« 2005年12月 | トップページ | 2006年2月 »

2006年1月31日 (火)

二十万アクセス、おお!

承前 十九万アクセス

 ようやく2006年、新年一月末に20万アクセスを得ました。19万が年末のクリスマスイブでしたから、5週間かけて一万アクセスあったわけです。最初が2004年3月でしたから、20万アクセスには23ヶ月かかったことになるのでしょうか。長いような、短いような、感慨。
 それにしても、30日月曜の夜中の、翌日数分前でした。

 記事数は635ですから、毎日精勤というわけでもなさそうです。風邪とか持病で、一週間単位の休載がよくありました。コメント数は、いただいたのが半数とすると、1500程度得たわけです。トラックバック数は、MuBlogの場合自己参照が多いのであてになりません。

 いやはや、とまたここで深いため息。よもや、MuBlogがここまで続くとは、実は、思っていなかった。そのうち、そっと、だんだん間延びして、自然消滅だろうな、と2004年ころは、外部向け息巻き鼻息とは別に、内心思っておりました。

 今夜は、そっと手を合わせて眠ることにいたします。友人知人、隠れ読者に学生さん、一見さん達、ありがとうございました。この暗き重きMuBlogで、20万アクセスあると、ちょっと手応えありますよぉ。

(1)本日記録
対象日: 2006年01月30日(月)
観察時間:23:55
合計数:398

  累計アクセス数: 200000
  1日あたりの平均: 292.40

MuBlog
記事数: 635 | コメント数: 3020 | トラックバック数: 425 | ライター数: 1

  現在利用中のプラン: プロ
  利用可能なディスク総容量: 10,000 メガバイト
  利用中のディスク容量: 179.074 メガバイト (1.79%)
  ココログの利用開始月: 2004年3月

(2)先週:検索ワードランキング(4件以上のみ)
  対象日: 2006年01月23日(月)~ 2006年01月29日(日)
  合計数:1779
順位 検索ワード 件数

1 竹中半兵衛 53→117
  3 山内一豊 41
  9 功名が辻 12
  33 美濃 6
  40 尾張 5

↑「NHK功名が辻」が、多くのアクセスを得ています。MuBlog記事は一般に暗くて重いものが多いのですが、別途NHK大河ドラマについては、それなりの関心をひくようです。Muの視点で毎週感想を記していますが、その視点が一般的なのかどうか、Muにはわからないものです。

2 じぶり 52→60
  18 じぶり美術館 8
↑このアクセスは、実はよく分からないのです。たしかにMSNの検索に「じぶり」をいれると先頭のグループにはいることが多いのですが、事情はわかりません。記事内容は、ごく普通の短い物です。うむ。

4 京都 32
5 茶母 23
6 地図 22
7 明治天皇を語る 17→25
  61 ドナルド 4
  69 キーン 4
↑こういう図書感想というか書評にアクセスがあると、なかなか嬉しいものです。というのは、書評は書くのに比較的エネルギーを要するからです。書いて良かったと、ほっとします。

8 佐野藤右衛門 13
10 平家物語 12→27
  22 義経 7
  58 木曾の最期 4
  59 義経記 4
↑一括して昨年の「NHK義経」だと判断しています。昨年のドラマにアクセスがあるのも、過去遡及タイプblogをめざしているMuには意図が達成されているシグナルとして、うむ、です。

11 解説 11
12 伏見 11
13 森正 11→15
  56 三輪そうめん 4
↑毎回そこそこ森正さんがでてきますね。

14 新撰組 11
15 書評 10
16 奈良 10
17 うどん 9
19 月の蔵人 8
20 ミスタースタンプスワインガーデン 7
21 写真 7
23 書誌ユーティリティー 6
24 web 6
25 PowerMacG5 6
26 感想 6
27 20世紀少年 6
28 肉うどんレシピ 6
29 感想文 6
30 石舞台 6
31 最後の晩餐 6→12
  32 ダヴィンチ 6
↑映画公開が数ヶ月後に迫っていますね。

34 弁慶うどん 5→10
  42 弁慶 5
↑普通なら弁慶は義経にいれるところですが、MuBlogでは「弁慶うどん」以外ありえません(笑)

35 出雲大社 5
36 森博嗣 5→10
  38 四季 5
↑強いですね。

37 ゲッペルス 5
39 monica 5
  41 santa 5
43 法隆寺 5
44 水滸伝 5→17
  49 致死軍 4
  54 童貫 4
  63 楊令 4
↑強いですね。

45 三角縁神獣鏡 5
46 玉虫厨子 5
47 キルヘボン 5
48 アルカディア 4
50 卑弥呼 4
51 捨身飼虎図 4
52 逃亡 4
53 大林組 4
55 mublog 4
57 家来 4
60 戦 4
62 黄桜かっぱカントリー 4
64 モンゴル 4
65 京都市 4
66 万玉楼 4
67 古墳 4
68 ラジコン 4

 ということで、先週の一位は、「NHK功名が辻」です。これはこれでよいと考えています。Muも仙人じゃないのだから、サッカーも野球もテニスも格闘技も、興味なくても、NHK大河ドラマはお気に入り。そういう事実を反映しているだけのようです。

(3)先週:検索フレーズランキング( 3件以上のみ)
  対象日: 2006年01月23日(月)~ 2006年01月29日(日)
  合計数:572
順位 検索ワード 件数
1 山内一豊  竹中半兵衛 41
2 ダヴィンチ  最後の晩餐  解説 5
3 ドナルド  キーン  明治天皇を語る  書評 4
4 奈良  万玉楼 4 
 → これは奈良市にあるMu,お気に入りの小料理屋です。
5 明治天皇を語る  書評 4
6 古墳  グラフ(円グラフ) 3
 → これはよく分かりません。
7 santa  monica 3
8 美濃  尾張  地図 3
9 ロトカの法則  図書館 3
 → これは図書館学の基本法則の一つです。
10 河原町阪急  世界地図 3
 → これはまず、MuBlog該当記事をよまないとわけがわからないことです。
11 飛鳥  あまかしのおか 3
12 京都  弁慶うどん 3
13 百合  代助 3
 → これは夏目漱石『それから』の「白い百合」という象徴でしょうね。
14 水滸伝  感想  楊令  童貫 3

 世間一般に流布している内容と、それこそMuBlogをみないと分からない物とが混ざっています。前者はイチゲンさんのアクセス、後者は隠れMuBlog読者のアクセスだと考えます。一体どこのどなたが、阪急世界地図をわざわざアクセスするでしょう(笑)。そんな変人は、おるかなぁ。

(4)先週:曜日別
  対象日: 2006年01月23日(月)~ 2006年01月29日(日)
  合計数:2106

曜日 アクセス数
MON 305
TUE 272
WED 331
THR 292
FRI 420
SAT 242
SUN 244

 「FRI 420」は特例です。おそらく、森博嗣さんのblogについて感想を記したからだと考えます。
 こうしてみると、実におだやかなアクセスです。爆発性もなく、かといってなかなか200を切らない、すれすれ具合。要するに、MuBlogは、一部の読者に定番化したのかもしれません。ただ、これが日に1000を越えるのもざらにあると聞くと、そういうものとはまた違った特性があるなぁ、と感慨にふけることでした。

