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2006年2月28日 (火)

絵葉書:冬の合掌造(白川郷)

承前[MuBlog:冬の兼六園

白川郷(岐阜県大野郡白川村大字萩町)地図

 DeepGがこの三葉を送ってくれたのは、数日前に掲載した「冬の兼六園」と同じ便だった。日付を見ると、この白川郷が一日早いので、岐阜から白川に入り、そして金沢に抜けた旅程かもしれない。汽車だったのか自動車だったのかバスだったのか、全く分からない。

 掲載するのが遅れたのは、いま考えてみると二つの要因があった。

 一つは、DeepG独特のことなのだが、はたしてこれが白川郷の合掌造り風景なのかどうか、確証を持てなかったからである。もしかしたら飛騨高山か下呂温泉かもしれない。先年「ヤセの断崖」と10キロ離れた「巖門」との写真取り違えで手ひどい思いをした。そっけない一行メルには「白川郷」と記してあったが、裏を取らないと、またしてもDeepGも私もそろってトンデモ世界に落ち込んでしまう。だから、真剣に掲載を悩んだ。

 もう一つは、この三葉が実に印象的な写真に思えたからである。夢幻。そういう味わいだった。雪と空と陽と、そして鄙びた田舎屋。たったそれだけのことに過ぎないのだが、非常に気に入ってしまった。となると、自分の大事なRSをなかなか全面公開しなかった心境と同じかもしれない。

 私はどうにも、こういう人為人工と自然とが、適度に配分された写真が好きなのだ。そして雪。北陸福井市に生まれたわりには、雪への憧れはいまだに強い。そこに住めば地獄と、山寺の和尚さんに言われたにもかかわらず、傘と長靴を手放せない寒く陰鬱な雪国生まれなのに、雪を見ると気持が昂ぶり、やがて和やかになる。

 そしてまた合掌造りの飛騨という言葉へのどうしようもないときめき。この地にない、この手にない、遠くに憧れるだけで足元のおぼつかない世界共通ロマン派の宿痾なのだろう。憧憬はつきない。

 というわけで、今宵は写真への解説はとどめおき、じっくり眺めてねむることにしょう。

逆光雪

逆光雪 白川郷合掌造

 
ほの温かい合掌造と梯子
ほの温かい合掌造と梯子
 

雪中合掌造

雪中合掌造
 

参考
 世界遺産合掌づくり集落
 白川郷合掌造り集落と平瀬温泉

 飛騨民俗村・飛騨の里[Mu注:今回の写真の白川郷とは離れていますから関係がないとも申せましょう。しかし私が初めて合掌造りを見たのは高山市でした。その時飛騨の里があったかどうかは知りませんが、3度は高山に行っております。学生時代の友人M君の故郷だったのです。が、中退した彼の消息は不明です。懐かしい青年期でありました。]

 白川郷 野外博物館 合掌造り 民家園

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2006年2月27日 (月)

二月のグラ赤金:金魚水槽の掃除

承前

二月のグラ赤金
 われながら恥ずかしくなる写真を掲載してしまった。このぼけさかげん、色調のきたなさ、これでは金魚くんが可哀相になる。しかしあえて掲載したのは、私なりの存念があって、人様にみていただく意図は実に低い、無いと言って良い。ただ、記録とあと少し。

 金魚を撮る難しさは最近ますますつのってきた。皆さん、どうやって小綺麗に変わった生態を撮っているのだろう。こうやってわが写真をみていると、NHKの自然物が如何に高度な技術や、資金、時間をかけているかがよく実感できる。
 フラッシュを使うと色調はよくなる。しかし金魚が怖がる(笑)、失明せぬかと恐れる。決まって水槽に光が散乱する。フラッシュの前にガーゼでも付けて撮るのだろうか。

 この写真は家中の電気を点けて、けさの夜明け前に、3m離れたところからSONYのディジタルビデオのスチルで、望遠気味にして撮った。古いマシンなので、スチル写真でも100M画素しかない。しかし普段は小綺麗に写る。しかるにこのていたらく。カメラの道も奥が深いね(笑)
 昼間ならもうちょっとましだろうが、昼間は葛野で仕事する、いそがしーい身ゆえに、じままな趣味はこうして夜明け前でないとかなわぬ。宮仕え。

 以前、葛野図書倶楽部というところで、隊員数名を前にして、「屯所で金魚を飼ってはどうや」「君らの荒っぽい気性もちっとはやわらかくなる」と、もうしたところ、猛反対を受けた。「だれが、世話するんですかぁ~」「センセが毎日餌やってくれるんですか」「毎週水槽掃除当番だなんて、やってられませ~ん」と、予想外の猛反対を、全員から一挙に受けた。おっとりではなくて、一挙にである。

 ならば、昼間綺麗に写すには、わが葛野研で飼おうかとも思ったが、はて。日曜祝日はだれが餌やって面倒をみる。まさかそれようのアルバイトを雇うわけにもまいらぬ。……

 ということで、つたない写真だったが、グラ赤金はあいかわらず元気。グリ銀金は、影に隠れて朝寝中のようだ。今度撮るときは、美しく映え映えととってみせよう。
 さらにもう一つの効用は、こういう拙い写真を記録すると、他の写真がさえ渡って見える、か。

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2006年2月26日 (日)

NHK功名が辻(08)朝倉攻め

承前

金ヶ崎城跡(福井県敦賀市泉)地図

 そろそろ戦国の気風を味わうようになった。命がけというのが言葉通りの世界だった。戦闘集団とは人命かけて争うのだから、死生観もいまとは随分異なっていたことだろう。番組最初の方で、山内一豊は関ヶ原の戦い時に55歳生涯槍一筋の現役だったと、ナレーションがあった。ちなみに生没年は1546~1605、関ヶ原1600年に戦勝し土佐20万石の大名となった。一豊は数えてみると享年60歳となり、土佐では5年前後すごしたのだろうか。

 一豊のイメージはおっとりした武将だったが、今夜のドラマで、一豊には千代と槍とがあったと、考え直した方がよいのかもしれない。これからまだまだ一豊は、秀吉の殿軍に加わり、その後も槍一本時代が続く。死か大名か。常にこの岐路にたった当時のそれなりの男性は、どんな日々を送っていたのだろう。戦の前の茶の湯セレモニーが流行していくのがわかる気がした。

 金ヶ崎城受け渡しの後、一豊は顔面に矢をうけ、それでも敵武将を倒した。一つの転機だったのだろう。さらにお市の方から「小豆」を受け取った信長は、浅井長政の裏切りを知ることになった。信長が「小豆坂のたとえ」と言ったのは、いま事情がよく分からぬが、小豆坂で袋攻めされたのだろう。信長の父が、岡崎の松平を攻めたとき、松平(家康の父の代)は駿河の今川義元に援軍を頼み、岡崎の小豆坂で織田を袋攻めにしたとあった。

 さてこの義弟長政の裏切りによって、織田信長は越前朝倉と、近江浅井と、両方から挟まれて窮地にたった。このとき脱出を計るに、殿軍を申し出た秀吉の願いを許した。この部分はこれまでいろいろな映画や小説、ドラマで描かれてきた。延々と琵琶湖の西を逃げ下るわけだが、殿軍とは全滅をまぬがれない立場を意味した。

 こういう殿軍を志願した秀吉も、それについた重傷の山内一豊も、渾身の大博打を打ったのだろう。掛け金は命だった。成功報酬は、城持ちだったのだろう。千代の楚々とした明るい姿に幻惑される前に、この背景には脂汗がでる。私なら、逃げるだろう(苦笑:私は大博打に弱い)。

 ともかく、生死の隣り合わせの中で、出世していく山内一豊とそれを支えた賢婦千代。重い話ではあるが、千代や一豊が常に笑顔を魅せているのが、日常の生の充実を味わわせる。なんともすさまじい世界だった。

 金ヶ崎城跡は地図に示したが、この南に気比神宮(けひじんぐう)があって、越前一宮で、明神大社といって社格が高かった。しかも明治期になって神宮を名乗るのだから由緒が深い。仲哀天皇、神宮皇后、応神天皇が神柱なのだから、どういう神社なのか、地図をみていて気持が宙に飛んでいった。

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注文の多い料理店 (アニメ)/宮澤賢治 原作、岡本忠成 脚本・演出

注文の多い料理店/宮沢賢治原作 ; 川本喜八郎監修 ; 岡本忠成脚本・演出
  <チュウモン ノ オオイ リョウリテン>
  [ビデオ]
  (BA53404996)

注文の多い料理店(表紙)

注文の多い料理店 (アニメ・表紙)/宮澤賢治 原作、岡本忠成 脚本・演出
  [東京] : 朝日新聞社,日本ヘラルド映画
  [東京] : ポニー・キャニオン (販売)、 [1993]
  ビデオカセット1巻 (19分)
  注記: 音楽: 広瀬量平 ; 制作: エコー社、桜映画社
  著者標目: 宮沢、賢治(1896-1933)<ミヤザワ、ケンジ> ; 川本、喜八郎(1925-)<カワモト、キハチロウ> ; 岡本、忠成<オカモト,タダナリ> ; 広瀬、量平(1930-)<ヒロセ、リョウヘイ> ; エコー社<エコーシャ> ; 桜映画社<サクラ エイガシャ>

裏表紙

注文の多い料理店 (アニメ・裏紙)/宮澤賢治 原作、岡本忠成 脚本・演出

帯情報

宮澤賢治作品で特に不思議な物語、それが「注文の多い料理店」です。

猟に出て山奥で道に迷った二人のハンターは、霧の中「山猫軒」という館にたどり着きます。ホッとするのも束の間、二人は怪しげな注文に導かれ扉を開けるごとに奇妙な世界に迷い込んでいきます。

「おこんじょうるり」などで知られるアニメーション作家、岡本忠成は、この作品に魅せられ5年の歳月をかけて製作を試みたのですが急逝。故人の意志を継いで、川本喜八郎が監修にあたり残された絵コンテをもとに完成させました。
全編を通して、絵画を思わせる陰影のある緻密なアニメーションは原作の持つ幻想的な世界を最大限に表現しています。

  文化庁優秀映画作品賞
  毎日映画コンクール大藤信郎賞
  キネマ旬報ベストテン第3位
  日本映画ペンクラブ賞
  教育映画祭最優秀作品賞
    文部大臣賞
  国際アニメーションフェスティバル広島大会入賞

Mu注:
 未経験の映像だった。次々と滑らかに、印象深い絵を差し出されているような感じで、あっというまに19分が経ってしまった。いま記していて気がついた、映画「千年火」と同じように言葉がなかった。音楽はあった、獣のうなり声はあった、銃声もあった、しかし人の声が全く絶無だった。登場人間は正確にはたった二人の中年の男性だった。カバー写真でわかるように、一人は太り気味、一人はやせ形だった。全編に登場するが、まったく言葉はなかった。一瞬一瞬の画像だけがあった。その絵が、滲んだ古色で、現代の鮮やかさは全くなかった。

 それなのに、物語だけが絵の中からくっきりと浮かびあがってきた。

 アニメーションがこういう効果をだせるという事実に、途中から唖然としてきた。私は、もっぱら文章メディアに入れ込んできたので、絵画が明確な物語を表現する事実に驚いてしまった。アニメーションの一つの極北にある作品だった、と断言したい。その芸術性とか、意義を論じる気持はない。ただ、絵画の連続が私に、文章作品がもたらすのと同じ明瞭さを示し、賢治の象徴の意味はおくとして、言葉の流れが持つ意味を受け取ることができた。
 1993年の作品だが、10年前にこれがあって、知らなかったことに自らの見識の低さを味わい、そして知ったことで「ああ、うれしや」と、土曜日の昼一人噛みしめた。

 さて、好きな場面をいくつかメモしておく。
1.山猫軒に入って、無人の部屋で、痩せた方の男がゲーム機にコインを次々といれて、射撃をするのが不気味だった。自分達の猟犬を何者かに惨殺され、道に迷い、殺気立っている様子が怖かった。

2.裏カバー上の写真にあるが、色彩に富んだステンドグラスの部屋に迷い込み、回りが鏡部屋のような中で、痩せた男が突然銃を撃ち出し、ステンドグラスを次々と破壊していく様子が狂気じみていて、固唾をのんだ。さらにそのあと、蝶とも蛾ともいえない大量の昆虫が部屋を埋め尽くす場面には、気持ち悪さの点で感動した。

3.太った方の男が一人地下の階段をおりていくと、水があってボートが浮かんでいた。それに乗ろうとすると、突然水が盛り上がり、ボートが流れ去ったのが、不思議な印象をもたらした。

4.ホテルのような一室で上半身裸になった痩せた男が、鏡台のいろいろな化粧品を使っているのがおもしろく、また太った男がサウナかシャワールームから出てきた姿にも、妙なリアリティを味わった。

5.思わずため息をついたのは、あるドアをあけると、そこは巨大な地下空洞(表カバー)だった。真ん中にコックが座っていて、男二人がテーブルに導かれワイングラスをもつ場面だった。

6.次に、三人の女が現れ、次第に形相が変わっていく恐怖。

7.そして。コックがついに正体を現し、巨大な肉切包丁を眼前で交差させた場面。

 こうして文字にしてみるとかったるくなってしまうが、絵画であると同時に、当然だがアニメーションなのである。なめらかに場面が展開していき、最後の土壇場の恐怖に落とし込まれる。それは全編わずかに19分間、言葉がゼロの世界で。

 宮澤賢治作品については言及をさけたい。この「注文の多い料理人」はいまから40~50年ほど前に読んだ記憶があるが、痕跡もなかった。決して私の好みの作家、詩人ではない。象徴するところのものを、無理矢理私にせまってくるのが、辛かった。
 しかし、アニメーションでこの作品を観たとき、「絵画」という味わいが深かった。しかも、象徴まではしらないが、物語を理解させてくれた。19分間を味わっただけで、物語の意味などどうでもよいと思った。旨く味わえた。だから、このビデオは私にとって最高の作品に思えた。
 それでよかろう。

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2006年2月25日 (土)

絵葉書:冬の兼六園(金沢)

承前[MuBlog:絵葉書:金沢城と兼六園
承前[MuBlog:紅葉と四季桜

兼六園(金沢市)詳細地図

 一昨日、メルで写真が送付されてきた。
 見知らぬアドレスなので少し躊躇した。この時期「もしかしたら?」と思ったが、タイトルには「残りわずか」とあるだけだった。しかし添付が6通もあったので、「いまどき、こんなことするのは~」、「いや、いつもの携帯アドレスじゃない」と迷いながら開封した。そうだった。まったく動静が掴めないまま忘れていたが、前触れもなく突然突拍子もなく、またDeepGが写真をくれた。
 いろんな点から見て今度はカメラが携帯電話ではないのが分かった。

 いつものように、地名だけが記してあった。兼六園3枚と、他が3枚あった。しかも「冬の兼六園」だった。MuBlogの過去記事を見てみると、金沢は昨秋に写真をもらっている。それから数ヶ月、またしても「冬」の金沢に出かけたようだ。出身地でないことは最初のメル写真送付の経緯からわかっているので、何故なのか想像もつかなかった。
 ただ、写真を見ていると、分かった気がした。
 冬の兼六園。つまり、DeepGにとっては、季節によって感覚が異なるのだろう。秋の金沢と冬の金沢はDeepGにとっては異種のものなのだ。と、合点したら写真が映えて見えた。

兼六園の雪つり

兼六園の雪つり
 私はこの雪つりを幼少時から知識としては知っていたし、写真やTVでもみたことがあるが、実際には未体験風景だ。
 祖母が金沢の雪つりの話を何度も聞かせてくれた。だから、こういう風物詩はすくなくとも戦前にはあったのだろう。祖母の昔話はいつも戦前戦中戦後すぐの、異世界話ばかりだったから。
 しかし脳というのは不思議な物で、何度も訪れた春夏秋の兼六園なのに、「兼六園」と言えばイメージは「雪つり」になっていた。しかも冬の兼六園の実体験はゼロ。

 DeepGの写真を眺めて、これはもしかしたらいつのまにか「冬の兼六園はなぁ」と人に語るほどの疑似体験になってしまうのではなかろうかと、おそれだした。妙にDeepGの写真とは親和性が高く、まるで自分が写したような気分になる。そして、興にのってこういうMuBlog記事を書き出したものだから、そうなってもしかたなかろう。一人で二人分旅行しているような気分である。
 それにしても、一本の松に数百本の縄をかけるというのだから、豪勢なものだ。もし江戸時代からのものならば、前田家の気風が知れる。

虹橋とコトジトウロウ

兼六園の虹橋とコトジトウロウ

兼六園展望台から見た白山(?)

