« 2006年2月 | トップページ | 2006年4月 »

2006年3月31日 (金)

今日はココログ設定不快デ~

 今日は朝から葛野にきて、関係するありとあらゆるblogのデザインやら記事を追加変更しようとしたのだが、~。システムは、すべてにおいて、最悪だった(憤怒)。

 きっと今日この日、初めてblogを触った人(入会者というか、初心開設者)がいたら、それは不幸だなぁ。未来永劫blogとかパソコンから離れてしまうかもしれないぞぉ。

 しかたないとはいえ。こんなことがあった。

1.新規に作ったblogに、記事を何回投稿しても、確認しようとすると「記事が一つもないので確認できません」とな。で、記事編集を見ると、入れたのがちゃんと二つも三つも記録され、公開中となっておるぞ。ギャア。こんなこと数時間続けていると、なんだか小馬鹿にされたようでな、泣いた。

2.サイドバーに載せるリンクリストを丁寧につくって、ちゃんと投入し反映もさせた。何十回も。しかるに、おう、能。どのblogでもまともに反映されない。どれほど、めちゃくちゃな反映をしているかは、明日になれば正常になろうが、少なくとも今日一日、激怒。怒髪冠を貫いて天まで立った。特に、配置位置なんか、めちゃ九九茶になるで。

3.書いていて、あほくさくなったので、これで止める。まだ、数十ある(ホント)。

 というわけで、もう35年もシステムをさわっておるが、これほどのヘンチクリンな振る舞いを見せるシステムは生まれて初めてじゃわ。書いていても、正書法・まともな日本語で記録するのが、ばかくさくなってきた。
 明日、4月1日、平成18年度始まりの時に、今日のままなら、どもならんにゃあ。

 さて。
 システムとは、まともに動いて僥倖。一般には、常軌をいっする物なり。今日の格言
 blog銀行って、危ないなぁ。

 私はシステムについては寛容であった。これまで、いろんなシステムが逆立ちしても寝ころんでも、よしよしと遠くの会社の担当者達の肩を叩く余裕で対処してきた。しかし、今日は許せん。私は、有料利用者なのだ。瑕疵ある物品の有償提供は、賠償すべきだと思った。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年3月30日 (木)

謎の大王継体天皇/水谷千秋

謎の大王継体天皇/水谷千秋

謎の大王 継体天皇/水谷千秋
  水谷千秋著
  (文春新書 ; 192)
  東京 : 文芸春秋、2001.9
   228p ; 18cm
  ISBN 416660192X
  主要参考文献:p228
著者標目:水谷、千秋(1962-) [ミズタニ、チアキ]
分類: NDC8:210.32、NDC9:210.32
件名: BSH:継体天皇 、BSH:日本 -- 歴史 -- 大和時代

帯情報
・カバー裏

「武烈天皇が跡継ぎを残さずに死んだあと、畿内を遠く離れた近江・越前を拠点とし、「応神天皇五世の孫」と称する人物が即位した。継体天皇である。この天皇にまつわるさまざまな謎--血統、即位の事情、蘇我・物部・葛城などの大氏族との関係、治世中に起きた「筑紫君磐井の乱」との関わり、「百済本記」に記録された奇怪な崩御のありさまなどを徹底的に追究し、さらに中世の皇位継承にその存在があたえた影響までをも考察した、歴史ファン必読の傑作。」

・帯
★継体はそれまでの大王家の血はひいているのか
★即位後、大和にはいるまで何故二十年もの歳月を要したのか
★蘇我氏台頭のきっかけは継体擁立だったのか
★筑紫君磐井は本当に自分から反乱を起こしたのか
★継体と太子、皇子が同時に死んだというのは事実か
★継体死後、二つの王朝が並立、抗争したのか

目次
謎の大王 継体天皇・目次
はじめに
第一章 継体新王朝説
  継体天皇の故郷・近江
  越前三国から樟葉宮へ
  真の継体陵・今城塚古墳
  王朝交替説
  河内王朝
  継体=息長氏出身説
  近年の研究動向
  継体天皇と現代

第二章 継体出現前史―雄略天皇、飯豊女王の時代
  稲荷山鉄剣銘発見の衝撃
  雄略天皇
  葛城氏との対決
  吉備氏との対決
  雄略の人間像
  清寧天皇
  王位継承者の途絶
  推古崩後の状況
  孝徳即位時の状況
  王族の脆弱性
  巫女王・飯豊皇女
  飯豊皇女の擁立
  飯豊皇女から顕宗天皇、仁賢天皇へ

第三章 継体天皇と王位継承
  「上宮記一云」という史料
  継体天皇の系譜
  牟義都国造と余奴臣
  息長氏と三尾氏
  「上宮記一云」と「継体紀」
  『日本書紀』の語る継体の即位
  倭彦王の物語
  「仁徳系王統の断絶」は史実か?
  『古事記』の語る継体即位
  河内馬飼首荒籠
  継体は地方豪族か
  「二つの大王家」論
  倭王武の上表文
  「応神五世孫」の系譜

第四章 継体天皇の即位と大和定着
  『記・紀』の継体后妃記事
  長浜古墳群と息長古墳群
  手白髪皇女
  畿内出身の后妃
  安閑天皇の后妃
  宣化天皇の后妃
  后妃からみた継体の支持勢力
  『記・紀』にみる傍系王族の実態
  傍系王族の地方土着化
  仁徳系王統衰退の要因
  六世紀以降の王族
  王族の自立化
  継体の諸宮
  磐余玉穂宮遷都
  大和進出が遅れた理由
  反継体勢力はだれか
  「非葛城連合」
  葛城氏と蘇我氏
  蘇我氏と継体天皇
  蘇我氏台頭の背景

第五章 磐井の乱:地方豪族との対決
  磐井の乱
  『古事記』の所伝
  「筑後国風上記」の石人石馬記事
  「筑後国風上記」の磐井の乱伝承
  『日本書紀』の所伝
  磐井と新羅の内通は史実か?
  征討軍の派遣
  「安閑紀」の屯倉設置記事
  那津宮家の設置
  九州支配の強化
  考古学からのアプローチ
  「有明首長連合」の成立
  磐井の乱の本質
  継体の大和定着と磐井の乱

第六章 辛亥の変:ニ朝並立はあったのか
  二朝並立論とは?
  継体の崩年
  安閑の即位年
  継体から安閑への譲位
  「二種類の百済王暦」論
  「辛亥の変」の一解釈
  欽明、宣化と安閑
  安閑の支持勢力
  安閑への譲位の失敗
  「辛亥の変」の意義
  有力豪族による合議制
  『日本書紀』にみえる合議制
  合議制の主導権の所在
  次期天皇の選定、即位要請
  中央豪族による政権掌握
  国際情勢と継体朝

終章 中世以降の継体天皇観
  「万世一系」と継体天皇
  後鳥羽天皇の即位
  『愚管抄』の継体天皇観
  後嵯峨天皇の即位
  後光厳天皇の即位
  継体とその後の王位継承
  天皇と武家
  継体と中世以降の天皇
  「上宮記一云」の継体出自系譜
  継体天皇の人物像

あとがき
主要参考文献
写真提供/福井市役所

Mu注記
 継体天皇は近江国高島郡三尾(みお:滋賀県高島市)で育ったという。母親・振媛(ふるひめ)がこの三尾氏の出身らしい。父親の彦主人(ひこうし)の別荘地だった。父親はたしかに応神天皇の四世の孫のようだ。越前で育ったという説は、半ば棄てられている。これはめずらしかった。ただし母親の祖母が越前三国である、その縁は残っている。

 このあたりのことを水谷が解釈する基本文献は、帝記[Mu注:欽明天皇時代の大王系図か?]をもととした古事記や、釈日本紀[原注:「鎌倉時代末期に占部兼方によって書かれた『日本書紀』の注釈書」]に一部引用の「上宮記一伝(じょうぐうき・いちにいう)」が使われている。古事記の扱いは、日本書紀よりも潤色が少ないと言う点で、水谷は骨組みを理解するのに多用している。

 私は、こういう学術図書にしては一気呵成に読んだ。オリジナルは水谷の『継体天皇と古代の王権』(和泉書院)と記されていた。新書は一般にわかりやすく平明に書かれているが、本・文春新書は内容が薄いわけではない。いままで分からなかった事が明晰な筆致、論理の運びで丁寧に記されていた。

 読者は、読めば分かるのだが(笑)、私が一番感動したのは、樟葉、筒城、弟国宮と遷り、樟葉宮での即位から数えて二十年も後に「大和入り」、すなわち磐余玉穂宮に入った経緯だった。素人として幾分ミステリの雰囲気で読んだのでネタバレは避けるが、一つは、三つの宮が決して単なる気ままな置き去りの引っ越し先ではなくて、大和入りしたあとも、琵琶湖、淀川、木津川、宇治川を見据えた継体天皇の経済基盤であったこと。
 さらに、継体天皇の近い先祖である息長氏は近江坂田郡(長浜から米原近辺)が本貫地であるだけでなく、南山城にも息長氏の勢力圏があったという指摘には、「そうなのか」と感動した。

 そして、勿論二十年の間、大和の中枢豪族、大伴氏や物部氏は継体天皇を擁立していたが、たしかに反継体天皇連合もあったという明確な事実指摘もあった。これは、ヒントとしていうならば、仁徳天皇系に関わる氏族の一団だった。

 感動はいくつもあったが、もう一つ。
 継体天皇崩御に関して、『日本書紀』引用の「百済本記」に天皇、太子、皇子が三人同時に死亡したという記述があり、このことの解釈がいろいろあったようだが、水谷はわかりやすく説いていた。答えは(笑)。天皇は継体天皇でしょう、~、云々。これも「ああ、そうなのか」と、私は単純に感激した。

 さらに、後世、特に中世、この継体天皇の即位をもとにして、歴代政権がそれをどのように慣例・拡大解釈扱いしてきたかについては、私には初めてのことだったので、歴史の流れについて新たな目を開かれた。

 と言うわけで、これを何度か読めば、継体天皇に関する問題点や、その解の一つ一つが、多くの古代史愛好家にはストンと胸に落ちるであろう。勿論、常に他の可能性も丁寧に引いてあるので、これこそが正当な学術書の姿だと思った。優良書である。

継体天皇関係地図
 出生・生育地滋賀県高島市安曇川町三尾里か?
 即位・樟葉宮:大阪府枚方市楠葉の交野天神境内か?
 筒城宮:[MuBlog参照:筒城宮
 弟国宮:[MuBlog参照:乙訓寺付近]
 磐余玉穂宮奈良県桜井市池之内付近?

参考
  『謎の大王 継体天皇』[pata]
  今城塚
  継体天皇
  今城塚古墳[MuBlog

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2006年3月29日 (水)

古民カフェ:私の京都・河原町通{四条→三条}

承前[MuBlog:四条大橋界隈

みゅーず(京都市下京区と中京区の境界)地図

『古民カフェ』という聞き慣れない言葉を2004年の秋に、「お隣さん大学」というところで耳にした。グループでなんらかの「目録」を作る課題で、その件の班が決めたテーマだった。班長に聞いてみると、古民家で営まれる珈琲、要するに伝統的喫茶店のことらしい。こういう喫茶店情報を京都中心に蒐集し、50件以上も班員が実地に尋ねてインタービューし、写真をとり、目録化するものだった。

 これは、現今の若い人達がお酒抜きで一服するカフェ、つまり私も愛好するスターバックス、ドトール、サンマルク、……と「新しい店舗でセルフサービスが基本」のお店に比べると、「古い」世界である。新旧一番の違いは、基本の珈琲の値段に見られる。京都の古民カフェだと500円前後、スタバなどだと200円~300円である。さらに古民カフェはセルフサービスではない。メイドさんとか、カウンターならマスターがサービスしてくれる。

 もちろん、500円前後の珈琲をだす店がすべて古民カフェではない。その定義が班の提出した作品には明確にあったのだが、思い出せない。ただし、雰囲気として言うならば、倉敷のエルグレコ、京都のフランソワ、イノダ六曜社スマートなどは古民カフェである。それらは全部目録に収録されていた。難しいのは、小川珈琲本店が、古民カフェなのかどうかだ。新装なって、どう見ても古民家とは思えないが、伝統がある。

 さて、「古民カフェ」班はその年度末に、結果として第一位の成果をあげた。これは学生と私の共同判定結果なので、私の主観によるものではない。私が特に気に入ったのは、京都の老舗珈琲店「イノダ」の古い珍しい写真を、インタビューの成果として組み込んだ点にあった。店の対応者は班長らの熱意にたじたじとした様子だった。

 しかるにこの作品は今、手元にない。優秀作品は葛野図書倶楽部2001の管理下で保管することになっている。昨年春に班長が「修復したい」と言ったまま持ち去り、以後ようとして姿を見せない。風の噂では、東京の某一流企業に就職したらしい。こういうことも、たまにはある。私は貴重な資産を「持ち逃げ」されたようである。

 三月のある日、京都は四条小橋、高瀬川のそばにある「みゅーず」の前で、古民カフェをいくつか写真にとっているとき思い出してしまった、長い前振りでした。

築地の在る通り

築地の在る通り
 学生たちとの儚い追憶(笑)にひたったわりには、のっけから出した写真がこれこのとおり。実に派手派手しく、現実感にあふれた小道である。現代の京都の古民カフェはこういう世界の中で、けなげにというか、肩肘張ってというか、大抵40年、50年来店を構えている。本当に時々涙ぐむ。いや、こういう世界を消せというほど朴念仁ではない。あるのが現実ならば、あればにぎにぎしくて良かろう。
 しかし、私がこの界隈を徘徊し始めた十代末には、こんな様子はなかった。いまは、昼間しか一人では歩けない。夜は屈強隊員達の固いガード、ローマ軍の重装歩兵の楯に守られないと歩けない。いや、本心。
 ところで、真ん中に見える「黄桜 祥風楼」という店はおなじみ伏見のカッパさん関係店で、いつか案内しましょう。

ソワレと写真家 地図に示した位置から南にソワレがある。若い人が私と似たようなポーズをしてデジカメで写していた。この後、この方は店に入った。後ろをみると、また他の人が写していた。なかなか人気のあるお店なのだ。[参考:喫茶ソワレ][ソワレ

ソワレと写真家

ソワレのショーケース

ソワレのショーケース
 しかし入る勇気はなかった。なんとなく団塊世代の男がぶらりと入る雰囲気ではなかった。最後に入ったのは、十年ほど前にカナン96という研究会グループで、どやどやと二階に上がった記憶がある。それも、申し訳ないことだった。ブルーの光に包まれた聖空間を、私も含め、十名近くが大声でゲタゲタわらって回りの客のひんしゅくをかった、苦い経験。若いころにはしょっちゅう出入りしていた。四条小橋南のフランソワと毎日毎週交替で入った時期もあった。要するに、下戸の私にとっては、ソワレやフランソワに入って読書するのが唯一の娯楽だったようだ。もちろん、店頭にバイクを置いて入れる、世間のゆるやかさもあった。

