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2006年3月15日 (水)

乙訓寺:おとくにでら

承前[MuBlog:長岡宮跡(向日市)]

乙訓寺(京都府長岡京市今里三丁目)地図

 向日市の長岡宮跡を見学したあと、隣町の長岡京市に入り乙訓寺を探した。

乙訓寺表門

乙訓寺表門
 この表門を探すのに少し骨が折れた。ナビゲーションはここをささずに裏の参道で終わった。もちろん、参道でも表門でも、乙訓寺にかわりはないのだから、些細なことだった。「弘法大師ゆかりの寺、洛西観音第六番札所、ぼたんの寺」と、裏参道にはあったので、この表門をみてその格式がよくわかった。

乙訓寺案内板

乙訓寺案内板
 桓武天皇の弟、皇太子・早良親王が藤原種継暗殺事件に関与した疑いによって、乙訓寺に幽閉された史実がある。

乙訓寺・本堂

乙訓寺・本堂
 お寺さんにはもうしわけないことだが、私はここにくるまで、廃寺に近い想像をしていた。なにかしら「ぼたん花」の薄い記憶はあったのだが、継体天皇時代の古代・弟国宮、そして長岡廃京のことで頭が一杯だったので、乙訓という言葉が、雑草生い茂る寺を想像させたのである。しかし、本堂の静謐を味わい、そういうイメージが払拭された。

乙訓寺境内と弘法大師像

乙訓寺境内と弘法大師像
 なによりも乙訓寺は、弘法大師、空海が再建した寺と考えてよいだろう。ところが、それ以前から、相当に古くからこの寺域はあった。つまり、長岡京遷都(784)の前から、ここは大規模な寺だった。

長岡京市全域図

長岡京市全域図
 この地図写真は、長岡京市の現況をみるためではなくて、ポンポン山と桂川に挟まれた歴史を味わったからである。桂川は南部の大山崎町で宇治川、木津川が合流して淀川になっていく、その地勢が「長岡京」であったことの確認のためである。それと、乙訓寺近辺は今里という地名になっているが、なんとも説明しようがなく、この「今里」の由来を確かめたく思った。(今のところ、なにも分からない)

継体天皇弟国宮幻視

継体天皇弟国宮幻視
 これは乙訓寺の近くから、東側を眺めた写真である。なぜ継体天皇が、この地近辺に弟国宮を設けたのかは、いつか考えてみたい。

参考
 京都洛西乙訓寺公式HP [Mu注:「乙訓寺の歴史」頁に、わずかだが継体天皇弟国宮跡と乙訓寺の関係が記してある]
 宮都のロマン 長岡京発掘50周年(京都新聞)
 京都の観光地・逸話-乙訓エリア [Mu注:今里大塚古墳の逸話に興味を持った。]

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コメント

言い伝えが守る古墳

今里大塚古墳の伝承と戦時中の青年団長の話は今も、日本には伝承が生きている事を証明していますね。

古代と現代が混在している世界、これが、日本という国の本質ではないでせうか?司馬さんもよくこの事をよく、書いておられました。

不思議な国であると。

しかし、この伝承ひとつを採り上げても、自然を人間の文明という名の破壊から守る”テダテ”だと考えれば、納得できます。

投稿: jo | 2006年3月16日 (木) 11時14分

jo | 2006年3月16日 午前 11時14分

Joさん律儀に、参考にあげた
「京都の観光地・逸話-乙訓エリア」
読まれたようですね。

 インターネット情報はときどき露天のダイヤモンドがあります。このサイトの、今里大塚古墳伝承は、ヒットでした。

 さて。
 祟りの別の系列があるようですね。菅原の道真様式とは別に、龍神の祟りとか、蛇神さんとか、本当にたくさん各地にあって、それがなんらかの「歯止め」をしてきた事実はありますよね。
 いまは、歯止め無き世界だからね。

 JoBlogやふうてんblogは、数少ない歯止めかもしれませんでぇ。


 

投稿: Mu→Jo | 2006年3月16日 (木) 13時26分

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