(5)先週:記事ごとランキング(1%以上抽出)
  対象日: 2006年01月23日(月)~ 2006年01月29日(日)
  合計数:2106

順位 URL パーセント
1 http://asajihara.air-nifty.com/mu/ 14%
2 http://asajihara.air-nifty.com/ 7%
3 http://asajihara.air-nifty.com/mu/2004/05/post_6.html 4%
4 http://asajihara.air-nifty.com/mu/2006/01/nhk_78ab.html 4%
5 http://asajihara.air-nifty.com/mu/2004/11/jo.html 2%
6 http://asajihara.air-nifty.com/mu/2006/01/post_3d72.html 1%
7 http://asajihara.air-nifty.com/mu/2004/12/post_1.html 1%
8 http://asajihara.air-nifty.com/mu/cat4860700/ 1%

(6)分析
 20万アクセスは、過去のMuBlog統計から推定すると、普通のことだと考えています。大体4週間から5週間で1万アクセスがあったのですから、丁度いまごろ1月に、こうなるのは見えていました。しかし、考えてみると不思議なものです。検索エンジンを使っても、一つの言葉で数千、万の記事がヒットする中から、無事MuBlogにたどり着いたのですから、一種の奇蹟です。
 ともかく、いろいろな条件下で、記事を発行するかぎり、それなりに誰かが読んでくれる可能性があるわけです。MuBlogの場合には、以前も記しましたが、エッセイ風が少なくて、固有の単語がたくさん使われているからだと考えています。世間は広いから、Muが特殊だなぁと考えても、それに興味を持つ方は、何人もいるのでしょう。
 また、常連さんとか、隠れ読者もいるのでしょう。後者は主に、Muが教員だからと考えています。古い(笑)卒業生も時々眺めてくれていることでしょう。
 だから。まずまず、元気なうちは、MuBlogに書き続けていこうと思っています。

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2006年1月30日 (月)

ノート・パソコンのハードディスク保守(シャープのメビウス・ノート)

承前

 ブラックMu、今回の出番は「シャープのメビウス:SHarp Mebius PC-CB1-M5」の手術だった。2002年春の製品。
 親御さんは、葛野図書倶楽部2001・局長2005である。

 症状は明確に老衰と思われたが、そこが人の良さというか、むやみやたらに捨て去ることができない質のようで、マシン抱えて駆け込んできた。
 治療費交渉(当然ブラックMuだから、健康保険なんて論外)をしようとしたが、すでに以前のSONYオーナと同じく、本人が1万7千円はたいて、IO-DATA外付けハードディスク80GBを買ってバックアップ態勢に入ったことを考慮し、無料とした。本来なら、時間あたり100万円程度の請求が普通なのだが。
 なにしろ、メーカー修理とはことなり、特殊な呪術手術なので、割高になる。特殊ノウハウは高いものなのだ。
 無料と知って、親御さん、ほっとしたのはよかったが、さて蘇生するやいなやは、お楽しみ。

治療方針と手技
 患者は、起動しないことが多い。起動は時間がかかる。起動しても、カーソルを少し動かすとフリーズしてしまう。なんだか、わかりにくい症状である。しかし、前回とは異なり、やや生きている。半生きという状態である(笑)。Muは、これは経年変化によるもので、原因がひとつとは限らず、ややこしいと思った。
 しかし、起動不全をともなうと、たいていの場合は、その主因がハードディスクドライブにあることが多い。物理的に回転している部分だから、不調もでやすい。ディスクに傷もつくのだろう。

 とはいうもののとりあえず、開腹前に一般的な処方を試してみることにした。

(1)データバックアップ
 どんな場合にも、システムやアップリケーションソフトは入れ直せても、自製のファイルは消すと再現できない。よってこの自製ファイルを、外付けディスクもあることだから、一旦外に吸い出そうと思った。
 そこで、あわてずに「写真とか動画はあるの?」と聞くと、「自製写真や動画はない」。
 ならばフラッシュメモリーでバックアップを取る方がよかろうと、決断した。ワープロ程度なら、64MBとか、128MBでも十分保管できる。これが動画だと、20GB~80GBの外付けハードディスクは必須となる。
 
(2)USB1の低速規格
 フラッシュメモリーを差し込んだとたんに、このマシンはUSB2規格でないことに気がついた。これは困った。
 ところが。
 低速だけならまだしも、一分足らずでマシンが黙り込んでしまった。例のというか、持病のようだ。起動しても、フラッシュメモリーをさしこむなどと、なにやらややこしいことをすると、おかしくなる。現在のフラッシュメモリーは、大抵規格がUSB2だから、USB1対応となっていても、振る舞いがおかしい。で、USBから直接吸い出すことは、この段階ではあきらめた。
 もう、開腹手術の方が手早い。

(3)メビウスの内蔵ハードディスク取扱
Mebiusの裏

Mebiusの裏
 メビウスはこれまでと比べて、あっけないくらい簡単にハードディスクが取り外せるようになっていた。写真のネジを二本はずして、小さな裏蓋をあけるだけ。たった、それだけですんだ。これは出色の造作である。が、そういうノートマシンも多いのかも知れない。
 (と、実はこのメビウス、ハードディスクについては、16GB限界というか、ややこしい宿痾を抱え込んでいたのだが、そのことは今回すべて見て見ぬふりをしたので、記さない)

蓋を外して見た、内蔵20GBのハードディスク

内蔵20GBのハードディスク

摘出したハードディスクドライブ

外した20GBハードディスクドライブ

(4)USB2アダプタを付けてバックアップ

直結したUSB2
 先回は、IO-DATAの外付けディスクを分解して、SONYのディスクを入れ直して、と手間暇かけたが、今回は純粋に、別のマシンでメビウスのファイルを取り出すだけだから、インターフェース部分のみIO-DATA外付けHDから外して、付けなおした。このすっぴん状態で、別のデスクトップマシンに必要なファイルを外部保管した。
 Muなど、デスクトップマシンの3.5インチディスクだと、電源やらなにやら、ぶら下げたままでこの操作を行っている。場合によっては、その状態で数日すごすこともある(笑)。