みゅーず 音楽が流れている。しかし堅苦しさはない。昔の音楽系喫茶店は、青白き秀才男女が、しかめつっらして、瞑想して、みんな黙り込んで聞いているから、なんとなく苦手だったが。みゅーずは、明るくて広々とした雰囲気なので、老若男女だれでも入れる。[参考:老舗名曲喫茶みゅーず

みゅーず

築地の看板と軒燈 老舗です。私も二次会でよく行きます。一階に長いソファがあって、十人くらい入れるのが重宝します。

築地の看板と軒燈

築地のタイル ただ、接客が店格にしては不思議なほど、ですね。毎度私は私だけですむように、一人で対応します。連れて行った人達には浪漫にひたってもらいたいですから。ネットを探してみるとそういう記事もありました。
築地のタイル

| | コメント (0) | トラックバック (2)

2006年3月28日 (火)

ココログ、真昼のお休み

 今日は、もうすぐ、午前7時~夕方5時まで、ココログに記事をいれたり、コメントするのが出来なくなるようだ。
 ココログ全体の仕様が変更されて、便利な機能がつくらしい。

 先回、いつぞやメンテナンスするのに、ニフティーの方でごたごたがあって、数日間まともに動かなくなった覚えがある。コンピュータシステムは、えてして直すつもりが悪化するのは、よくあることだ。それで今日も、7~13の予定が、今朝見たら、7~17に延長されていた。更新後の確認作業時間にゆとりをもたせたようだ。

1.真昼のメンテナンス
 大体コンピュータシステムの変更は従来から真夜中と決まっていたが、ココログは真昼にぶつけてきた。しばらく考えたが、これはblogが個人志向のものであり、アクセスが夜に集中するからかもしれない。つまり、昼間よりも夜の利用者がふえるから、逆にメンテナンスは真昼にするのが、効率がよいのかも。

2.仕様変更
 さっき、どんな風に変更されるのかみてみた。そのニフティ記事にリンクしようと思ったが、多分、いずれ無くなる一過性の高い記事なので、止めた。(新聞社記事なども、数ヶ月で消える。)
 読んだ範囲では、他のblogサービスで行っている小粋な機能がいくつか設置される。たとえば、トラックバックやコメントの公開を、一時保留することなどだ。場合によっては役にたつので、うれしい。
 ポッドキャスティングとか、カタカナ機能も追加される。要するに放送局機能で、便利になる。が、私は少し迷っている。

3.いつか、成長が止まる
 システムは、いつか成長が止まり、熟する。それ以上の成長は、基盤をこわすから停止するのだろう。たとえば、2メートル以内の人類の身長が、成長にまかせて3メートルになるようなもので、システムには生まれた時の限界と有効範囲が必ずある。
 ココログは、比較的ゆっくりした成長だ。私はそれで結構と思っている。私のように、意図的に自分の人生にかかわるような情報を格納し利用する立場としては、アクロバティックな、奇妙なシステム拡張よりも、安定したシステムを求める。なにか新奇な機能が他のblogにいろいろあったとしても、MuBlogをそっくり移動させる気持は起こらない。

*.というわけで、今日は記事投稿はこれで終わり(笑)。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月27日 (月)

北方謙三『水滸伝』十九「旌旗の章」 最終巻

承前

 最終巻を読了した。昨年秋に18巻感想を掲載して、いままで何をしていたのか。じっくり心中の熟成を待っていた。
 三月初めに、京都河原町に開店したBALジュンク堂で、記念に19・最終巻を買った。あわせて、『北方水滸伝読本:替天行道(たいてんぎょうどう)/北方謙三編著』も手にした。

弔旗(ちょうき)、はるかなり。
風は蕭(しょう)として、湖水寒し。
されど替天の旗、心に永遠(とわ)なり。

禁軍総帥・童貫
 この巻は最終巻として、18巻の続きである。禁軍総帥(きんぐん・そうすい)の童貫元帥(どうかん・げんすい)の戦振りは衰えない。歩兵の愚直な押しと、騎兵の先先先読みした変化(へんげ)によって、梁山泊(りょうざんぱく)が負けに負け続ける様子が描かれていた。単行本二冊を使って、延々と戦を描き続ける作者の力量を、いま褒めたたえる要はないと思った。ひたすら梁山泊がじりじりと、後退していく。朝も昼も、そして常識を破って夜も、一歩一歩禁軍元帥・童貫は兵を進める。
 遂に湖上に数百艘の宋・水軍が姿を現したとき、梁山泊の崩壊は必至となり上陸阻止は絶望的、後は梁山泊・聚義庁(しゅうぎちょう)が炎上するのを見るばかりになった。それでも野戦にこだわる童貫は兵を引かず、じりじりと押し続ける。自らは最後まで騎馬で、楊令、史進、呼延灼(こえんしゃく)と戦う。とどまらない兵のにじり寄り、この圧力が全編にあった。やはり、前代未聞というか、異様な作品だった。

 私は梁山泊の負け戦に涙するまえに、この、宋軍の総帥童貫の気力になすすべなく意気消沈しつつ、後半にまで至った。こういう戦をする人を北方が造り出したという驚きはもちろんあったが、童貫が眼前にいるように場面が浮かび、幾度となく楊令の機敏さに馬足を折る危地にありながらも、それでも瞑想し歯を食いしばり絶え間なく押し続ける気力に、鬼人を見た。鬼神ではなく、胆力気力を持った鬼に近い、それでも生身の元帥の姿をだった。こういう人がもしおったなら、怖ろしいと冷や汗が出続けた。

楊令の弔旗
 だが。末尾に来たとき、一転した。童貫が破れたのではない。もちろん梁山泊が墜ちたのだ。しかし、その墜ちようがよかった。視界が一度に開けた思いがした。湖上に鐘が鳴り響き、全軍撤退の合図が宋江(そうこう)から出された。すでに婦女子、子供は南方に疎開している。文民を含む非戦闘員、そして残った上級将校らが、一斉に梁山泊を出た。
 ただ一人、楊令が岩場を登り、宋軍に満ちた梁山泊に入る。何をしに、そしてどうなるのか。楊令は、血を吸った吹毛剣(すいもうけん)を古き替天行道の旗でぬぐい、これを弔旗として懐に収めた。

北方水滸伝
 冒頭にあげた読本を読んでいて、私はこの作品が明確に北方謙三のオリジナルであるとわかった。翻訳でも翻案でもなく、日本の作家が作った中国宋時代を素材にした、新たな物語なのだ。この間、私は中国製の水滸伝DVDを延々と見続けていたのだが、似たような名前の人物が次々に登場してはくるのだが、それは別の世界の話だった。
 北方謙三は、もともとある水滸伝を一旦解体した、と述べていた。読了して、まさしくそうだと思った。最後の最後まで、宋江の扱いが、地動説と天動説の違いくらいに別のものだった。また一体、どこの世界に禁軍総帥童貫がこれほどの人物として存在しえたであろうか。どこかで見聞きした童貫は、宦官の実力者ではあったが、こんな戦をする人ではなく、政治家だった。楊家の楊志に、楊令などという子息がいたとは、聞いたこともない。まして、CIAやKGBですらたじろぐような青蓮寺とか、あるいは経済基盤・闇塩の道、全国通信網・飛脚制度、どこにも聞いたことがない。
 しかし、北方水滸伝は前記事末尾メモでも述べたが、五つの基盤を持つ梁山泊を描ききった。まったく、新しい物語だったのだ。

 読んでおいて良かった、と思った。
 北方水滸伝、全19巻、ここに完。
 実によい終わりだった。そして、また楊令の物語が新たに始まった。 

| | コメント (1) | トラックバック (1)

2006年3月26日 (日)

NHK功名が辻(12)室町幕府崩壊

承前[MuBlog:功名が辻(11)比叡山焼き討ち

 甲斐の武田信玄の名声はひたすら高かったようだ。風林火山、諏訪法性(兜)、騎馬軍団。さすがの信長も、信玄上京の報には暗くなっていた。
 これで足利最後の15代義昭将軍が右往左往し、ついには追放の憂き目となった。この義昭は、この後も流浪し、しつこく復権を画策する。
 この追放劇は天正元年(1573)で、亡くなったのが1597年とすると、実に将軍を辞めてからも20数年あれこれ動き回ったことになる。足利義昭は60歳のころ、秀吉の文禄・朝鮮侵攻時、佐賀県名護屋で死去。

 ところで宇治に槇島城があって、ここで義昭が明智・織田に抵抗したと知り、近所なので気になった。
 「槇島城再建を目ざした地域づくり
 「槙島城

 さて、小りんさん。
 またでてきました。一豊に「千代という名を二度と言うたら、その女を殺してやる」と物騒なセリフを吐いていた。狂言回しなんだろうが、間者としていた方が緊張感が残るだろうに。

 というわけで、まだ三月。なかなか山内一豊が千代と組んで、城持ち大名になるまでの功名を立てる時期にはいたっていない。合戦か謀略か、それがない夜は、うたたねしてしまう。ただ、そういう番組であってもよいと、思うようにもなった。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2006年3月25日 (土)

月の影 影の海:十二国記/小野不由美

承前[MuBlog:魔性の子

月の影 影の海:十二国記/小野不由美

月の影 影の海:十二国記/小野不由美
 しばらく小野不由美世界とおつきあいすることにした。この『月の影 影の海』という書名をみていて、まことによい雰囲気をかもし出していると、深いため息をついた。

 この世界には十二の国や、またもろもろ不思議な神霊界があって、私の棲むこちらの地球世界とは随分異なる。書名については、以前から惹かれていたが読み終わってみるとさらに深まった。別の世界なのだからこちらの世界の常識とはずいぶん異なる。ある国「雁(えん)」の王宮は玄英宮といって、天に届かんばかりの高山にある。その山は平地にすくっと立っているから、山麓の都市を影にする。頂にある王宮は雲の中、雲の上にある。そして、雲海という本当の海が空にあって、その透明な海水を通して、夜光虫のような光を輝かせる都市が眼下にある。王宮のベランダから主人公の陽子はその景色を見て感動する。
 海水が海に浮かんでいる。何故なのかは分からない。こちらの世界での科学常識はほとんど通用しない。

 陽子は上巻前半ではただの女子高生である。クラスの中では真面目で通っていて、級友ともつかずはなれず。家に帰ると両親の言うことをよく聞き、乱れたところはない。その頃の陽子は、自分の人生を疑ってはいなかった。つかず離れずという態度も、なにかの予兆から自分を別人種とみるのではなく、ただそうしていることが楽だったからに過ぎない。
 読者側からみると、特に私のような異性の壮年からみると、女子高生の感じ方や行動を表現や行間に読み取って、いささか愕然と言うか、あっけにとられたところも多々ある。「そうか、女達は幼い頃から、こういう風に同類異類をかぎわけて、拒絶し、群れをなし、排他的に生きておるのか」という、驚きだった。そこでの行動原理は、孤絶しないこと、仲間はずれにされないこと、なおその上で「良い子」であること。陽子は、それを日々行ってきた。底が割れていたと、友に見透かされ、自らも気がつくのは後日のことだった。

 と、このままだったら、如何にこれまでの小野世界に愛着をもっていた私とて、捨てる。なぜ捨てるかは私の人生観では見たくも知りたくも理解したくもない世界が、女達や男達の世界にあって、私はそういうところに意味を味わわないし、めんどくさいので、あえて小説でるる書かれていると、焚書してしまいかねない。これに類したことは恋愛小説もそこに含まれるし、社会の底辺で虐げられる人達の話も、同類である。だからベストセラーの九割は私の机上にのらない。これは評者としての尺度の問題で、図れないとふんだら読まない見ない考えない、そこにあっても、この世にはない。それ故に、意図せずして女子高生の日々の生活の深部をかいま見ると、愕然として目を覆いたくなる。女とは十代であってもこれほどまでに、激しくエグい生命体なのかと、深々と息を吸い込み、空を眺めた。(先生、それはフィクションですよ、とは誰も言わないのがまた恐ろしい)

 さて。と、ここから十二国記が始まる。
 陽子が異形の女になっていく。訳の分からない運命(さだめ)に導かれ、夜は山中一睡のまもなく妖怪妖獣に襲われ手にした宝刀は血しぶきをあげ、その血しぶきを避けることが生きる証と、無理矢理自ら学んでいく。昼は昼で官憲に追われ、人の助けがあったと思った瞬間、遊郭に売られた我が身を知る。戦い終われば、自らの負の精神を暴き立てる蒼猿のののしりに、毎夜汗を流し動悸を激しくする。
<お前はあいつを見捨てるつもりだったんだろう。お前は自分の命のためには、人のことなんかなんとも思っていない。もう、日本にも帰れない。帰ってもみんなお前のことなんか覚えていない。あっさり死ねよ>
 もといた倭国には、虚海を渡らぬ限り戻れず、虚海は神と妖しの物しか渡れない、一方通行の道。

 恐ろしくも、陽子は変わっていく。変わる過程で日本(倭)にいた頃の自分を、宝刀の水晶鏡の輝きの中に見つめる。見方を変えれば、人生は、人間は一身でありながら、これほどまでに世界を異なった目で見ることができるのか、という驚きに満ちあふれる。
 終盤の圧巻にこんなセリフがあった。

「戦うということは、人を殺すということだ。これまで人を斬ったことだけはなかったが、それは人の死を心に背負う勇気を持てなかったからだった。一緒に行くと言ったときに覚悟は決めた。大義のために人の命を軽んじようというわけではない。斬った相手とその数は必ず忘れず覚えておく。それが陽子にできる最大限のことだと、そう納得していた」

 かつて、狡くていじましい女子高生だった陽子がこれほど大きくなったことに、私は読了したことを翫味した。実に、その照応がよくとられていた。よい作品だった。これなら、十二国記、私にとって貴重な読書経験となる。

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2006年3月24日 (金)

四条大橋界隈と三条大橋:私の京都・河原町通{四条→三条}

承前[MuBlog:とんとん来

四条大橋(京都市)地図

三条大橋と北山遠望

三条大橋と北山遠望
 とんとん来を満足げにでて、さて今日(3月21日)はどこへ、と数秒考えたが、行き先はすぐに思い出した。まず四条通りを西に歩を進めた。東に行けば祇園八坂神社で精進、西に行けば繁華街。うまくできている。ところが、四条大橋の真ん中に立ったとたん、自然に立ち止まり北を向いた。何百回見たか分からない、見慣れた景色である。鴨川、三条大橋、北山遠望の図だった。
 この構図では、三条大橋まで500mある。光学3倍のちっこいカメラだが、トリミングするとこのくらいに見える。
 橋の向こうには下鴨神社のタダスノ森があって、そこから空に向かって山が数重霞んで見える。山紫水明とはよく言ったものだ。季節感は写真から見て取れないが、京都の冬と春との間は、こんな様子だった。

