新選組副長 土方歳三の最期
新選組!! 土方歳三最期の一日
土方歳三が、「新撰組副長 土方歳三」と名乗って討ち死にしたことで、私は満足した。陸軍奉行並でもなく、変名でもなく、新撰組副長であったことに、人の世の意気地を見た。
既に消え去った新撰組の旗を函館五稜郭まで持ちこたえ、すでに無くなった役職「副長」として土方は死んだ。これが伝承なのか、事実なのかよりも、作者三谷幸喜がそう描き、またかつて司馬遼太郎「燃えよ剣」でもそうであった、その事実が重い。
享年35歳、一年前に斬首された近藤勇と同じ歳だった。
死は死であり絶対であり、如何なる修飾も無意味な世界、幽明異にする事象である。しかし死ぬ者がどのように感じ死に、それを生者がどのように受け止めるかは、また別のことである。
一昨年「新選組!!」は、局長近藤勇の死で終わった。しかし、旗は残り、副長も残った。それが会津に続き、五稜郭まで北上した。土方はしたたかなリアリストであり、負ける戦はなかった。死に場所を探していたと安易には思えない。勝機はつねにあり、軍艦も兵もあった。北海道に独立国をつくるという榎本武揚(えのもと・たけあき)の夢に殉じたとも思わない。
「榎本さん、新しい国では、近藤局長は罪人ではないのだな」と、土方。
「そう、建国の礎(いしずえ)を築いた英雄だ」と、榎本総裁。
一人の人生、多摩の百姓から、京都での騒乱の五年、そして函館で建国の実現を前にした今、土方は「青春の新選組副長」として生を終えた。盛名を誇ってのことではない、悪名の武威のためでもない、土方歳三の人生にとっては、盟友近藤勇とかけぬけた京都時代こそが、「生」であり「現実」だったのだろう。そして函館新政権での建国は、榎本の夢だけではなく、土方歳三の夢であった、と今夜のドラマは描いていた。
そこに新しい土方像ができたと感じた。
他人の夢に殉じたのではなく、自分の夢を守るため、不運にも討ち死にした。
土方は、榎本を前にして「京都時代は土方が概略を練り、細部を山南が詰めた」と話した。その作戦は織田信長の桶狭間(おけはざま)と言った。つまり横に伸びた大軍の弱いところを突き、間道を抜けて隔てられた敵軍の大将を取るという作戦だった。ドラマ全体に「死に戦(いくさ)」からは遠く離れたリアリズムがあった。「勝てる」と思わせるものがあった。そして、突然の死が訪れた。現実世界だと、思った。
私はかねがね土方が榎本とどのような関係にあったか、気になっていたが、今夜の描き方は納得できた。
別に安部公房になる『榎本武揚』が小説と戯曲と二つあり、これはまたおもしろい作品であったが。
ただ、史実によれば、榎本はこの五稜郭戦1869年33歳だった。降伏後1872年まで入牢し、その後北海道開拓の調査に力をつくし、文部大臣、農商務大臣、外務大臣などの要職を歴任した。1874年38歳の時には特命全権公使として、ロシアと樺太千島交換条約を締結した。
大河ドラマが終了後、一年後に新たな番外編を組むのは珍しいことだと思う。新選組はそれだけ、視聴者の関心をまねき、また新選組は近藤局長と土方副長という、両輪で一つだったことの証かもしれない。
旧勢力の武闘派、とだけ思われてきた新選組は、土方の洋装、合理性、新たな夢を目にし、それを「ロマンチ(笑)」と見るようになるかも知れない。三谷幸喜の作品によって、歴史観が少しかわったかもしれない、と思った正月三日の夜だった。
追伸:明治維新政府内部での確執は、ますます興味深くなった。その後の北海道をどうあつかったか、そして薩長閥をどう切り分けて、近代国家に成長したのか。あらためて興味がわいた。
再伸:大鳥圭介(おおとりけいすけ)の描き方も役者もよかった。後日学習院院長も歴任している。
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コメント
葛野ブログを見て、こちらにお邪魔しました。
3日の夜は、幼いいとこが「里見八犬伝」を見たがったので、見れなかったのですが、
今、Muさんの記事を読んで、グッとくるものがあったので、コメントさせていただきました。
ある部分を読んで、目頭に熱いものが… 。(ウルウル☆)
卒論が終わったら、ゆっくり楽しみたいと思います♪
投稿: 葛野副長 | 2006年1月 8日 (日) 14時23分
葛野副長さん、2006年1月 8日 午後 02時23分
そうですね、三日の夜は9時から八犬伝の後半がありましたから、そちらへ流れた方も多いようです。
私は土方さんをハードディスクに記録し、他方八犬伝後半はビデオに入れました(笑)
見ていたのは当然土方さんです。
土方さんは人気ありますね。最後までやり遂げた部分も、その理由かもしれません。もちろん、代表者近藤局長さんは敵味方幕をひく意味で斬首されたと考えるのが最近のMuの思いですから。
その点、次男坊烏ともうしましょうか、土方副長は自由な面もあったのではないでしょうか。
30半ばで死んで、京都に着いたのが二十代後半でしたから、いわゆる「花を咲かせた」都の遅れた青春だったのでしょう。
なかなかに凡人には真似の出来ない生涯でした。だから、Muもいつもウルウルです(笑)
投稿: Mu→葛野副長 | 2006年1月 8日 (日) 16時30分