兼六園展望台から見た白山(?)
 この写真をみて、そして送られてきたメルにあった「兼六園から白山、かな」というタイトルだけでは、なんとも判別しがたい。地図で確認すると白山は45kmの南南東に3千メートル近くの山並みとしてある。この写真がはたして45kmの遠望なのかどうか、どうにも山に不慣れなのでわからない。
 まあよかろう、白山にしておく。トンでもなくても、撮影がトンデモ金太郎なんだから、しかたあるまい。人生も、そういう曖昧模糊とした、アバウトな情報で、イライラしないことも肝要。なんでもかんでも、解明されればすむ話でもない。
 (と、たかが風景写真一枚で、最後は人生論風に納めるのが、このblogの悪弊やな)

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2006年2月24日 (金)

おおまんどころおたびしょ:八坂神社の大政所御旅所

大政所御旅所(京都市下京区大政所町)地図 極詳細地図

 京都では、歩くといろいろなものが目に入ってきます。ビルとビルの間に挟まれた小さな社が烏丸四条を下がった(南行のことを下がると都では申します)ところにありました。由緒を見てみると、なかなかに有為転変あって、難しいです。要するに、この地は跡地で、今の八坂神社の御旅所は別にあります。

八坂神社の大政所御旅所

八坂神社の大政所御旅所
 この御旅所には、七月十五日に長刀鉾の長刀が納められ、宵山の十六日は一般の人々が拝めます。大政所とは、日本史の上では摂政関白の母親をさすのですが、私はこれ以上の由来がわからぬまま今に至っています。「祇園会の神輿三基のうち、素戔嗚尊(牛頭天王)と八王子との二基を大政所とよび、妃神奇稲田姫の一基を少将井と呼んだ。」と、駒札にありましたが、さて何故オオマンドコロ。
 なお御旅所とは、一般には神さんが神社から外へ出かけられ時の休憩所、宿泊所です。神さんは神輿に乗って出かけます。八坂神社の現在の御旅所は、私がいつも寄る尾張屋さんのすぐ近所です(笑)。

大政所御旅所駒札

大政所御旅所駒札
 詳細は翻刻してあります。

参考
 洛中洛外図屏風(歴博甲本)【神社】
 紙本着色祇園社大政所絵図
 二上山の悪王子 [注:なぜ大政所御旅所と二上山の悪王子に関係があるのか? と、不思議な記事でした]

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2006年2月23日 (木)

おだやかな2月

 今年の二月は例年にくらべて少し穏やかだ。
 あまり出歩かないのと、試験採点のしわ寄せが二月にかぶらなかったせいだろう。前者はべつにして、後者については毎年一月は採点地獄がかさなって、他に重要な案件がすべて二月にまわってしまう。それで大抵この月は目や肩をこわして、鬱々と忙しい2月、3月になってしまう。

 一定部分の授業の課題締切をずらしたり、年末のうちに年明けの仕事をこなしたりすることで、こうしたうららかな研究時間を確保できることがわかった。2002年末~2003年もそうしたのだが、このときは、年末に一週間海外へ共同研究のお供で出むき、2003年2月には「森博嗣講演会」を催した。事前に千数百名の来客がわかり、当日会場が人で満ちあふれ、そんなイベントがあったので、今年のようなうららかさとはほど遠かった。

 相変わらずひきもきらない会議はあるのだが、一応文系の大学のせいか、早朝からの重要会議はめったにない。だから、私のように朝の五時ころから十時ころまでのあいだに、大切な仕事をすませてしまう者には、まずまず校務もコンスタントな呼吸と心得る時期でもある。と、余裕をもらしているのは、日頃できない研究を数時間でも毎日できる状態にいるからであって、これが授業時期だと、内心「なんで、こんなに忙しい!」と、怒鳴り散らしている(笑)。

 一方学生達はどうかというと、司書関係の倶楽部員しか動向はわからないが、三月卒業の人達は、すでに就職先へ行っている人が多い。時間が空いたときは、ぼんやりしたり、卒業旅行を楽しんでいるようだ。私は当時、友達あわせて三人でボロ車にのって九州まで出かけていた。これは懐かしくて思い出すと涙こぼるる思いがするが、二度ととりもどせない時期のことだから、タイムマシンがないかぎり、深く想起するのは諦めよう。
 ~、いま鳥取、出雲大社、萩、関門トンネルや太宰府や、長崎や阿蘇や別府を、トヨタ・パブリカ1000ccに布団を載せて走ったイメージが強烈にわき上がったが、これは後日。そう言えば宿に泊まったのは一回、あとは全部野宿~、止めておこう、この話(笑)、長くなる。

 今度倶楽部中枢になる新四年生はほぼ全員、躁というか鬱というか、就職活動に走り回ったり、あるいは就活サイトを眼前にして終日ぼんやりしているらしい。かくいう私は、その人達に「はれものをさわるような」態度で接しもするが、ときどきかんしゃくを起こしてしまう。なにに怒っているのかは、詳細は省くが、要するに「人間の一生は流転、有為転変あり、自分の思うようにはいかない。人事をつくしたなら、待つ。そして、人事はここ数ヶ月つくしただけでは、なんもならん。人事を尽くすとは、日々の事なり」という趣旨を、伝えようとして、ずっこけて、伝えきれない苛立ちに、かんしゃくを起こしているわけである。「いまさら、うろたえるな」が胸中にある。しかしそれは言えない(もう、言っている(笑))

 新三年生の人達は、なんとなく帰省したり、アルバイトに精を出したり、普通の学生生活のようだ。

 というわけで、日々の私は穏やかに木幡と葛野の往還を繰り返している。とはいうものの自由気ままに研究時間を使えるのではなくて、断片的に会議がはいり、約束事がはいり、そうして宿題がはいる。宿題の多くは、委員長として、委員として半ダースほどの会議のために、あれこれ「答」らしいものをあみ出すというか、ひねり出すわけである。課題の統一目標は、「大学を活性化し、沢山の若者に充実してもらいたい」につきる。これは、実は解答不能に近いことなのだが(笑)、まあ仕方なかろう。人生とはそういうものだ。

 さても、分厚い関係図書を一ダースほど精読しなければならない。私の研究は情報学のような文学批評のような歴史のような、かつ工学のような、えもいえない複合体なので、扱いに苦慮する。たとえば文系の面からいうと、図書を辞書的に情報断片として読んでばかりもいられない。一冊の専門図書を読み切るには、よむだけで数週間かかる。一方、プログラミングシステムが動くようになるには、一時間だったり数週間だったり、翌年だったりと、なんとも天佑を待つ日々。別に付帯する作業そのものは延々と細かな手作業を何ヶ月もやって、やっとひとまとまりの仕事が完了する。
 一こま90分の授業を終えたら、責務完了という世界とは異なる面がありすぎる。熱中すると寝ても覚めてもとなる。熱中期間が一定時間ないままに発表すると、あとで自分自身の、強烈な自己嫌悪に襲われる。……

 だんだん愚痴ぽくなってきたので今日はこれまで。
 さて。

追伸
 別研究として、PowerMacG5でギンギンにビデオ編集する大仕事がなかなか進まない。苛立つなぁ。うまいもんでもたべて昼寝しましょう。
 最近通勤時、NHKのTV音声だけを聞いていた。山田風太郎さんの作品と人生と死生観がテーマだった。「人生には目的も意義もない」それを悟った人が山田さんらしい。じゃ、なぜ、……。そのあとのことは、山田風太郎さんの忍者物、九の一作品を全部読めばわかるじゃろう。解説の人は、バルザックと同じく山田風太郎さんは世界文学だとおっしゃった。たしかに、風太郎さんの「明治物」にはその趣があった。

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2006年2月22日 (水)

てらまちどおり:私の京都・寺町通{四条→三条}

承前[MuBlog:紀伊國屋とドトール

寺町通(寺町・蛸薬師)地図
 地図では南北の通りとして、東←から数えて、河原町、新京極、寺町通、御幸町通がある。東西の通りとして、北↓から数えて、三条、六角、蛸薬師、錦小路、四条通がある。   

寺町通{四条→三条}

寺町アーケード
 このあたりの通りをイメージしてみた。すると、河原町は繁華街の中心で「表」。新京極は若者と修学旅行生(裏)。寺町通は、ちょっと落ち着いた大人の雰囲気(奥)。御幸町通りは地図上部の三条あたりが現代若者のおしゃれな通り。錦小路は市場、京都の台所。

軍装店 モデルガン

軍装店
 この前の日曜日の昼にでかけた寺町通りの、なんとなく気になった風景を記録しておく。しかしウンチクをかたむけるほどには執心がない。私には若い頃から、空気のような町並みだった。

洋装店と2階のマヌ マヌは若者食事処

洋装店とマヌ

版画店(大書堂) 京極堂ではない

版画店(大書堂)

新京極 漢字がSFになる

寺町と新京極






京都の感じ方
 自分の中での京都の良さと、遠くから大学に来ている学生たちの京都の良さとは、感じ方にどんな違いがあるのだろうかと、思う。若い人達の心の動きは深宇宙のことと同じなので、とりあえず自分自身のことをメモしておく。

 京都の町にでると、狭い範囲の繁華街に、とりあえず現代的なあれこれを見たり買ったりする店がある。パソコンのパーツ、図書、映画、渋い喫茶店、美味い蕎麦屋、飲み屋、レストラン。ときどき京都らしい老舗があって、変わった香とか珍しい紙とか、入手できる。で、そういうことの複合体が、私の気分にそっているので、歩いていると快感がたかまる。

 老舗と飲食は別にして、それぞれは単一機能として最高ではない。パソコンのパーツなどは、秋葉原や大阪日本橋には絶対に勝てない。大型書店もそうだ。映画とか演劇など、寂しい部分もある。しかしなんとなく、小さな町に入り組んで、いろいろある。その在りようが気に入っている。
 
 飲食については江戸の有名蕎麦屋に比べても、尾張屋とか某処とかは最高と味わっている。もちろん越前今庄駅前のオロシ蕎麦には勝てないが。珈琲なんかも、よいのが沢山ある。飲み屋もそれなりにある。南に下がって伏見港界隈へいけば、極楽。

 今日は、自然景観、山紫水明や寺社仏閣については記さないが、この点においても満足している。古書店や骨董屋についてはそういう世界の通人も多いので、あつかわない。

 さて、学生達、若者にとっての京都は、魅力があるのか、どうなのか。たまに、気になることがある。それは、自分の感じ方とのズレが興味深いからである。

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2006年2月21日 (火)

Prius(日立製ノートパソコン)のハードディスク交換

承前[MuBlog:シャープのメビウス・ノートパソコン

ブラックMuのパソコン診療・手術日記
 昨日月曜、早朝から大阪十三の二番隊長2006が雨の中、重いノートパソコンを肩にかけて屯所に走ってきた。ブラックMuはすでに6時過ぎに到着し、メス(精密ドライバーキット)や手術台(きたない机)、それに最新の手術具(EG-SATA3525)を準備し、ブラックコーヒーを飲んで待っていた。補助用の2.5インチハードディスク60GBも昨日、自分用に買って用意して置いたが、まさかこれが使われることはないだろう。と、思って待っていた。

 患者は、日立製のPrius(PCF-100G5LMC)さん(性別不明)だった。年齢は3歳、入学時に大学で一斉入手したようだ。その前の年次がシャープだったから、毎年、養子先はかわるのだろうか。

 症状は、土曜日の夜に突然、ギーコギーコ、時々カックン、とノートパソコンが鳴りだし、一旦切って再始動しようとすると、もう駄目だったらしい。その夜のうちに憔悴しきったメルが届き、さっそく処方をいくつか下したが、手遅れ。よって、日曜休診なので月曜まで待ってもらった次第。
 今は就職活動が序盤の激戦日々。送付した履歴書、エントリー、メモなどはもはや諦めていたが、なによりも必須文具と化したノートパソコンが、延々とギーコギーコ泣くのに疲れ切ったようだった。
 いつも笑顔の二番隊長の顔は、雨に濡れて曇っていた。
 長い背景説明はこれまでにして、結論を記しておく。

1.Priusのハードディスクはすぐに取り出せた
 Prius のハードディスク40GBはネジ一本外して、すぐに取り出せた。別のツールキットを使って、Muマシンに外付けし確認したところ、完全に壊れていた。要するに、物理的にクラッシュしたと言って過言でない。この様子はビデオに本記事で証拠記録として残した。

2.ハードディスクの交換
 この状態では、得意(失笑)のハードディスク初期化も不可能なので、やむをえず一昨日の日曜に購入したMu用60GBハードディスクを急遽割り振ることにした。すなわち、あっさり患部摘出、代替機60GB補充である。実に簡単な術式ではあるが、内部データは抽出不可となった。ただし、摘出患部40GBは全く手を入れていないので、後日、他の総合病院にまわすことも可能かもしれない。

3.データ回収は無理だった
 ノートパソコンとしては蘇生生還したが、データは不定のままで、患部40GBに残った状態である。形があるのかどうかも不明。ブラックMuとしては、成功だが、親御さんとしては半分悲嘆にくれていることだろう。

4.優れた手術具(ハードディスク接続ツール)
 なお、今回は{2.5インチ、3.5インチ、そしてSATA規格}、この三種類のハードディスクドライブを外部から簡便に扱えるツール、EG-SATA3525を使用したことで、やや楽な手術となった。しかし、確認、再設定、Prius付属のOffice2003の再設定など、9:30~13:30までかかった。しかも、ネット関係は二番隊長2006が昨夜、雨の中持ち帰り初めからやり直しをしているはずだ。

起動しないPrius

起動しないPrius
 土曜の夜に作業をしていると、突然異音が後ろから発生したようだ。昔のフロッピーディスクもそういえば、音がおかしくなると読み書きができなくなった。音という感性は機械物では大切なんだ(もちろん、人間もそうだ)。ギーコ、ギーコとは、何度も何度も同じ手順を繰り返す音なんだろう。コンピュータは、一度失敗してもめげずに、くり返し試す操作がたくさんある。データ通信なんかはそうなんだと思う。