外気温13度

外気温
 その日は「サッポロビール」提供外気温計だが、昔はパナソニックだったような気がする。そのうち、また変わるのだろうか。この温度計施設は、朝は旭があたって見えなくなり、役に立たない。そして意外にも、四条大橋を相当に東側まで歩かないと角度の関係で見えない。早朝出向くときは反射して見えず、帰路は橋を渡り切るまで見えない。不思議な温度計だ(笑)。
 いま、写真をみていて初めて気がついた。つまり、この温度計ビルの一階はポリスボックス「交番」である。(実は隣接したビルかもしれない)しかし、よく見ると当たり前だが、上階が四階まである。はて、一階が交番とまでは数十年も知識にあったが、上階は一体何なんだろう。不思議なビルだ。
 右側は、料理屋「いづもや」さんだ。ガラスが透けて、橋から人の顔までよく見える。なんとなく、入るのが気恥ずかしい。
 さらに、橋上には南を向いて、笠をかぶった修行僧がいる、……。街には、本当にいろいろなものがあるな。

団栗橋、そして松原橋
 四条大橋から南を写すと、手前から団栗橋、そして向こうに松原橋が見える。五条大橋は見えないが、松原橋が義経時代の五条大橋位置だったことは、よく知られている。

団栗橋、そして松原橋

東華菜館の屋上アップ
 四条大橋の西詰め南。またこの建物にカメラを向けてしまった。裸眼ではこれだけしげしげと眺められない。
 [MuBlog:私の京都、東華菜館ビル写真

東華菜館の屋上アップ

東華菜館
 こうやってみると、本当に京都の町には、いろんなものがある。このビルを買い取って内部を大改装し、外部を修復して、そして、図書館を造ってみたくなった。私の図書館(爆)。

東華菜館

| | コメント (7) | トラックバック (1)

2006年3月23日 (木)

長岡京紀行:2006/03/03

 この三月(2006)三日、思い立って古京・長岡京(784-794)の関連地を訪ねてみた。理由はいくつかあった。近所なのにこの何十年も訪れていないこと。継体天皇の事跡を調べたとき、弟國宮が非常に曖昧だったこと。そして、萩原規子『薄紅天女』を読んで、あの時代、平安京に入る前の十年間に興味を持ったことなど、そんな事情だった。実は、それ以外にも、深層には20代に読んだ大伴家持関係のことで、ずっと気持ちが長岡京に張り付いていた。
 この紀行をまとめ終わって、弟國宮については相変わらず、新たな確証のようなものは得られなかった。大伴家持については、一つの文章を読んで、ある程度すっきりした。

 今のところ、積み残しは、継体天皇・弟國宮の事跡探索と、もうひとつは、向日市の資料館を二つほど見ておく必要に、後で気がついたことくらいである。いずれ、楽しみにしておくとする。
 ついては、当日の行路をリストにして、後の私の記録としておきたい。

長岡京跡をもとめて
(1)長岡宮跡(向日市)
 長岡宮跡、つまり当時の政治の中心であった大極殿跡は、向日市にあった。付近に人家はあったが、跡地は公園のようになっていた。あとで知ったのだが、向日市埋蔵文化財センターや、文化資料館にはいろいろな案内もあるようなので、後日訪ねてみたい。この日は、大極殿跡だけを確認し、向日市を去った。

 2006年の3月3日、午前11時頃だったと思う。細い道をたどってやっとこの長岡宮跡にたどり着いた。向日市までは宇治の木幡から西へ向けて一本道だった。

(2)乙訓寺
 長岡京史で有名な乙訓寺には、桓武天皇の弟で当時皇太子だった早良(さわら)親王が一時幽閉された。この親王の祟りが平安京遷都を促した原動力になったふしもあるので、京都市にとっては恩人のような寺である。現在の乙訓寺は、ぼたんの花咲く寺として、そして弘法大師さまゆかりの寺として、大きな寺域を構えていた。

 お寺さんにはもうしわけないことだが、私はここにくるまで、廃寺に近い想像をしていた。なにかしら「ぼたん花」の薄い記憶はあったのだが、継体天皇時代の古代・弟国宮、そして長岡廃京のことで頭が一杯だったので、乙訓という言葉が、雑草生い茂る寺を想像させたのである。しかし、本堂の静謐を味わい、そういうイメージが払拭された。

(3)長岡京市埋蔵文化財センター
 木幡を出るときは、この埋文センターのことが意識になかった。しかし参考にあげた長岡京市図書館を見ているうちに、思いだし、丁度自動車のナビシステムにも施設が登録してあったので、思い立って行ってみた。
 着いて、いくつかの知見をえたのだが、最も印象深く残ったのは、小さな掲示物だった。そこには、平城京、長岡京、平安京、この三古京の大きさが同一比率で描かれていた。そして、初めて、長岡京の大きさ規模が平安京に等しいことを掲示物・地図の上で実感し、呆然とした。
 知識は、なにかのきっかけがないと血肉化されず、無意識の底に沈んでしまうことを、あらためて知ったのである。恥ずかしながら、このときまで、長岡京とは、せいぜい大極殿付近しか、想像していなかったのである(笑)。

 長岡京市埋蔵文化財センターは、山裾の平坦地にひっそりとたたずんでいたが、長岡京の歴史にはまだ見えない重層があり、それらの解明結果がいつかこのセンターに集まってくるのだろう。

(4)平城京、長岡京、平安京:三都の南北標高差
 ひとたび長岡京の規模を身体全体でイメージするようになると、私は急に三古京を比較したくなってきた。だが門外漢の辛さ、それぞれの関係専門図書や、木簡(笑)までを実地に読解するほどの気力はなかった。丁度そのころ、畏友Jo氏が「古代都市水洗便所考(正式には「都の造営について」)」をJoBlogに掲載した。それに触発されて、都の南北傾斜を地図ソフトウェアで試してみた。結果は、三古京に関する実にわかりやすい共通点が浮かび上がってきた。

 長岡京は、三旧都の中で一番標高が低い。これは桂川-淀川流域、あるいは昔の湿地帯巨椋池近くにあったからだろうか。そして、南北の傾斜も少し凸凹がある。

参考
☆ 長岡京市立図書館の風景
 いろんな所へ出かけると大抵その地の図書館を遠望する。めったに中に入らない。人様のお店に勝手に入り込んで、あれこれ見るのが申し訳ないからである。見ればアラも目につく、ぶつぶつ小言も言いたくなる(笑)。だから外から眺めるだけにしてきた。しかし。たまには、中を通り過ぎることくらいはある。この図書館は、一階だけすっと半周して、サイナラした。気持ちよかった。

 ひな祭りの午後、風が吹いて雪がふって、どういう風のふきまわしか、長岡京市立図書館の前に立っていた。長岡京探索の寄り道だった。味わいのある建築だった。四角四面にガラス張りというのは、本棚のガラス戸のようで、ほほえましい。

☆ 「長岡京と大伴家持:万葉集の成立と伝来に関して/朝比奈英夫」を読む
 この文章を読んで分かったことが多かった。しかしさらに家持について興味が深くなったこともある。詩人大伴家持は政治的に当時どういう状況だったのだろうか。家持は、当時どんな様子で万葉集を編纂していたのだろうか。そして、家持は本当に多賀城まで行って、そこで将軍として指揮を執ったのだろうか。こういう興味は、文献を探していけば、おぼろなところまでは分かってくるだろう。しかし、仮説を立てて想像しないと霞んでしまう点も多かろう。いつか、多賀城跡に立ってみたい。

 長岡京遷都は784年で、このとき家持は「持節征東将軍」として奥州多賀城に赴任している。67歳の老将軍である事実を、朝廷ないし藤原家による左遷とみるのか、あるいは朝廷の親衛軍たる家の誇りをまっとうしての赴任なのか、わかりにくい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月22日 (水)

とんとん来:私の京都・河原町通{四条→三条}

承前[MuBlog:私の京都・河原町通
承前[MuBlog:大中ラーメン
承前[MuBlog:博多長浜ラーメン(私の京都、1/2)]

とんとん来(四条京阪出口:京都市東山区中之町)地図

 京都でラーメンと言っても、沢山知っているわけではないのです。毎週通うのが、西京極花屋町通、小川珈琲本店前の「細川ラーメン」です。スープが一番、全体のバランスもとれています。シナチクもたまりませんね。ここは駐車場が、昼時は繁盛して入れないので、大抵10時半頃(笑)には着いています。
 伏見の桃山御陵ですと、ガード下の大中。なによりもお値段が500円代で、トッピング自由自在、和風スープですね。昔の事ですと、京都大学近辺の東京ラーメン、良かったです。あとは、銀閣寺あたりの、たしか「大川」でしたっけ(笑)。天下一品ラーメンも、北白川のは美味しいですね(と、支店によって異なるのがおもしろい)。
 あとは、京都駅伊勢丹の上階にラーメン小路がありましたなぁ。
 そう言うわけで、あんまり沢山知っているわけではないのですが、それにしても、この「とんとん来」、良いですよ。どうよいのかは、写真を見ながら説明いたしましょう。

とんとん来のチャーシューメン

とんとん来のチャーシューメン
 うわさの「とんとん来のチャーシューメン」です。なによりも、この叉焼が最高です。この柔らかさ、舌の上でとろけます。細川ラーメンには悪いけど、叉焼の味わいはここが一番です。自然な肉の甘みがあるのです。
 次にスープですが、これは以前に未知のどなたかがMuBlog記事にTBしてくれたとき、その方の「とんとん来」評価に反発しました。多分、疲れ切った深夜、味わうゆとりもなく食べられたのでしょうね。で、答えは、少し薄味に感じます。最初の一口がです。ところが、そうではなくて、二口、三口と味わいますと、これが不思議なほど豊かなコクをみせてくれるのです。こういう微妙繊細なお味は、なかなかに無いものですよ、ご同輩。
 麺ですが、これは違和感なし。ただし、あまりに味が良すぎて、いささか少量に感じる人がおるやもしれません。しかし、私にはこれが最適量なのです。
 
 昼時は大体、混み合っています。だから私は、木幡を午前11時に乗車し、丁度11時半過ぎに入るようにしております。京阪特急、四条京阪下車、東・北の階段上がれば、そこがチャーシュー極楽。行くには、一人が一番気楽です。なぜなら、二人、三人が並んで座るには、待ちきれないことでしょう。

とんとん来の店頭

とんとん来の店頭
 十人ほど入れるカウンター。真昼だと、手前の鉄柵にみんな止まり木。一人空くと、一人入り、客の行儀はよろしい。

とんとん来から出て左を見上げた←南座の松竹マーク

南座の松竹マーク
 南座は、道(四条通)を挟んだ南側にあります。

とんとん来から出て右を見上げた→北座の井筒マーク

北座の井筒マーク
 はて、北座? まだ新しいようですね(笑)。北座の右側の店では、にしんそばが美味しいです。

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2006年3月21日 (火)

かわらまちどおり:私の京都・河原町通{四条→三条}

承前[MuBlog:私の京都・寺町通{四条→三条}]

 今日はなにかの休日だった。そのせいか、起床が九時ころになってしまった。もっとも、実は午前一時に起きて五時まで、なにかしら手を動かしてはいたのだが。起きるまもなく膨大なデータが送られてきて、まず一読。一読だけで疲れ切って、昼ご飯もかねて京阪電車に乗った。書店にも寄ったので帰還は午後三時ころ、約三時間も外を歩いていたことになる。豊かな休日だった。

 それで、さっそく写真をblogに整理しようとみたところ、66枚あった。なにか極めつけを写した覚えもないのに、これは多すぎる。と、こうするうちに午前のし残し仕事が気になってきた。結局今日は三本立てになっていたのだ。

 1.膨大なデータのチェック。
 2.なにとはなく、人様のことについて、周旋。
 3.私の京都、写真集の整理。

 このうち、2は先程完了した。1については、夕方から五時間かけて、そこそここなしたが、まだ三割ばかり残している。しかし限界。

 というわけで、3の写真整理を今夜中にすることも、もはや疲労困憊できなくなり、とはいうものの、このままにしておくと記憶もとぎれる。というわけで、メモ。
 メモついでに、なんとしても数日中に件の長岡京の総集編記事も必要だ、……。なにかと、貧乏暇無し。下手の横好き、奪うは湯水の時間。時間ゴセ(寄こせ、とか、くれ)~、とは隠岐の方言とさっき知り得た情報だが、時間も青春もぜんぶゴセ~と、呟きつつも、この記事書くなり。

  1.南座の初春を撮った。
  2.とんとん来の店先と、ラーメンをアップで撮った。
  3.四条大橋から遠景。これ、よい。
  4.外気温。
  5.東華菜館のアップ。
  6.喫茶ソワレ、ミューズ、築地を撮った。
  7.BALジュンク堂近辺の街姿を撮った。
  8.ジュンク堂の図書館様式本棚を撮った。これ、よい。
  9.珈琲吉田を撮った。タイル張りだ。
 10.三条大橋擬宝珠(ぎぼし)の刀傷をアップで撮った。

 とすると、一カ所で六枚程度のシャッターを押したに過ぎない。あっさりというか、そっけないカメラマンだな。
 いま、みてみると、気に入ったのも数枚見つかった。後日に掲載し、記事にまとめておこう。

 眠いので、眠る。
 よい一日だった。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2006年3月20日 (月)

魔性の子/小野不由美

魔性の子/小野不由美
 小野不由美作品は数作だが以前読んで気に入っていたので、MuBlogの過去を調べたが私は一冊も紹介していなかった。不覚。
 さていつもの前言はよしにして、核心に入る。よい作品だ。点数で申すと優に90を越える。私の読んだ『東京異聞』よりも上等で、『黒祠の島』や『屍鬼』に準じる。(と、比較する作品が少ないのが、今回の弱み)

 ここで三人の人間ないし人間らしき者を考えてみる。

  少年(高校二年生、異能)
  教生(この高校の卒業生で、いま教育実習に来ている)
  大先生(二人の恩師にあたる現役高校教諭)