(5)WinXPシステムによる自浄作業
 さて、上記(4)のあと、内蔵ディスクをふたたびメビウスに取り付けて、電源をいれたのだが、今度は最初からうんともすんとも言わなくなった。これには頭を抱え込んだ。まったく内部に傷をつけなかったのに、この状態。
 親御さんにきくと、これまで、そういう場合はしばらく安静にしておくと、再び起きあがることが多かった。と耳にした。だから、ブラックMuは、放置して帰った。
 で、今日電源を入れてみると立ち上がった。うん、なかなかにおもろい患者や。
 この間のことは、末尾に、ある見解をそえておく。
 それで、別のWinXPを再投入しようとしたが、まずこのマシンは、さまざまな購入事情、つまり大学で一括購入した結果、本人はOSをCDでは持っていないことが判明した。おもしろい購入の仕方だが、事情は読めた。
 それで、……どうした。
 システムは生きている。だが、まだふらふらしている。
 シャンとした一瞬を見計らって、Muは二つの定番処置をした。
(5)-1
 XPが持っているファイルチェックシステムをかけた。途中倒れて、再起動して、さらに行うと「致命的なファイルエラーをただ今やっと回復しました。この情報はぜひぜひマイクロソフト社に送って下さい」と、普段とは異なる重いメッセージがでた。30分。
 あいにくオフラインだったので、送るのは止めた。
 が、成功したようだ。再起動するスピードが上がった。全てが普通になった。
(5)-2
 ついでに。ハードディスク内のファイル断片を再構成することにした。これもXPが持っている機能だ。分析をかけると、もう、なんちゅうか、ぼろぼろだった(笑)。これもなおした、30分。
 さらに起動時間、その他が速くなった。

(6)何とか蘇生した

Sharp Mebius PC-CB1-M5
 というわけで、現在5時間連続運転しながら、ときどき触ってみる。まだ生きておる。蘇生したと判断した。
 しかし問題は多数残っている。マザーボードが古いこと、その他で、USB規格が古く、ハードディスクも認識領域がせまく、トラブルがこれからも出るだろう。
 4年経過したのだから、ドッグイヤーズで7をかけて、28年から30年前のシステムである。
 素人さんだからこそ、現代のマシンに乗り換えた方がよかろうと、メルしておいた。

 呪術療法ブラックMuであっても、我が娘が動かなくなると途方にくれることが過去、多々あった。
 組み立て分解自由自在、そのブラックMuでもストレスを考えて、適度に(やり過ぎという声もする)マシンを交換し、補助マシンは何台もある。いや、どれが補助かわからない、並列システムで保安している。
 そうでない人ならば、マシンは現代、財布に匹敵する貴重なものだから、日頃整備して、場合によっては新しい物にした方がよかろう。

追伸
 (5)で記したが、場合によっては放置することで、生き返ることがある。この原因は、パソコンの場合は熱が多いが、それだけじゃなくて、システムとは、そういうわけのわからなさがあるという事実も知る必要がある。だから呪術療法が効く、気合いや、呪(しゅ)一つで直ることさえある(この呪力がMuにあることは、多くの者が知っているはずだ)。
 こういうことについて、いつも読んでいるMLAがとてもわかりやすい事例を示していた。
 興味のある方はご一読ください。
 「なんとなく直るもの」/森博嗣

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2006年1月29日 (日)

NHK功名が辻(04)稲葉山城

承前

 稲葉山城(現・岐阜城)(岐阜県岐阜市)地図

 今夜は稲葉山城陥落、信長入城と、一豊と千代の婚礼だった。
 最初に、婚礼のことだが、現代から比較すると当時の下級武士の結婚式は質素だと思った。出席者も、見渡すかぎり、一豊の母、弟、そして家来二名。知り合いに、秀吉夫婦。千代側は、オジ夫婦(不破家)だけだった。お互いに杯をかわすだけの約束事だったのかもしれない。

 ようやく二人が結ばれたので、来週からはそろそろ千代が才女として光っていく時間が増えてくるのだろう。妻をめとらば才長けて、みめ麗しきがよいそうだが(笑)、まあ、女優さんもなかなかよかった。秀吉夫婦はすでに貫禄がありすぎたが。

 その少し前に、稲葉山城が落ちて、オジ夫婦は不破家の焼け跡から黄金を掘り出して、千代に渡す場面があったが、このあたりが第一の伏線かもしれない。今後千代がどういう風にして、一豊を男に成長させていくのか、そのポイントになる。後日、ここぞというところで、一豊は、ある買い物をする。それで一躍有名人になる。その資金は~という塩梅である。

 さて、肝心の稲葉山城。「女子供をなで切りにせよ」と言い放つ信長の狂気は上手に描かれていた。このあたりの異常性は、それが何故に他の武将よりも激しかったのかという観点から『邪馬台国はどこですか?』の一編にぴたりと収録されていた。「謀反の動機はなんですか?」これを読めば目の据わった舘さん演じる信長の内心が透けて見えるだろう。
 労咳ぎみの竹中半兵衛の進言で、秀吉、山内、蜂須賀一党は間道を通って金華山頂上にのぼりつめ、城は落ちた。
 この城は、今は岐阜城となっている。1567年・永禄十年に信長は尾張から二万の一族郎党眷属配下を引き連れて入城したらしい。それまで信長が尾張のどこにいたのかは、戦国通じゃないのですぐにはMuも分からないが、少しでも都に近づきたかったのだろうか。その後関ヶ原の戦いで完全落城した。

 だから現代、Muが眺めた金華山にある城は、昭和31年のものらしい。

 2001年だったと思う。金華山の北麓を流れる長良川のそばの会議場でイベントがあって、Muも翌日なにか話した記憶がある。その時、金華山に登らず岐阜城も訪れなかったのが惜しかった。代わりに明治村まで足を伸ばしたような記憶もあるが、それは翌年だったのか、……。記憶が定まらない。泊まったホテルが、柳ヶ瀬町とかいうところだった(笑)。そこからタクシーに乗って会場まで行く途中、長良川の側の道から見上げた空にあったのが、稲葉山城だった。そう、城は空にあった。その記憶だけはしっかりある。

 というわけで今夜、千代はこの城に籠城し、一豊は攻めての武将だった。来週からは、千代が最強の軍師、参謀となっていく始まりとなろうか。

参考サイト
  美濃・岐阜城

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2006年1月28日 (土)

夜の木幡RSーKohataRS

承前

 今夕、RSのことを記事にして、夜になったので葛野を出ようとしたら、RSをもう少し詳しく写真にとどめておきたくなった。それで、夜間撮影にはいったのだが、Muはどうも夜間の方が車と相性がよいらしく、気持が昂ぶってきた。車といえば、夜間の高速道路の前方を長いライトの光束で突き刺して延々と走り抜けるのがすきだった。車のライトは不思議な情感をもたせ、闇を切り裂き深淵をのぞき込むような、そしてそこに吸い込まれていくような気持になる。Muは、どうにも、本当に自動車が好きだったようだ、といまさらに。
 いま、非力な小型車RSを写真で眺めながら、頼もしく、そして絶妙の相棒と思えた。
 また、カメラを積んで西に東に、北に南に走り抜けていこう。
 