Priusのハードディスクドライブ

Priusのハードディスクドライブ
 三年前のノートパソコンになると、すでにメーカーはハードディスクの交換を前提にしだしたようだ。引き出しの取っ手の下にネジが一本あって、これを外すと写真のように抜き出せる。ただ、まだその後が慣れないと多少複雑で、引き出し金属枠でネジを4本、ハードディスクの頭の部分で2本の微細ネジを外して、やっと次の写真のスッピン状態になる。

日立製のハードディスク、40GB

日立製のハードディスク、40GB
 抜き出してスッピンにしたハードディスクは同じ日立製の40GBだった。写真手前の、本体とハードディスクを結合させるアダプターが面倒だったが、仕方なくラジオペンチで抜き取った。指の力では難しいので、適所に工具を使わないと破壊してしまう。また細かな事だが、ノートパソコンはほとんどの箇所で精密時計修理用のドライバーを使うが、ことハードディスクを留めている外枠のネジは、普通の柄を持つドライバーでないと、力が入らない。

 このスッピンのハードディスクに、別途写真「EG-SATA3525」で説明している外付けツールを接続し、デスクトップマシンで認識ないし読み取りを試験した。しかし、まるっきり駄目だった。以下のビデオは、そのだめさ加減を確認するためのものである。

ビデオ→ 異音を出すハードディスク40GB (wmv仕様、1.5MB)

EG-SATA3525

EG-SATA3525
 これまでノートパソコンの内蔵ハードディスクの確認には、別の外付け2.5インチを分解して、そのUSBインターフェース部分を使って、修理してきた。これは記事にしていない先年や、最近ではSONY-Vaio、シャープのMebius、みな同じである。しかしブラックMuがするようなことは他人もやっているようで、日曜日の寺町ドスパラで、三種類のハードディスクやDVDを、簡便に試験できる外付けツールを発見した。値段はまだ4千円弱と高価だが、実によい。なによりも、今後主流のS-ATAタイプHDも扱えるのがよかった。

別のハードディスク60GBの接続

別のハードディスク60GBの接続
 写真は、外付けツールを使って、新品のハードディスクを初期化している写真である。外からみると、USB一本でデスクトップマシンに接続しているように見える。その前に。摘出した内臓40GBも、これで確かめたのだが、全く駄目だったのはビデオで御覧いただけたことだろう。

60GBハードディスクの初期化中

60GBハードディスクの初期化中

Prius、再設定画面

Prius、再設定画面
 ハードディスクを60GBと交換して、無事再設定が始まった画面である。普段なら、データ未回収のママ再設定せざるを得ないことになると、悲痛なものだったが、今回の場合は医師として新しいハードディスクで初期化出来る事実に、安堵した。再設定できなければ、どうにもならないではないか。もちろん、親御さんの二番隊長2006、その心中を思いはかれば、笑ってはいられなかったが。
 摘出した40GBハードディスクを、そっと彼女に手渡した。

別の考察
1.ノートパソコン用の2.5インチハードディスクは割高
 今回交換した2.5インチ60GBディスクは、日曜に京都寺町ドスパラで9950円だった。これが3.5インチだと300GB-SATA仕様で14000円である。割高だから、持ち運びを考えない純粋の外付けバックアップ用ならば、3.5インチの方がよかろう。
 なお2.5インチの価格は、40GBで7500円前後、60GBで10000円前後、100GBになると一挙に2万数千円だった。高価だ。2万円以上あると、3.5インチスッピンで、400GB前後が購入できる。

2.マックとWin外付けハードディスク、メモ
 2.5インチであれ、3.5インチであれ、Windowsで初期化した外付けディスクは、USBケーブル一本で簡単にマックが認識する。これが逆だと出来ないはずだ(思いこみかなぁ)。
 もちろんフラッシュメモリーだと、余程に安物でない限り、完全に往還できる。これは便利だ。ブラックMuは、いろいろなデータをフラッシュメモリ一本で、マックとWin と相互利用している。

 で、Win仕様の外付けHDはマックから見ることは出来るし、マックに移すこともできるが、残念ながら、一定の方法を使わないと(その方法は未調査)、マックのデータをWin仕様外付けHDに複製すること、書き込みはできない。しかし、マックから書き込みができないと、マックで作る膨大なビデオデータなどを自由に移動できなくなる。(木幡と葛野間など)。
 この解決は簡単で、現代のマックはネットを通してwinマシンと相乗り出来る。だから、Winマシンに接続した外付けディスクを、マックからの「ネット接続ディスク」とすれば解決する。
 じゃなぜ、フラッシュメモリなんかで細々と移動させるのか? そこはそれ、簡便きわまる原始的な使用方こそ、恒に安定して役立つという経験からである。

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2006年2月20日 (月)

しんきょうごくさんじょう:私の京都・紀ノ国屋とドトール

承前[MuBlog:私の京都1/2
承前[MuBlog:京都の書店

紀ノ国屋書店(京都市中京区桜之町)地図

 京都を熟知しているわけではない。平均して月に1回程度しか出歩かないから。しかし、物心ついてから数えると50年として、600回はうろうろしている勘定になる。若い頃を考えると、やはり1千回程度は行っているだろう。電車賃を平均往復500円とするならば、50万円。となると、知らない町でもない。ただ、あまり気にせず行き来してきたから、詳細がわからないだけなんだ。
 さて最近、承前の「京都の書店」を掲載した。それで気になって新京極三条あたりまで出向き、紀伊國屋書店を見てみた。

紀伊國屋:新京極三条

紀伊國屋:新京極三条
 新京極の三条としたが、地図でみると新京極の六角と記した方が正確だとわかった。このあたりは最近風景が変わった。昔の姿は覚えていないが、今はMOVIX京都があって映画を時々観る。書店の上にもMOVIX劇場があるので、このあたりは本当に映画館・書店・DVD・喫茶店の複合地になっている。手触りはまだ慣れていないのか新開地の趣もあるが、私は機能優先が強いので、まず満足している。

 紀ノ国屋書店については、なんとも評価はくだしがたい。大阪梅田の歩けないような同店に比べると、空いているのでうれしい。すきすきといってよい。以前同店が少し北にあるゼストという地下街にあったとき、同店も地下街も空いていたからよく行った。
 フロアは一階に雑誌類が多く、奥にはDVDショップがある。地下には文庫本と多少のハードカバー。特徴は、「趣味資料」の分類がとても細かく、たくさんの見たこともないような書籍がある。
 書店評論家ではないので、えぐるような感想も記せないが、ともかく清潔で気持ちの良い書店だ。空いている、それが実によい。以前の河原町・丸善も二階以上はとても気持ちよかった。私は書店へ図書雑誌を見に行くのだから、群れた人を見るつもりはない。

ドトール:新京極三条

ドトール:新京極三条
 MOVIX京都のすぐ北側にあって、気に入っている。最初行ったのは、エドルン君と映画「レディジョーカー」を見た折か、いやその次の映画だったか、……。昨日日曜は、珈琲とホットドッグを食べて400円程度。気持ちのよい店だ。
 私も含めて爺さん婆さんが客層のようだ。それだけ落ち着いて安心できる店なんだと思った。爺さん婆さんは、長く生きておるから、見栄えよりも、言葉に表せない雰囲気と、そして見合った価格と味を、精妙に見分けて店を選ぶ。大体、私も同じで、一人の時は三条大橋たもとのスタバにはまず入らない。この近所にもスタバはあるが、入らずに、このドトールへ直行した。

 ただし場合による。若い学生達とむれて二次会に出向くときは、大抵スタバを選ぶ。そこで、なんちゃらかんちゃらマキアートなんてものを飲し、楽しんでいる。スタバは店の雰囲気が若者むけなんだろう。一人で入るには、いい気分にならないが、きのいい学生たちと行くにはスタバがよい。以前、ハリウッドにスタバがあったのに驚いたが(失笑)、なんとなくそこではファミリーな感じがした。
 で、ドトールの珈琲は美味しい。以前からそう思っていた。そういう定評があるのかどうか。

追伸
 このての新興喫茶店で気に入っているのは、伏見大手筋のミスドとか、サンマルクである。ミスドは一人では入らないが、サンマルクは、昼に蕎麦を食べた後、大抵そこに寄る。

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2006年2月19日 (日)

NHK功名が辻(07)信長の時代

承前

 今夜のドラマは史実の中では1568年、永禄11年だった。信長は足利義昭を奉じて上洛を果たした。来週は二条御所に秀吉や、一豊が詰めることになろう。
 足利義昭は信長の機嫌取りに、「父」とよび、「管領」「副将軍」と、褒美を与えようとするが答えない。結局、堺と琵琶湖の大津に代官を置くことを許される。経済の権限をにぎることだった。異国の富、北陸の富が、二つの地域から信長のもとに流れてくることになる。

 劇中、「清洲、小牧、岐阜と引っ越しした」とセリフがあったが、この前後に明智光秀も信長のもと、岐阜に妻子を呼び寄せ落ち着いた。このうち、三女の「たま」が後年、細川ガラシャ夫人になるとのこと。いま出演している細川藤孝(ふじたか:近藤正臣さんが演じてますが、ずっと以前、北畠親房の名演が眼裏によみがえります)の息子さん細川忠興(ただおき)夫人である。実際にはお目にかかってはいないが(笑)、あらゆる映画小説演劇で、ガラシャ夫人は、美しく聡明に描かれていた。

 当時は(今は?)、出産は女性の戦争とおもわれるほどの危険があったことだろう。母子とも健在という常套句がどれほど大切な言葉だったか。こればっかりは、家の上下にかかわりなく、条件に変わりはなかったのかも知れない。他方、男性は生死の分かれ目が五分と五分。もちろん大将の武運が強ければ、「命をひろった」組に入れるかも知れないが、ほぼ同数が死亡していたに違いない。命がけの博打。ハイリスク・ハイリターンのひとつであろうか。
 山内一豊は秀吉の与力。一豊と一緒に戦場にでるのは、親族、郎党家臣。一家総揚げで「親分」について、戦場に出向く。だから、名乗りをあげての一騎打ちは、全くなかったに違いない。小集団戦か。そして集団鉄砲戦に入っていく。

 番組附録では六角氏・安土の観音寺城(地図)が解説されていたが、われら素人は安土と聞けば、安土城を思い浮かべる。Muもこの安土城跡は訪れた。ビデオがあるので、遠い後日に。いや古い物だから、再訪した方がよいかも知れない。少し山を登ることになるのだが、彦根城であれどこであれ、昔の城は山城や、それに近いものが多かったようだ。しかし、今夜は六角氏、観音寺城の話で、終わった。


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キャンパスの古式青春

 最近朋輩のJoさんがしきりに過去を整理しだした。私も昨年ころ、何かのおもいにとらわれて数葉の古い写真をひっぱりだして、掲載したことがある。梅翁によれば、男子には過去と未来としかなく、現在はないということだ。それがどこに録されたのか、いま眼鏡をだして梅blogを探したが、記事はみつからなかった。小林秀雄さんの言を、梅翁の気持で書かれていたように覚えている。ともあれ思うに、過去は絶対に取り戻せない。古いビデオや写真の中にいる私は、今のわたしでは二度とない。そういう気持がふつふつと込み上げてきた。

 さて、今日は休日なので、朝から町に出向き用事をすませ、昼早くにかえってきた。電車の中でふと上述のように、過去写真の整理を思い出したので、一息ついて木幡研の筐底をさがしてみた。すると、我が身を写すものはなく、勤め先大学の古い学生達の写真がでてきた。ある時代の倶楽部の青年たちだった。これもなにかの縁なれば、録してその「過去」を祝しておくことにした。

大学の正門

大学の正門
 写したのは私のはずだ。視角を数えてみれば、これは研究棟のバルコニーからだと想像できる。しかも、比較的高倍率の望遠レンズである。となると、機種は以前使っていた旧式のビデオカメラに付属のスチルカメラ機能だったに相違ない。SONYのはずだ。何かの都合で紙に印刷したのだろう。原版がどこに紛れたかは、まったく思い出せない。
 この写真には七名写っている。しかしこの年次は、記憶では14名いたはずだ。半数が、近所へ買い物か食事に行った帰りだろうと、写真をみていて想像した。

三人組の青春

三人組の青春
 二人増えて9名になっていた。最初の写真では正門の影に隠れていたのだろう。それにしても、若さがみなぎっている、実に楽しげに見える。先頭の腕組み三人は、当時の倶楽部首脳だったことが、はっきりと蘇ってきた。踊っているではないか。そういえば、笑い声の絶えない年次だった。

縦列行進と指揮官

縦列行進と指揮官
 三枚目にもなると、明確な記憶が再現された。先頭の中央、小太鼓を打っている雰囲気の人は、倶楽部のトップだった。左の穏やかな人は参謀だった。そして、右側の少し外れたというか、手慣れた上級指揮官という風情の人は、ある種の突撃隊長であった、ような気がする。
 記憶とは曖昧なものだが、これだけ集まった写真だと、よもや私の勘違いであるはずはない。
 この青年達が、もしもある時代の葛野図書倶楽部2001隊員でなかったなら、私は職を辞さねばならない。そこまで混濁した日常なれば、青年達の前に立つことは控えておこうと、今、考えた。

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2006年2月18日 (土)

黒塚古墳・公園の現況写真

承前[MuBlog:黒塚古墳・展示館
承前[MuBlog:椿井大塚山古墳の現況写真

 地図:黒塚古墳、崇神天皇陵、景行天皇陵との位置関係
 地図:黒塚古墳、崇神天皇陵、景行天皇陵、箸墓(倭迹迹日百襲媛命陵:やまと・ととび・ももそひめのみこと・りょう)との位置関係

 二月の晴れた日に、二つの三角縁神獣鏡関係古墳を現地見学した。一つは、この黒塚古墳(奈良県天理市)、一つは椿井大塚山古墳(京都府相楽郡山城町)である。椿井大塚山古墳については、午後遅くの帰路に訪ねたが、ここでは黒塚よりも先に掲載した(承前参照)。私の住まいする宇治木幡から近いのと、調べてみると「謎の第一次現地調査報告書」の存在や、なによりもJR奈良線が横切っている様態、そのふたつが気がかりだったからである。

 午後早くに訪れた黒塚古墳は、膨大なネット記事があってまとまりがつかなかったし、なによりも、私には風景が美しく見えて、写真の選定がなかなか出来なかった。ともあれ、出土された多数の古鏡の意味、その歴史的解釈については他の人にまかせて、ここでは古墳からみた大和の地をゆったりと眺めてみたい。

Ψ史跡・黒塚古墳石碑

史跡 黒塚古墳 石碑
 昨年に公園整備が完了したようで、この二月には、お弁当を持って来たくなるほど、小綺麗になっていた。古墳の東には展示館もあって、別サイトでみると模型もあり全体が理解しやすくなっているようだ。が、私が行った日は閉館日だった。また後日に縁があれば見学できるだろう。この石碑「史跡 黒塚古墳」は、後円部の真東にある。