 三人の共通項は、同じ高校にいること。男性であること。外れ人間であること。キャラ属性からいうと、少年は外れすぎ、教生はやや少年より、そして大先生はバンカラ風での外れ人間。三人とも、まともな社会人という尺度を想定するなら、大いに外れている。
 ここで私が一番感銘をうけたのは、前二者での人間のエゴないし自己防衛本能のありようについての表現だった。少年はひたすら、神隠しにあった時期の世界を憧憬する。こんな世界よりは、あちらへ帰りたい。そういう気持ちで日々過ごしている。教生もそれに近いが、神隠しの経験はない。
 そこで、まず教生が、その温和しい少年のエゴを鋭く突く。どう突くかは未読者にはわからない(笑)。
 それで終わらない。
 真に少年があちらの人であることがわかり、教生はこちらの普通人であると教生が自覚したとき。教生のエゴが露わに、教生自身に自覚される。
 大先生はさすがに酸いも甘いもかみ分けた年長者として、二人の確執をあらかじめ悟っている。それ故に、ある時点で教生に、少年を見捨てることさえ勧める。その時の、まだ無自覚の若い教生の衝撃はいかばかりか。わけもなく、大先生を恨みさえする。

 単に世代の異なった男性の経験値の違いによる人生観を教訓的に述べた小説では決してない。どうしてこのような深い感情を作品のなかで、女流小野さんが三人の男性にかけて描き尽くしたのか、そういう点に深い感銘をうけた。単純なエゴの衝突ではなくて、人間存在の深淵こそを味わった。

 実は、事情はある。私は若い時分、長年教生と同じ状態だった。つまり、気質異能人だった節がある。真性ではないところに苦しみがあった(笑)。だから、よけいに教生の嘆きや苦しみに同調してしまった、という裏話。

 ただの人が深く感じていることを、作品として表現しうる人は、これは才能がある証拠だと思う。人は知らないが、私はこの点においては、それまで読んだ小野作品を越えたものとして味わった。真性のあちらの人に同調同期を味わいながらも、本当はただの人であるという自覚を得たとき、教生の苦しみが若き日の自分自身のように写った。と言う点では、私は現業は教員なので、ここに描かれた大先生のようになるのが、一番幸なのかとも思った。

 文学作品に評者の人生を重ねるなどと無粋で、前近代的評価だなぁ、と思いながらも今回は小野不由美作品に甘えて、上記のような評価を陳述した次第。

 さて。
 よって、私は一気呵成に今後名だたる『十二国記』シリーズに埋没し始めてしまった。すでに第一作『月の影、影の海』上巻を昨夜読み終わり、今夜は下巻に入る。感触はというと、「ああ、生きていて良かった。十二国記があったんだ」という雰囲気である(笑)。

 背景を少しメモしておく。
 とある日の、倶楽部屯所での、もんちゃんとカミラ(以後、もんカミ、と略)との話が発端だった。

 もんカミ「ギえーっつ、せ、先生はまだ十二国記を、お、およみでないとぉ~」
 センセ「えっと、まずいですかぁ?」
 もんカミ「あれを知らずして、せ、先生よくまあ、現代小説を語れますよねぇ。図書館学なんか、おせておられますねぇ」(と言外に、恥ずかしげもなくと、目が語っていた)」
 センセ「お、おい。それは、本当か。なら、~、私が未読であることは、業務秘密にしろ」
 もんカミ「は、はい。そういたしますが、それにしてもねぇ~」
 センセ「なら、読む。一巻目は、ここにあるか」
 もんカミ「ええ、ありますとも、ちゃんと。しかし、先生、まずは『魔性の子』からゆるゆると」

 というわけであった。
 さても、これから『十二国記/小野不由美』しばらく、だれも読めなくなる。まとめて貸出封鎖(邪笑)。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2006年3月19日 (日)

NHK功名が辻(11)比叡山焼き討ち

承前[MuBlog:功名が辻(10)姉川の戦

坂本城跡(滋賀県大津市)地図
坂本城:お城めぐりFAN
坂本城

 今夜はドラマの後始末よりも、坂本城跡をあれこれネットで探して、疲れた(笑)。
 水城だったようだ。
 明智光秀は近江五万石坂本城主となった。

 と、遁辞エクスキューズ逃げをうっているが、実は今夜は記しにくい。法難だから、というわけでもないが、やはりそうだ。
 現代でも、半世紀以上前にボタンの二押しで広島、長崎の40万人前後の人が軍属・民間・老若男女まったく無関係に殺戮された歴史は、わが同胞も知っているはずである。命じたのはトルーマン米国大統領である。かれは戦後仏罰も神罰も、その他諸々の罰もなく、戦争を早期に終結させ、ソ連の出鼻をくじいたことで、アメリカではさぞ優れた救国大統領として記憶されていることだろう(知らぬが)。彼は88前後まで生き、原爆投下を命じてからも25年ほど長生きしたそうだ。そしてわが同胞は、「日本は、戦争なんかした悪い国民だから落とされてもしかたない」と、笑止千万な論客がこの半世紀、そして今も言うておる。なにおかいわんや、である。そういう手合いに限って、どこそこの核兵器は正義だが、かれこれの国の核兵器は悪、と真顔で言いよる(笑)。

 となると、信長は神も仏も信ぜぬ男、比叡山堂塔焼き討ち、殺戮数千人と描かれても、そんな軽い被害で天下統一されたのですか、との理屈もある。~いや、そうもならない。実はこの後、一向宗にたいしては、石山本願寺(大坂城あたりらしい)、伊勢の長島、ともかく天台密教だけにとどまらず、本願寺もものすごい被害を受けた。いろいろ考えると、信長の殺戮は異常性格のもたらした犯罪と、明確に言える。

 そういうわけで、今夜のドラマの史実を論評するのは難しい。信長の肩をもつならば、これは信長の聖戦だった。信長は旧世界を打倒する神なのだから、彼の行く手を阻む物は悪鬼であり、邪悪なものにすぎない。焼き払い、斬り殺し、更地にして、新しい国をつくる。これは彼の聖戦だった。一方、これを法難と受け取る人達が多数おっても当然だった。

 ドラマでは、信長に旧弊さをののしられ打擲(ちょうちゃく)された明智光秀は、比叡山で忠実に主命をはたした。一方秀吉は、ドラマの中では、眼前の逃げまどう者達に退路を開いた。前者は五万石の大名となり、秀吉には沙汰がなかった。千代は、帰還した一豊に、ともに地獄の責め苦を負うと言い、なぐさめた。

 ということで、現代も世界の各地で行われる聖戦ゲーム、それは現実の人間の血肉を代償にして争われる、実に、歴史開闢以来のくり返しが、今でもおこなわれ、信長の狂気をみるには毎朝、朝刊を読み、毎夕のTVニュースをみればリアルに把握できる。なにも特定宗教だけではない、民主主義も共産主義も、亜宗教にすぎない。おそらく「正義」という概念が、宗教・亜宗教こきまぜて聖戦の原動力になっているのだろう。

 だから、この記事書きにくい。このくらいにしておこう。

追伸
 暗い結末になったが、私は45分間脳天気に楽しんでいた。「500年ほど前に、こういうことって、あったんだなぁ」というノリである。それにしても、一豊さんは、どうにも「小りん」なるクノイチに見そめられたようだ。なかなかに、千代の清楚さに対比して、小りんの手練手管がそろそろいたについてきた。手練れの小りんさん、おもしろそうだ。

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2006年3月18日 (土)

20世紀少年(21)/浦沢直樹

承前[MuBlog:20世紀少年(20)]

いままでのあらすじ

 昭和40年代。空き地に秘密基地をつくり、21世紀を空想していたケンヂと仲間たち--悪の組織の地球滅亡計画を阻止する正義のヒーローを夢見て、他愛のないシナリオを作成して、それを”よげんの書”と呼んでいた。一九九七年、失踪した姉キリコの娘カンナを育てるケンヂは、彼の周辺で起こる奇妙な事件が”よげんの書”どおりであることに愕然とする。その背後に見え隠れする”ともだち”と呼ばれるカリスマ。そして20世紀最後の大みそか、”ともだち”は自作自演の人類救出劇を巧みに遂行し、”血の大みそか”の惨劇を救った世界的英雄となる、一方、正義のために戦ったケンヂは、悪の組織のリーダーという汚名を着せられて戦死する……。(p4-5)

20世紀少年:21宇宙人現る
 その後、いろいろあって、いま”ともだち”は世界大統領となって日本を支配している。このカリスマは一体何をしようとしているのか、謎だらけである。折しも東京の空には空飛ぶ円盤が現れ、宇宙からの侵略の恐怖を人々にかき立てている。”ともだち”は火星移民を世界中に伝え、その第一次先遣調査隊は火星に人類が居住できるだけの証となるデータや映像を送ってきている。

 この21巻では、北から東京へ目ざす男の物語と、東京で地下活動をしているカンナやヨシツネの物語と、そして”ともだち”の奇妙な振る舞いとが、別々の世界で描かれている。もちろん巻末の巻内第11話「仮面の告白」では、人類の生殺与奪を一手にした”ともだち”が、放送施設を使って奇妙なメッセージを送るところで、次巻への楽しみとしている。だが、そういう大局の変化を味わうよりも、非常に細かな、ディテールが画とセリフとで構成されていることに気がつく。
 これまでくり返しあらわれたのは大阪万博、EXPO'70だった。

 「万博っていったら大阪。わかるか?」と、ケンヂ。
 「さあ……」と、青年。
 「東京でやってる万博なんてニセモノだ。
  新幹線で大阪に着いたら、そこは未来世界だ!!
  アメリカ館の月の石、ソ連館、ガスパビリオン、住友館。
  未来の建物がいっぱいだ!!」と、ケンヂ。

 つまり昭和40年代(1965)を幼く生きた人間の多くにとって「万博っていったら大阪。わかるか?」というセリフが実に自然に飲み込める。当時の者にとっては、21世紀は大阪万博に象徴された未来世界だった。いま、時代は2018年。当時少年達によって書かれた予言書の通りに日本は進んだ。地球防衛軍(マーカライト・ファープ砲が原始鳥竜ラドンから地球を守るSF映画)、親友隊(ナチスの親衛隊。当時は、ヒットラーの『我が闘争』が翻訳されていた)が”ともだち”を守り、人々は火星移住(ブラジル移民熱は昭和30年代だったが、昭和40年代は米ソの宇宙開発時代だった)に狂奔している。
 ボーリングの花だった中山律子さえ、登場する。
 要するに昭和40年代の少年少女が熱狂した世界観がそのまま21世紀を覆っている。現実世界観からするなら退化にさえ思えるが、漫画世界にあっては、ひとつひとつが少年達の妄想から生まれたにしても、それをどのように、どうやって現実化してきたのかが、リアルに描かれている。もう一つの世界が、この中に生まれている。
 少年少女が野原に造った秘密基地がそのまま東京に再現され、リアルに人々が粛正され、リアルに関東軍がウィルス被災地として封鎖した東北・北海道に駐屯し、越えられない壁を守っている。
 すべてが子供時代の妄想、空想「よげんの書」によって未然に記されていて、その通りに世界が動いていく。その中心にいるのが、ケンヂと謎の”ともだち”である。

 21巻まで読んできて、この『20世紀少年』は、現在40代から60代の多くの壮年初老層の、ノスタルジーというにはすさまじすぎる妄想の現実化であると、心を突く。
 地下鉄にサリンをばらまいた集団は、”ともだち”を滑稽なほどに戯画化したものにさえ映る。逆の話ではない、”ともだち”が造った21世紀を稚拙に別の世界で実行したのが、件の宗教集団だと私は言っている。その点において、この漫画は現実世界を凌駕していると言ってもよいだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2006年3月17日 (金)

【映像展開/森博嗣】が不思議だった

承前[MuBlog:少しずつ進める癖

 昨夜のMLA(MORI LOG ACADEMY)「映像展開」(2006年03月12日(日曜日)【HR】 映像展開)を読んで、人間の能力とか資質の違いにあらためて感心してしまった。

 僕の場合は99%は映像である。数字も映像だし、力学のベクトルも映像だ。漢字の読み方も映像。たとえば、「鎌倉幕府」というと、山門の映像があって、その山門に「1192」という数字が描かれている。そういうふうに記憶している。だから、その映像を頭の中で読んで、「いいくに」と連想するのである。右や左だって映像だ。

 鎌倉幕府創設が山門のイメージから始まり、金箔か青色で大きく1192と記されている映像を想像すると、そのシュールさに、リアルさの混ざった奇妙な映画をみたようで、うん、と膝を叩いてしまったのだ。しかし右や左をどのようにビジュアライズするのかは、想像外だった。私は、「右手」というと「箸を持つ手」、左手は右手の残りの手というように、日常行動で覚えているし、右手と言われると、まず箸が想起される。つまり右手という概念よりも、食事シーンが瞬間浮かび、次に箸が動く、そこからやっと「ああ、右手はこっち」となる。
 右手一つでこうなのだから、一般概念としての左右をどうイメージしているのか、普遍的な答えはすぐに出てこない。ただし、右大臣、左大臣となると、必ず自分が天皇になって、箸を持った右手前方にいる人が右大臣で、その逆が左大臣と決定する。次に直ちに、左右の順逆が反転することになる。つまり、即座に自らが臣下になって天皇に拝謁し、箸を持った手の方が、すなわち向かって右手が、左大臣と変換する。
 今、私はこの右と左とを記していて、ちょっと自分が変な人間なのではなかろうかと、危ぶみだした。
 物語のビジュアルイメージは、小説のテキストデータよりも情報量がはるかに多い。頭の中にある映像を眺めて、その一部を書き留める。それが執筆作業である。10の情報を見るが、次々に流れてしまうために1しか書けない。どんどんさきへ流れるから、早く書かねばならない。したがって、ゆっくりと時間をかけて書くことはむしろ難しい。

 作家森博嗣は、小説を読むよりは、書く方が早いという定説が、比喩ではなくてある。私ならば、一センチほどの厚さの文庫を読むのに三日かかる。それは原稿枚数で600枚前後が一般的だ。もしそういう「小説」を書くとしたなら、最低で一年、完成には二年はかかると想像している。それから考えると、如何に森博嗣が尋常な人ではないのかが、すぐに分かる。しかしそれは私自身を尋常な人と仮定して比較するからであろう。
 実際の作家森博嗣は、どう考えても一冊の長編小説を完成させるのに三週間ほどしかかかってはいない。不思議な光景である。ところが重要な点は、森博嗣にはそれが「普通」のことに過ぎないことにある。比較した私がとんでもなく、遅筆というか、異様なのであろうか。それにしても、一冊の小説を読むのに、毎日三時間かけて20日間、三週間かける人が存在している。これは感動だ。
 一方、文字で物語を読む作業とは、テキストデータを頭の中でビジュアルに展開することだ。1しか書かれていない不足したデータを基に、10のものを組み立てる必要がある。時間がかかる作業であり、エネルギィも必要だ。非常に疲れる。

