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2006年3月17日 (金)

【映像展開/森博嗣】が不思議だった

承前[MuBlog:少しずつ進める癖

 昨夜のMLA(MORI LOG ACADEMY)「映像展開」(2006年03月12日(日曜日)【HR】 映像展開)を読んで、人間の能力とか資質の違いにあらためて感心してしまった。

 僕の場合は99%は映像である。数字も映像だし、力学のベクトルも映像だ。漢字の読み方も映像。たとえば、「鎌倉幕府」というと、山門の映像があって、その山門に「1192」という数字が描かれている。そういうふうに記憶している。だから、その映像を頭の中で読んで、「いいくに」と連想するのである。右や左だって映像だ。

 鎌倉幕府創設が山門のイメージから始まり、金箔か青色で大きく1192と記されている映像を想像すると、そのシュールさに、リアルさの混ざった奇妙な映画をみたようで、うん、と膝を叩いてしまったのだ。しかし右や左をどのようにビジュアライズするのかは、想像外だった。私は、「右手」というと「箸を持つ手」、左手は右手の残りの手というように、日常行動で覚えているし、右手と言われると、まず箸が想起される。つまり右手という概念よりも、食事シーンが瞬間浮かび、次に箸が動く、そこからやっと「ああ、右手はこっち」となる。
 右手一つでこうなのだから、一般概念としての左右をどうイメージしているのか、普遍的な答えはすぐに出てこない。ただし、右大臣、左大臣となると、必ず自分が天皇になって、箸を持った右手前方にいる人が右大臣で、その逆が左大臣と決定する。次に直ちに、左右の順逆が反転することになる。つまり、即座に自らが臣下になって天皇に拝謁し、箸を持った手の方が、すなわち向かって右手が、左大臣と変換する。
 今、私はこの右と左とを記していて、ちょっと自分が変な人間なのではなかろうかと、危ぶみだした。
 物語のビジュアルイメージは、小説のテキストデータよりも情報量がはるかに多い。頭の中にある映像を眺めて、その一部を書き留める。それが執筆作業である。10の情報を見るが、次々に流れてしまうために1しか書けない。どんどんさきへ流れるから、早く書かねばならない。したがって、ゆっくりと時間をかけて書くことはむしろ難しい。

 作家森博嗣は、小説を読むよりは、書く方が早いという定説が、比喩ではなくてある。私ならば、一センチほどの厚さの文庫を読むのに三日かかる。それは原稿枚数で600枚前後が一般的だ。もしそういう「小説」を書くとしたなら、最低で一年、完成には二年はかかると想像している。それから考えると、如何に森博嗣が尋常な人ではないのかが、すぐに分かる。しかしそれは私自身を尋常な人と仮定して比較するからであろう。
 実際の作家森博嗣は、どう考えても一冊の長編小説を完成させるのに三週間ほどしかかかってはいない。不思議な光景である。ところが重要な点は、森博嗣にはそれが「普通」のことに過ぎないことにある。比較した私がとんでもなく、遅筆というか、異様なのであろうか。それにしても、一冊の小説を読むのに、毎日三時間かけて20日間、三週間かける人が存在している。これは感動だ。
 一方、文字で物語を読む作業とは、テキストデータを頭の中でビジュアルに展開することだ。1しか書かれていない不足したデータを基に、10のものを組み立てる必要がある。時間がかかる作業であり、エネルギィも必要だ。非常に疲れる。

 昔、畏友の梅翁が文字というものについて、この場合は漢字だが、文字は究極の圧縮機能を持つとどこかに記していた。たとえば、石が写った写真をビットデータで格納すると、品質にもよるが、500000バイト前後を消費する。ところが漢字一文字だと、2バイトに過ぎない。この2バイトの「石」という漢字を見つめて、各人はそこにありとあらゆる付帯物を付け加えてようやく、石のぼんやりした映像を頭に思い浮かべるのだろう。
 物語をイメージし文章に書いて小説にすることと、小説を読んで物語をイメージすることの往還を、私は石と石の写真とのペアで想像した。
 私は、「石」という漢字をみてあらかじめ定められた定番の石写真を引っ張り出すから、作家森博嗣よりも読むのが早いのかも知れない。600枚の長編小説を三日間で読むのだから、20日間に比べると早い(笑)。森先生がそれだけかかるのは、おそらく「定番の石写真」ではなくて、その都度すさまじい調整をへて新たなイメージを想起するから時間がかかるのだろう。
 次に、私は「定番の石写真」はあっても、そんなものを小説にしてもおもしろくなかろうから、もし長編小説を書くとするならば、数年かかるのだろう。いちいち新しいイメージを探して各地に写真を撮りに行くようなものである。
 私は推測するならば、人の作品や行為を見たり解釈するときは、ちっぽけな定番写真をひっぱりだしてきて、無造作にイメージする。逆に、自分で小説を作ったり新たな行動をするときは、定番しかないから、難渋する。昨日のMLA記事を読んで、そんな風に思った。