Ψ黒塚古墳全景と城郭跡

黒塚古墳全景と城郭跡
 現地では大抵案内板を写すことにしている。記事内容は一般的なものなので、厳密さでは後日変更せざるを得ぬこともあるが、全体像が分かる点で重宝してきた。写真では別々の箇所にあったものをまとめておいた。
 上の写真で、全長132mの全体を眺めると、右の後円部と左の前方部のつなぎのところがくびれている。下の写真ではこのくびれのところが、戦国時代に穿(うが)たれて城の壕になっていたようだ。なんのことはない砦(城)の中心は後円部だったのだ。これだと、JR奈良線が横断する椿井大塚山古墳と大差ない仕打ちをうけたのだといえる。これはまだ調べていないが、高槻市の今城塚古墳とか、畏友Joさんの話では三輪の箸墓もそうらしい。戦国下克上の世界は、罰当たりなことが普通の仕様のようだ。

Ψ古墳への通り道

古墳への通り道
 ここでは古墳公園へ、後円部から入るようになっていた。多分、周濠があるので道をつけたのだろう。展示館にはそういう説明があるのかもしれないが、閉まっていたので調べないとわからない。そうそう、古墳の回りに周濠があるのは江戸時代の農地水源の可能性も多いので、原型と思わない方がよいとも耳にしている。
 同下の写真は後円部に登り着いて、今あがってきた所、東方面である。山並みが実に麗しかった。まことに、ああヤマトであった。

Ψ北東部の風景

北東部の風景

Ψ山ごもれる東

山ごもれる東


Ψ南の風景と箸墓

古墳の回りの池

Ψ南西・橿原方面:霞む大和三山

南西・橿原方面

Ψ竪穴式石室上に置かれた石室原寸写真

竪穴式石室上に置かれた石室模型
 三十数面の三角縁神獣鏡が出土した石室については以下の案内写真や案内板に詳しいが、後円部広場の真ん中に柵があって、写真のような細長い模様入り石台があった。もちろん予備知識なしの飛び出し現地調査だったので、一瞬なにか分からなかった。休憩するにしては、柵があって中に入りにくい。
 これは、南北に長い石室の写真だったのだ。展示館には石室立体模型があるようだが、私は石室平面模型写真を見ていることに気がついた。写真位置は石室の北小口である。たしかに、鏡が数枚見えているようだ。
(ところが、思いは遠く中央右に見える箸墓に飛んでしまったのも、酔狂な話だ)

Ψ竪穴式石室の案内写真

竪穴式石室の案内写真

Ψ黒塚古墳の案内板

黒塚古墳の案内板

Ψ黒塚:前方後円墳

黒塚:前方後円墳
 ということで、今回の記事は現地の前後に机上調査らしいこともせず、ただただヤマトの風景を古墳後円部から眺めた記録だ。あとで地図をみると、崇神天皇陵は東南700m、箸墓は南へ2.3キロの位置にあった。黒塚と前者は柳本古墳群とよばれている。天理市と桜井市との境界付近なので、なにかと話題の多い纏向遺跡(まきむく・いせき)とは近所というか、親戚のようなところに黒塚古墳は位置している。
 いつかまた、このあたりを歩いて往時の想像をしてみたい。

参考サイト
  黒塚古墳発掘調査現地説明会、1998年1月[Mu注:鮮明な石室写真が多い]
  三角縁神獣鏡をデジタルアーカイブ化、卑弥呼の鏡、謎解明へ貢献

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2006年2月17日 (金)

京都の書店

 今朝起きて頭に浮かんだのは、京都の書店が消えていくことについて。
 といっても、小さな特色のある書店のことではない。それは別のこととして、考えてみたいことだ。今朝は、以前から、高校生時代から慣れ親しんだ、だれにも目に付く大型書店のこと。

 町にでてもいくところが決まっている無趣味、無芸、おおざっぱなところがあって、大型書店は行き先の一つだった。他には寺町の電気街、いまはパソコンのパーツ店、喫茶店、蕎麦屋、と数え上げてもこの程度だ。身近にも、職場にも、旧知にも、随分細やかにいろいろな行き先を持っている人が多いが、比べるとそっけない自分がうかんでくる。

 京都の大型書店というと、かわりばえのしない話だが、それでも数年来変化が大きい。
 いま、わたしが把握できる大型書店は、四条河原町を中心にすると、烏丸よりのジュンク堂くらいしか見つけられなくなった。丸善は昨秋に消えた。最近、ブックファーストも消えた。これは以前は、長年にわたって駸々堂として親しんできた書店の跡地だったが、店名が変わっても規模は同じで愛好してきた。が、最近そこもあっけなく消えた。学生時代に通った京都書院はもう数十年前に消えた。
 知っている近辺の、少し大きな書店は、京都市庁あたりの地下と、新京極三条あたりの映画館地下の紀伊國屋か。

 京都駅近辺だと、プラッツ(近鉄百貨店)内に十年近く旭屋があってこれは随分でかい大型書店なのだが、近くプラッツが消えるので、どうなるかわからない。唯一と言っていいのは、新幹線駅南のビルにあるイズミヤ?書店くらいか。これは大型ワンフロアなので、よく行く。
 あと、近頃は京都駅地下の三省堂に、東京へエドルン君を見送ると時よく立ち寄る。

 大型書店のよさは、だいたいなんでもあることだ。わたしが求めるのは大抵、現代の風潮なので、古書稀覯書をもとめてのことではない。新刊書を一目で、ながめて、手にとって、買い物するというのは、実に限られたわたしの楽しみの一つである。図書マニアではない。
 ただ、40年も前に手にした古書や当時の図書がまだまだ葛野や木幡にいっぱいあるので、多少マニアックにみられるだけで、本当は図書の中に、現代を眺めている。

 それにしても、京都の町中の書店は、これからどうなっていくのだろう。寂しいような、心配なような。

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2006年2月16日 (木)

夢書斎

 blog知人の記事をみていたら、「BOOKLOG」が紹介されていた。登録は、メアドと適当な名称だけですんだので、すぐに登録した。
 (ただし、本棚を作ったら、「詳細設定」で、開示したくないメアドは削除したほうがよいでしょう。メアドはログイン時に使う符帳ですね)

  ↓
  夢書斎
 たどり着いたら、右サイドバーの、【本棚ビュー】→表紙ビューを、押してください。背表紙ビーよりも、表示ビューの方が現行仕様では、わかりやすいです。

 さっそく、NDC分類019(読書に行くで~:暗記NDC)を付与し、MuBlogの左サイドバーにもつけた。
 カテゴリーとして「美しいサイト」にも登録した。いやいや今掲載されている「読書少女?」が美しいともうしているのではなくて(美しくないとも言うてはおらんぞ)、そうではなくて、blogアプリケーションが実に良い、と言うておる。

 こんなに簡単な使い勝手で、しかも必要機能をちゃんと備えているのは、ちかごろ出色の出来映えと言ってよかろう。素晴らしい。

 ただ。
 ただ、Muの脳内が徐々に蓄積されていくのは、若干怖い話だ。今日付ですでに、59112本箱あるから6万近くの人が登録し、なんと270万冊の登録書籍数である。これは、巨大なデータベースであり、うむむ~。

 とはいうても、ネット社会ではあるていど、腹をくくって自己開示せざるをえない部分もある。いろんな記事も、なんのために書くのか掲載するのか、負の方向で考えると無駄無駄もはなはだしいが、しかし、その記事の蓄積でもって、検索エンジンをつかって、得難い情報にでくわして、日々にんまり笑っているMuもここにおる。

 ものごと、やらずぶったくりは、よくない。充分に積善(笑)、功徳を積んで、その上で人様からの恵みをありがたくいただき、脳の滋養にさせていただく、この相互扶助。これは大事だ。

 馬鹿メルを時間単位・数十万通送る人達は、根底にぼったくりだけとももうせよう。またそういう通信ソフトをつくって売った会社が一時期もてはやされたというのは、あはは、~「生扉」。

 というわけで、MuBlogの左サイドバーに載せた「019夢書斎」、これからも折々に登録していきますので、どうぞご笑覧ください。

(なお、しばらくの間、本棚の各本につく★印ランキングは★★★三つ星のままにしておきます。内容評価はいちいちMu記事で詳細に記さないと、評価したことにはなりません)
(詳細はまだMuに不明ですが、各図書をクリックすると、他人様のレビューがいくつも入っています。これはこれで、参考になるような~、ならないかも、それぞれでしょうね)

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2006年2月15日 (水)

アテルイ&坂上田村麻呂&イノダコーヒー清水店

承前[MuBlog:清水寺の紅葉と~
承前[MuBlog:薄紅天女

 昨年(2005)の秋、関東・国立の畏友梅安翁と京都の清水寺を歩くことになった。梅翁はもともと名所旧跡がお好きな質ではないのだが、紅葉を観ようと「研究会」の帰りに誘ってみた。案の定、梅翁は清水の舞台もすっと歩き去ってしまった。
 一方Muは例によってそこかしこ、紅葉をカメラに納めて楽しんだ。ところが途中電池が切れて、しかたなく後は携帯電話カメラに頼った。画素が荒くて色調も妙に虹の様に滲んでしまうカメラだが、それも粋狂、ときどきこうして使うことがある。
 清水寺とその近くで、二つ、おもしろいものに出会った。

アテルイとモレの顕彰碑

アテルイとモレの顕彰碑
 征夷大将軍・坂上田村麻呂が清水寺の開基伝説にあるのは、史料に見える。しかしMuの知識はそれが、東山にある眺望のよい将軍塚につながり、それは映画・陰陽師(1)の将軍塚鳴動(そして早良親王の怨霊)に連想していく程度で、詳しいことは知らなかった。むしろ、指に足りない一寸法師が清水参詣の帰りに大切な姫を守って鬼退治の方が、心に残っていた。その清水寺境内に、アテルイの顕彰碑があった。

 この碑のことは、全く知らなかったことだ。
 その後、冒頭にあげた薄紅天女を読んだとき「ああ、これだったのか」と、リアルに北天の雄アテルイを思い出し、濃密に想起したわけである。
 とはいうものの、ここで縷々、坂上田村麻呂と清水寺の関係、あるいは胆沢城を中心としたアテルイ・モレとの攻防戦にウンチクを傾けるのは、いささか無粋になる。もう一つの、美味しい発見を記すに心がせくので、征夷大将軍・将軍塚鳴動話はまた後日にしよう。

参考
  アテルイ・モレ碑(清水寺境内)地図
  清水寺境内略図
  胆沢城跡(岩手県水沢市佐倉河)地図

ここにもイノダ

ここにもイノダ
 梅翁は気むずかしい御仁といえよう。Muの20倍近く難しい。その点、もうひとりの「横浜Jo」さんは、比較的Muと同程度の普通人(笑)で、わかりやすい。しかし昨秋そばにいたのは梅翁だけだった。無理に観光地に誘った手前、なにか代わりになるものはなかろうかと、関西の雄Muは考えた。
 さて、あった、のか。かの御仁、一応機嫌良く珈琲を飲んで腰を落ち着けた様子なので、観光地のど真ん中の珈琲屋にもかかわらず、お気に召したようだ。ほっ。

 Muは単純なので、いつもこういう造作には感心する。壁一面がガラス張りで、その奥には庭が見える。敷地全体を青龍苑と言うらしい。昔、大きな料亭だったのを全面的に改装し、その中にいくつもの京風土産物というか、名産店を配置したようだ。庭には、解説を読むとそれなりの茶室があるようで、眼前を人々が少女に案内されて通り過ぎていくのがよく見えた。イノダコーヒー清水店は中でも、Mu好みの立地を得たようだ。
 ところで、昨年大晦日、祇園さんに行く前後、このイノダ清水店をエドルン君に見せようと思ったのだが、年末年始にかかわらず、開店時間が夕方六時くらいまでの事実に気付いた。やはり、このあたりは日が暮れると、平安の御代と変わらず鬼がでるのかもしれない。

参考
  イノダコーヒー清水店(京都市東山区清水)地図
  イノダコーヒー清水店
  青龍苑

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2006年2月14日 (火)

Mu近況

 ちょっと話題を変えてMuBlog主宰、Muの近況をお知らせします。と、書きながらこういう記事は、世界中でも読むに値する(しない!)人は、友人知人と卒業生、あわせて一ダースほどですね。すると、なんだか笑いがこみ上げてきました。

1.今日は馬簾他射日
 ほんのわずかですがいただきました。ありがとう。なんというか、皮肉なもので、かえってむしろこちらが貢ぎ物をお渡しせねばなるまい、という御方たちからのものです。ありがたいことです、合掌。
 もうひとこと。本当に、ありがたいことと感じる年齢なんですよ。
 
2.気分がよいこと(1)
 最近、木幡研での極早朝仕事がはかどっています。一番大切なことを5時ころからはじめ、大体二時間単位で仕事内容を変えていきます。葛野にくる直前の仕事は、メモを見て、「えっと、今日はなんの会議でしたんかいなぁ」と、……。
 それに、よく眠れます。夜の9時から10時には完全熟睡ですね。やはり、こう、昼間しっかり働くと脳が疲労するようです。風呂の芳香剤が、ジャスミンらしいのですが、これがよい。

3.気分がよいこと(2)
 先ほど葛野研で、一週間仮死状態だったiMacをやっと蘇生させました。これは外科手術ではなかったので、よけいに悩みました。ちょっと、後日のためにメモしておきます。

 *そのWebサーバーソフトのCD-ROMはすぐに見つかったので入れ替えました。→不成功
 *家捜ししてそのiMac用のOS-Xを探し、まずOSを入れ替えました。→不成功
 *で、OS9を次ぎに、気がついて入れ替えました。→成功!

