NHK功名が辻(02)米原と琵琶湖
今夜は千代が尾張から、一豊の制止を振り切って美濃の不破家へ行く所だった。不破家は千代の母の妹が嫁いだ先。斉藤家の家臣である。美濃と申せば斎藤道三、義龍(よしたつ)、龍興(たつおき)だが、このころは義龍→龍興時代のようだ。
ところがこのあたりのことは、司馬先生、ちゃんと『国盗り物語』も記されているので、Muの出る幕はない。
Muはそこで今夜考えた。
米原だった。
NHKでは本編終了後の附録で、米原が千代の生まれたところ(の一つ)と説明していた。一豊の母の墓もあると写していた。そんなことを何も知らずに、Muは物心付くころ幼稚園前後から、暗い光に照らされた「夜の国鉄米原駅」が記憶に重層している。なにかしら甘酸っぱいような、異世界のような、生まれる前の遠い記憶のような、不思議な気持になる。
千代とは関係も無いのだが、今しるしておいて、米原の占める位置を事前に自ら検証しておく。
調べれば分かる事だろうが、その頃、いまから半世紀以前、国鉄東海道線はもしかしたら米原を境に、あるいはそれは記憶間違いで、北陸本線が福井、武生、今庄、敦賀、そして南下してここ米原で、蒸気機関車から電気機関車に切り替わる分岐点だったのかも知れない。理屈の上では、福井や今庄にかつて本籍のあったMuは、北陸本線を南下して京都に行く旅程が一番多かったはずなのだが、一方事情で小学校のころには毎夏真衣冬東海道線を静岡まで行って、そこないし富士から身延線に乗り換えて久那土という駅まで往復していた記憶もある。
いずれにしても夜行列車がほとんどだった。鈍行で終夜かけて東海道線を走った記憶が多い。或いは北陸本線を、南条郡今庄町(今は南越前町今庄らしいが)から米原経由で東海道線に乗り換えて京都に向かったのかも知れない。
シュッー、シューと、蒸気が立ちこめていた。ゴットンという音で一度揺れ、しばらくしてまたゴットン。これで蒸気機関車と電気機関車双方の入れ替えがあったのだろう。あるいは、当時の電気機関車は交流だったから、モーターの入れ替えでもあったのだろうか(笑)。
薪水(しんすい)という言葉が幕末の外国条約に良く聞かれたが、蒸気機関車の背中に太いパイプが差し込まれて水を補給していたような記憶もある。もちろん石炭もそうだったのだろう。暗い広い操車場に機関車だけがライトをあびていた。そこが「マイバラー、マイバラー」だった。
起きているときには大人達に混じってホームで立ち食い蕎麦をたべたような疑似記憶もある、本当だったのかもしれない、おろし蕎麦は生まれたときから食べていたと思うくらいなのだから。
松本清張のミステリで、米原駅の乗り換えを目撃された女性の話があったような。今は北九州も明るいイメージだが、清張が流行りだした頃の大昔は、月が出た出た月がぁ~でた、みいけたんこうの上にでた。あんまり煙突が長いので、さぞやお月さん煙たかろ、……さのよいよい時代で、清張と言えば黒、暗かった。その清張が描く北陸だからイメージとしては真っ黒のままにMuの中で福井とか北陸本線が焼き付いてしまった。
そんな『米原』。実に、痛切に懐かしい名前なのだ。
人は名前だけで、生涯イメージを持つ。一泊もしなくても、生涯その町を村を心に焼き付けてしまう。ほろ苦い、父母が懐かしくて涙がでるほど、寂しい分岐点。それが『米原』だった。
千代は、もしかしたらその米原の女だったかもしれない。
地図でも、そしてNHKの附録でも、すぐそばが琵琶湖だった。美しい風景だった。
Muは琵琶湖がすぐ側だったとは、往時知らなかった。
今夜はこれで筆をおく。
追伸
なお、今夜はまだ二回目だが、佳かった。一昨年、昨年と悲劇に包まれた二年間だったので、今年の仲間某女優の明るさがことのほか身に染みわたった。一豊さんは一本気のいい男らしいが、いささか視野が狭いとか、浅慮とか、ぷっつんとか、そういう役回りのようで、……。それにしても、猿はちと小汚すぎる。どもならんのかい、名優なのに。瀬戸内海の化け猫映画が初見だったような。
軍師竹中某って、一昨年会津中将やった人によく似ておるな。楽しみ。
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コメント
記憶の三叉路 米原
Muさんの米原の話は少し、重い話ですね。
それも、夜の米原駅の記憶ですね。Muさんにとり、米原は三つの異国の分岐点だったんですね。
私も大昔は夜汽車に何時も乗っていました。機関車が入れ替わるときに、連結器が離れるときと、新しい機関車が接続するときの振動を覚えています。
当時は北陸本線は蒸気機関車だったんですね?私は、5~6才の頃に”つばめ”で東京へ行きましたが、蒸気機関車でしたね。
さて、功名が辻ですが、面白いです。千代の子役がいいですね。今日も、観てて涙がでちゃいましたね。
沖縄の仲間ちゃんは理知的な千代役は大丈夫なんやろか?明るすぎて心配だす。
投稿: jo | 2006年1月15日 (日) 22時37分
Joさん、2006年1月15日 午後 10時37分
「1956年(昭和31)11月19日、東海道本線の大津-米原間の電化工事が完了し、
これで東海道線(の本線)が全て電化されました。鉄道電化の日はこれを記念
して1964年に鉄道電化協会が制定したものです。」http://www.ffortune.net/calen/kinenbi/11/tetudo-denka.htm
上記引用により、Muが小学校へ入る前には米原が分岐点だったようですね。いやまて、小学校も低学年のころは同じだった。
すると、北陸本線との関係よりも、東海道本線内での列車入れ替えが記憶にあるようです。
子役千代、佳いですね。NHKの子役は昨年の牛若丸も上出来でした。
女・千代の行く末ですかぁ。明るすぎて、そうも言えますね。千代にはもう少し不健康さというか、一さんをとらえて放さない妖艶さがあってもよいね。理知的というよりも、カンの鋭さを、ひらたく言葉に直せる理知であって、根はもうちょっとどろりとしていてもよろしな。
ああ、贅沢なオジキ達!