RSのエンジン:VVT-i

RSのエンジン:VVT-i
 ちかごろのエンジンはのきなみDOHCのようだ。それだけ成熟したのだろうか。昔は特別な車しか、DOHC(ドック:ダブル・オーバーヘッド・カムシャフト)エンジンを搭載していなかった。時代は知らない間に変わったようだ。しかしそれに倍して、このエンジンルームのコンパクトさと、その中にクーラーもラジエターもあって、その上衝撃吸収用の空間まであると知ったとき、驚いた。こういう工業水準で大衆車が造られている現代、おそらく物を造るに執念のある人達がまだまだいるのだろう。

夜のRS横顔

夜のRS横顔
 横顔が美人でもなんでもない。アトム靴を横から眺めた風情なのだが、ただし夜にこのライトを見るとうっとりする。きらきらしている。それにタイヤだが、写真記事にはあれこれ文句を記したが、やはりこれも最初から16インチのアルミホール付きというのは、昔風の人間にはうれしいことだった。つまり、若い頃、アルミホールや幅広扁平ラジアルタイヤは垂涎の的だったのだ。別購入せざるをえず、それが今の価格だとすぐに20万円くらいかかってしまう。だから、いま、うっとりと「時代が進んだなぁ」と、愛車木幡RSの横顔に魅入っていたのだ。

メーター関係

メーター関係
 このRSはメーター回りがスッピンに近い。水温計もないし(その代わりはある)、電流電圧もわからないし、気温湿度もない。タコメータとスピードメータだけである。その素っ気なさが現代風なら、それも粋かもしれないが。レーシングマシンにはスピードメータさえない。
 光の加減で、夢幻にみえて、気に入っている。
 ただ、SF世代としては(笑)、フロントウィドウ全体がスクリーンで、人影や動体が視界にはいると拡大縮小が自由になって、敵か味方か、はたまた老人か子供かが瞬時にわかり、コース変更を自動的にするようなぁ~、もう、自動車はロボットかも。そうなると、自動車の全状況を一目で分かるようなメーター設備もあったほうが、よかろうな。
「前方1500メートル、猫影あり、推定生後10ヶ月、高速道路脱出力劣弱、コース変更、速度減速、よろしなMuさん?」
「よーし」

RSのお顔

RSのお顔
 いや、気恥ずかしい、美人でもないしね、エキゾチックでもないし、なんというか、丸いね。だけど、ライト回りが本当に気に入っている。このメインランプ(ディスチャージ:キセノンガスの放電で白光させる)がまた、冷色でよろし。非常に明るいので、光軸が常に範囲内にあるように、自動調整しているらしいが、まだ数日走っただけでは、よくわからない。
 RSのバッジが、ふむふむだが、こんなの誰も見てくれない(笑)。
 このバッジをみていて思った。
 一キロ先からみても分かる個性のある車と違って、まずRS好きでないと、他社の似たような自動車や、軽自動車と、けっして見分けがつかない没個性。しかし、バッチだけは自分の頬につけて、自己主張している。こういうところが、可愛らしい。
 Muも自分のデコに、なにかシールでも貼って歩きたくなった。「葛野新選組」とかなぁ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

冬の木幡RSーKohataRS

KohataRS

KohataRS
 相当に自動車が好きで、10代末からバイクと寝起きし、20代からは、30代の数年以外はずっと車と心中するくらいの気持ちで生きてきた。そのわりには、MuBlogに車記事がない。
 で、今日は一区切り着いたので、ちょっとバルコニーからRSを写してみた。お気に入りの小型車である。
 その蘊蓄は、後にして、なぜ車記事がないのか。それは、いま顧みて、実に単純だった。これほど好きなのに選んできた車種はずっと大衆車ばかりだった。それが気恥ずかしいのだろう。だが、加齢今に至ると、もう、世の中恥ずかしいもへたくれもない。
 好きなんだなぁ、それにつきる。

 気恥ずかしくもなる。
 若い友人達は30代でアウディとか、ミニクーパーとか、なんというか美味しそうな輸入車をゆうゆうと乗り回し、ファンの◎先生なんかは、青いポルシェ、これこっそり触ってみましたけどね(笑)。それに、あの有名人、■爺さんなんか、20代からフェアレディ2000ですもの。そりゃ、
 「僕、自動車すきなんです」
 「ふーん、なに使ってるの?」
 「はぁ、トヨタの最下層大衆車です。け、軽じゃないんですけど」
 「ほぉ、そう」
 ……
 「どうでした?」
 「そうですな、なんとなく、剛性がないですね、……」
 「やはり、大衆車の最下層ですから」

 こういう仮想セリフが、何人もの男達との間で、無意識に繰り返されてきた。
 別の気持ちとしては、キリキリのランボルギーニカウンタックとかぁ、往年のアストンマーチンとかぁ、ベンツのSLRとかぁ、……ジャガーマーク2とか。そういう浮気心がないとは申さぬが、ふむ、落ち着く先はいつも、大衆車だった。
 だから、Muにもメンツというか、プライドがあって、愛車を人様の目に触れさすのが、どうしても出来なかった、という次第。
 しかし、今夕葛野で仕事を終えてほっとして、なんか、目が覚めた。
 自分の愛した車なんだから、大衆車でもその他大勢でも、好きは好き。もしかしたら、このRSが好きな御仁もおるかもしれない。と言うわけで、blog化した。

 さて蘊蓄。
 というほどでもないが、ともかく走る、それも効率よくめちゃくちゃ走る。少なくとも時速100までなら、バイクとかわらないくらい、飛び跳ねて走る。それは爽快だ。他の車に乗る気もしない。で、そこで問題。効率のことだが、高速道路だと、一リットルで13キロ程度まで行く。市街地でクーラを付けても10キロほどは走る。この燃費はありがたい。おそらくベンツとかぁ、アウディだとぉ、戦車並みにガソリンをばらまきながら走っているのと違うじゃろうか。地球環境のことなんか考えるほど聖人じゃない、限られた資金でどこまで、がんがんにはしれるのか、そういう個人的な問題である。

 Muは昔から、機関銃を想像すると、マシン本体よりも、弾倉がどれくらい残っているかと考え、戦車、零戦を考えると燃料はドラムカンでどれほどのこっている、大和なら弾薬庫にちゃんと弾はあるのか、台所なら塩は、砂糖はと、どうにも本道よりも、兵站を深く考える性質のようで、車だと、まずガス欠なんか想像するだけで青くなる。
 だから、RSの効率の良さは、一番きにいるところである。

 で、一般論として馬力は110馬力で、これは非力に属する。パワーウェイトレシオも若干昨年までのRSに比較して落ちた。ようよう9を切ったくらいかな(車重㎏/馬力)。ややマイルドになった。がたぴし音がなくなった。昨夜も試しに高速道路を時速100キロで10分ほど走ったが、静かだった。しかし窓を開けてアクセルを踏み込むと、ふふふ、軽とみまごう小型車がね、グゥイーンと唸って加速しはりまする。よろしい。