 このたった三つをするのに一週間かかったわけです。ネット問題かな→イーサネットを外して試す。データが壊れたのかな→目視検査。どこかでパラメタが変わったのかな→全部変更しました。……。ハードディスクの特定領域が壊れたのか、と思いましたが、動物的カンで「それはないでしょう。今回は精神領域だね」と思いました。
 さて、なおったのは良いのですが、してみるとOS-X上のOS9がおかしくなったと推量出来ますが、何故、どこがどうなったのか、それらは闇の世界のままです。
 動くのだから、よしとしておきましょう。ほっ。

4.行ってみたいところ(桜)
 やや温度が上昇してきたせいか、こころがRSに寄り添っています。風の中を走る季節です。

 *常照皇寺の満開桜をみて、山奥でステーキをたべてみたい。
   このお寺は、大抵時期をはずしてしまうのです。
   おそらく四月も半ば近くが見頃なんでしょうね。
   ステーキは、有名なお店が京北町にあるのです。

 *南禅寺の桜、疎水あたりの桜を見て、鹿ヶ谷の某所で美味しいものでも食べてみたいですね。
   疎水の桜は有名なのに、Muの写真簿にはないのです。
   某食事処は、以前若い作家が週刊誌のグラビアに載っていて、
   いつか行ってみたいと思っておるのです。

 *二条城の夕桜、夜桜を、昨年よりも時期を遅くして、満開をみてみたいです。
   ただし、夕方から入った方が空いておりますね。
   それに、Muの写真術は夕方でないとうまく写りません。
   暗いと失敗するのです(笑)。

5.行ってみたいところ(歴史)
 いまやMuBlogお家芸の歴史シリーズ、これを充実させたいですね。

 *嵯峨野。これはMuを知っている者には意外でしょう。
   育ち、遊び場所だったんだから、今更の感なきにしもあらず。 
   しかし、徹底調査、研究し、映像化したいですね。
   灯台もと暗し。

 *奈良県南部の高取城。これは通が知る城跡です。
   数年前に整備されて、美しくなったことをTVで見ました。
   謎の酒船石の切断石が城の石垣に使われている可能性。
   徹底画像動画化ですね。
   まずは酒船石の欠けた部分を飛鳥現地で先に採寸しないと。
   おおごとです。

 *飛鳥の石像物。これはたくさんありすぎます。
   今年は、益田磐船を見ておきます。
   そうそう、松本清張さん関係の調査です。

 *兵庫県高砂市の生石神社ですね。
   これも松本清張さん関係の調査です。
   明石焼きでも食べながら、100枚は撮影したいです。

 *滋賀県蒲生の石塔寺ですね。
   これは司馬遼太郎さん関係の調査です。
   近江牛でもたべながら、100枚は撮影したいです。

6.追加:忘れておりました
  それは、……。とまたしても、ど忘れしました。後で録します。

 というわけで、相変わらず元気によく働き、よく眠り、よく食べて、げらげら笑っております。と、ところが明日からは朝夕連続会議が延々と二週間ほど続きます。まことに、人生はままならぬものですなぁ。
 さて、今日の夕べのしごと、そろそろ始めましょう。
 今から会議資料の整理です。
 ふ~っつ。

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2006年2月13日 (月)

「長岡京と大伴家持:万葉集の成立と伝来に関して/朝比奈英夫」を読む

長岡京跡(京都府向日市鶏冠井町)地図

 朝比奈英夫という万葉集・研究者が「長岡京と大伴家持」について書かれている。親書誌は『京都と文学』(和泉選書144)2005年3月刊行だから、丁度一年前の図書だ。このたび一読し、感銘をうけたので、ここに感想を述べる。まず最初に朝比奈論考の章立てを記しておく。

 一 長岡京と古代文学
 二 藤原種継暗殺事件
 三 大伴家持と万葉集の編纂
 四 万葉集伝来の開始

 このうち一と二とは、長岡京時代の歴史、および桓武天皇の信任厚かった藤原種継(たねつぐ)が夜間長岡京で矢を二本受けて翌朝亡くなったという、暗殺事件についての話である。
 そして、三と四とは、事件の首謀者として、すでに三週間前に亡くなっていた大伴家持(おおとものやかもち)卿が朝廷から除名されたこと、及び万葉集の編纂に家持がどう関わっていたかを述べている。
 この場合除名とは、朝比奈先生の解説によれば、死後であっても、その官位剥奪、財産国庫没収という名誉と財産を根こそぎ取られる重い刑罰らしい。

 私はこの記事を掲載するに当たり、朝比奈先生と同じく歴史と文学という観点を持っていた。
 一つは、以前から種継暗殺に死後の家持が連座したことのわかりにくさを、いつか解消したいと考えてきたこと。もう一つは、万葉集全20巻を編集したのは、家持だったのかどうか、現代の学術の成果として知っておきたかったのである。

 さらに、現在今日の気持ちを記録しておくなら、長岡京という、今私の住まいする宇治木幡や職場のある京都市葛野からは指呼の位置にある旧都をもっと知っておきたいこと。これは、さらに詳細に申すならば、継体天皇の弟国宮や、あるいは小説『薄紅天女/荻原規子』の背景を、もっと知っておきたい、そこまで枝分かれする。後者は、藤原種継の娘、薬子が重要な位置を占めていた。

 それと家持については、今夏『萬葉集の精神/保田與重郎』について論立てするに際し、いまのうちにその背景歴史を充填しておきたかったこと。これは「壬申の乱」も同じだが、せめて当時のことを知っておいたほうがよい。
 以下、朝比奈論考を順を追って読んでいく。

 一.によれば、長岡京と古代文学
 家持は718年誕生(古事記と日本書紀完成の間の時代)、746年30歳少し前に越中守で、この頃万葉集の前15巻本が完成したと推定。また家持も越中で秀作を多数詠った。780年60歳少しに参議となり従三位という高官になる。[私注:ただし栄光の大伴氏にとって、これは遅れた昇進なのかもしれない]
 781年に桓武天皇即位、早良(さわら)親王立太子、そして万葉集20巻本原形完成と推定。
 このような事実背景のもとに朝比奈先生は、長岡京と万葉集と家持とが一体どういう関係をもつのかと、謎を提起している。

 長岡京遷都は784年で、このとき家持は「持節征東将軍」として奥州多賀城に赴任している。67歳の老将軍である事実を、朝廷ないし藤原家による左遷とみるのか、あるいは朝廷の親衛軍たる家の誇りをまっとうしての赴任なのか、わかりにくい。そして翌年家持は、朝比奈先生の推定によれば多賀城にて病没する、68歳。その二十日後に、藤原種継が大伴一族(大伴継人・佐伯高成謀議)によって暗殺されたのである。

  多賀城跡(宮城県多賀城市市川)地図

 二.によれば、藤原種継暗殺事件
 平城京から長岡京への遷都問題にからみ、桓武天皇・藤原種継と、早良親王・大伴氏との確執があった。後者は遷都反対の立場から、造長岡京使藤原種継を、桓武天皇が平城京に出かけている隙に、春宮坊官人を含む暗殺隊を組織し、夜間松明のもとに巡回する種継を射殺したとある。矢を射た二人は山崎橋たもとで斬殺刑に処せられた。他も多数斬殺、遠流があり、家持も死後除名された。桓武天皇の弟で皇太子の早良親王も嫌疑をうけ、乙訓寺に幽閉、絶食抗議し、淡路島に流される船中で死亡した。

 この遷都問題と種継への大伴一族の抵抗がどこにあったのか。おそらく藤原式家・種継の振興に対する早良親王擁立大伴氏の確執が底にあるだろう。あるいは、もしも家持がこの謀議に生前深く関わっていたとするならば、その心底には平城京北辺佐保の地で優雅な詩的サロンを営んできた家持の余生にとって、遷都は納得できぬ暴挙に思えたのかも知れない。

 当時の知識人にとって、長岡の地は古代継体天皇が宮居した弟国宮の跡地であったことは知られていたと想像するが、花咲匂う平城京・佐保の地から遠く長岡を眺めれば、僻地に思えたことだろう。武人の一面を持つ家持は、それまで越中、因幡と遠国への赴任経験が長い。だからこそ平城京は安定し心の安まる都だったに違いない。まして家持は遷都一年前に「持節征東将軍」に任ぜられ多賀に赴任し、そして長岡遷都後、遠く多賀城で病没した(と、朝比奈先生は推定)。つまり帰る地は佐保ではなく、すでに長岡京でしかなかった。
 [私注:このあたりの私の想像は、遷都後どのくらいの時間をかけて宮廷官人・貴族が新京へ移転するのかを調べねば、よくわからない]

  乙訓寺(京都府長岡京市今里)地図
  継体天皇弟国宮のメモ[MuBlog:高城修三の論考では、弟国宮跡を乙訓寺近辺に比定]
  早良親王(崇道(すどう)天皇)の淡路島墓所に関するサイト

 三.によれば、大伴家持と万葉集の編纂
 万葉集の編纂者が大伴家持卿であることは定説らしい。しかし、その成立は複雑な段階を経ていると、そこのところを朝比奈先生は最近の学説に基づいて丁寧に記している。
 要約してみると、三段階に別れ、第二段階の折に初期15巻万葉集が国家編纂されたと考えられる。時代は聖武天皇が恭仁、難波、紫香楽と遷都に次ぐ遷都を重ねた末に、ようやく奈良に帰京した745年から、大仏開眼の二年前750年。この間に15巻本が完成したと推定されている。
 そしてその付録としてあった16巻目を完成させ、17~20巻をまとめたのが家持で、時代は桓武天皇即位、早良親王立太子のあった781年頃。これが後世の万葉集20巻本の原形となった。

 ここで、最初の15巻とあとの、特に17~20にわたる四巻の違いを、後者を家持の日記風の編纂様式として捉えている。すなわち最初の15巻万葉集は国家事業でないと無理な広範さだが、後半の四巻は家持が高級官僚として自由に使える時間の中で、宮廷資料にあたる権限をもってまとめたと推定できるらしい。家持晩年のことである。

 四.によれば、万葉集伝来の開始
 一旦国の事業としてなされた万葉集に、家持は個人としてなぜ手を加えたのか。その理由の一つは、前節三の末尾で、朝比奈先生が家持の役職<春宮大夫(とうぐうだいぶ:皇太子関係の役所春宮坊のトップ)>から見てこう述べている。「皇太子である早良親王の即位を待って、万葉集二〇巻を完成させて、新天皇に献上する予定であったのではないかと思われます。」
 おそらく、家持はその才能や知識、そして役職上から、先にできた15巻本も朝廷内で自由に閲覧、そして編集できる立場にあったのだろう。そこへ、残りの四巻を足して、「あらたしき~」の自歌で締めくくる意図をもって、厖大な時間を割いていたのだと考える(推測)。今夏に予定する保田與重郎『萬葉集の精神』では、編纂の意図をさらに歴史的な流れの中で縷々述べている。
 朝比奈先生が推測したように、新天皇に献上する意図がもっとも明確な事情だったことは間違いなかろう。その精神がどうであったのかは、これから推し量ってみたいところである。

 ところが家持は多賀城で病没し、その三週間後に種継暗殺事件が起こり、早良親王は廃太子となり、家持は除名された。そのために、家持が自邸に持っていたであろう万葉集17~20巻は国庫没収され、またすでにある1~16巻も宮廷内の闇に隠れたと、朝比奈先生は結論に近づける。

 このように一旦は忘れられたかに見える万葉集20巻本は、どのように蘇り伝世したのか。
 「大同元年(八〇六)三月一七日、桓武天皇が死の直前に、かつて厳しい処罰を行った家持たちを許すという詔を発して、亡くなった」すなわち、家持は除名をゆるされ、元の官位従三位に戻ったのである。そして時代は平城天皇となり、その名の通り奈良時代追慕の風潮が生まれ、漸く万葉集は新たな全20巻本として人々の間で写され、完成をみることができた。家持死後、二十年たっていた。

 というわけで、朝比奈論考は、長岡京における種継暗殺事件、すなわち平城京と平安京の端境期にある長岡京でのことが、家持の編纂した万葉集完成、伝来に深く関係していたと、論述している。

まとめ
 以上、朝比奈先生の論考によって、長岡京における藤原種継暗殺事件と、連座除名された大伴家持「万葉集」との関係が、私にもすっきりと消化できた。
 思うに、万葉集20巻目の末尾は「あらたしき、年の初めの初春の、今日ふる雪の、いやしけよごと」と、家持が因幡守時代のもので、推定40歳ころの歌である。これを朝比奈先生は「閉じ目の歌」と申された。以後家持が68歳で亡くなるまで、一首の歌も残っていないようである。万葉集に500首近くを残した家持が30年近く歌わなかったのか、あるいは木簡にメモされた未整理の自歌は、すべて除名の折に自邸から没収され焼却されたのか。考えると、縹渺とした天平の空が目に浮かぶ。

参考
  万葉集名歌選釈/保田與重郎(新学社 保田與重郎文庫 21) 

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2006年2月12日 (日)

NHK功名が辻(06)足利と明智

承前

 千代も一豊も、そして二人の家人も気に入っているのに、どうにも「功名が辻」の先行きが危ぶまれてきた。もしかしたら、秋口になると、少しはしゃんとするかも知れないのだが。
 まず、現在にあっては、みんな老けすぎ、もう少し若い信長、若い明智光秀、若い秀吉、そして若い浅井長政を配置したほうがよかったのじゃなかろうか。老いが悪いなどとつゆほどにもおもわない、そんな馬鹿な自己否定はしない(笑)。しかし、若さがない。ドラマ全体がどんよりしてくる。

 秋口になると、いまから10年後か20年後になって、さまになるのかもしれない。秀吉もネネも貫禄が光ってくるだろう。信長は、もういないか。
 今の様子を昨年で言うと、弁慶さんが、元服前後の義経をするようなもんだ。
 一昨年で言うと、沖田総司を、勝海舟が演じるような野田。

 それと、NHKはちょっとわさびのきいた放蕩息子や娘をまじえて、和気藹々のホームドラマは他にも毎年やっているのだから、せめて日曜の夜くらいは、大河歴史ドラマの襟を正してほしいね。

 あまり僻事をかかないMuなのだが、今夜はもう少し記しておく。
1.千代が空腹でどうしたというシーンは、主婦の苦労を描いたつもりかも知れないが、やめなさい。当たり前の苦労は現実毎日みんなやっておるのだ。

2.明智光秀と、お濃(帰蝶)とが幼なじみで言い交わした仲といっても、三十路すぎた男女がそれぞれ孤独に笛をふくなんてシーン、白々しいから、やめなさい。光秀も濃も、別の面をさっそうと描いてほしいね。

3.秀吉とネネが酔っぱらって、ちゃらちゃらするの、夫婦愛を描いたおつもりかも知れないが、やめなさい。ああいうなんで、笑いとか共感を誘うって、本気なんだろうか?