 昔、畏友の梅翁が文字というものについて、この場合は漢字だが、文字は究極の圧縮機能を持つとどこかに記していた。たとえば、石が写った写真をビットデータで格納すると、品質にもよるが、500000バイト前後を消費する。ところが漢字一文字だと、2バイトに過ぎない。この2バイトの「石」という漢字を見つめて、各人はそこにありとあらゆる付帯物を付け加えてようやく、石のぼんやりした映像を頭に思い浮かべるのだろう。
 物語をイメージし文章に書いて小説にすることと、小説を読んで物語をイメージすることの往還を、私は石と石の写真とのペアで想像した。
 私は、「石」という漢字をみてあらかじめ定められた定番の石写真を引っ張り出すから、作家森博嗣よりも読むのが早いのかも知れない。600枚の長編小説を三日間で読むのだから、20日間に比べると早い(笑)。森先生がそれだけかかるのは、おそらく「定番の石写真」ではなくて、その都度すさまじい調整をへて新たなイメージを想起するから時間がかかるのだろう。
 次に、私は「定番の石写真」はあっても、そんなものを小説にしてもおもしろくなかろうから、もし長編小説を書くとするならば、数年かかるのだろう。いちいち新しいイメージを探して各地に写真を撮りに行くようなものである。
 私は推測するならば、人の作品や行為を見たり解釈するときは、ちっぽけな定番写真をひっぱりだしてきて、無造作にイメージする。逆に、自分で小説を作ったり新たな行動をするときは、定番しかないから、難渋する。昨日のMLA記事を読んで、そんな風に思った。

 ところで、私の近親者は、一千枚程度の小説を二時間弱で読み切り私に解釈や説明をしてくれる。
 私は、ごく普通の読者だと実感した(笑)。
 で、文章を書くのは「むつかしいなぁ」

| | コメント (2) | トラックバック (2)

2006年3月16日 (木)

平城京、長岡京、平安京:三都の南北標高差

 最近、旧都の南北勾配というか、昔の都市基盤についてJoBlog(参考)で話題になった。具体的にいうと、水洗トイレのことである。平安京など都は、人口密集地で町が汚れるものだが、ある程度傾斜があるから、ゴミや糞尿が大雨などで綺麗さっぱり流されて掃除されたという、趣旨の話だった。
 私は、そういうことは事実だったと軽く考えたのだが、ふと、本当に傾斜はあったのだろうかと気になってきた。確かに、京都は上(つまり北)るときは、場所によっては坂を感じさせる。しかしそのくらいのことでは、尾道の階段や、長崎の坂道を想像させるほどのことではない。

 ただ余語として、伏見の大手筋から桃山御陵に向けては確かに坂がきつい。桃山城、明治天皇陵は丘と言うよりも山上にあるのだから、これも当然のことだ。

 ついては、長岡京を実際に確かめてみた。
 ことのついでに、平安京や平城京はどうなのだ、と思ってこの記事を書く。

 以下に三都の傾斜を、プロアトラスW3という地図ソフトの「計測」という機能で調べてみた。あらかじめいうと、三都はおどろくほど似通った形状だった。これは、当時そのことを知っていて三都を定めたのか、偶然なのか。よくわからない。

平城京の標高差

平城京の標高差
 平城京は他の二都市に比べて全体に標高は30m前後高い所にあるが、なだらかな傾斜で、平安京と似ている。
  奈良市平城宮跡→奈良市西九条町・羅城門跡
  標高約70m→標高約53m
  標高差 17m/4.26km

長岡京の標高差

長岡京の標高差
 長岡京は、三旧都の中で一番標高が低い。これは桂川-淀川流域、あるいは昔の湿地帯巨椋池近くにあったからだろうか。そして、南北の傾斜も少し凸凹がある。
  向日市鶏冠井(長岡宮跡)→大山崎町下植野(Mu想定羅城門跡:長岡京港?)
  標高約31m→標高約13m
  標高差 18m/4km

平安京の標高差

平安京の標高差
 平城京と似た勾配を持っている。
  京都市千本丸太町(大極殿跡)→京都市九条新千本(羅城門跡)
  標高約44m→標高約21m
  標高差 23m/4.4km

条件解説
 1.アルプス社の地図ソフト、プロアトラスW3の「測定」によった。
 2.大極殿とおもわれる旧跡から、羅城門と思われる旧跡までを対象とした。

測定結果の見方
 各図は、左半分図の横軸が、始発地から終端地までの距離(km)をあらわし、縦軸は標高(m)をさしている。右地図は始発地(大極殿跡)と終端地(羅城門跡)を具体的に直線で引いている。

三旧都の平均
 1.大極殿と羅城門の距離平均は、南北 4.22km
 2.大極殿と羅城門の標高差平均は、19m
 3.概略、4キロ(一里、徒歩1時間程度)離れた両地点が、マンション中層6階建てくらいの高低差があるようだ。

比較の結論
 三旧都ともに平均の枠内から突出してはいなく、この4キロ、標高差20m前後というのは当時の首都の標準だったのかもしれない。長安がどうであったかは興味深いが、~。
 ただ、三旧都とも桓武天皇が直接関与したのだから、一つの標準があってもおかしくない。つまり、桓武天皇は現・奈良市で即位(781)し、三年後に長岡に移った(784)。そして十年後(794)に現・京都に引っ越した。つまり、まず平城京があって、同じ天皇が在位中に長岡京、平安京を造ったという、現代風に言うならば施工主が同一人物だった事情がある。
 平城京を出るとき、交野も候補に挙がったと『平安京年代記/村井康彦』(京都新聞社)にはあった。

 ともあれ、三旧都ともに傾斜はたしかにあり、それはなだらかだった。しかし座り心地から考えると、長岡京は多少凸凹があり、幾何学的な景観をもたらす、羅城門から仰ぎ見る遙かなる大極殿への朱雀大路を造るには、土木工事が大変だったことと思う。

参考
  都の造営について[JoBlog]

| | コメント (4) | トラックバック (1)

2006年3月15日 (水)

乙訓寺:おとくにでら

承前[MuBlog:長岡宮跡(向日市)]

乙訓寺(京都府長岡京市今里三丁目)地図

 向日市の長岡宮跡を見学したあと、隣町の長岡京市に入り乙訓寺を探した。

乙訓寺表門

乙訓寺表門
 この表門を探すのに少し骨が折れた。ナビゲーションはここをささずに裏の参道で終わった。もちろん、参道でも表門でも、乙訓寺にかわりはないのだから、些細なことだった。「弘法大師ゆかりの寺、洛西観音第六番札所、ぼたんの寺」と、裏参道にはあったので、この表門をみてその格式がよくわかった。

乙訓寺案内板

乙訓寺案内板
 桓武天皇の弟、皇太子・早良親王が藤原種継暗殺事件に関与した疑いによって、乙訓寺に幽閉された史実がある。

乙訓寺・本堂

乙訓寺・本堂
 お寺さんにはもうしわけないことだが、私はここにくるまで、廃寺に近い想像をしていた。なにかしら「ぼたん花」の薄い記憶はあったのだが、継体天皇時代の古代・弟国宮、そして長岡廃京のことで頭が一杯だったので、乙訓という言葉が、雑草生い茂る寺を想像させたのである。しかし、本堂の静謐を味わい、そういうイメージが払拭された。

乙訓寺境内と弘法大師像

乙訓寺境内と弘法大師像
 なによりも乙訓寺は、弘法大師、空海が再建した寺と考えてよいだろう。ところが、それ以前から、相当に古くからこの寺域はあった。つまり、長岡京遷都(784)の前から、ここは大規模な寺だった。

長岡京市全域図

長岡京市全域図
 この地図写真は、長岡京市の現況をみるためではなくて、ポンポン山と桂川に挟まれた歴史を味わったからである。桂川は南部の大山崎町で宇治川、木津川が合流して淀川になっていく、その地勢が「長岡京」であったことの確認のためである。それと、乙訓寺近辺は今里という地名になっているが、なんとも説明しようがなく、この「今里」の由来を確かめたく思った。(今のところ、なにも分からない)

継体天皇弟国宮幻視

継体天皇弟国宮幻視
 これは乙訓寺の近くから、東側を眺めた写真である。なぜ継体天皇が、この地近辺に弟国宮を設けたのかは、いつか考えてみたい。

参考
 京都洛西乙訓寺公式HP [Mu注:「乙訓寺の歴史」頁に、わずかだが継体天皇弟国宮跡と乙訓寺の関係が記してある]
 宮都のロマン 長岡京発掘50周年(京都新聞)
 京都の観光地・逸話-乙訓エリア [Mu注:今里大塚古墳の逸話に興味を持った。]

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年3月14日 (火)

弥生なかばの葛野近況

 葛野研です。(ではなぜ、小説木幡記か:かくして主題件名分類扱いは難しい)

1.今日は機嫌がよい。いつもよいのだが、格別によい。理由は分からない。私は生まれたときから機嫌良く育ったふしがある。ただ、眉間に縦皺を寄せているのは、考え込んでいるからに過ぎない。何を考えているか。大抵、今日の昼食はなににしようか、とか。今日はどんな本をよもうか、とか。マックのインテルCPU仕様がほしいな、とか。大抵他愛ないことだ。しかし、真剣に考えているから、怖い顔になると、近所で有名らしい(笑)

2.葛野研から京都外国語大学前の四条通りに入り、左折した。まっすぐ西に向かうと桂川(大堰川)にぶつかり松尾大社がある。そこまで行かずに川の堰堤、罧原堤(たしか、カシハラツツミと読むのか?)を嵐山に向けてRSで走った。このあたりから機嫌が上昇しだした。正面の愛宕山や渡月橋が絶景だった。写真を撮ろうと思ったが、なんとなく無粋に思えたのでやめた。

3.嵐山中心地の直前で右折し、丸太町通りに入り、今度は東に向かった。ほどなく、行きつけのそば屋にはいって、今年最後の鴨なんば蕎麦をいただいた。絶品なり。毎度、涙こぼるる思いがする。店のおかみさんや、旦那さんは(調理場なのであまり姿を見ない)、もしもこの地に長いなら、私と小学校が一緒、ないし前後だったかもしれない。そういえば、この近所で、これまた絶品の珈琲店も先月マスターに聞いたら、すでに40~50年経つらしいから、同級生かもしれない。

4.私がどれもこれも絶品と称するのを嘘と思ってはならない。長い年月、結構気むずかしく生きた面もある私だから、二度は入らぬ店、二度は口をきかぬ「人間」、二度は読まない作者、一杯おる。そのなかで、絶品を連呼するのだから、まず本当のことだ。(これは一種の稚気なのだろうか~)

5.さて、丸太町界隈も、この嵯峨野、嵯峨、太秦あたりは車もすくなくて喜色よい。映画村へ入る横筋に曲がって今度は南進した。太秦の広隆寺の前を、さらに前進。途中で左折し、東進し天神川にぶち当たった。なぜこんな複雑な経路をとるかというと、それも一種の趣味というか、一直線を走るのがときどきじゃまくさくなる。たまには、ハンドルを右、左に回さないと退屈してしまう。

*.そんなわけで、今日の昼食は、純正鴨なんば蕎麦。たっぷりした身が、六切れほどあって美味しかった。そう、こういう味がなくなった人生は、想像するだに恐ろしい。私は蕎麦や珈琲があるからこそ、しげしげと葛野研に通う、そういう「真実」に、さっき気づいた。

 さて、明日の昼食は? そうだな。久しぶりにセブンイレブンのおにぎりとみそ汁にしよう。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年3月13日 (月)

ヴァンパイア映画:アン・ライスのレスタト

承前[MuBlog:ヴァンパイア・レスタト
承前[MuBlog:呪われし者の女王

 文系大学の良さというか面白さというか、レスタト愛好者とか、カミラそのものとか、ゴシック様式幼系コスチューム(一般に、ゴスロリとか言うらしい)とか、レスタト映画鑑賞会とか、ともかく壮年層の世界とは異なった不思議な雰囲気が、日頃行き来する葛野にもある。かくいう私はというと、ヴァンパイアものは好みだった。何故なのかと自問してはみるが、よい答えはない。なんとなく、妖しい世界が好きなのだろう。私自身が妖しいのではなくて、そういう雰囲気があると鼻がきく、そういうことである。

 太陽よりも闇を好むタイプなのかもしれない。しかしながら、夜半10時ころには急速睡眠に入るのだから、これは比喩にすぎない。いや。睡眠こそが最も深い闇と考えれば、こういう性向もうなずける。と、自問自答。

 さて、最近倶楽部関係者が卒業前に大急ぎでDVDを二本貸してくれた。私が、その人達の映画会に参加できず、鑑賞できなかったからである。それでさっそく先週、木幡研を暗くして二つ続けて見、すでに返却した。ところが、原作との関係をどう記すかで迷いだし、結局MuBlogでのお披露目は今日に至った。結論はでた。映画は映画。小説は小説。だから、今夜は映画についてメモを残しておく。

インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア

インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア
 俳優がだれかとか、監督がどうしたとかは、考えないでおくことにした。この映画は、公開されたとき木幡で一度みた記憶があるが、そのころは受容期でなかったのか、印象が薄かった。しかし、今度まともに最初から最後まで鑑賞し、十二分に満足した。
 なにが一番良かったかというと、ニューオーリンズだったか、アーリーアメリカン風景がとても美しかった。そしてパリのヴァンパイア劇場での闇が深かった。
 インタビューをする記者と若いヴァンパイアとの対話が、過去物語、語りの間にほどよく挿入されて、現代と過去とが相互に行き来し、現実感をもたらした。
 悪の権現のようなレスタトが、どのようにして若いヴァンパイアを指導していくかが絶妙だった。結局、レスタトは幼女と若いヴァンパイアに一旦殺されるのだが、その殺害の様式に、私は感心した。なぜなら、レスタトは死なない設定だったから。
 不死であること、太陽を恐れること、殺人が生の代償であること。存在が矛盾の上に立っていることのジレンマ。特に不死と孤独との関係が映画では巧く表現されていた。
 幼女ヴァンパイが、生との引き替えに成長しないことの、その苦しみを、自暴自棄に見せるところが圧巻だった。
 この映画は美しく、深い作品だと思った。