 というわけで、今度は、このRSのターボ仕様がでれば、また数年後記事を書こうと思っている。どうなんでしょう、ターボだと150馬力程度なんでしょうね、するとパワーウェイトレシオは7を切って6程度で、相当なじゃじゃ馬ぶりなんでしょうなぁ。楽しみ。
 実は、若い頃、車の試乗記で記事投稿して、結構ヒットしておりました(笑) その時も、パブリカSRとか、シビックRSとか、同じような大衆車でした。

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2006年1月27日 (金)

【少しずつ進める癖/森博嗣】への共鳴感

 かねがね森博嗣先生のblog「MLA: MORI LOG ACADEMY」を日々読んでいる。Muは小説作品を中心に長年のファンなのだが、「少しづつ進める癖」というblog記事にいたく感銘した。
 なぜ感銘したのかは、まず関係諸氏に森先生の一部引用を紹介して、その上で記しておこう。

「実は、若いときはこうではなかった。研究も工作も文章も、何時間もぶっ続けでやったものである。そちらの方が達成感はあるけれど、やはり疲れるし、客観的に見て、良い仕事にならない。そういう経験を重ねるうちに、違うシステムでやってみようと意識的に導入したものである。今はこれが完全に生活のリズムに合っている。

 ただ、大切なのは、時間を開けないこと。毎日やった方が良い。日にちを開けると、うまくいかないことが多い。だから、土日だからといって、少々体調が悪いからといって、休むことはしない。逆に、調子が良くて、もっと書ける、という場合も、それは明日にとっておくことが望ましい。その方が良い発想が生まれることがある。

少しずつ進める癖(2006年01月22日(日曜日)

 若い人達は往々にしてレポートや学業全般に関して、時間への畏怖、時間が貴重であることの畏れが少ない。だから締切ぎりぎりまで対象に目を背け、別の逃げ口としてアルバイトとか付き合いに終始する。そのことでの時間の浪費を解消するために睡眠時間を削り、徹夜をつづけなんとか形は整える。

 と、ここで老翁の若者批判を記しても益無し。Muは徹夜は絶対に、過去経験もないが、ぼんやり度では若者とかわりはない。「しなくては、やっておかないと、……ああ、どうしよう」と日々思い悩み、なにもせず、委員会の資料も当日朝に読んだり、まとめもそんなものである。演習なんかもほとんど助勤にまかせっきりで、Mu自身はぼんやりと、「ああ、あれとこれと、それと、あっ、こんなん宿題もあったけ」と、悩むだけで手が付けられない。ぼんやりと、「人生辛いなぁ」と考えたまま、一日が終わる。
 人も我もにたようなもの。

 で、教訓を得た。というのはつまり、森先生はMuの観るところ、相当な異能の人である。どのくらい、常軌を逸した(笑)異能ぶりかは、今日は書かないが、まず、そうざらにいる方ではない。その方にして、かくのごとく日々の小さな積み重ねを重視されていることに、Muはいたく感動したわけである。
 Muも、楽しいことも、辛いことも、毎日すこしづつ積み重ねていこうぞ。
 なんとか、このぼんやり瞑想を減らして、手や足を動かすようにしなくては、というのが森先生の記事を読んでの深い共鳴感であった。

参考
  モリログ・アカデミィ:MORI LOG ACADEMY/森博嗣[MuBlog
 

| | コメント (6) | トラックバック (1)

2006年1月25日 (水)

邪馬台国はどこですか?/鯨統一郎

邪馬台国はどこですか?/鯨統一郎 著

邪馬台国はどこですか?/鯨統一郎
  <ヤマタイコク ワ ドコ デスカ?>.
  (BA4223697X)
  東京 : 東京創元社, 1998.5
  316p ; 15cm. -- (創元推理文庫)
  注記: 記述は第9版(刷)(1998.12)による ; 参考書籍: p300-303
  ISBN: 4488422012
  別タイトル: 邪馬台国はどこですか ; Where is Yamatai?
  著者標目: 鯨、統一郎<クジラ、トウイチロウ>
  分類: NDC9 : 913.6 ; NDLC : KH297

所蔵図書館 12[by Webcat 20060125]

帯情報

カウンター席だけの地下一階の店に客が三人。三谷敦彦教授と助手の早乙女静香、そして在野の研究家らしき宮田六郎。初顔合わせとなったその日、「ブッダは悟りなんか開いてない」という宮田の爆弾発言を契機に歴史談義が始まった……。回を追うごとに話は熱を帯び、バーテンダーの松永も教科書を読んで予備知識を蓄えつつ、彼らの論戦を心待ちにする。ブッダの悟り、邪馬台国の比定地、聖徳太子の正体、光秀謀叛の動機、明治維新の黒幕、イエスの復活--を俎上に載せ、歴史の常識にコペルニクス的転回を迫る、大胆不敵かつ奇想天外なデビュー作品集。[表題紙の前頁より]

このところバーテンダーの松永は忙しい。常連の三人がいきなり歴史検証バトルを始めてしまうので油断は禁物。話についていくため予習に励む一報、機を捉えて煽ることも、そつなく酒肴を供して商売も忘れず、苦しまぎれのフォローを試み……。またもや宮田六郎の独擅場か、幕引きのカシスシャーベット

目次情報
 悟りを開いたのはいつですか?
 邪馬台国はどこですか?
 聖徳太子はだれですか?
 謀反の動機はなんですか?
 維新が起きたのはなぜですか?
 奇蹟はどのようになされたのですか?
   解説 橋本直樹

Mu感想
 内容は多彩で、歴史上の人物の事績をこれまでと違った視点でながめた、ミステリーです。書名の「邪馬台国はどこですか?」に惹かれて数年前に購入したのですが、その時にすでに18刷でしたから、息の長い隠れたベストセラーではないでしょうか。
 仏陀はなぜ悟りを得ようとしたのか、邪馬台国は九州でも近畿でもないのかもしれない、聖徳太子とはどういう人だったのでしょうか、織田信長はなぜ明智光秀に謀反されたのか、明治維新の本当の黒幕はだれだったのか。そしてキリスト様の奇蹟は本当のことだったのでしょうか、……。各小編をこの間、なんども読み直しては「うふうふ」とほくそ笑んでまいりました。

 一々を、そのさわりを書けば、内容の充実度がすぐにわかるわけですが、これはミステリーですから、安易にそういうことを記して、いわゆる「ネタばれ」するのは悪行となりましょう。だから、感想を書くMuも、難しいところです。

 以前識者から「読んだ人相手に書かれるなら、読んだ人でなければ分からないパスワードを設定してはどうでしょう」と教授されたが、その方法は優れものなので、いつかどこかで使うつもりだが、今回の場合、読んでいない人に見知らぬ鯨さんをどう紹介すればよいのかという、いわば書評芸の基本で悩んでいるわけです。

 昔から書評を読んだり書いたり切り抜いて整理するのが好きでした、……。おっと、そういう脇道ににげようとしているMuですね。

 で、鯨さん。変わったお名前なのですね。例によって、テキスト志向のMuですから、本人が男か女か、爺さんか若者か、プロなのかセミプロなのか、そんなことは一切抜きにして、読んだわけです。変わったお名前ですが、内容はすっきりして、濁りがなくて、清涼感がありますね。こういう方法論でミステリーを書かれた鯨さんを、遠望し、すごいことだと感心しております。と、またしても、逃げていますね、Muの旦那!