4.千代が、十代の娘っぽく、一豊に「ねぇ、ねぇ、側室もつの?」なんて、ちゃらけたセリフをはかせるの、やめなさい。ロリぽい幼妻系女優がそうするなら、喜劇として見られるが、すでにあの千代には似合わない。

 総じて、歴史の悲喜劇を描くのか、緊張感のない現代ホームドラマを描くのか、わかりにくい。答えはでている、これは「大河歴史ドラマ」なのだ。50回に垂んとする45分ドラマなんだから、考え方を変えないと、駄目だと思います。脚本が悪いのか、演出が悪いのか、キャスティングがわるいのか、大本のプロヂューサーが駄目なのか、そんなことは素人のMuには、一向にわからない。ただ、今夜はどうしても、承服しがたかった。

 うむ。
 一体どうなったんだろう、NHK。
 こういう内容を受容する人達を、つまり新たにうける層を発見して、そこへのメッセージなのだろうか。いったい、どういう客層なんだろう、わからぬ。

 来週も、再来週もこうなら、Muは断筆せざるをえなくなる。
 なんとか、ならないものだろうか。と、大切な楽しみを奪われることに怒っているMuでありました。

追伸
 筆がふるえてタイトルの足利と明智を書き漏らしました。でも、もうよいでしょう今夜は、もう寝ます。
 そうだ、細川さんを、近藤正臣さんがやっていはりますね。気に入りの男優なんですが、はてさて如何あいなりますことやら。

疑問
 浅井長政とお市の方が、二人で琵琶湖を見ながら話していた。新婚夫婦のセリフはどうでもよろしが、それにしても、すでに当主だった長政は小谷城にいたはず。小谷城は山間であるのに、琵琶湖が屋敷の側に迫っていた。これはちとおかしい。もしかして、新婚用に琵琶湖湖畔別宅があったのかも知れないが。
 そうでないなら、まともな時代ドラマなのだから、もう少し考えないと。
 シュールなドラマなら夜空にオーロラ、月がふたつあろうが、ペガサスに乗って飛ぼうが、べつにとがめだてはしない。

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椿井大塚山古墳の現況写真

承前[MuBlog:椿井大塚山古墳

椿井大塚山古墳(京都府相楽郡山城町大字椿井)マピオン地図

 この一年間ほどずっと気がかりだった古墳を追って、京都府と奈良県の境にある山城町に寄ってみた。目的地は、椿井大塚山古墳である。その前に、奈良県天理市の黒塚も行ってみたので、根底に「三角縁神獣鏡」があるのかと、識者にはとられるかも知れないが、あながち、それだけでもない。もちろん大塚山古墳も、天理市の黒塚も三十枚前後の三角縁神獣鏡を出土したことで著名な古墳なのだから、そういう考えがあっても不思議ではない。
 ただ、アマチュアの気楽さというか、近頃、大量に出土する古鏡に興味が薄れた。「棺内にたった一面立てかけられた画文帯神獣鏡が、象徴的である。”宝器は一点、呪具(三角縁神獣鏡)は多量に”をシンボライズしている。」(石野博信『邪馬台国と古墳』学生社、2002)こういう一節に、なんとなく私の気持が変わってしまったというのが、今の心象である。諸先生の説を読んでいると、棺の外回りに多量に並べられた三角縁神獣鏡は、魔よけ(へきじゃ)の意味が強いのではなかろうかと、私も自然に思うようになってしまった。

 では何故行った。近いところなのに足を運んでいなかったから。そして、前方部が広がるバチ型は箸墓と同じく古い様式らしい。前方後円墳の始まりに興味がある。と、しるしてみたが、一番の興味はいささか古代史談議からは外れたふしもあるのだが、椿井大塚山古墳は、古墳全体の中核である後円部をJR奈良線によってぶち切られている国史跡なのである。
 それを見たかった。
 あとで調べてみると、鉄道がこのあたりを走ったのは、「明治27年(1894)におこなった京都-奈良間の鉄道敷設工事などのために、著しく形状をそこなっている。」(山城町史)とあり、そのころに二つに切られたのかもしれない。そして、この古墳が世間を騒がせたのは昭和28年、日本国有鉄道が線路の拡張工事を行った際、大量の鏡が出土したことによる。

 現地を歩き写真を撮って、それをまとめながら、いくつかの資料やネット情報をひもとく内に、別の謎にも直面した。この古墳の第一次調査報告は、長く秘されていたようなのだ。なぜそうだったのかは、末尾の樋口先生の話(参考サイト)から概略分かったが、まだまだ現代的な不思議さは残ったままである。
 とはいうものの、なにが謎で、それがどうなのかは、MuBlogの将来に任せて、今日は、撮った写真の解説に終始する。

Ψ椿井大塚山古墳登り口

Ψ椿井大塚山古墳登り口
 自動車RSはこの鉄橋よりも西に20mほどの所の広場に停めた。奈良の南部であれ、京都の山城町であれ、こういう古墳めぐりには小型車がよい。しかし、本当は軽トラック程度の大きさが一番よい。経験では、崇神天皇陵の東で車幅がぎりぎりに往生し、飛鳥・酒船石では見事に脱輪した。いずれも、地場のオジサンが軽トラックですいすい走っていた道である。
 ここでも、直前に前方部端の道を知らずに走って、両脇がそれぞれ10センチ程度しかなく、運転歴40年の私も冷や汗がでて、途中で10m程バックした。ただし、バックで山道を数キロ戻るのは昔取った杵柄で、得意技である。
 鉄橋をくぐるとすぐ右手に登り口がある。詳細は写真のコメント欄にしるした(以下同)。

Ψ展望台

Ψ椿井大塚山古墳展望台
 あっけなく後円部の頂上にたどり着き、そこは広場になっていて、展望台を兼ねていた。ただ、天理市の黒塚を直前に見ていたので、いささか荒れた様子に思えた。これはしかたなかろう。最近みていないが、高槻の今城塚古墳[MuBlog]は公園化の整備をしていたし、神戸市の五色塚古墳[MuBlog]は公園だった。だから、ここ大塚山古墳も公園にすれば良いと考えた。
 それが気楽過ぎる思いだったことは、直後に分かったのだが。

Ψ国史跡:案内板

Ψ国史跡 椿井大塚山古墳(つばいおおつかやまこふん)
 案内板があったので丁寧に写し掲載した。内容は写真のコメント欄に翻刻しておいた。古墳の全体図については、先頃全長がようやく175m前後で決着を見たようである(参考サイト参照)。諸説あって160~200mの間で揺れていたらしい。どうしてそうなのかは、次の写真の内、前方部を展望台から眺めたものを見ると、分かってくる。要するに、長い歴史の中で、原型をとどめなくなったというのが、真相であろう。

Ψ古墳を横断するJR奈良線

Ψ古墳を横断するJR奈良線
 現在なら想像を絶することだが、昔は古墳と丘陵の区別も曖昧だったし、また古墳というよりも、別の専門書によれば天皇陵比定古墳ですら、植林され畑になり人家になり、そして城になった歴史がある。たしか、宇佐神宮[MuBlog]は古墳の上にあるらしいという話も聞いた。だから、明治時代にここを蒸気機関車が走っても不思議ではなかったのだろう。
 それにしても、第一次調査報告をよんでいると、時代観、人の心、あれこれ考え込んでしまった。工事関係者は、鏡を割って金物と判断し報告したようである。
 別件として、いつか記すが、飛鳥の某寺にあった酒船石同様の石も工事関係者が爆破したとのこと。現代でも道を造ったり、鉄道を敷いたりすると、そのあたりの感覚が、多少異なってくるのかも知れない。

Ψ山城町風景

Ψ山城町風景
 古代の人になったつもりで、山城町の町と川と山と空を撮してみた。昔の古墳は、おそらくそこで祭祀も行われたはずである。選ばれた人達、あるいは祭りには多くの人達が、この丘陵に登り一キロほどの近くにある木津川を眺めたのだろう。畏友のJoさんの話では、神戸の五色塚は、そこから瀬戸内海を見張ったり、あるいは睥睨(へいげい)していたような想像をかき立てられた。ここなら、木津川を行く舟を眺めていたのかも知れない。
 大和と山背との境目に、椿井大塚山古墳はあった。

木津川と椿井大塚山古墳の高低差

木津川と椿井大塚山古墳の高低差
 これは附録だが、こうして高低差をみてみると、古墳は平地から25mの高さにあった。それにしても、見晴らしの良いところだから、奈良の柳本や桜井のように、もう少し大型前方後円墳があってもよさそうな地勢である。前者もこの地も、山を背にして西が開けている。ところが、地図をみているかぎり、神社はあっても大型前方後円墳はなさそうだ。いつかまた、二基、三基と出現するのかもしれない。その時は、公園にしてほしい。
 ただ、公園化も、やりようによっては、損なう物が多く、識者でも反対者がいるようだ。それについては触れない。私はアマチュアだから、多少気楽に物を考えておる故だ。

参考サイト
 昭和28年 椿井大塚山古墳発掘調査報告/樋口隆康 (第一次調査原本)
 (京都府山城町埋蔵文化財調査報告書第20集)

昭和28年[3月31日]樋口、林、小野山

 「昨日に続き、南北の両端の粘土槨の残部の調査を行う。南壁寄りでは槨の上面の朱の層より15cmほど下方に別な朱の面があらわれ、水平近く層をなしている。ただし、この方は色が茶色を呈し酸化鉄かもしれない。

 上狛小学校校庭に保管してある石棺なるものを、庄司氏の案内で見た。花崗岩を刳り抜いて作ったもので長さ 240cm、幅 155cm、高さ80cm、内深59cm、周壁の幅15cmある。四隅が丸くて、石棺とは思えない。水抜きがあり、何かの貯水槽かと想像されるが、大塚山古墳の南にある御霊山古墳から出土したという言い伝えがある。」

 ↑[Mu注:椿井大塚山古墳の、埋葬施設は町史によれば、「昭和28年(1953)の法面拡張工事のおり、竪穴式石室とともに、木棺をいきなり粘土で被覆した粘土槨らしい施設が、西にならんであったという。しかしこの施設は早く破壊されたために、調査の手がおよばなかった。」とある]

 同調査の、1998年再刊「前書き」↓

「前期古墳の最も重要な資料である京都府相楽郡山城町 (発見当時は高麗村) 椿井大塚山古墳の主体部は昭和28年に発見、調査されたものであるが、その報告書の出版が、あるトラブルのために中止され、一部の人を除いて、一般に公開されないままになってしまった。実際に発掘調査を担当したものとしては、この貴重な資料をひろく、研究者に活用して貰うためには、どうしても最初の調査内容を公刊する責務があるとかねがね考えていたが、幸い地元山城町も貴重な文化遺産を保存活用のためにも必要として、報告書の出版費を提供してくれる申し入れがあったので、当時の記録をそのまま公刊することとした。

~(略)~1998年12月31日 京都大学名誉教授 樋口隆康」

 京都大学総合博物館 三角縁神獣鏡
 京都府立山城郷土資料館
 10月14日「前方部の端 ほぼ確定 山城・椿井大塚山古墳」(京都新聞 10月13日)/とかちゃんの「ほけほけ日記」歴史篇(2005年)
 山城町史(抄)
   [My注:椿井大塚山古墳の全体像が、まとめてある]

謝辞
 本記事を掲載するに付き参考にした、椿井大塚山古墳の過去調査資料は、多くを木津川(ハンドル名)氏のまとめられたサイト「椿井大塚山古墳と三角縁神獣鏡-京都の古墳」をもとにした。また、それら調査資料を刊行された京都大学、岡山大学、山城町教育委員会にも感謝する。 

追加情報
  木津川流域 隠された王朝(JoBlog)  

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2006年2月11日 (土)

過去の共同演習作品:情報図書館学

承前[MuBlog]

平成16(2004)年度

デパートメント・ライブラリー
 かねがね当blogでも話題にしてきたが、Muは学生達による「葛野図書倶楽部2001」の最高顧問を兼ねている。この立場は、倶楽部を新選組とするなら、丁度会津中将のようなもので、両者はまんざら無関係でもないが、かといって一体のものでもない、ふしぎな関係である。しかし、会津中将が新選組を頼りにしたように、最高顧問もこの小さな倶楽部の学生達をいつも頼りにしている。

 さてその倶楽部の対外的事業は現在四つある。

 0.機関誌「Truth」の発行
 1.倶楽部ホームページやblogを管理すること。
 2.倶楽部所蔵の図書情報を整理すること。
 3.十数年にわたる学生達の共同演習入賞作品を整理すること。

 この四つが対外的情報サービスとして行われている。享受者は、学内外の司書受講生、卒業生、そして図書館を趣味にしている不特定多数の人達。図書館には不思議な魔力があって、世の中にはなんとなく書庫や図書の好きな御仁が、沢山いる。
 司書にも、上等な趣味職としか思えない人を、これまでMuは何人も見てきた。分からない利用者のわからない質問に親身になって奔走するには、そういう司書でないとつとまらない。サービスは理屈では限界がある。

 上記0は別途考えるにしても、1~3までは古風にいうと「整理部門、情報管理部門」であって、それぞれ一番、二番、三番隊長が仕切っている。たとえば新選組で三番組長といえば永倉新八さんだが、各年次手練れが多い。他には事務局として、局長、副長、経理、書記、そして新たに参事がいる。こちらは、組織維持に重点が置かれている。

 さて今日は三番隊系の仕事をまとめておく。上記例では3の「入賞作品整理」となる。
 昨年2005の三番隊長は「レスタト班総長」という、荘重な特別職に昇格した。初代三番隊長2002以来、各年次の努力によってようやく作品の内容抄出が四科目・数年間分掲載されるに至ったのである。たとえば情報図書館学の近未来図書館設計で、平成16年度上位に入った作品「デパートメント・ライブラリー」を御覧いただきたい。Muはこの班が司書職を機能に応じて「スリーベース」に区分したところにリアリティを味わった。
 内容が四科目もあるのだから、各年次見飽きない。冒頭の承前の通り、MuBlogでも過去にいくらか紹介した。

 この三番隊系が行っていることの全容を少し分析してみると、いくつもの一連のコンピュータ・リテラシー(基本素養)無しではできないことがわかる。Muはそういうことをこれまで、積極的に相談にのったこともないし、教授した覚えもない。なにかしら歴代の仕事の積み重ねで今に至った。よくやったなぁ、という感慨にうたれる。
 たとえば、次のリテラシーを必要とする。

1.WinXPやネットワークの基礎知識
 それがないと、外部に公開したり、内部でフォルダーを触って、貴重な記録のバックアップを出来ない。
2.ホームページ編集ソフトウェア
 IBMのホームページビルダーを使っている。これが使えないと表にして過去作品情報を記録することも、そのデザインを変えたりもできない。
3.スキャナー入力の基礎知識
 これがないと、作品の表紙や前書きを図版化できない。
4.グラフィック処理ソフトウェア
 PhotoStudioを使っている。これが使えないと、図版や写真を適正な色調、コントラストで縮小拡大して、記録できない。
5.過去作品の鑑識眼
 演習結果作品を読み切る力がないと、どの部分を公開し、どこを隠せばよいか判断できない。また個人情報保護の立場から、内容文言や名辞使用に理解がないと、公開できない。

 最近、2005年のレスタト班総長から、三番隊長2006に無事業務の引き継ぎが行われたようだ。世の中には、こういう複雑で高度な仕事を自然にやってしまう、奇特な若い人達がまだいる。
 身近なそういう事例に気付いたので、その業績をここに録した。

葛野図書倶楽部2001 最高顧問 識

参考
  司書課程共同レポート [←Mu注:この先頭ページの始原は、三番隊長2003の労作である]

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2006年2月10日 (金)

就職活動の季節

 現在の大学3年生達が、後期授業や試験も終わり、活発に就職活動に走っている姿をみるようになった。早い人で昨年晩秋から始めている人もいる。

 大学全体の方針としては、多くの学生が卒業と同時に社会に居場所をさだめ、活躍することを願っているし、そのための努力も続けている。
 実は、このMuも影ながら、この十数年の間、そういうことをしてきた。どんな努力をしてきたかの詳細は部外秘だが、おおよそ8割くらいの確率で成功してきたという、達成感はある。この高い成功率には裏があり、うまくいきそうな場合しか、努力しないという現実からのことだ。
 しかし、問題は多く残っている。解消はされない。

 この「問題」を記す事は、今朝はしない。いずれ退職したころに、まだMuBlogがあれば記すかもしれないが。それよりも、別の事だ。

 なぜ就職するのかという、書生っぽい考えにまだとらわれている。
 無気力にそう考えているのではなくて、学生達を日頃見ていて、そう感じるからである。
 就職にも、向き不向きがあるように思える。
 話を「司書」にするならば、むかない人が難しい公務員試験を受かって長年「司書です」といい、むく人が長年「わたし、まだ非常勤なんです」と、言っている。そういう、一種の不条理にまだ心が落ち着かない。

 さて。某国では失業率が40%らしい。どうやって、日々生きているのか。
 そんな思いにおそわれた。
 しかし、なぜみんな就職しなければならないのか、という単純な、書生っぽい考えは脳裏を去らない。
 
 Muは、やがて定年がくれば諦念し、次の余生を考えることになる、その時じっくり考えてみようか。ユートピアでは人は就職するのだろうか?