投稿: Mu→Jo | 2006年1月15日 (日) 23時39分
(米原)
ずいぶんと前になりますが、(琵琶湖一周)の旅をしたことがあります。大津で一区間だけJRの切符を買って、琵琶湖一周を大回りする旅です。季節は、2月ぐらいだったでしょうか。
JRの普通列車にゴットン、ゴットン揺られて、一周するのに4~5時間かかったでしょうか。途中下車すれば、一区間の切符では、乗れないことになります。どんなに琵琶湖の美しい景色を見ても、車窓から眺めるしかありませんでした。
途中(米原)では、列車待ちで、20分間停車しました。汽車を降りて、(米原駅)構内を散策し、(牛肉の佃煮)をおみやげに買いました。
余呉湖のあたりまでくると、そこは一面の銀世界でした。移りゆく琵琶湖畔の旅は、今も心に残っています。
(女優 佐久間良子)
子役の千代さんぐらいの時に、同じく大河ドラマで、建礼門院徳子を演じる佐久間良子さんを見ました。(なんて美しい人なんだ~。)と、子供ながらも、感嘆しました。
今回、一豊さまの母君を演じられている佐久間さんを見て、(美しく歳を重ねるとは、こういうことをいうのか・・。)と、感じました。佐久間さんの母君もヨカッタです。
投稿: wd | 2006年1月16日 (月) 08時25分
そう言えば、「米原駅に蒸気機関車」って、確かになんか忘れていたものを、思い出しそうです。東京からの帰りには、米原で列車の方向が変り、気車の旅も終わりに近づいた感じがしました。東海道線の蒸気機関車は、昭和31年に終わっていたんですね。蒸気機関車が日本からなくなる頃に、あせって写真撮りに三重県まで行ったものです。なんとなく郷愁をそそる被写体でした。
「義経」は、観ててもなんか気が重かったですが、「功名が辻」は、気軽に一年間観れそうです。それに、大河ドラマはテレビ画面以外に、個人個人のドラマがあるんです。お蔭様でそんなことを発見しました。
投稿: hisaki | 2006年1月16日 (月) 08時50分
wdさん、2006年1月16日 午前 08時25分
よいコメントありがとうございました。
まだ、今夕も風邪が残っているようなので、これで失礼します。
投稿: Mu→wd | 2006年1月16日 (月) 17時12分
hisakiさん、2006年1月16日 午前 08時50分
よいコメントありがとうございました。
今年中には、あのあたりの写真を撮りにいきます。
まだ、未完全復調なので、これで失礼します。
投稿: Mu→hisaki | 2006年1月16日 (月) 17時15分
やっぱり水上勉を思い出します
若狭の女は悲しいんや、と水上勉が言ったとか聴きます。
けど悲しいんは、をなごはんばかりやなしにボーイたちも悲しかったんやろか。
そんなことをこの記事読んで思わされます。
骨相・・・太平洋側というより日本海側。彦さんと水上勉。似ている。
マイバラ~、マイバラ~は日本海と太平洋、西と東の交差点のような。
幼稚園のボーイが蒸気機関車に乗ってこの交差点に、夜中にたどり着いた時・・・。
大いなる不安に包まれたことでありましょう。
投稿: ふうてん | 2006年1月17日 (火) 03時01分
ふうてんさん、 2006年1月17日 午前 03時01分
三叉路でしょうね。
国鉄の東海道本線と北陸本線だけじゃなくて、最近は滅多に走りませんが、大昔は、ここから国道8号線が本格的に北陸道を走り始める、敦賀、福井、金沢へいく分岐点だったですね。
Muが夜汽車・記憶多いのは、直通の東海道本線・鈍行列車は夜中に走っていたような気がします。貧しいと言うのか、国鉄は鈍行でした。急行とか特急は高校生くらいまで乗った記憶がない(笑)。
小学校の頃に雑誌で見かける、特急ツバメの最後尾の観覧車に少年少女が笑顔で乗っている写真や挿絵をみて、憧れていました。
JOさんやヒサキさんが幼少時に、この特急ツバメに乗ったかも知れないと想像すると、エエトコノ坊ちゃんやったんやろな、と思いますで。
大体、空席もなかったから、連結部近くの洗面所の床にべったり座った経験が多いですね。しかるに、少年Mu、やおら「少年少女、塙保己一物語」なんかを取り出して、読みふけっておったような(お笑いやね)。
塙保己一(はなわほきいち)っていうひとは、たしか江戸時代の国学者、盲目の検校さんかな、群書類従、とかいう本を作ったひとみたいですぜ。
してみると、Muは幼少時、今からは想像もつかない、貧苦秀才少年やったんかもしれんなぁ。
(いまだと、数万円もするメモリーやハードディスクやCPUを、うどん・そばを食べるように、気楽に買っておりますねぇ)
投稿: Mu→ふうてん | 2006年1月17日 (火) 06時09分