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2006年3月16日 (木)

平城京、長岡京、平安京:三都の南北標高差

 最近、旧都の南北勾配というか、昔の都市基盤についてJoBlog(参考)で話題になった。具体的にいうと、水洗トイレのことである。平安京など都は、人口密集地で町が汚れるものだが、ある程度傾斜があるから、ゴミや糞尿が大雨などで綺麗さっぱり流されて掃除されたという、趣旨の話だった。
 私は、そういうことは事実だったと軽く考えたのだが、ふと、本当に傾斜はあったのだろうかと気になってきた。確かに、京都は上(つまり北)るときは、場所によっては坂を感じさせる。しかしそのくらいのことでは、尾道の階段や、長崎の坂道を想像させるほどのことではない。

 ただ余語として、伏見の大手筋から桃山御陵に向けては確かに坂がきつい。桃山城、明治天皇陵は丘と言うよりも山上にあるのだから、これも当然のことだ。

 ついては、長岡京を実際に確かめてみた。
 ことのついでに、平安京や平城京はどうなのだ、と思ってこの記事を書く。

 以下に三都の傾斜を、プロアトラスW3という地図ソフトの「計測」という機能で調べてみた。あらかじめいうと、三都はおどろくほど似通った形状だった。これは、当時そのことを知っていて三都を定めたのか、偶然なのか。よくわからない。

平城京の標高差

平城京の標高差
 平城京は他の二都市に比べて全体に標高は30m前後高い所にあるが、なだらかな傾斜で、平安京と似ている。
  奈良市平城宮跡→奈良市西九条町・羅城門跡
  標高約70m→標高約53m
  標高差 17m/4.26km

長岡京の標高差

長岡京の標高差
 長岡京は、三旧都の中で一番標高が低い。これは桂川-淀川流域、あるいは昔の湿地帯巨椋池近くにあったからだろうか。そして、南北の傾斜も少し凸凹がある。
  向日市鶏冠井(長岡宮跡)→大山崎町下植野(Mu想定羅城門跡:長岡京港?)
  標高約31m→標高約13m
  標高差 18m/4km

平安京の標高差

平安京の標高差
 平城京と似た勾配を持っている。
  京都市千本丸太町(大極殿跡)→京都市九条新千本(羅城門跡)
  標高約44m→標高約21m
  標高差 23m/4.4km

条件解説
 1.アルプス社の地図ソフト、プロアトラスW3の「測定」によった。
 2.大極殿とおもわれる旧跡から、羅城門と思われる旧跡までを対象とした。

測定結果の見方
 各図は、左半分図の横軸が、始発地から終端地までの距離(km)をあらわし、縦軸は標高(m)をさしている。右地図は始発地(大極殿跡)と終端地(羅城門跡)を具体的に直線で引いている。

三旧都の平均
 1.大極殿と羅城門の距離平均は、南北 4.22km
 2.大極殿と羅城門の標高差平均は、19m
 3.概略、4キロ(一里、徒歩1時間程度)離れた両地点が、マンション中層6階建てくらいの高低差があるようだ。

比較の結論
 三旧都ともに平均の枠内から突出してはいなく、この4キロ、標高差20m前後というのは当時の首都の標準だったのかもしれない。長安がどうであったかは興味深いが、~。
 ただ、三旧都とも桓武天皇が直接関与したのだから、一つの標準があってもおかしくない。つまり、桓武天皇は現・奈良市で即位(781)し、三年後に長岡に移った(784)。そして十年後(794)に現・京都に引っ越した。つまり、まず平城京があって、同じ天皇が在位中に長岡京、平安京を造ったという、現代風に言うならば施工主が同一人物だった事情がある。
 平城京を出るとき、交野も候補に挙がったと『平安京年代記/村井康彦』(京都新聞社)にはあった。

 ともあれ、三旧都ともに傾斜はたしかにあり、それはなだらかだった。しかし座り心地から考えると、長岡京は多少凸凹があり、幾何学的な景観をもたらす、羅城門から仰ぎ見る遙かなる大極殿への朱雀大路を造るには、土木工事が大変だったことと思う。

参考
  都の造営について[JoBlog]

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コメント

 (平城京から長岡京へ)

 平城京から長岡京へ移る際に、平城京の建物は、すべて取り壊し、柱一本、瓦一枚さえも長岡京へ運んだそうですね。

 平城京と長岡京の土地の形状が似ているのも、移転のしやすさという点から考えてみれば、納得いきます。それより、何本もの柱を輸送するのに便利な道が、平城京から長岡京には整備されていたんだなと思いましたデス。

投稿: wd | 2006年3月16日 (木) 08時09分

wd | 2006年3月16日 午前 08時09分

 奈良街道から木津にでて、そこから船便で大山崎まで運んだのかと、いま地図で確認しました。

 長岡京には、平城京の建て替えが多かったとの話、ありがとうございました。私は別に、難波宮もねこそぎ運んだと、ぼんやり記憶があります。

 当時は、瓦とか柱は、大切だったのでしょうね。
 で、一般的に、百官、カンガ(官の建物かな)は全部移すなり新調するにしても、寺社仏閣はそのままが多いようですね。結局、宗教界の束縛から逃れる意図も遷都にはあったようです。当時、その力は政治を左右したのでしょうね。
 もちろん新都では、それなりの意向を汲んだ宗教人がまたあたらしく寺社仏閣を造るわけですが。

投稿: Mu→wd | 2006年3月16日 (木) 10時00分

Muさん

科学者みたいやね?jo仮説はこれで、実証されたんでせうか?(笑)

最近、難波の宮を少し調べているんですが、例の大化改新で孝徳天皇が難波の長柄豊碕宮で即位しますが、その後飛鳥に戻るが、天武さんは難波を陪都(いざという時の為の二番目の都)と定めたそうやね?

757年に和泉の国が河内から独立した時点で難波の陪都は正式に廃止されたそうです。この建築素材を殆ど全て淀川経由で長岡京に運んだそうだす。

今度、是非、長安を調べてみる必要がありますね?

投稿: jo | 2006年3月16日 (木) 11時03分

jo | 2006年3月16日 午前 11時03分

 しかし、Jo節もものすごいね。大都市全体が、巨大な水洗便所だなんてね。ベルサイユ宮殿なんて、野蛮の極みですよぉ。

「Muさん 科学者みたいやね?」
 これは無体な物言いですなぁ。
 私は、徹頭徹尾科学者ですよ。
 ただね、人がどう思うかは別ですよ。
 私は、文学者じゃなくて、科学者です。

長安
 もう、めっぽう好奇心がむくむくです。
 どうなんでしょう。
 元祖東アジア大都市は、やっぱり、Jo理論にしたがって、大水洗便所様式なんでしょうかぁ~。
 
 ケルト、ゲルマン、深ヨーロッパはね多分、野ツボ方式ですね、きまり。

投稿: Mu→Jo | 2006年3月16日 (木) 13時20分

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