ヴァンパイア映画:アン・ライスのレスタト
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文系大学の良さというか面白さというか、レスタト愛好者とか、カミラそのものとか、ゴシック様式幼系コスチューム(一般に、ゴスロリとか言うらしい)とか、レスタト映画鑑賞会とか、ともかく壮年層の世界とは異なった不思議な雰囲気が、日頃行き来する葛野にもある。かくいう私はというと、ヴァンパイアものは好みだった。何故なのかと自問してはみるが、よい答えはない。なんとなく、妖しい世界が好きなのだろう。私自身が妖しいのではなくて、そういう雰囲気があると鼻がきく、そういうことである。
太陽よりも闇を好むタイプなのかもしれない。しかしながら、夜半10時ころには急速睡眠に入るのだから、これは比喩にすぎない。いや。睡眠こそが最も深い闇と考えれば、こういう性向もうなずける。と、自問自答。
さて、最近倶楽部関係者が卒業前に大急ぎでDVDを二本貸してくれた。私が、その人達の映画会に参加できず、鑑賞できなかったからである。それでさっそく先週、木幡研を暗くして二つ続けて見、すでに返却した。ところが、原作との関係をどう記すかで迷いだし、結局MuBlogでのお披露目は今日に至った。結論はでた。映画は映画。小説は小説。だから、今夜は映画についてメモを残しておく。
インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア
なにが一番良かったかというと、ニューオーリンズだったか、アーリーアメリカン風景がとても美しかった。そしてパリのヴァンパイア劇場での闇が深かった。
インタビューをする記者と若いヴァンパイアとの対話が、過去物語、語りの間にほどよく挿入されて、現代と過去とが相互に行き来し、現実感をもたらした。
悪の権現のようなレスタトが、どのようにして若いヴァンパイアを指導していくかが絶妙だった。結局、レスタトは幼女と若いヴァンパイアに一旦殺されるのだが、その殺害の様式に、私は感心した。なぜなら、レスタトは死なない設定だったから。
不死であること、太陽を恐れること、殺人が生の代償であること。存在が矛盾の上に立っていることのジレンマ。特に不死と孤独との関係が映画では巧く表現されていた。
幼女ヴァンパイが、生との引き替えに成長しないことの、その苦しみを、自暴自棄に見せるところが圧巻だった。
この映画は美しく、深い作品だと思った。
クイーン・オブ・ザ・ヴァンパイア
レスタトがロックスターなのだから、当然映画はロックに満ちている。今から十年以前のロック、つまりゴス・ロックが主調とDVDカタログに記してあった。これはゴシック・ロックのことだろうか。私の愛好するマリリン・マンソンは、すぐに聞き分けたが、他はわからなかった。
で、主人公のレスタトが、どうしても前作と比較して、甘く手薄い。登場する女性陣が総てと言って良いほどに、冴えない。唯一、女王アカシャの眉やアイシャドーが奇抜斬新で良かったが。
見るべき所は、往年のロックが映画を席巻していることだろう。レスタトはサンフランシスコ近辺のデスヴァレーとかいう砂漠の真ん中でコンサートを開くのだが、アメリカっぽくて感心した。
不満に思ったのは、全編わけのわからない構成なので、結局カタルシスがなかった。
要するに、最強の女王アカシャは、一体なんのために五千年の眠りから覚めて、ヴァンパイア殺戮に走ったのか。つまり、そういう不条理映画だと思わなければ、わけが分からないままに終わった、としか言いようがない。
レスタトの影が薄かった。それが結論だ。
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