 

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2006年2月 9日 (木)

「壬申の乱」の関係地図

 昨夜NHK総合TVで「壬申の乱」が放映された。松平さんの司会と、講師は遠山さんという学習院大学の先生だった。遠山先生の著書は以前『天皇誕生:日本書記が描いた王朝交替』(中公新書1568)を読んでいる。これまで感想文として記録しなかったのは、Muの感性とは異なるところが多かったからである。学問に感性とか好き嫌いはないでしょうと、おっしゃるかたもおるやもしれないが、それは違うと思う。どんなに正確な事実検証があったとしても、そのことへの視点がどうであるかで、その学問全体への、私の評価も変わる。

 たとえば明治時代は、薩長政府が欧州、フランスやプロイセンの物まねに走り、憲法をつくったが、それは欧州列国にむけての蟷螂の斧、当時の日本の低い民度から考えると、矛盾だらけの馬鹿げた格好付けに過ぎない。という学問の成果があったとしよう。そういう事実もあるだろう。だが、Muはそれをして、「ああ、苦しい中で、髪振り乱してがんばって、植民地化されないように、威儀格好付けをしたんだな。よう、頑張った」と、考える。

 遠山さんの著書には、日本書紀などの製作は、中国人が中心だったと別の研究者の成果を援用している。これなんかは、明治維新政府がたくさんの「お雇い外国人教師」に高い給料をはらって、帝國大学を維持したことに似ている。七世紀、往時の日本は沢山のインテリ帰化中国人を厚遇して、日本書紀を作ったのだろう。天武朝廷以降、国威発揚のためにか。その心が奈辺にあったのか。Muなんかは別の考えを持って生きてきた。

 その筆法を、昨夜の「壬申の乱」の全体構想にまでは推し進めない。こうやって、記録を掲載している今のMuは、「松平さん、スタッフさん、苦しい予算や時間のなかで、その時歴史が動いたを製作されているのですね。遠山先生も、諸説ある中で大変だったでしょう」と評価しているからである。ただし、戦闘場面なんかに、以前の「聖徳太子」が随分まぎれこんでいるのには、失笑した。河内での物部と蘇我の戦闘場面に多い。一部、物部守屋(宝田明?)の馬上姿全体が、ぼかしてあったような気がしたが、使い回しも、やりすぎるとガックリする。ただ、大化改新の一部使い方は、なんとなくぴったりしていた。

 さて、本記事のテーマは、関係地図をまとめておくことだった。昨夜の放送内容で、壬申の乱の動きが大体わかったので、忘れない間に録しておこう。

 近江神宮(滋賀県大津市神宮町)地図 [近江朝廷、大津宮の跡地に昭和15年に作られた。水時計(天智天皇は全国の「時」を管理しようとした、と解説があった)の模型がある]
 参考サイト:近江神宮
 Mu注:大友皇子の息子與多王が住職となった、大友皇子の弔い寺「法伝寺」について探したが、見つからなかった。

 Mu再伸注記:【法伝寺】につき、知らぬ間にGoogle で検索が出来るようになった?
    住所:520-0818 滋賀県大津市西ノ庄9-22
    宗派:真宗 仏光寺派
    情報源:http://www.kokokujitanbo.com/ootu-e-5-2.htm
         http://www.geocities.jp/sisekiguide/28/walk28.htm
    地図:法伝寺

 吉野宮滝(奈良県吉野郡吉野町)地図 [天智天皇の弟、大海人皇子(おおあまのみこ)後の天武天皇が、吉野に逃れとどまった地]

 不破の関(岐阜県不破郡関ヶ原町)地図 [壬申の乱はこのあたりで開戦した。このあと、滋賀県近江の瀬田唐橋で大海人皇子側の勝利が確定した。不破関が置かれたのは、この壬申の乱の後のことである。また、放映ではこの不破近辺に行宮(あんぐう)を置いて本営とし、大海人皇子は、長子の高市皇子(たけちのみこ)に全軍権を委譲し、この戦いを大友皇子と高市皇子の同水準戦に擬したと、解説があった]
 参考サイト:壬申の乱で生まれた不破の関

 飛鳥浄御原宮:エビノコ郭(正殿→大極殿)(奈良県高市郡明日香村大字岡)地図 [天武天皇が近江から飛鳥に戻った地である。このあたりは何度か走ったのだが、狭いところに民家もあって、事前に調べていかないと遺跡などはわかりにくい。調査中が多いので、標識が目に入らないことも多い。放送内容では、唐の太極殿を擬して、大極殿を作ったらしい。橿原考古学研究所の林部主任研究員が、エビノコ郭は大極殿跡だと話していた。]
 参考サイト:明日香村飛鳥京153次調査
        飛鳥浄御原宮
        飛鳥浄御原宮・正殿[MuBlog:2004年3月にMuもニュースを録しているが、間違った言い方をしていた。正殿に、天武さんが住まいしていたと言う筆致。これは、政務をとるところだから、住んでいたわけではなかろう。しかし、わからぬ。Muなど、木幡研も葛野研も、研究・教育というよりも、住んでいるようなものだから]

 というわけで、冒頭からいささかいつものMuと違って、対象にきつく当たってしまったが、こうしてまとめてみると、随分わかりやすく丁寧な「壬申の乱」だと思った。遠山先生が番組で強調したのは、「天皇」「日本」という呼称が、天武朝でのことである。その時代に日本書記が作られたという事実であり、Muが申したようなことにはふれておられなかった。よかったことである。

全体参考
  NHK その時歴史が動いた 
追伸
 伊勢神宮の北方、斎宮跡に関する所は、また後日別記事を立てたい。これは年始に『アマテラスの誕生/筑紫申真』(講談社学術文庫 1545)を熟読して以来、考え込んできたのだが、「伊勢、地方神」と「伊勢神宮、国家神」との関係が、Muの視点にそぐわず(笑)、書きあぐねている。昨夜の放映でも、斎宮関係を解説している方は、少し気にしておられた、地方神。

再伸
 『古代史新聞』(MuBlog):これは、なかなかに参考になった。   
<追加情報> 
 JoBlogで、当時の国際情勢から見た「壬申の乱」記事が出ました。    

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2006年2月 8日 (水)

常照皇寺(ビデオ)

承前[MuBlog:常照皇寺]
常照皇寺(京都市右京区京北井戸町)地図

 以前の記事で「常照皇寺」の地名は北桑田郡・京北町でしたが、今度みましたら、京都市右京区京北井戸町になっておりました。
 昨年全国的に大幅な市町村合併があって、地名がそこら中で変わっています。数日前の新聞では高速道路の標識が古いままで、怒りの声がありましたが、しかし、Muなど高速道路を走るときはセンサーが車の操作に向かっていますから、視界にはいる標識文字が見慣れぬものだと、かえって混乱をきたしそうです。たとえば滋賀県の八日市市が、一市六町の合併で「東近江市」になったらしいのですが、名神高速道路を走っている最中には、そんな新しい市名を見ると翻訳機能が壊れるかも知れない。
 それにしても京都市右京区といえば、Muが幼児期から大学卒業まで住んだところ、そして今の職場のある区。それが、地図でみればわかるとおり、京都市内から遠く20キロの北まで右京区になって、どうにも心中収拾がつきません。やがて、慣れるのでしょうか。

常照皇寺の本堂
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ビデオ:本堂 (1MB WMV形式)
 以前の写真では桜を一枚写した程度だったが、今回は常照皇寺の結構を記録しておきたい。何度か行っているので覚束ないが、これは2002年の4月ころの撮影のはずだ。
 このビデオで印象が深いのは、光厳天皇がお住まいになったこの禅寺では、仏様が天井に近い、視線よりも上にお住まいの様子である。そうして、随分寒い山国なのに、「広い」というか開放感がある。もちろん、天竜寺などの大きい寺の本堂が広々としているのは普通の体験なのだが、こうした山奥の小さな寺がこれほど内部に開放的空間を包み込んでいたということに、驚いたのである。
 四十年も昔に初めて訪れたときの記憶では、やっとのことで桜を「お参り」した程度で、上にあがることはできなかった。

常照皇寺の渡り廊下と庭
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ビデオ:渡り廊下(2MB WMV形式)
 以前から平安時代の寝殿造の、庭と池があって、渡り廊下のある建築物は好ましく思ってきた。源氏物語に描かれた「六条院」 は、春夏秋冬の四町構成で四季の庭があり、春町は紫上、夏町は花散里 、秋町は秋好中宮、そして冬町 には明石君が住んでいたという。豪華なものである。[MuBlog:源氏物語ミュージアム

 で、この常照皇寺は和風というよりも禅風で、禅の趣味が濃厚なのだから、寝殿造とは別の世界のはずだ。だが、大きな渡り廊下を歩き眺めていると、いつのまにか同質のものを味わっていた。つまり、渡るという経過の中に、山や岩や滝や清水をふんだんにつかって、自然を区切ると言うよりも、その中にいるような気持にさせてしまう。竜安寺石庭とは異なった物だろう。こういう工夫が南北両朝にぎやかな室町時代のものなのか、あるいは後世江戸期の改修なのか、そこまでは知らない。しかし、光厳(こうごん)天皇の生涯を瞥見してみると、なんとなく北朝初代天皇、後に禅に出家した彼の気持のあらわれのように想像した。

九重桜
JyoSYoKoJi-2
ビデオ:九重桜(1.6MB WMV形式)
 今は二月、桜の季節でもないが、事のついでに録しておいた。
 最初の方の画面で、右に石柱があって「九重櫻」と読めるだろうか。
 また、左にある坊は、これは禅寺特有の、修行するところ、座禅を組んで肩や背中をぶたれるわけだ。内部は、土足で入るようになっていて、和風とはまったく異質だった。

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2006年2月 7日 (火)

啓示空間 (Revelation Space)/アレステア・レナルズ

啓示空間/アレステア・レナルズ 著、中原直哉 訳

啓示空間/アレステア・レナルズ
  早川書房:東京、2005/10
  1039p;16cm
  (ハヤカワ文庫;SF1533) 
  ISBN 4-15-011533-8
  定価 1400円
  NDC(9): 933.7

帯情報

その内部には「啓示空間」があり、驚異の科学技術が隠されているといわれる謎の空間シュラウドからただ一人生還したダン・シルベステは、リサーガム星で異星種族の遺跡を発掘中、その滅亡の原因を解く鍵として、中性子星ハデスを差し示す手がかりを得るが……99万年前の異星種族絶滅の謎、巨大ラム・シップ内の暗闘、中性子星に隠された秘密などを背景に、人類の存亡をかけた戦いをグランドスケールで描く迫真の宇宙SF!

Mu注記

 まず重い。一千頁を越える文庫というと、魍魎の筺/京極夏彦、クラスである。Muは寝読しかしないのだが、夜半10時を過ぎると突然顔面に落ちてきたことがたびたびあった。遅読なので、おおよそ実質一週間程度かかったようだ。普通の人でも、丸一日は必要だろう。

 で、秀作である。このての重くてハードでしっかりしたSFは久しぶりだった。なんというか、驚愕し続けたので、無事読み終えたときは、ほっとした。一見して冒険もののように思えるが、謎がちりばめられていて、ミステリと考えてもおかしくない。途中でいろいろな伏線があって、あとで気がつく。

 啓示空間という翻訳タイトルは、あたっているともいえるし、もっと宇宙全体に思いをめぐらす象徴ともいえる。ただ、言えることは「宗教」を完全に凌駕した、彼方の話、空間だということだ。と言っても、小難しいへりくつ、変に哲学的な内容でもない。

 登場人物が皆々変わっているので紹介しておく。彼女ら、彼らがすさまじい活劇と推理をサイバースペースの中、深宇宙、巨大な宇宙船のなかでくりひろげる。
 まず宇宙船は、Nostalgia for Infinity(無限への郷愁号)と言って、その大きさが、エレベータの階数は1500階ほどで、シャフトの長さは4キロある。収容人員はMuが数えただけでおおよそ30万人、しかしそこに乗っているのは、「委員会」と呼ばれる3名と、百年以上病床(ウィルスによって機械と有機体とが融合し成長する癌)に伏す船長一人。あと補助員が2名程度。今は、残りはすべて船体そのものとネズミロボット、幾つかの原始ロボットだけが船内を操作している。勿論、船体は最高度のロボットで、攻撃を受けると自分で治療し、直す。また、何年かおきに、設計を変えて船型まで別のものになるという、ものすごさ。

 以下下線付きが通称。
 主人公は、ダニエル・シルベステ(男)。考古学者であり、政治家。
 パスカル・デュボワ(女)。ジャーナリストで、シルベステの手伝いもしている。
 カルビン・シルベステ(男)。ダニエルの父親でサイバネティックスの宇宙的権威だが、現在はシミュレーションとしてコンピュータの中に生息している。つまり生身の肉体は遠い昔に消えている。だが、息子シルベステにとっては、なくてはならないケンカ友達で、かつ軍師。

 巨大な宇宙船の中心人物三名は、なぜか「船内三人委員会委員」と呼ばれている。船長は、あまりでてこない、そこが謎。
 イリア・ボリョーワ(女)。船内軍事部門担当エキスパート、最強。しかも、船内コンピュータを腕にはめたパッドから自由自在に操る技術者。名目上の委員ランクは、三番目。
 ユージ・サジャキ(男)。副船長だが、最高の権限を持っている。ヘゲモニーはサジャキにあって、強烈で異質な存在。ウルトラ属という、一種の派生人類か(?)。わかりやすくいうと、肉体の数割を機械化したサイボーグ。だが、次ぎに述べるヘガジほど外見は異様ではない。翻訳のセリフ回しが、江戸時代の虚無僧に擬してあり、事実ときどき虚無僧姿で異星の町中に潜入潜伏する。善悪のない、しかもボリョーワでさえ命令に服さざるをえない、不気味な副船長。
 アブデュル・ヘガジ(男)。副船長サジャキの副官のような立場。しかし、同じウルトラ属でも、噂では脳までサイボーグ化しているといわれるほどの、全身が機械とかわらない委員。

 アナ・クーリ(女)。マドマワゼルという闇の女王の恫喝で、無理矢理ノスタルジア号の補充兵員として送り込まれる。砲術士官として、ボリョーワのもとで働くが、この女が意外に節目節目、重要な役割を果たす。

 というわけで、全編を覆う宇宙史観と合わせて、登場人物がいずれもすさまじいキャラクターを持っている。しかも、ハードコアSFとしてごまかしが非常に少ない。背景に理論物理、宇宙物理の数百年後を想定し、その中で彼ら、彼女らが動く。作者レナレズはイギリス生まれの人で、天文学博士号を持っているらしい。最近まで、欧州宇宙技術センターで働いていたが、作品がいくつか評判になり賞もとって、2004年に退職し、専業作家となったよし。

 最大の謎は、……。なぜ、シルベステは危険を冒して、中性子星ハデスに目指すのか。ノスタルジア号の航行目的は何なのか。なにしろ、冬眠を繰り返しながら、百年単位の航海なのである。

 お奨め度、このて好きな方には、100%。見向きもせぬまま生きてきた御仁達には、そうですなぁ、5%程度でしょうかね(笑) 後者の理由は、けっこう難しい背景宇宙論の中で、謎が謎を呼ぶ作品だから、ある程度、この手のインテリジェンシーと、リテラシーとがないと、読めないでしょうね。