クイーン・オブ・ザ・ヴァンパイア

クイーン・オブ・ザ・ヴァンパイア
 前作とは完全に対照的な作品だった。悪の権現だったレスタトがロックスターとして登場し、さらにエジプトのアカシャという女王が出てくる。このアカシャはやたらにヴァンパイアを殺戮する。かといって、その血を食材にするわけではない。アカシャは総てのヴァンパイアの「母」なのだから、女王の血こそがヴァンパイアにとって、命の水になる。そこまでの設定は分かるのだが。
 レスタトがロックスターなのだから、当然映画はロックに満ちている。今から十年以前のロック、つまりゴス・ロックが主調とDVDカタログに記してあった。これはゴシック・ロックのことだろうか。私の愛好するマリリン・マンソンは、すぐに聞き分けたが、他はわからなかった。
 で、主人公のレスタトが、どうしても前作と比較して、甘く手薄い。登場する女性陣が総てと言って良いほどに、冴えない。唯一、女王アカシャの眉やアイシャドーが奇抜斬新で良かったが。
 見るべき所は、往年のロックが映画を席巻していることだろう。レスタトはサンフランシスコ近辺のデスヴァレーとかいう砂漠の真ん中でコンサートを開くのだが、アメリカっぽくて感心した。
 不満に思ったのは、全編わけのわからない構成なので、結局カタルシスがなかった。
 要するに、最強の女王アカシャは、一体なんのために五千年の眠りから覚めて、ヴァンパイア殺戮に走ったのか。つまり、そういう不条理映画だと思わなければ、わけが分からないままに終わった、としか言いようがない。
 レスタトの影が薄かった。それが結論だ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月12日 (日)

NHK功名が辻(10)姉川の戦

承前

姉川古戦場(滋賀県長浜市東上坂町・野村町)地図

 千代は一豊の不埒な振る舞いに怒り実家の不破家にもどる。
 ところが、山内一豊には戻るところがなさそうだ。戦にでるしかない。
 姉川で落馬し行方不明となり、秀吉は「弔いを出せ」となった。

 なかなか良い一夜だった。
 千代と一豊のことではない。
 緊張感があった。姉川が血川といわれるくらいに激しい戦だったようだ。家康が三河軍を浅井・朝倉の横に押した故に戦況は一変したとのこと。信長軍は、一番、二番、三番の構えを破られ、本陣にまで迫られてしまった。浅井が滅びたのはこのあと三年後だった。

 さて。
 千代の怒りだが、もっともといえよう。しかし当時どうだったかはわかりにくい。こういう心の微妙な点は、現代風に解釈しないと伝わりにくいのかも知れない。ただ。死ぬかも知れない恐怖と、小りんに迫られたことのバランスとは、千代の稚気と比べて一豊の肩をもつだろう。しかし、相手は間者だった。もしこれが千代や秀吉や信長に知られたなら、このドラマは成り立たなくなる。つまり、それほど重度の失策を一豊はおかした。機密漏洩罪で、死罪となるだろう。

 そうだ。
 毎週こうしてドラマ感想を書くのだから、私の日常も記しておこう。今夜は、友人と外で飲食をした。二人だった。二人は酒が飲めたので、ひっきりなしに話していた。私は、それを聞いて頭のなかで分析したり、統合したりして遊んでいた。もちろん、こういう酒席に私が絡むと手早くなる。八時に閉まる珈琲店へいくために、二合徳利がまだ重いのに、さっさと追い出して、キリマンジャロを三人で飲みに行った。間に合った。

 友人の一人から、小林秀雄自筆サインいりの初版本をもらった。私宛のサインじゃないのだから、意味は激減するが、それでも小林秀雄が生きた証をもらって、実に良い一夜となった。

 私はまれに友人知人から、そういった変わった贈り物をいただく。実にそっけなく受け取るが、喜びは深い。
 それらを渡した相手よりも、大切に扱ってきた(笑)。

 今夜のドラマは、あらかじめ予約録画したS-ATAハードディスクに入ったファイルを再現して鑑賞した。

参考
  姉川古戦場

| | コメント (2) | トラックバック (1)

長岡宮跡(向日市)ながおかきゅう

承前[MuBlog:長岡京市埋蔵文化財センター
承前[MuBlog:長岡京と大伴家持

長岡宮跡(京都府向日市鶏冠井町)詳細地図概略地図

長岡宮・閤門跡(ながおかきゅう・こうもん)

史跡長岡宮・閤門跡(ながおかきゅう・こうもん)
 2006年の3月3日、午前11時頃だったと思う。細い道をたどってやっとこの長岡宮跡にたどり着いた。向日市までは宇治の木幡から西へ向けて一本道だった。整備中だったので、最初は「?」だった。何にもない、ただの広場だった。しかし縄張りだけはあった。このあたりが大極殿院の入口にあたる、そういう案内図と説明だった。長岡京の大極殿跡が、長岡京市ではなくて向日市にあるというのは知っていたが、これはこれでなかなか複雑なことである。 

整備中の閤門跡

閤門跡 (こうもん)

宝憧跡から南東にむけて見た閤門跡

閤門跡を、南東に向けて写す

長岡宮・宝憧跡(ながおかきゅう・ほうどう)

長岡宮・宝憧跡(ながおかきゅう・ほうどう) 
 最初の「閤門跡」写真の右手、つまり北側に小道を挟んで次の写真「大極殿公園」がある。その入口にこの宝憧跡の案内板があった。この全文は写真に含めたが、おもしろい結語だったので次に引用する。
「宝憧(ほうどう)は天皇の権威を象徴し、即位式と元旦にのみ建てられる特別な装飾具です。しかし長岡宮で天皇の即位はありません。そこでこの宝憧跡は朝賀の儀式の際に用いられたものと判断されます。 向日市教育委員会」
 わずかに十年使われた長岡京では桓武天皇の代替わりがなかった。だから、この宝憧というきらびやかな「旗」は元旦の時に立てられただけだった。そこで、一月一日は群臣全員がこの地に集まり、天皇に挨拶し、天皇から言葉があったと想定できる。みんなきっちりした礼装をして参加したのだろう。それは即位の式に匹敵する。私がここで味わったのは、日本では元日の扱いと即位の扱いが等しいくらいに盛大だったという想像である。いずれも、新たな出発という点では相似だが、もっと深い意味があったのかもしれない。

大極殿公園

史跡長岡宮跡:大極殿公園

大極殿跡石碑

長岡宮跡(大極殿跡石碑)

写真で再現:長岡宮大極殿の素顔 

写真で再現! 長岡宮大極殿の素顔 
 この案内板を読むと、私がこのひな祭りの午前に向日市・長岡宮跡で歩いた箇所がよくわかる。つまり、今回私が写した範囲は、大極殿院の、南から「閤門跡」「宝憧跡」「大極殿跡」の三つの遺跡である。東西50m、南北60m程度だろうか。こうして復元写真をみると、どのあたりを歩いていたのかが今日になっても蘇る。気がついたのだが、朝堂院跡はまだ見えていないのかもしれない。それに復元模型はどこかにあるはずだ。向日市の文化資料館とか埋蔵文化財調査研究センター(地図:未踏地)だろうか。よくわからないが、またRSのハンドルを握りたくなった。

参考文献
 平安京年代記/村井康彦.京都新聞社、1997

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2006年3月11日 (土)

木曜会SとAccess

 どういった風のふきまわしか、久しぶりに青年達とデータベース管理システム(Access)の勉強会を開いた。今のところ1月(毎週木曜)と、3月(一週間連続)をすませたところだ。
 ところがうまくいったので、今後奇数月は毎週やっていくことにした。題して「木曜会S」。末尾のSはsystemの符号。別に木曜会L(Librarian)も調子にのって4月から偶数月、似たような青年達数名とする決心がついた。
 私も、なんだか「お勉強」ずいてきたようで、笑っている。

 10数年前に、マイクロソフト社のこのAccessを授業で教えるはめになった。数年で降りた。おりた事情はいろいろあったが、徹底的に当時の私はこのソフトウェアを嫌った。まがい物RDBの、厚化粧の、欠陥品と内心唾棄していた。マイクロソフト社の力は偉大だが、手抜きもあった、それは今でも言える。しかし当時にして、すでに大学でソフトウェアを教えるには、一応標準品を教材にするという暗黙のルールがあった。だから言語なんかも、すでにPascalやModula2じゃなくて、Cを教える状態だった。マイクロソフト社のCである。
 私は情報工学研究者ではなかったので、降りるのも気楽だった。私は文系の図書館学の先生だから、無理してデータベース管理システムを、教壇で話す必要もなかった。そんな気安さもあった。

 ところが。先年晩秋くらいから、葛野図書倶楽部2001のシステム回り維持が多少心細くなってきた。どういうことかというと、今年で五年目だが、歴代優れた学生がいて、倶楽部業務の根幹にかかわる業務をシステムに組み込んできた歴史がある。
 その一つに、倶楽部では一定の図書(現在はまだ千冊程度か)データベースを自製、管理運用していて、図書貸し出しサービスを行っている。このシステムはAccessという、冒頭に記したマイクロソフト社製のデータベース管理システム(DBMS)で作られていて、実に使い勝手がよい図書館システムである。ところが、これをメンテナンスするだけの2006年要員がまだ育っていないことに気がついた(うかつというか、笑)。これまでは、そういう世界に埋没してにっこり笑っている部員が輩出し、気楽に考えていたのだが、……。

 「先生、私、データベースって、全く分かりません」
 「どうしような、二番隊長2006」
 「こまりましたね、先生」
 「一緒にみんなで勉強するか」
 「はい」

 というわけで、一念発起して数名の学生を集め、冒頭にあげた勉強会を、これを合計10回程度行った。
 で、安堵。
 奇蹟に思えた。考えてみれば、葛野の女子大は文系どっぷりの大学なのだ。こういうことに洗練された感性をもつ学生は極めて、~。そういう中でこの五年、私が「うん」とうなずくようなシステムを構築し、動かしてきた、そういう学生が倶楽部にごろごろ居た、そこが奇蹟の第一。次に、さあ大変となったとたん、わずか10回程度の勉強会で、「おお」と私が目を開くような成果がでるという、この第二の奇蹟。

 これはもってここに記録すべき事件であった。

記録
 主要な論点
 1.表(テーブル)、項目(フィールド)。これは比較的慣れているエクセルをもとに説明。
 2.関係(リレーション)。これは、まあ概説。リンク・キー項目での表間結合を、あれこれ説明。
 3.データ入力:直接、入力画面(フォーム)利用、インポート(他に存在するデータを一括入力)説明。
 4.問い合わせ(クエリ)の意味と説明。SQLは今回省略。
 5.印刷など出力形式:レポート・ライター説明。レポートのソースを、先のクエリにすることの説明。

注意点
 名前を付けることの工夫。表や項目やリレーションや、クエリに対して適切な名付けをすることで混乱解消。
 どのようなややこしいDBMSであっても、入力→蓄積(編集)→選別→出力、この流れがあることの説明。
 そして、DBMSは、一つの表やリレーションに対して、多様な入力様式、出力様式を持たせることができることの良さ。
 
 だいたい以上のような論点と注意点とで、ほぼ全員がそれなりの練度を達成した。

課題
 課題は倶楽部で必須の内容なので、練習がそのまま実用に転じる。各員に分担した。
 1.図書貸し出し管理システムの分析
 2.経理システム(一種の徴集システム)
 3.人事システム(歴代倶楽部員)
 4.過去作品管理システム(演習成果)
 5.機関誌目次記事索引システム(機関誌の全目次、書誌)
 6.教育システム(倶楽部員の内部研修、リテラシ度)

もくろみ
 五月、七月はまた10回程度かけて、この1~6を統合するリレーショナル・システムに結合転化。

感想
 若いということは、柔軟性がある。何人かは秘められた能力が開花した。みていて実に、気持ちよい。

参考
  Microsoft ACEESS Club(マイクロソフト アクセス クラブ)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月 8日 (水)

琵琶湖坂本鶴喜そば

比叡山・比良山・撮影場所(滋賀県草津市)地図

比良山

比良山
 日曜日の午前中だった、ぶらりと車で走った。近所に高速道路の入口があって、瀬田まであっという間に着く。そこから琵琶湖の東岸を北上したわけだ。写真の山は比良山とまとめて呼ぶが、どれが蓬莱山で武奈ヶ岳かは判別できない。地図でみるとこの高い山の向こうが朽木村になっている。写真、山の中心は撮影場所から真北にあたる。いつも見かける山なみだが、雪をかむっていると格別神聖に見えた。

比叡山

比叡山
 撮影場所から真西に比叡山がある。この直下に、これから行く坂本、日吉大社があって、その近所で昼食をとった。

鶴喜そば(滋賀県大津市坂本)地図

鶴喜そば 一階

鶴喜そば 一階
 さきほどの撮影場所、草津市の琵琶湖沿いからさらに北上すると琵琶湖大橋があって、これを渡る。さらに今度は南下すると、坂本に着く。この鶴喜そばは数度訪れたが、美味しいところで、気に入っている。創業280年ともなるのだから、近所では、というよりも関西でも有数の老舗だろう。京都市では100年経つと老舗というらしい。

鶴喜そば 前景

鶴喜そば 前景
 鴨ナンバをいただいた、1360円だったか。京都市内の行きつけの店に比較するなら、多少野趣がある。手打ち蕎麦は柔らかく口当たりがよい。なによりも、たっぷりあった。店のテーブルは新しくなっていた。以前は不思議なほど昔の田舎の食堂椅子だったのだが。このたびは、分厚い板になっていた。外から三階部分の山形飾り屋根をみてみると、これも改築したように見えた。建物全体は、調べないとわからぬが、噂では200年近く経っているようだ。

 さっと帰還した。日曜日の午前の気晴らしドライブだった。

| | コメント (9) | トラックバック (0)

2006年3月 7日 (火)

長岡京市埋蔵文化財センター

承前[MuBlog:長岡京市図書館

長岡京市埋蔵文化財センター(京都府長岡京市奥海印寺)地図

長岡京市埋蔵文化財センター(財団法人)の前景

長岡京市埋蔵文化財センター(財団法人)の前景
  図書館を見た後、カーナビゲーションで「埋蔵文化財センター」を探した。当初は不慣れなので行く予定は無かった。考古学には素人で、発掘された土器や鉄器をケースの上から眺めても、ほとんど意味が分からない。いろいろ書いてあっても、それがどれほどの価値を持つのかも判断できない。だから、対象を熟知せず、不慣れな場合はこういう専門機関に行っても無駄だと、最初は思っていた(もちろん例外はある)。
 センターがどんなところにあるのか、という好奇心があった。道は図書館の西に向かってまっすぐ坂を登っていった。途中には竹藪があって、「西山」の竹林という言葉が頭を横切った。

走田古墳群出土石棺 説明図

走田古墳群出土石棺 説明図
 人影がなかった。入口の電気も消えていた。閉室と思ったが、玄関前に出土品があったので説明を読んでいた。7世紀の横穴式石室からの出土品だった。

走田古墳群出土石棺の蓋石と底石

走田古墳群出土石棺の蓋石と底石
 奥海印寺走田・古墳群地図 気がつくと玄関の扉を中から開けてくれる人がいた。電気もついた。入るときに入口の張り紙に気がついた。「展示室見学無料、声を掛けてください」と、あったのだ。