 では、一箇所だけ掟破り。

「今まで邪馬台国研究家たちを悩まし続けてきた問題点は、整理すると十三の項目に要約される。荒巻義雄という作家が厖大な資料を検討した結果、そういう結論を出したんだ。『新説邪馬台国の謎殺人事件』[講談社文庫]の巻末に載っている。そのコピーをたまたま持ってるよ」

 この雰囲気がたまりませんね。
 さらにもう一つ。標題は邪馬台国ですが、他の小編もものすごくおもしろいです。Muのお奨めは、織田信長◎○■▲説ですね。これはぜひ、ご一読下さい。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2006年1月24日 (火)

ノート・パソコンのハードディスク交換、取り扱い処方

ノート・パソコン:SONY Vaio PCG-FX:のハードディスク処方

 昨日夕方、葛野図書倶楽部2001屯所に、総合技師長がマシン一式を運び込んで嘆いていた。要するに起動しなくなったわけである。先年末にMuが知人のノート・マシンを修理して、貴重データを回復した話を聞き及んでの、駆け込み医療相談だった(笑)
 さっそくに近所のJ&Pに走らせて、2.5インチ外付けケース(2000円程度)を購入するように申し伝えた。いそいそと、局長とともに走ったようだ。
 今朝、予定通り時計修理用のドライバーセットを持って屯所を覗くと、置いてあったので、さっそく修理に入った。技師長は、資金投入にメリハリがあって、日頃は昼食抜きでも、ことこういうことには奮発するらしく、ケースだけじゃなくて80GBの中身の入った製品を購入しておった。後で聞くと、1万7千円もしたらしい。Muならば、1万円でやってあげるのに~、と思ったが、そこはそれブランドの力、IO-DATAとMuブランドじゃ、勝負が決まっておる。

 あとは、葛野研のPowerMacG5と、木幡研の古い黒マシンとのあいだの、ビデオデータ移送用に小型2.5インチの日立ハードディスクとケースを買った。60GBで1万円、割高になる。ケースは2千円、まあそんなものだろう。[PowerMacG5

 さてここで、ノートタイプとATタイプ(デスクトップ)と、PowerMac、三者三様のハードディスク回りの改修論を一席ぶつつもりだったが、それは止めることにした。それぞれに応じて、記せばよかろう。
 で、結論を申すと、今回はデータの回復は出来なかった。一応3種類のwinマシンと、PowerMacで読み取りを計ったが、どうにも無理で、故障マシンのハードディスクは全領域が空白になり、もちろんWinXPの影も残っていなかった。ハードディスクデータの完全回復については、いろいろ細かな処方があるようだが、Muもそこまで熱心に研究したわけでもないので、その旨技師長に伝えた。
 (もしかしたら、SONY 仕様は内部ハードディスクを外して外付けで使うと、ロックがかかるか、ないしは内部消去するのかもしれないが、そういうケッタイナ仕様は、無視せざるをえない)
 結局、諦めて現状復帰し、初めから付いているCDで完全な初期化をやった。

 だから、この記事は失敗談でもあるが、それよりも、どんな風にしてあの細かなノートパソコンからハードディスクを取り出したかの、写真を残したので、わすれぬうちにまとめておく。

 もちろん、交換処方としては、このシリーズマシン対応として完全に近い写真である。Muは他にも、初期のアップルノート、NEC、そして松下、あれこれ経験してきた。どれもこれも、ハードディスクの取り外しは、仕様がことなっていて、ややこしいものである。だからこそ、PowerMacG5や、AT自作マシンにすればよいのに~と、こぼすのだが、世の中の人は、PowerMacG5にS-ATAハードディスク300GBを数分で増設出来るとわかっても、えてして「それなに?」と、なってしまう。技術者Muの哀感であるぞ。

最初のネジ:重要(1)

SONY PCG-FX11の左サイド
 このネジ一本が値うちものというか、キー・ネジであろうか。正面からみて左サイドの上方にある。これを外すだけで、キーボードをまくりあげ、中身をいじくることが容易にできる。昔の某ノートマシンは、キーボードをはがすのに、特殊な能力が必要だったが、vaioは進化したようだ。なお、その某ノートマシンは、増設メモリを付けるのに、キーボードを左右にギシゴシ引っ張り上げて、まくり上げる仕様だった。

上蓋右ずらし

SONY PCG-FX11の上蓋右ずらし
 さっきのキー・ネジを一本外すだけで、液晶の下、キーボードの上辺部分がガトゴト動くようになる。左右にゆすると、結局右側にずらすことがすぐわかる。ずらすと、次の写真のようにはね上げることができる。

上蓋はね上げ

SONY PCG-FX11の上蓋はね上げ
 ずらすだけでは駄目で、これをそっと上にはね上げる。結線があるのでここで引き離そうとすると、それでvaioは重病人になる。しかし、難しいところであって、他のマシンだとこの結線がコネクターになっていて、それをそっと離して、取り去るものもある。vaioは、上にはね上げるだけで次の工程に入ることができる。

キーボードパネルのネジ:重要(2)

SONY PCG-FX11のキーパネルのネジ
 さて次が第二のキー・ネジである。要するにキー(ボード)パネルを固定しているのが、画面中央の突起上にあるネジ一本。これを外して、パネル全体を液晶方向にずらすと、外れる。外れたなら、先程の上蓋とおなじくはね上げておく。もちろんここにも結線があるので、不用意に引きはがそうとすると、大修理になるぞ。

SONY PCG-FX11のハードディスク

SONY PCG-FX11のハードディスク
 上記一連の工程により、マシンは中身が観られるようになる。右はCD/DVDだろう。左はファンが付いているので(埃が一杯たまっておったので、サービスに取っておいた)、おそらくCPU基盤だろう。触らぬ神に祟り無し。そうそう、大昔のアップルノートは、このCPUを交換したわけだ。まあ、それはよい。中心のハードディスクは、▼マークを付けた合計4カ所のネジで本体に固定されているので、これを外す。そして、金属フレームごと、ハードディスクを取り出すわけである。