 ところで、私の近親者は、一千枚程度の小説を二時間弱で読み切り私に解釈や説明をしてくれる。
 私は、ごく普通の読者だと実感した(笑)。
 で、文章を書くのは「むつかしいなぁ」

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コメント

思い出しますね

 朝の4時にアップしたとは思えない記事でありますな。
プロフィールには(老文学青年)とありますが、その青年がどのように本を読み文章を書くのか、自身にとっての文字と映像との関係は、など語られていて非常に興味深く拝見しました。

 記事で触れられている(石問答)のことは覚えております。
文字で表された言葉が最高の圧縮表現だと言いましたが今でもそれは変わりません。
あれは確か(パターン認識)の話の中で出てきた当方の実感でした。
文字認識装置というのを昔担当していて、(認識)ということは何なんだろう?と考えたのですね。

 (石)の写真や現物の(石)というものは(事象表現)なのですね。
それが(石 いし)という(概念)へジャンプする、飛躍することが(認識)ではなかろうかと僕なりに理解したのです。
(事象)→(概念)への飛躍が認識であり、概念を表すのが(言葉)である、と。
事象表現は大きなデータ量が必要であり、概念を言葉で表したときそれが究極の情報圧縮である、てなこともね。

 40歳を過ぎた頃から(短い、自分の言葉で表現しておく)ということを意識するようになりました。
考えてみますに、記憶力も衰えていきますから、なるべく少ないデータ量でエッセンスを覚えておきたい、という一種の防衛本能であったような気もしております。
 あるいは企業という集団活動の中でチーム内での意志統一を図るには(言葉)がいかに大切かを思い知らされたからでありましょうか。

投稿: ふうてん | 2006年3月17日 (金) 10時15分

ふうてん | 2006年3月17日 午前 10時15分

 (石)の写真や現物の(石)というものは(事象表現)なのですね。それが(石 いし)という(概念)へジャンプする、飛躍することが(認識)ではなかろうかと僕なりに理解したのです。
(事象)→(概念)への飛躍が認識であり、概念を表すのが(言葉)である、と。
 事象表現は大きなデータ量が必要であり、概念を言葉で表したときそれが究極の情報圧縮である、てなこともね。

 引用しておくことで、お考えの心髄を銘記します。

 で、概念を表すのが言葉であること、よくうなずけます。私は過去も未来も、言葉操る種族です。しかも話し言葉よりも、書き言葉で意図を伝えるのが得手な人間です。
 しかし概念をあらわすものが、最近「音」や「映像」、「象徴」であるとも切実に味わいます。
 菊の紋章をみて人は様々に考えることでしょう。しかし、その視角情報に、名付け得ぬものが核としてあるように感じました。
 音楽の一節を聞いて人は様々に考えることでしょう。しかし、その音の流れに名付け得ぬものが核としてあるように感じました。
 映像の一断面を見て人は様々に考えることでしょう。しかし、その一こまに、名付け得ぬものが核としてあるように感じました。

 すべては言葉に還元される、翻案されると長く考えてきたのですが、いまここにいたって「感じる」論理がむくむくとわき上がってきたのです。

 この経験は、事例でいうと、日頃わけのわからない、名付け得ぬ、若い学生達の行動にもまれ、その音、表情、動き、アクセサリなどの象徴に、意外に言語表現とはことなる、別の「理屈」を味わっているからです。

 言葉で論理を再構成し、概念を形成するだけじゃなくて、ある「様式」が明確な概念を示す事例をようやく把握しかけてきたのです。

「チーム内での意志統一を図るには(言葉)」
 このこと100%理解し実感してきた人生です。しかし、ここに至って、言葉が通じない、表現方法が言葉ではなく、象徴、音、声、……。
 そういう宇宙的、別文明文化的るつぼにいることの違和感と、そして「翻訳」の達成感があります。

 ところで、今朝は午前一時に突然起床。そして本文書き始めました。

 

投稿: Mu→ふうてん | 2006年3月17日 (金) 12時39分

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承前:【映像展開/森博嗣】が不思議だった  昨日午前8:30過ぎにMLA(MORI LOG ACADEMY)「入力ばかりだと」(2008年03月10日(月曜日)分)を読み、一旦おいたが、今朝極早朝に再度読み直して、記録することにした。余はネット上の記録に恒常性をみていないので、良いとおもったものはその時に記録することにしている。  若者から森先生に人生相談があるらしい。古来、坊主とか先生とか呼ばれ... [続きを読む]

受信: 2008年3月15日 (土) 03時45分

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