長岡京市埋蔵文化財センター
承前[MuBlog:長岡京市図書館]
長岡京市埋蔵文化財センター(京都府長岡京市奥海印寺)地図
長岡京市埋蔵文化財センター(財団法人)の前景
センターがどんなところにあるのか、という好奇心があった。道は図書館の西に向かってまっすぐ坂を登っていった。途中には竹藪があって、「西山」の竹林という言葉が頭を横切った。
走田古墳群出土石棺 説明図
走田古墳群出土石棺の蓋石と底石
長岡京の全域に該当する航空写真
長岡京条坊復元図
展示室で「大量鉄剣出土」の写真に見とれてしまった。きちんと並べて埋まっていたのは、秘密の武器庫のつもりだったのだろうか、と思った。捨てたのではなくて、隠した。
帰路の車中、長岡京の広大さを展示室の航空写真で、当時を想像していた。わずかに十年の都だったが、この地に決定し平城京や後の平安京に匹敵する都を作る意思はあったわけである。向日市、長岡京市、大山崎町にまたがるこの広大さは、南部に淀川の港をつくることで他の二都市とは性格が違うように思った。いろいろな想像がわいてきた。長岡京市埋蔵文化財センターは、山裾の平坦地にひっそりとたたずんでいたが、長岡京の歴史にはまだ見えない重層があり、それらの解明結果がいつかこのセンターに集まってくるのだろう。
私は、乙訓寺が気になっている。早良親王が幽閉された史実よりも、それよりずっと以前、長岡京が生まれる前に、継体天皇がそのあたりに宮を作った形跡がある。そんな重層イメージにひたっていた。
参考
「聖武天皇と大地震/JoBlog」[何故、平城京を捨てたかについてヒントがあった]
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コメント
長岡京
巨大な都だったんですね?桂川と巨大な小椋池(宇治川)と淀川という水上交通の要ですね。
難波の宮の建築材料を淀川で運び、藤原種継は1年で建造したと、何処かの本で読みましたね。急いでいたんですね。
継体大王の弟国宮(乙訓宮)は飛鳥に入る前に樟葉の宮、木津川、と移り都した拠点。
現在の皇室は継体大王からが、はっきりしてますね、息子が欽明天皇ですからね。と考えると、長岡京は先祖帰りの重要な場所となりますね。
早良親王(崇道天皇)は桓武さんいとり同母弟ですが、名前が早良というのが個人的に昔から気になっているんです。
早良というのは今の北九州は福岡近辺の九州王朝の拠点なんですね。高野新笠さんは桓武、早良さんの母ですが、朝鮮の渡来人ですね。
私は、桓武さんを支援する豪族と早良さんを支援する豪族が割れたと考えています。早良親王を支えたのは瀬戸内海航路と北九州の勢力ではないか?
しかし、長岡京に注目するのは平安京を考える上で重要な事ですね。
投稿: jo | 2006年3月 7日 (火) 08時12分
jo | 2006年3月 7日 午前 08時12分
1.先祖帰り、これ、そう思います。平城京から逃げるとき、選択肢はいくつかあったようですね。結局、祖地が強かった。川を使えば琵琶湖通って、息長地(継体天皇と深いらしいですね)かすめて敦賀の地。この地の利を長岡京もあわせて、もてたわけですよ。
2.乙訓寺は後日記しますが、向日市の大極殿から南すると右手、つまり西大寺の位置ですね。……
3.「長岡京に注目するのは平安京を考える上で重要な事ですね。」そうではありますが。ここのところは、平安京からは独立させて、長岡京として、しばらく考えたいです。むしろ、平城京との腐れ縁を切ったのか、のこったのか。
投稿: Mu→Jo | 2006年3月 7日 (火) 12時01分