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2006年2月19日 (日)

NHK功名が辻(07)信長の時代

承前

 今夜のドラマは史実の中では1568年、永禄11年だった。信長は足利義昭を奉じて上洛を果たした。来週は二条御所に秀吉や、一豊が詰めることになろう。
 足利義昭は信長の機嫌取りに、「父」とよび、「管領」「副将軍」と、褒美を与えようとするが答えない。結局、堺と琵琶湖の大津に代官を置くことを許される。経済の権限をにぎることだった。異国の富、北陸の富が、二つの地域から信長のもとに流れてくることになる。

 劇中、「清洲、小牧、岐阜と引っ越しした」とセリフがあったが、この前後に明智光秀も信長のもと、岐阜に妻子を呼び寄せ落ち着いた。このうち、三女の「たま」が後年、細川ガラシャ夫人になるとのこと。いま出演している細川藤孝(ふじたか:近藤正臣さんが演じてますが、ずっと以前、北畠親房の名演が眼裏によみがえります)の息子さん細川忠興(ただおき)夫人である。実際にはお目にかかってはいないが(笑)、あらゆる映画小説演劇で、ガラシャ夫人は、美しく聡明に描かれていた。

 当時は(今は?)、出産は女性の戦争とおもわれるほどの危険があったことだろう。母子とも健在という常套句がどれほど大切な言葉だったか。こればっかりは、家の上下にかかわりなく、条件に変わりはなかったのかも知れない。他方、男性は生死の分かれ目が五分と五分。もちろん大将の武運が強ければ、「命をひろった」組に入れるかも知れないが、ほぼ同数が死亡していたに違いない。命がけの博打。ハイリスク・ハイリターンのひとつであろうか。
 山内一豊は秀吉の与力。一豊と一緒に戦場にでるのは、親族、郎党家臣。一家総揚げで「親分」について、戦場に出向く。だから、名乗りをあげての一騎打ちは、全くなかったに違いない。小集団戦か。そして集団鉄砲戦に入っていく。

 番組附録では六角氏・安土の観音寺城(地図)が解説されていたが、われら素人は安土と聞けば、安土城を思い浮かべる。Muもこの安土城跡は訪れた。ビデオがあるので、遠い後日に。いや古い物だから、再訪した方がよいかも知れない。少し山を登ることになるのだが、彦根城であれどこであれ、昔の城は山城や、それに近いものが多かったようだ。しかし、今夜は六角氏、観音寺城の話で、終わった。


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コメント

信長軍団の兵士の生活

確か信長が始めて軍団の兵士を土地から切り離した人物ですよね?金で給料を払い、城のまわりに住まわせる。

だから、何時でも戦争が出来る。であるとすれば、番組で放映されてたように、下級の武士の家庭でも畑仕事は出来たんでしょうか?

ホンマやろか?武士というと、畑仕事がつきものですが、信長軍団からは違うように思うのですがね?わかりません。

しかし、旦那は出張ばかりで奥さんは大変ですね、今も変わらんのでしょうかね?

投稿: jo | 2006年2月20日 (月) 11時17分

jo | 2006年2月20日 午前 11時17分

 サラリー兵士と信長ですか。
 そういう視点を亡失しておりました。
 しかし、このころはまだ中世の風習がやや残っていたのかも知れませんね。まだ、鉄砲隊を編成しきってはいなかったんでは?

 なんにしても、先般木幡研ではNHKでローマの番組をみていて、ローマが滅亡していった理由を知ったのですが、版図を拡大しすぎて(英国なんか遠隔地)、遠隔の地を転々と異動させることが、兵士の反乱や逃亡をすすめたようです。
 カエサルでもスペインやガリアの地に10年くらいは遠征していたようですね。

 兵士は数年で地元民と家庭を持って、畑仕事して、居座るから、元老院命があってよそへ移れといわれても、もう、駄目だったんでしょう。
(元老院が完璧な、金権賄賂、ほとんど衆愚政治に堕落しておったようです)

 サラリーマン兵士の気持ちも、よくわかるような。

投稿: Mu→jo | 2006年2月20日 (月) 12時07分

足軽のことでしょうか?

 NHKの番組は見ていないのだけど、戦闘員と百姓の中間が足軽やと聴いております。
足軽は平安時代からあったらしいけど秀吉の時代には大名にまでなれたと言いますから、やはり信長がそういう人材登用の道の先駆者やないかと。

 歴史オンチの当方ですが、こういうサラリーマン兵士とか、今につながるお話は興味がないわけではございません。

 中国の古代史のように80歳になってまだ兵士でいつどこで死ぬるのだろう?なんて嘆きの歌を聴きますと、過酷な時代もあったんやなあと茫然となります。
その点日本はほとんどが(内戦)の歴史だったのでしょうか。

 ローマが滅びたのは一説では民を喜ばせる為の(エンターテインメント)に金をかけ過ぎたからだ、例えば円形のスタジアムを作ってライオンと人間を闘わせたり、そういうのん、ものすごう金かかるんです、でもそれで政治家は支持率を稼がないと、成熟した市民社会が許さなかった、いうんですね。
あらゆる酒池肉林、あらゆる歓楽はローマの時代に(全てが)行われたと聴きます。
辻調理師専門学校を作った辻静夫さんの本では、フレンチ・・・それでやろうとしていることの殆どはもうローマ時代になされていた、と感嘆しています。

投稿: ふうてん | 2006年2月20日 (月) 18時01分

ふうてん | 2006年2月20日 午後 06時01分

 調べずに言うのは恥ずかしいですが、信長は足軽を組織化して鉄砲隊を作ったり、あるいは馬鹿長い槍隊を作ったり、あるいは弓隊もかな?
 で、山内一豊は先代期の織田分家家老職の嫡子だったから、これとは違うと思います。秀吉配下の山内隊で、その隊員は、恒常的一族郎党だったと思います。

 さて、ローマの事ですが。ライオン相手もそうだけど、剣士同士を命がけで戦わすには、それなりの支度金を払わないと、駄目だったんでしょうね。想像すると、ファイトマネーは高額で、スポンサーが疲弊したんでしょう。

 なお、ローマの衰退については、塩野七生さんに詳しいし、私は一昔前の高坂さんの図書を昨年取り寄せました。たしか、文明の衰亡とかいうタイトルでしたね。

 しかし、版図を拡大しすぎるのは、人間が歩ける距離から考察しないと無理があるといのは、ようわかりまし。現代なら、飛行機や舟があるので、世界全体を狙う人達もでてくるんでしょう。

投稿: Mu→ふうてん | 2006年2月20日 (月) 21時10分

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承前 金ヶ崎城跡(福井県敦賀市泉)地図  そろそろ戦国の気風を味わうようになった。命がけというのが言葉通りの世界だった。戦闘集団とは人命かけて争うのだから、死生観もいまとは随分異なっていたことだろう。番組最初の方で、山内一豊は関ヶ原の戦い時に55歳生涯槍一筋の現役だったと、ナレーションがあった。ちなみに生没年は1546~1605、関ヶ原1600年に戦勝し土佐20万石の大名となった。一豊は数えてみると享年60歳となり、土佐では5年前後すごしたのだろうか。  一豊のイメージはおっとりした武将だったが、今... [続きを読む]

受信: 2006年2月26日 (日) 21時39分

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