長岡京の全域に該当する航空写真

長岡京の全域に該当する航空写真
 一階展示室の壁にあった航空写真。

長岡京条坊復元図

長岡京条坊復元図
 「長岡京市遺跡地図」という薄い冊子と地図表を買った。冊子の末尾にこの復元図があった。

 展示室で「大量鉄剣出土」の写真に見とれてしまった。きちんと並べて埋まっていたのは、秘密の武器庫のつもりだったのだろうか、と思った。捨てたのではなくて、隠した。

 帰路の車中、長岡京の広大さを展示室の航空写真で、当時を想像していた。わずかに十年の都だったが、この地に決定し平城京や後の平安京に匹敵する都を作る意思はあったわけである。向日市、長岡京市、大山崎町にまたがるこの広大さは、南部に淀川の港をつくることで他の二都市とは性格が違うように思った。いろいろな想像がわいてきた。長岡京市埋蔵文化財センターは、山裾の平坦地にひっそりとたたずんでいたが、長岡京の歴史にはまだ見えない重層があり、それらの解明結果がいつかこのセンターに集まってくるのだろう。
 私は、乙訓寺が気になっている。早良親王が幽閉された史実よりも、それよりずっと以前、長岡京が生まれる前に、継体天皇がそのあたりに宮を作った形跡がある。そんな重層イメージにひたっていた。

参考
  「聖武天皇と大地震/JoBlog」[何故、平城京を捨てたかについてヒントがあった]

 向日市埋蔵文化財センター

| | コメント (2) | トラックバック (2)

2006年3月 6日 (月)

新誠会2006/03/04(伏見港の黄桜)

承前[MuBlog:さよなら助勤2005

新誠会 2006/3/4

新誠会 2006/3/4
 伏見の黄桜(MuBlog:かっぱカントリー)で、一昨日の土曜日に葛野図書倶楽部2001・新誠会があった。記念写真は私が写したが、光量不足や赤目、猫目に手を焼いた。しかしその夜に下級生達から送られた五名は、それとなく写っていたので良しとしよう。声も掛けずにシャッターを押したから、まだみんな笑ったり、携帯電話をみたり、完全記念写真態勢ではないのだが、そういう経過、流れ姿そのものが好ましい。
 後列の半分は来年の今頃、前列に座ることになる。私の仕事は、きっといつも伏見港界隈をイメージして、来年無事に、そこに座れるようにすることなんだろう。

やどりぎ

やどりぎ
 新局長2006が突然携帯電話を暗い夜空に向けて、ヤドリギ、ヤドリギと騒ぎ出したので、私も写した。ヤドリギという寄生植物の実態を把握できず、私はただ「鳥の巣」と思っていた。このとき、下弦の月が西空にあった。

うたげの全貌

新誠会のうたげ
 粛々とした式典の進行の中に、泣きと笑いと喧噪と欠伸と踊りと、まるで彼の国のカーニバルだった。十名を超すとボリュームがある。今晩夏初秋に、五周年記念「誠会」総会を予定しているが、幹事には本邦・秋祭りをイメージしてもらおう。

式典次第

新誠会・2006/03/04(黄桜)式典次第
 これを手早く作ったのは経理局長2006だった。みんなそれぞれ特技があって、短時間でこういう手間暇のかかりそうなことをいつのまにかやっている。幹事長・二番隊長2006は遅れた隊員を近鉄桃山御陵駅前で待っていたし、幹事・三番隊長はいつのまにか花束を一杯仕入れてきていた。

 最高顧問として、心地よい宴だった。

| | コメント (0) | トラックバック (2)

2006年3月 5日 (日)

NHK功名が辻(09)クノイチ小りん登場

承前

空也堂・極楽院光勝寺(ごくらくいんこうしょうじ)(京都市中京区亀屋町)地図関係サイト
興聖寺(滋賀県高島市朽木村岩瀬)地図

 今夜は、信長の殿軍(でんぐん)を引き受けた秀吉の与力、山内一豊が戸板にかつがれて逃亡途中、もはやこれまで自刃せんと思ったとき、突然の銃声、徳川家康の援軍に救われたというところが、見てきたようなイメージでよくわかった。こういうところが、後世関ヶ原にて、山内一豊が徳川に味方した伏線なのかもしれない。

 まだ城はもらえなかったが、50石給与から一挙に200石、現代での換算では年収2000万円となろうか。落としかけた命ひろって年収2000万円ではわりがあわないし、家族と郎党眷属をやしなうには、まだまだ貧乏だったろう。しかし、それはそれ、無事岐阜に帰ったときはほっとした。

 現代の年収2000万円の人はどんな生活だろう。車はレクサスとか、ベンツ。奥様は有閑マダム(と、ものすご古い用語だな)、ご子息は馬鹿息子に、賢いお嬢様。通う大学は葛野女子大学(笑)。ゆたかだな。しかし、これ、無収入の舎弟というか若者を数名養っていると考えると、とたんに暗くなる。年収2000万円じゃ、わかいもんたちに、小遣い銭すら渡せない。戦国時代、なかなかに生きるのが難しかったと思う。

 さていよいよ一豊の回りに謀略の影。宿泊地の空也堂にクノイチ「小りん」登場。一豊さん、まんまとひっかかったなぁ、と高みの見物なれど、これだけの家臣団がいると、軍の行き先、目的、知らせないと混乱するし、知らせると待ち伏せをくらう。案の定、信長は六角氏の雇った鉄砲名人に狙撃される。この情報は、一豊の、小りんに語ったなにげない話が発端となる。
 今夜の教訓は、情報とは持つ者、発信する者が価値付けるのではなくて、受け取る者、利用者、盗む者、が価値を造り出す素材と思った。信長軍団が京都からどこへ行こうが、無関係な人には、一豊の世間話は無意味だが、信長を狙うものには至宝となる。

 ところで。他の司馬さんの小説でもときどき目にするのだが、悪逆非道(仏教界とか伊賀の人にとっての信長は悪魔だった)な信長は、まめまめしく戦士の妻たちの相談相手にもなっていたらしい。有名なのは、秀吉の京での常軌を逸した女狂いに、ネネがたまりかねて信長に相談したという逸話である。

 今夜のNHK附録は、滋賀県の山奥の高島郡(最近、市)は朽木村(くつきむら)のことだった。興聖寺(こうしょうじ)に、足利十二代将軍義晴や、十五代義輝の無聊をなぐさめた庭跡があって、足利ゆかりの地であると解説があった。朽木氏は敦賀から敗走した信長を助け、その後秀吉、家康の恩顧によって、京都府の丹波福知山で幕末まで保ち、明治維新では子孫が子爵を得たとのことである。
 寺院寺社大事典(近江若狭越前、平凡社)では、興聖寺の寺名は道元が、その山岳・河川をみて宇治市の興聖寺の風景に似ていることから名付けたようである。
 また、現興聖寺は旧・秀隣寺(しゅうりんじ)の寺域にあり、朽木氏の館跡らしい。この旧秀隣寺の庭は国指定名勝である。

| | コメント (2) | トラックバック (2)

2006年3月 4日 (土)

長岡京市立図書館の風景

長岡京市立図書館(京都府長岡京市天神)地図

長岡京市立図書館

長岡京市立図書館
 ひな祭りの午後、風が吹いて雪がふって、どういう風のふきまわしか、長岡京市立図書館の前に立っていた。長岡京探索の寄り道だった。味わいのある建築だった。四角四面にガラス張りというのは、本棚のガラス戸のようで、ほほえましい。駐車場も隣の文化ホール裏に比較的広い場所があった。

図書館のサンルーム

図書館のサンルーム

 小さな池に張り出したサンルームがあった。ガラスはよく磨かれていた。中に書架が写っていたので、帰ってから眺めて喜んだ、そのうえ人影まであった。

図書館からみた長岡公園

図書館からみた長岡公園
 地図で見るとこの池は「八条が池」となっていたので、八条通りの池かとも思った。なにしろ長岡京は、平安京、平城京と変わらぬ大きさだったのだ。別に記すつもりだが、平安京を尺度にすると、長岡京は南北に長く、平城京は左京(地図では東側)が外に出ている。とぼんやり考えたが、今は条坊制を考えるよりも、長岡天満宮の苑地が見える図書館ということに、とどめておく。

図書館のこと
 一階は成人用、二階は子供用、三階は会議室となっていた。このうち一階だけをこっそり歩いてみた。カウンターには三名ほどの女性がいて、仕事をしていた。司書さんなんだろう。利用客は高齢者、しかも男性が多かった。この形態は少し考え込むに足ることかも知れない。高齢者が多いのは、時間帯によっては当然だが、男性がめだったのが、気になった。サンルームの回りの椅子にずらりと座っていた。

 今、椅子と書いたが閲覧机はわずかしかなかった。日頃大学図書館を見慣れていると、ときどきこうした机なしの図書館にぎょっとする。最近の図書館は別にして、20世紀の日本の公共図書館は机なしが多い。辞書事典類を読むために、わずかにあるだけのことが多い。これはこれで図書館の歴史的な見方の変遷として、興味深い。

 昔、関係者にとって、図書館を作ることが最大の目標だった。図書館などにお金を充分払う自治体は少なかった。いろんな努力が実って、ともかく、限界の多いスペースだが、建築物は建った。しかし図書は毎年更新していく必要があって、建物がたっても毎年予算が増えていく。図書購入は図書館を廃墟にしないための維持費だった。それには親機間を納得させねばならなかった。その指標が、図書の貸し出し率だった。

 かくして図書館に図書を読むスペースは無く、図書を貸し出すためだけの機能が大きくなっていった。あるいはそういう指標を元にして、自治体や住民を納得させて図書館を維持する方式が普及し、あとに続く図書館は最初から読書スペースを無くした物が多くなってきた。

 かえって読書室が潤沢だと、生徒学生が勉強のために占拠して、勉強部屋になってしまう、という考えも生まれた。たしかに昔は冷暖房も家庭に普及していなく、狭隘な家には勉強する個室も少なく、それでも学校以外で自習したい者にとっては、図書館は極楽だった。朝、席取りに長蛇の列があったのを、私もまざまざと覚えている。

 他方、比較的豊かだった旧国立大学図書館では、試験期にそなえてどんどん閲覧スペースを増やしていった事例もあった。公共図書館の多くは、それと逆の道をたどってきた、が。さて、21世紀、少子化が進み、高齢者がふえてきた時代である。これからの図書館はどんな風になっていくのか、楽しみだ。

 ちなみに、私が住む宇治の木幡と、長岡京市とは、地図上では東西水平10キロの向かい合わせになっていて、自動車だと30分を切ることもある。風景がよくて気持ちよさそうな図書館なので、これからも通うことになろう。郷土史コーナーはさすがに「長岡京史」で埋まっていた(笑)。

注:しかし、私は宇治市民なので、この図書館で図書を借りることは出来ないようだ。「長岡京市に住んでいる方、通勤・通学している方ならどなたでも借りることができます。」さて、どうする。そうだ同じ京都府民だから、京都府立図書館に尋ねてみよう。私→京都府立図書館→長岡京市立図書館→京都府立図書館→私。なかなかに、大変かもしれない、はて、どうなるのか。道州制が導入されたらどうなる? と、ふと考え込んだ。

参考サイト
  長岡京市立図書館の公式HP
  府内の図書館-長岡京市

| | コメント (4) | トラックバック (2)

2006年3月 3日 (金)

二十一万アクセス

承前 二十万アクセス、おお!

 先回の20万アクセスが丁度一月末だったので、今日三月三日の21万アクセスは、短い二月を勘案するなら、丁度一ヶ月ということになる。ペースは以前に戻ったようだが、月に一万はMuBlog作者にとってはいささかキツイ。騙る、語る種はつきないのだが、そのためのキーボード・マウス操作が過重になりがちだ。感覚的には、記事を載せれば、そしてそこに固有の言葉、いやむしろ名詞、「邪馬台国」とか「石舞台」とか「金魚」とか「葛野」と出ていれば、なにかしらYahooやGoogleの検索エンジンでヒットする。

 耳にした話では、ココログの親ニフティーは、なかなかblog世界でメジャーになっているので、それなりの利用者数が最初からいるようでもある。いつも申すが、職業柄多数の学生ないし卒業生がいるので、ついちょっと覗きにくる事例も多々あると聞く。そのうえ、知り合いの数名が活発すぎる(笑)blog活動を日々営んでいる。相互参照が多い。そんなこんなの、月一万アクセス。

 とはいうものの、振り返れば、重い、暗い、ややこしい記事が多く、読者に難渋感を与えているだろうに、それでもかつかつ一定水準のアクセスを得ていることは、喜びである。てらいなく、気負いなく、述懐するならば、「多少わかりにくい記事でも、毎日書いていると、月に一万回程度のアクセスがある。それは、この世間は広い(変人が多い)ことと、検索エンジンが普及していることと、一定のblog仲間がいるからだろう」と、記しておく。

追伸
 そう言い切った上で、なお、異なり数を考えると、おそらく常連読者は一ダースに満たないだろう。私の、実に狭い世間が、ひしひしと分かってくる。

(1)本日記録
 対象日: 2006年03月03日(金)晴れ曇り雪
 観察時間:15:49
 合計数:128(本日)

  累計アクセス数: 210001
  1日あたりの平均: 293.30

 記事数: 668 | コメント数: 3101 | トラックバック数: 458 | ライター数: 1
 コメント数、トラックバック数、ともに微増。活発では無いとも言えるし、また、沈静・安定化傾向ともいえる。

  現在利用中のプラン: プロ
  利用可能なディスク総容量: 10,000 メガバイト
  利用中のディスク容量: 204.242 メガバイト (2.04%)
  ココログの利用開始月: 2004年3月

(2)先週:検索ワードランキング(4件以上のみ)
 対象日: 2006年02月20日(月)~ 2006年02月26日(日)
 合計数:1715

順位 検索ワード 件数
1 じぶり 57→61
   60 みたかのもり 4

最近、この「じぶり」がまったく分からない。MuBlogにとっては大昔の記事なのに、毎週アクセスがある。最近みて驚いたのだが、幾つかの検索エンジンでは、最初の頁とか、先頭に!MuBlog記事がヒットする事例もあった。こういう世界のことは本当によくわからない。へたな写真と、短い感想(しかも、私は未踏地)しかない記事にアクセスが重なると、わけがわからなくなる。逆に、これまでの幾つかの記事でも、数日間、数週間、検索エンジンの先頭グループに入った物があるので、そういう記事を分析すると、この時代「ヒットする」がどういう要素なのかわかるかもしれない。ただ。私は、暇人じゃないので、そんなに無理してまでヒット増加は考えていない。(ヒット数に応じて給与が倍額とかの話なら、研究しつくすかな(笑))