ハードディスク・接続部分

SONY PCG-FX11のハードディスク・接続部分
 さて真打ちはこの三枚連写。まず上端写真は、→でマークした合計六カ所のネジをはずす。右側は、vaio仕様の特殊なアダプターである。それにしても、先年のマシンはハードディスクを銀紙袋にいれて、ぽいとおさめてあった。ネジもなし。えらい違いである。6本もネジを使って金属フレームに固定してあるのは、どうなんだろう、長年の智慧で熱放散のためかもしれない。ハードディスクの熱を外側金属に伝えて放散する仕組みかな? 単に固定するなら銀紙袋ポイの方が衝撃緩衝があって良いかも知れないぞ。
 真ん中の写真は、スッピンになったハードディスクである。20GBあった。右側の特殊アダプターは、取り外すのに小さなラジオペンチで引き抜いた。手でもできるだろうが、Muは華奢な男(笑)なので、道具を使わないと力がでない。乱暴な女達なら、歯でくわえて引き抜くかも知れない。いや、あり得る。
 下の写真は、IO-DATA製の一万七千円の外付け(2.5インチ)ハードディスクを引き抜いてケースの上に置いたものである。右端のIO-DATAロゴは、下になったケースのものである。
 この後は写真に残さなかったが、右側のUSB2用基盤をラジオペンチで引き抜き、そのアダプターにvaioから取り出したハードディスクを接続しなおし、ケースにいれて、USBコードでいろいろなマシンに接続し、vaioの20GBハードディスクの生死を確認したわけである。
 先年はこの方法で、データを回収できたが、今回は空白のままだったので、回収に失敗した。冒頭で記したが、これは他に方法があるかもしれないが~、まあよかろう。秘伝のMac読みが失敗したのだから、諦めるのが時間の効率よし。(意外に、winマシンのデータは、マックにいれると読み直すことがある、これは秘伝なり)

現状復帰

SONY PCG-FX11現状復帰
 というわけで、現状復帰させて、インスツールのやり直しで無事起動するようになった。
 データ回収に失敗したのだから、それなら最初から初期化する方が早いと思う人もおろうが、そこに経験、ノウハウの蓄積という差が生じてくる。場合によっては、上記方法で回収できることもある。というのは、現行マシンは、起動だけが失敗する事例もおおく、データファイルそのものは無傷で保管されていることがあるからである。
 ともあれ、今日の外科手術は、開腹してはみたが駄目だったので、再度カツを入れ直したという、極めて呪術的処方だったと、思っておる。
 ああ、おもしろかった(笑)

参考サイト
 ハードディスクの交換方法:SONY VAIO Note FX Series 

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2006年1月23日 (月)

比叡山の雪景色

比叡山・地図

比叡山全景

比叡山
 京都もうっすら粉雪が舞ったので、風邪の長養生のしあげに、RSに一鞭くれた。葛野から30分ほど走ってみると、比叡山がいつもより冴えわたって見えた。ロープウェイの経路まで、雪のコントラストではっきりした。空気が澄んでいたのだろう。何度も観ている比叡山が、今日は存在感があった。
 比叡山、東山、そして北山、愛宕山が借景になる土地柄だから、日頃は気にもならないのだが、雪がふったり、空が晴れたりすると、つい観てしまう。北と東西が山に囲まれているのだから、自然に目に入る。

比叡山頂上付近

比叡山頂上付近
 このRSのハンドルを握るのは今日が最後の予定だった。だから、走った。よい車だ、とても気に入っている。しかしときどき切りの良いところで気持を変えるのもよい。新鮮になる。まれな変化でキリリとする。
 デジカメで、光学3倍にして撮った写真を100%で観てみると、肉眼では知らなかった頂上付近が良く写っていた。大昔、このロープウェイで頂上に行ったこともある。しかしこんな風に観た記憶はない。
 RSは最後に、よい贈り物をしてくれた。車にカメラに比叡山、Muの日常が戻りそうだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年1月22日 (日)

NHK功名が辻(03)竹中半兵衛のこと

承前

 先回から竹中半兵衛のことが気になっていたのだが、今夜は稲葉山城を16人で奪い取った智将の面目躍如。昔から気になる人だった。そしてその男優の筒井某さんも気に入っている。一昨年の新選組で演じた会津中将は実に心に残った。ネットをみていたら、彼を大根などと酷評した記事もあったが、それは早とちりというものだ。あの訥々としたはにかむような、それでいて智と情とがバランス良く溶けた笑顔は、なかなかに普通の役者ではこなせない。何回言うてもいいのだが、NHKのキャスティング選別人工知能DBは、優れている。想像すると、あの男優は二枚目であるよりも、遠い将来は笠チシュウさんのような役者になるのかもしれない。

 さて竹中半兵衛。歴史的にも著名な実在の人だ。おそらく、美濃・岐阜県では名士なのだと想像する。人名辞典その他を閲してみると、こんな風に記してあった。
 竹中重治(しげはる)で、通称が半兵衛らしい。没年が1579(天正7年)、秀吉が播磨を攻めている三木城近くで病死したらしい。享年35~36歳というから、若かった。今夜の墨俣城攻防戦のおりには19歳とかドラマで申しておったから、若くして才能が開花していた人なのだろう。
 「美濃の人、重元の子、人となり沈毅英邁にして深遠謀慮、最も兵法に長ず」(日本歴史人名辞典・日置昌一)
 Muの感覚では、三国志の孔明のような人だったのだろうか。史的には豊臣秀吉に尽くしたことになっている。

 この半兵衛の子孫のことで興味深い記事をネットで見つけた。
 「血筋の系譜:竹中半兵衛
 つまり、子孫の重固は明治維新、五稜郭まで転戦し、榎本武揚らとともに最後まで抵抗したらしい。……、そういえば山内一豊の子孫も幕末大活躍した、土佐藩主山内容堂であった。

 さて、竹中半兵衛が主役でもないのになぜこだわるかというと、秀吉にはもう一人智将・参謀がいた。その人と名前がよくダブってしまうので、この際きっちり記録しようと思ったわけである。
 黒田官兵衛。
 この人のことは、NHKの「その時歴史が動いた」で2003年に放映されたようだ。その記事を読むだけでよくわかる。この人もまた秀吉の天下取りを助けた人である。

 というわけで今夜はわきばかり記してしまったが、一豊さんはまだまだ左右もわからない若武者で、秀吉の下働きをしている最中。しかし、千代との縁はじわじわと深まっていく。しかたなかろう、千代は山内一豊の妻として歴史に残ったのだから。ひっつかないと物語が頓挫する。
 ふと思ったのだが、千代はことあるごとに男達の義や戦について「わかりません」とふくれる。それは竹中半兵衛の血を見るのが嫌そうな雰囲気と合っている。後年の千代が計る謀略とは、つまり竹中半兵衛のお仕込みだったのかもしれないと、トンデモ話。
 幼なじみの甲賀忍がでてくるが、司馬原作ではこの役柄が意外に重い。千代達の運命を変えていく、狂言回し、……本当に大河ドラマって、おもしろいですねぇ。

 今夜の附録は、郡上八幡だった。千代の故郷(の一つ)らしい? Muは未踏地だが、知り合いが何人もこの地を訪れている。電車で日帰りも可能らしいので、いっちょカメラ担いで行ってみたい。TVでは水が綺麗な城下町という雰囲気だった。

| | コメント (4) | トラックバック (1)