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2006年2月 6日 (月)

古代史新聞に読む「壬申の乱」

古代史新聞 新版/古代史新聞編纂委員会 編

古代史新聞 新版/古代史新聞編纂委員会 編
 Muは以前からこういう図書が好みである。なんとなく読みやすくて、全体がすっとわかり、店頭にならべてあると知らぬ間に手に持っている。何年も前に『三国志新聞』を買って、いまでも時折眺めている。この『古代史新聞』は新版となっているが、旧版との違いはわからない。ただ、目の前にあるものだけですませられるのもこういった「お楽しみ本」のよいところだろう、過去は問わない。
 さて、どんな記事があるのか。いつもなら、スキャナーで目次を全部取り入れて記録するところだが、なんとなくこういう図書は、どういう記事ネタを構成したかが売りなのだから、そこまで目次をしっかり入れると制作者に悪いなぁ、と思ってよしにした。
 さわりだけ触れておこう。全世界の古代史で、Muの興味をひきそうなトピックは大体網羅されている。

【メソポタミア=BC2500年】 メソポタミアで原始民主制崩壊
  三国鼎立時代に突入 ウル、キシュ、ウルクが次々と王制へ
  シュメール王名表、編纂始まる:ウル第一王朝の総力結集した大事業
【インド=BC486年】 釈尊入滅!悲しみに沈むインド
  生涯を人類救済に捧ぐ
  緊急特集 ゴータマ・ブッダ 行動の軌跡
【奴国(倭)=57年】 光武帝より金印授与 外交の足がかり
  倭の奴国王後漢に朝貢
  政界ウォッチング「後漢 光武帝の行革手腕」

天智天皇崩御

天智天皇崩御『古代史新聞』p.196
 だいたいこういう見出しが「BC3500メソポタミア」から、最後は「806日本 空海」まで続いている。その最終記事では、829年、「ウェセックス王国のアルフレッド大王 七王国のイングランドを統一」という記事も併記されていて、世界史と日本史とが同時代でよくわかる。

 さて、数日後NHKの「その時歴史が動いた」で壬申の乱が放映されるらしい。そのとき、また記事を掲載するつもりだが、この新聞ではどうなっているのか。
 
【日本=671年】天智天皇崩御
  大友皇子が即位か 鍵握る大海人皇子
  <日本=672年> 天智天皇の死に重大疑惑 六月行方不明説が浮上
  <日本=672年> 大海人皇子の反乱軍勝利
    壬申の乱 瀬田唐橋で大友皇子軍を撃破
      大友皇子は自決
  <日本=673年> 天武天皇即位 皇后は菟野皇女に決定
  <メキシコ=683年> パレンケ パカル王逝去

 というわけで、Muはこの「天智天皇の死に重大疑惑」に、惹きつけられた。さて、どんな記事か。それは読者が読んでのお楽しみ。

注記:新版『古代史新聞』日本文芸社、平成18年1月.952円+税

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2006年2月 5日 (日)

NHK功名が辻(05)お市の方

承前

 今夜は、千代の持参金話からドラマが始まった。10両だったらしく、換算すると100万円。一豊の石高が50石で、年収500万円相当と解説があった。これはわかりやすい。また、千代の作った小袖が、パッチワークで評判になった、そんなエピソードがおもしろかった。

 信長は稲葉山城を岐阜城とあらためた。あわせて天下布武のメッセージもはっきり打ち出した。しかし上洛するには、障害となる近江があった。琵琶湖南部は六角氏で、湖東北は浅井氏が小谷城に居し、若き長政がいた。そこへ信長の妹、お市が嫁ぐわけである。その前夜が今夜の話だった。
 こうしなければ、浅井氏は越前の朝倉氏とよしみがあり、また信長の背後には武田家が控えていた。策無しでは上洛は覚束なかった。
 (それにしても、京都にたどり着くことが天下取りの証であることが、なかなかに、考え込んでしまうところである)

 お市の悲劇は信長や秀吉に興味のある人は存じているはずだが、やがて浅井長政は信長に攻められ、秀吉が長浜城に入る。そして否応なく救出されたお市は、三人の娘を連れて、信長の家臣柴田勝家に嫁ぐ。勝家はやがて北庄(福井市:きたのしょう)で秀吉に滅ぼされ、お市の方もこのとき自害。だが、娘三人は生還し、一人は淀君となり、一人は京極氏に嫁ぎ、もう一人は後日徳川秀忠の正妻となる。すなわち徳川家光の母である。これは、ミトコンドリアレベルでは、織田家のDNAが、徳川将軍家に入ったことになる。

 ここで、お市が嫁ぐ浅井家の居城位置を確認しておく。
 小谷城跡・地図(滋賀県東浅井郡湖北町) 関係サイト

 今夜もなんとなくほのぼのとしたすすみ具合だった。頭の片隅では「合戦、謀略もなく、ひとによっては、退屈かな」とも思えたが、Muはエピソードのひとつひとつが、おもしろかった。鮒寿司のことを千代が一豊に説明していたが、どうなんだろう、現代でも琵琶湖岸以外の他府県の方は、鮒寿司をご存じなのだろうか。Muは以前から稀に口にすることがあった。最近では茶漬けにして、美味しく味わった。(MuBlog:鮒寿司とスチルトンチーズ

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2006年2月 4日 (土)

たそがれのMacG3-450

 今日は土曜日、いま夕闇がよせてきた。
 朝はめいっぱい木幡で働いて、息抜きに昼食を絶品の「鴨なんば」にして、らんらんらんと葛野研究室に入った。さっそく屯所(別室)に寄って、預かり物のIBM-ThinkPadの調整に入り、ファイル管理のスタートをかけて、さてもうひとつ、別マシンでCD-ROMへの焼き付け請負仕事をして、……それなりにそれぞれの目をむくようなトラブルがあったのだが、4時頃にはすべて解消した。
 前者は簡単なことで、メモリーが64MBしかなく、ハードディスクが極めつけの遅速で、結局チェックと再配置と、既存ソフトの追加削除とで、4時間以上かかり、しかし5時には完了しすっきりした。不調の原因は某ノー○トンのハードディスクユーティリティーだった。これを削除したことで直った。やはりああいう高度なソフトは繊細なのじゃろう。後者は、仕方なく(まあ、事情がある)、手持ちの空のCD-RWでたっぷり時間がかかったが、まあこれも軽微。

 問題が実は13時に発生していた。愛しの古きMacG3-450、すなわちわが葛野研の最古参サーバーである。ついに、というか、MuがよそのWin系マシンを近頃何台も修理整理していることに腹をたてたのか、へんねしおこしたのか、嫉妬したのか、息を止めた。これはぁ~、重傷である。その間、上記を並行してやっていたので、「うん、まあ、時にはMacも休養しないとね」などと、軽く考えて屯所でいそしんでいた報い。
 さっきから小一時間介護しているが、どうにもこうにも。

 あのマシンには、Muの作品群、畏友の日記エッセイ、おびただしい過去の堆積がある。それらの幾つかは待避してあるが、しかしそれを動かすのは、まったく別Webサーバーになるので、困難を極め、丸一日終日しごとになるのは目に見えている。来週は軒並み会議日、さあどうする。ううう。

さらに。
 お得意の「OS、CDで立ち上げ」をさっきから試みているのだが、なにしろ古いマシンだから、たしかOS8以上、OS9の初期で動いていたはずだが、~、そのOSを探すのに30分かかった。紺屋の白袴。本箱の片隅にちょこんと隠れていたOS9を探し出して、Cキーを押し続けながら、電源をいれた、CD起動の呪文なのだ。駄目だ。このG3に限ってCキーは無効なのか。
 他にこのマシン特有のことがあったか、……。あった、このマシンは、まだ普及していないOS-Xを導入したままのマシンで、当時はOS8で立ち上げることとOSXで起動することを塩梅よく扱わないと、うまくいかない代物だった。なれたので途中からXを見捨てて、OS9だけにしたのだが、まだXは内部に残っておる。どうも、そこら当たりが災いしているのか。

さらに難しい問題。
 このマシンは当時最速のSCSI-2ハードディスクを使っていた。パソコン世界では普及しなかったものだ。ワークステーションは今、どんなだろう? そんなことはどうでもよい。いつものようにハードディスクをさっと抜き出して、さっと別のマシンに付けて、生き残ったデータ(おそらく100%残っているはずだ)を回収することが、この、SCSI-2インターフェースで頓挫するかもしれない。この恐怖。
 うむむむ。
 
解決策・案。
1.別マシンにある待避データを、別マシン(MacG5だろうな)を使って、アパッチ配下でサービスする。データとしてなにが欠落しているか、一応確認にてまどるな。
2.SCSI-2のハードディスクを、なんとかジャンク屋で変換コネクタかなんか、探して別のマシンに接続する。うむ。
3.他にあるのか。あきらめるのか。
*.ああ、さっきG3を見てみたら、どうも、SCSI-2インターフェスボードはPCIに差し込んで使っていた。当たり前か。ならば、このボードごとG5に付けたらどうじゃろう。うむ~、もしかしたらヒット。
 だが、今日は疲れた。さらに明日は日曜。
 ……

 というわけで、たそがれてきたなぁ、世界が。結局、自らの足下に大きな穴があったわい。
 おそらく、呪術的に、マックの妖精がMuに絶交宣言したのだろう。「Mu先生は新しいG5や、カスみたいなWinマシンばっかりに熱いれてはる。もう、知らん」こういう、風情じゃのう。

 ともかく、今日はかたづけて帰還しよう。まさか、まさか永久(とわ)のわかれじゃないとは、思うのだが。悲劇は一瞬にして訪れる。しかしなおまた、幸をともなうこともある。(後者は複雑なので理由は割愛する)

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2006年2月 3日 (金)

伏見夢百衆

承前[MuBlog:伏見港界隈]

伏見夢百衆(京都市伏見区南浜町)地図

大正調のカフェ

大正調:伏見夢百衆
 昼に所用で伏見まで走った。たいしたことでもなく、用件はすぐにすんだ。しかし、すぐにすむことでも、やっておいた方が良い場合もある。少し時間があったので見慣れた伏見港界隈を歩いた。近所に「伏見夢百衆」があったので、観光客になったつもりで入った。
 もともとレトロな趣味が好きだ。それが「造られた」ものでも、京都の建築物は大抵古い原型を残しているので、雰囲気が濃厚にでる。ここはおみやげとカフェの店だった。大正調となっていたが、記憶の片隅にある明治調と区別はつかなかった。確実にいえるのは、現代の様相とは違いがあって、すべてがおっとり、ゆったりしていることだった。おまけにメイドさんが、それらしいハイカラさん風の和装だったのが、楽しめた。

卒業旅行

卒業旅行の三人
 店内で数枚写していたら、女性達が写りこんでいた。庭を写すつもりだったが、トリミングしてこうなった。この季節だと、もう卒業旅行が始まっているのかも知れない。と、心中で自由に解釈した。Muの知る範囲でも、近頃は国内旅行が多い。その方が経費のかかる場合もあるのに、古き日本の雰囲気を味わいたい人はいつも何割かいるようだ。関西からだと、金沢とか、逆方向では倉敷、津和野あたりを耳にする。
 熱心にメニュウを見ていたのが、気になった。

おしながき

おしながき:伏見夢百衆
 Muもつられてメニュウを見てみた。驚いたことに、裏には酒の肴が盛りだくさんあった。しかし車だったので表を見直した。パフェとか豆乳とかが並んでいる中に、アイスクリームに清酒をかける珍品があった。驚いた。どういうものか、どんな味か想像もつかなかった。
 結局、よい品をみつけ注文した。なんのことはない、珈琲だ。ただし伏水を使った、水出し珈琲である。お酒と同じく、珈琲も水が大切だ。少し離れた老舗の珈琲店が美味しいのは、多分伏見の水を使っているからだろう。
 というわけで、一息ついて伏見港の「伏見夢百衆」を後にした。

参考サイト
  伏見夢百衆

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2006年2月 1日 (水)

インフルエンザ

 夕食のあとみるともなくTVをつけると、NHKで「ためしてガッテン」という番組を放映していた。これは以前から時々目にし、意外な事実に驚いてきたのだが、今夜はインフルエンザと風邪のことだった。
 医療情報には自信がないのだが、メモだけしておく。

1.熱が出なくてもインフルエンザ
 免疫力の強い人は、熱がでないようだ。
 高齢者は、熱を出す元気がないから、でないようだ。
 もうひとつあったようだが、思い出せない。
 以前厚生省は38度c以上の高熱がでることを、インフルエンザの指標としていたらしいが、最近は以上のように熱が出ない事例が多いようだ。

2.マスクの効用
 うつらないと言うよりもうつさない点で、マスクは貴重重要らしい。つまり、咳やくしゃみをすると、空気中にウィルスが停滞し、一度のくしゃみで、9時間後にも5000程度生きているようだ。
 また、くしゃみをすると、肺活量の多い人はマスクをはじき飛ばしてしまうので、手で押さえるとよい。実験動画では、マスクをしているのとしていない場合の、飛沫の飛び方は、ゼロと一面の霧くらいの違いがあった。

3.予防
 病院なんかでは、隔離というよりも、インフルエンザと解った人は、別室に全部集めるとのこと。これだけで院内流行が徹底的に押さえられたとのこと。
 予防としては、口腔内の丁寧な掃除。たとえば舌には結構ウィルスがたまっているらしく、これをブラシで磨いてうがいをするだけで、ある施設事例では、インフルエンザ発症が1割に激減したらしい。
 歯周病の原因酵素(?)があると、ウィルスを活性化するらしい(?)
 ともかく、歯を磨き、丁寧にうがいするだけで、ウィルスだらけを免れるとのこと。

4.Muの考え
 よく眠り、水分を取るとよい。
 とくに睡眠については、Muは万病に効く万能薬と考えている。
 ところで、
 悪化の一途をたどる病気と、やがて緩解し自然治癒する病気と、二つあるのかどうか。
 気力、つまり精神力、そういうものの影響を最近とみに味わっている。
 精神主義はやりすぎると愚劣にみえるが、向上心というか、プラスの考え方は身体全体に明確に影響をあたえていると、実感している。

 過去は食糧事情や医療の未発達で、いまより寿命が短いが、現代は、まるで病気になるために働いているような人も多い。
 なんとか、適度なストレスで軽いカツをいれながら、よく眠り、よく遊び、げらげら笑う毎日をおくりたいな(笑)。
 とはもうしても、いつもの疑問。
 人はなぜ生きていくのでしょう。つきせぬ自問自答。

 上記の自答は、
 (1)まだ好奇心がある。
 (2)まだ、おもしろいことがある。
 (3)まだ、読みたい本や、見たい映画、行ってみたい地域が残っている。
 (4)MuBlogをコンスタントに書ける時期は、なんとなく、気持がよい。
 というわけで、風邪ひきながらもスレスレのところで浮上し、鬱におそわれながらも、次の瞬間「あ、あの映画みてみよう」「お、鴨なんば蕎麦を食べに行こう」「てへ、マシンもう一台つくってみようか」……、と尽きぬ思いがこみあげてきて、ああ長生きしたい、とおもって、ぐっすり眠る。

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