拠だと思う。人は知らないが、私はこの点においては、それまで読んだ小野作品を越えたものとして味わった。真性のあちらの人に同調同期を味わいながらも、本当はただの人であるという自覚を得たとき、教生の苦しみが若き日の自分自身のように写った。と言う点では、私は現業は教員なので、ここに描かれた大先生のようになるのが、一番幸なのかとも思った。
文学作品に評者の人生を重ねるなどと無粋で、前近代的評価だなぁ、と思いながらも今回は小野不由美作品に甘えて、上記のような評価を陳述した次第。
さて。
よって、私は一気呵成に今後名だたる『十二国記』シリーズに埋没し始めてしまった。すでに第一作『月の影、影の海』上巻を昨夜読み終わり、今夜は下巻に入る。感触はというと、「ああ、生きていて良かった。十二国記があったんだ」という雰囲気である(笑)。
背景を少しメモしておく。
とある日の、倶楽部屯所での、もんちゃんとカミラ(以後、もんカミ、と略)との話が発端だった。
もんカミ「ギえーっつ、せ、先生はまだ十二国記を、お、およみでないとぉ~」
センセ「えっと、まずいですかぁ?」
もんカミ「あれを知らずして、せ、先生よくまあ、現代小説を語れますよねぇ。図書館学なんか、おせておられますねぇ」(と言外に、恥ずかしげもなくと、目が語っていた)」
センセ「お、おい。それは、本当か。なら、~、私が未読であることは、業務秘密にしろ」
もんカミ「は、はい。そういたしますが、それにしてもねぇ~」
センセ「なら、読む。一巻目は、ここにあるか」
もんカミ「ええ、ありますとも、ちゃんと。しかし、先生、まずは『魔性の子』からゆるゆると」
というわけであった。
さても、これから『十二国記/小野不由美』しばらく、だれも読めなくなる。まとめて貸出封鎖(邪笑)。
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