2 地図 31
3 京都 31
4 ハードディスク交換 20→108
  5 ハードディスク 19
  6 ノートパソコン 18
  9 交換 13
  10 ノート 12
  16 メビウス 8
  45 シャープ 5
  46 sony 5
  56 prius 4
  64 vaio 4
ノートパソコンのハードディスク関係が大きいのは、メーカー修理がじゃまくさかったり、パーツ屋の普及によって、初めての人でもスッピンのハードディスクを一万円前後で入手できることが知られてきたからかもしれない。ただ、最近のパソコン保証期間は三年程度あるそうなので、わからない。三年たってもハードディスクを無料交換してくれるのだろうか? ただ、昔から言われてきたことだが、ハードディスクドライブは常時5000~7200回転するものだから、いわゆる消耗品と考えてもよいパーツだろう。メーカにとってもこういう物の保証は、しんどいと思う。たとえば自動車で、タイヤがへったから無料交換してくれと、三年後にいわれても、メーカーは困るだろうな(笑)。

7 佐野藤右衛門 16→33
  23 桜守 7
  37 佐野 5
  44 桜 5
いよいよ狂桜の季節が近づいてきました。しかし、……。昨年の狂乱を思い出すと、ぞっとする。写すのはそれほどきつくない。整理、選別、掲載が肩や目を破壊する。まあ、ちょこっと、だけにしときましょう、今春。

8 写真 13
11 木幡池 11→15
  65 木幡池の魚 4
12 功名が辻 10→48
  17 新撰組 8
  20 茶母 7
  22 お市の方 7
  29 義経 6
  30 竹中半兵衛 6
  62 NHK 4
13 森博嗣 10→21
  39 退職 5
  31 名古屋大学 6
なにもね、有名作家のN大退職をMuBlogでご覧にならずともよろしいのに。なんの裏話もないです。ただ、分野は異なれど、私も小さな大学のセンセをしておりますので、大学村の雰囲気はちょっと共通のこととしてわかるところがあります。それより、私の「森博嗣作品論」じゃなかった、読書感想文に、もっと来てくださいよぉ~。すでに森作品感想文記事は数点あるんです。

14 うどん 9
15 奈良 9
18 ダヴィンチコード 7→15
  63 コード 4
  66 ダヴィンチ 4
19 ブログ 7
21 伏見 7→16
  41 月の蔵人 5
  67 魚三郎 4
24 ミスタースタンプスワインガーデン 6→16
  34 ワインガーデン 6
  68 ミスタースタンプ 4
この記事は、写真と文章ともに、いささか自負があります。実にその時のワインガーデンの様子をくっきりと描ききっておりますなぁ(自画自賛)。ちょっとグーグルなんかで試してみましたが、あんまりネットで宣伝しないお店のようです。だから、MuBlogに時々流れ着いてくるのでしょう、お客さん。

25 近親相姦 6
26 騒動 6
27 森正 6
28 常照皇寺 6→10
  54 じょうしょうこうじ 4
32 blog 6
33 明日の 6
35 嵐山 6
36 キルヘボン 6
38 解説 5
40 出雲 5
42 映画 5
43 弁慶 5
47 木曾の最期 5
48 壬申の乱 5
49 石舞台 5
50 新京極 5
51 京北 5
52 啓示空間 4
53 うぶめのなつ 4
55 法伝寺 4
57 蕎麦屋 4
58 Wine 4
59 京極堂 4
61 インフルエンザ 4

 先週は検索アクセスが少なかった。合計1715だったが、先々週は2400あった。MuBlogも週によってばらつきがでる。依然として、アクセス多寡の理由がわかるものと、わからぬものがある。「じぶり」はまったくわからない。「ノートパソコン」はよく分かる。後者はいつも私なりに気合い入れて掲載している。あと、私がそれなりに考えて出す記事にはアクセスが無く、なんの気なしの記事にコメントやアクセスが多い。なんとも、いいようのない現実世界である。世の中の実相とは、そういうものなのだろう。「ネットで分かる人生観、諦念」

(3)先週:検索フレーズランキング( 3件以上のみ)
 対象日: 2006年02月20日(月)~ 2006年02月26日(日)
 合計数:547

順位 検索ワード 件数
1 明日の  blog  近親相姦  騒動 6
2 桜守  佐野藤右衛門 6
3 ノートパソコン  ハードディスク交換 4
4 ミスタースタンプ  ワインガーデン 4
5 黒田官兵衛  功名が辻 3
6 佐野  藤右衛門 3
7 prius  ハードディスク交換 3
8 sfo  airport 3
9 木曾義仲  今井四郎 3
10 20世紀少年  浦沢直樹 3
11 法伝寺  大津 3

 「1 明日の  blog  近親相姦  騒動 6 」これはなにかの間違いだろう。該当記事も思い浮かばない。ただし、近親相姦については、日出処王子が該当するようだが、それにしても、検索エンジンもぼやけたところがあるようだ。
 後は全部わかる。佐野藤右衛門さんで来駕あるのはうれしい。その他、全部にんまりする。ちゃんと書けば、ちゃんと客がくる。そういう気持ちよさが時々ある。とくに、法伝寺+大津、これは壬申の乱関係だが、うれしい。

(4)先週:曜日別
 対象日: 2006年02月20日(月)~ 2006年02月26日(日)
 合計数:1905

曜日 アクセス数  <当日掲載記事>
MON 292 →私の京都・紀ノ国屋とドトール
TUE 284 →Prius(日立製ノートパソコン)のハードディスク交換
WED 273 →私の京都・寺町通{四条→三条}
THR 253 →おだやかな2月 
FRI 281 →八坂神社の大政所御旅所
SAT 220 →絵葉書:冬の兼六園(金沢)
SUN 302 →注文の多い料理店 (アニメ)、 NHK功名が辻(08)朝倉攻め

 先週のアクセスが低かった事情はよくわからない。だいたい300を少し越えないと、一ヶ月一万アクセスは無理な勘定だから、軒並み200台は、何故だったのだろう。この週の記事は最悪だったのか。うむ、こうして当日掲載記事をあわせ記すと、Mu次(Muなみ)な記事なので、感興をおこさなかったのだろう。しかたない。
 なお、土曜日は毎週一番アクセスが低くなる。平均して、月曜日と日曜日とが、アクセスが増加する。なんとなく、事情は分かる。
 おそらく、週休二日制が定着している現代、多くのサラリーマン、OLにとって、土曜日はただただ午後まで眠る曜日かもしれない。そして出かける。だれもネットなど手に触れない。

(5)先週:記事ごとランキング(1%以上抽出)
 対象日: 2006年02月20日(月)~ 2006年02月26日(日)
 合計数:1905

順位 URL パーセント
1 http://asajihara.air-nifty.com/mu/ 12%
2 http://asajihara.air-nifty.com/ 9%
3 http://asajihara.air-nifty.com/mu/2004/05/post_6.html 4%
  ↑三鷹の森ジブリ美術館
4 http://asajihara.air-nifty.com/mu/2006/01/post_e704.html 3%
  ↑ノート・パソコンのハードディスク交換、取り扱い処方(SONY Vaio PCG-FX)
5 http://asajihara.air-nifty.com/mu/cat573003/ 2%
6 http://asajihara.air-nifty.com/mu/2006/01/post_d4f5.html 1%
  ↑ノート・パソコンのハードディスク保守(シャープのメビウス・ノート)
7 http://asajihara.air-nifty.com/mu/2006/02/nhk_d59b.html 1%
  ↑NHK功名が辻(07)信長の時代
8 http://asajihara.air-nifty.com/mu/2004/04/post_2.html 1%
  ↑桜の森:佐野藤右衛門邸の桜

 この一週間にアクセスの多かった記事は、のきなみ過去記事である。(4)先週:曜日別、であげた記事はひとつもでてこない。これは、直近記事は一般には検索エンジンに載らず、当該週はblogのトップ、つまり固有記事ではなく「どんな記事がでた?」という観点からのアクセスが多いからだとも言える。それはランキングで12+9=21%あり、1と2とに集約されている。
 しかし、ジブリが2004年5月、桜の森が2004年4月、ノートパソコンの二記事もこの1月の記事である。この4記事で合計11%。一方当該週記事は8記事で21%。両者はレシオを計れば、同一である。
 なにが言いたいかというと、blogは常にカレントな、新品とれとれに話題が集中するようだが、MuBlogの場合はむしろ過去比重が高い。
 と、いうことは。ここでいつもの持論がでる(笑)。blogはいろいろな使い方があるが、じっくり日々思うように書いていく方法もよい、となる。

(6)分析
 ということで、個々の分析らしきものは個々に記してしまった。
 ここであえて大上段に振る舞う愚はさけておく。
 今回は、一ヶ月で1万アクセスあった。よかったよかった、生きてる証。
 ではまた、22万アクセスまで、次は四月上旬を予定しておきます。3月も末になると、新学期のあれこれがあって、それは四月中頃まで狂騒が続きます。無事、四月上旬にこの「MuBlogアクセス分析記事」が載せられるように、やっていきます。再見。

大追伸
 最後に、知見あり。
 つまり、「ジブリ」や「ノートパソコン」記事が大ヒット(おおげさな)するのは、本体記事の貧弱さに比較して、すばらしいコメントが付録としてあったからだ。「ジブリ」は畏友Joさんの家族が実際に行ったコメントがあり、「ノートパソコン」二記事は、あの、例の、パソコン史にのこる「FM-TOWNS」開発者の中心人物、梅翁こと「ふうてん爺さん」が、日頃に似合わず、純正エンジニアとしてコメントしている。これらが至宝だったのだ。分析の最後に気付いたことである。

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2006年3月 2日 (木)

TEロレンス・バイク・ドラキュラ・廃藩置県の夜

 昨夜は、少し疲れぎみだったのか、ご飯をたべたら眠ってしまって、起きたのが夜の十一時前だった。夕食にシマアジの美味なお造りを食べてご機嫌だったが、起きたとき二の腕をぼりぼり掻いていた。軽いじんましん太郎、青魚過敏なんだろうか、みみず腫れができていた。
 昨夕の早い睡眠はわずかに二時間半だった。それなのに熟睡した気分だった。これを書き終わったら、また眠ろう。

TEロレンスとバイク
 先般、ふうてん爺さんのblogでなにげなく「TEロレンスが事故死したとき、どんなバイクだったんだろう」とコメントしたら、さっそくコメント返しがあった。すぐに見て、素晴らしいサイトだったので、昨夜熟読しようと思ったが、眠ってしまった。

 T.E.Lawrenceのオートバイのことは以下のサイトに詳しいです。その中の(Lawrence who rides Brough Superior.)にはこのオートバイに乗っているロレンスの写真などいろいろあります。
http://www.broughsuperior.com/index.htm (ふうてん)

 引用サイトでは、http://www.broughsuperior.com/newpage75.htm、この頁で、ブラフ・シューペリアというバイクだったことが分かる。ロレンスはそれにジョージ7号、と名付けていたようだ。と、そこからあれこれ記そうとしたが、昨夜眠った。

ドラキュラ伝説
 おなじく昨夜7時ころからNHK教育TVで、ドラキュラ伝説を放映していた。一応記録したが、まだ見ていない。食事中、背中のTVから小さな声で「チャウセスカ大統領は、ドラキュラを国の英雄にみたてた」とながれていたが、さてどんなコンテキストでそう解説していたのか、わからない。
 一昨日葛野の屯所で今春卒業生からDVDを貸してもらった。卒業式までに二本見ておく必要がある。アン・ライスのレスタト・ドラキュラものである。なんとなく、二つめの「呪われし者の女王」DVDは、見せたくないそぶりだった。多分映画として、ちょっと以上に駄作なんだろう。が、私は駄作に引き込まれる性分なので、近日二本まとめて観ておくつもりだ。最初の、インタビュー・ウイズ・バンバイアは、大昔映画で見た記憶がある。

その時歴史が動いた、廃藩置県
 昨夜の9時すぎ、ちょうど私が眠っているときに、時々見る番組をいつも通り放映したようだ。これも記録したが、まだ見ていない。最近道州制の新聞記事をよんだが、知事選挙のやりなおしのような、道知事選挙になるのだろうか、廃県置道。分からない。
 だが明治維新政府の政策は、後世眺めてみると、良くやれたなと驚嘆するほどのものである。

まとめ
 ということで、ちょっと居眠りというか、熟睡しているまに世間が動いた。後追いすることができるかどうか、わからない。終わったことだから、録画鑑賞はもうよいとも言えるが、まあ気になったら後日眺めておこう。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年3月 1日 (水)

ある夏のカナン96(抄) 「あほ」と「古今烏丸」

あほ(京都市中京区富小路通錦小路下ル西大文字町)地図 紹介サイト
COCON・古今烏丸(京都市下京区水銀屋町)地図 紹介サイト

 昨夏、関東から古い友人K君が京都にきた。リッツ氏が人を集めてくれて小宴をもった。行ったところが「あほ」と言う名の創作小料理屋だった。

あほの皿

あほの皿
 取り皿に描かれた「あほ」の踊りぐあいや、箸入れのデザインをみていると、あほっぽくぐにゃりと振る舞う姿が浮かんできた。料理も雰囲気もあほっぽいのじゃなくて、客に「あんた、あほや」というているのか、みずから「あほな皿ドス」というておるのか、やんわりと考えさせる妙があった。

日本酒

日本酒?

結構K君の飲みっぷり

結構K君の飲みっぷり
 K君は由来があって「結構K君」と言われている。カナン96に顔をだしていた一年間は、昨日のようだが、すでに十年も経ってしまった。そのころ、K君の半ば昔話として、TDLの年間パスポートを持って、仲間と毎週通っていた、そんな話を聞かせてくれた。当時まだ高額だった携帯電話をみんなもって、ひたすらTDLに通っていた。「何しに行くの、何してるの、そこで」という数万回の私の質問に、数万回の微笑で答えていた。

あほの前にたたずむ

あほの前にたたずむ

古今の一階

古今の一階
 「あほ」からなぜ当夜、離れた古今烏丸まで歩いたのか、まだ一年も経たないのに、まったく覚えていない。K君のホテルの都合か、あるいはまだ古今烏丸が物珍しかったのか。贅沢な空間だった。壁には薄い水の皮膜が流れていた。

 とりとめもない記憶をいっぱい抱え込んで、毎日毎週毎月毎年、すぎていく。カナン96という研究会も、1996年ころにはメンバー平均年齢20代だった。昨夏あつまれたのは、K君、リッツ厨房師、DJ、ツオイエだった。肝心の初代船長がいなかった。復興華南2006もそろそろ、船長が「舟が、でるぞぉ~」という季節になってきた。この写真集をつくりながら、思い出していた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2006年2月 | トップページ | 2006年4月 »