2006年1月21日 (土)

さよなら助勤2005

 昨夜、葛野図書倶楽部2001、助勤2005達と伏見港の「鳥せい本店」で別れの宴を持った。倶楽部としては「新誠会」という総会が3月上旬に近くの「黄桜」であり、2005年次の人達とはそれで最終決着・手切れがすむのだが、「助勤会」というのは余人を交えぬ4年生達だけなので、思いもひとしおだった。

 16:45に京阪電車中書島駅改札で待ち合わせし、そこで3名と合流した。副長、書記局上級顧問(書記局系)、レスタト班総長(三番隊系)だった。中書島の界隈をとぼとぼと龍馬通りを通って、鳥せい本店まで歩いた。17時には入れたが、この時間帯だと待ち時間なしで、良い席に座れた。
 地どり鍋や焼き鳥を食べている間に、書記局上級顧問が中書島駅まで遅れた二名を迎えにでた。総勢がそろったのは18時前だったか。局長、総合技師長(二番隊系)も、駆けつけ三杯の風情よろしく用意した鍋や串を酒で流し込んでいた。

 Muが用意した話はあっけなく済み、充分に酒と鶏が用意され宴は進んだ。
 19:30頃には鳥せいをでて、近鉄桃山御陵前ちかくの「ミスド」に入った。定番だった。Muはレスタトの案内で「オールドファッション」というドーナツを一個と、それから好みでアイスミルクティーをとった。こもごも話をして、Muだけ先にでた。助勤達はまだミスドで熱く話していた。

 木幡帰還が20:30頃だったろうか。熱い茶をのんで、そのまま速攻睡眠に入った。
 疲れたわけでもないのだが、時の流転とか、別離の寂しさを味わうと、防御機能がはたらき「速攻睡眠」に入るようだ。この一年間、Muは5名の助勤たちと共に、大勢の学生の前に立ち、日々授業をしてきたわけである。それが総て終わった、二度はない。

 起床は、さっき午前二時、今ふろ上がりで筆をとった次第也。

1.助勤たちの卒業
 滋賀県湖東人が二名、深・兵庫県日本海人が一名、広島県人が一名、京都市内桂人が一名。
 就職は、早くの内定を晩秋にすてた者が二名もいて変則的だったが、不動産一名、旅行業一名、一般事務一名、家業(推測)一名、未定一名だった。それほど悪くはない将来だが、残念ながら「司書」はゼロだった。余の授業を優秀にパスし、図書倶楽部で司書の役目を果たし、授業で助勤を一年間勤め上げた若者が、だれも司書にならないという、この矛盾。現実とは、そういうものである。

2.人事合議
 来年度2006年倶楽部幹部人事は、昨年初秋より余の重い懸案事項だった。唯一最大の権限である「最高顧問・叙任権」を行使することに、これほど悩んだ時期はなかった。人事を誤ると、2001年から積み重ねてきた葛野図書倶楽部2001があえなく2006年6月頃に破綻するという噂も、まことしやかに出た(笑)。
 現三年生はおなじく5名在籍しているが、いずれも「気性が荒い」。中では多少おっとり見える二名も実は「どしぶい」「頑迷頑固」であり、ぼよよんとした表層に騙されるほど余も若くはない。
 相当に手練(てだ)れの現4年生達がいつも嘆くほどに、この春四月人事は難しいことであった。4年生たちは助勤としてこの一年間、余以上に現3年生のプロジェクト遂行(共同演習)を見守ってきたから、誰をトップ局長に据え、副長にするかの困難さがひしひしと分かっていたようである。
 國では、省庁慣例として、同期から一名が次期トップ(事務次官)に内定すると、その残りの同期生は全員早期退職する。そのシステムは優れた面もあるが、国家公務員は大体30年間在職するから可能な方法である。ある時期の同期が全員辞職しても、次の年次が後にひかえている。
 しかしわが葛野図書倶楽部2001年は同期生が各学年4名から5名、在職期間は最長でも3年間である。そして最上級生には「助勤」という重責が残っている。たやすく隠居されては、困る。

 決定した。怒号はなかった。(昨年は、怒号に包まれ、ちゃぶ台返しがあったかどうか~(笑))
 余も、同意した。
 二月告知、三月辞令交付。
 終わった。

3.助勤達の異才
 助勤たちが、隠し芸を少しだけ見せてくれた。倶楽部下級生達の「物まね」である。
 これには、Mu、抱腹絶倒した。
 そろいもそろって、専任がきまっているというか、局長は某A子、副長は某B子、某長は某子とか、ひとりひとり決まっていて、それがすべて素晴らしいというか、まるで対象某子が眼前で話しているような、迫真の演技であった。
 お腹の皮が捩れて涙がとまらないほどに上手な物まねだった。
 秘訣をきいたところ、こっそりと対象者を何時間も観察し、手の動き、話し方、語彙、考え方、すべてをみているとのことだった。「あな、恐ろし」というのがMuの感想だった。

 最初はそれをこの三月の「新誠会」総会で披露してはどうかと、Muも言ったが、だんだん迫真の演技を観ている間に、「やっぱり、本人の前では止しましょう」と尻込みしてしまった。それくらいに、怖いという物まねだった。
 それも5名全員が上手だった。これは個人の能力とは言い切れない。もしかしたら「女」の属性かも知れない。
 いやはや、「女」が潜在的に持つ異能異才を、まだ余もよく知らなかった、という思いにひたった。

4.決算
 記録することを躊躇したことがある。
 昨夜の宴の経費である。お金のことを記すのは、「はしたない」という旧時代の遺風にまだ余も親しんでいる。
 しかし、ボランティアで一年間助勤をこなしてくれた優秀な若者たちに、葛野のロートル教授がどの程度の出費をしたかを記録するのは、正しい平成史のためにも、そして平凡なオジキ史のためにもあえて記しておく。Muはかねがね厳正な史官であると自称しているふしもある。
 6名約二時間、酒と焼き鳥他。
 総計24110円なり。一人あたり4千円になろうか。
 三千円程度の図書換算で8冊程度。
 メモリー換算で約2GB。
 ハードディスクでいうと200GB・S-ATAタイプが二台分。
 要するに、ハードディスク二台分を余は助勤達にプレゼントしたことになる。
 TVにも出ない、賢人会議にも招かれない、売れる出版図書もない、ごくごくふつうのぼやけた大学教授の金銭感覚からすると、S-ATAタイプ二台分は結構な代物である。が、助勤たちの「精神」に比較すると、毛髪一本の重さもない。
 こういうものなのだろう。
 そして、Muがおもしろくうれしかったのは、注文はすべて助勤達にまかせたのだが、意外にも「鳥ゆっけ」とか「鳥のたたき」とかMu好みの通が食する鳥料理をがんがん食べていたことである。こんなところで、やれ「鳥の刺身は~食べられない」とか、レバーは苦手とか、鳥肌みると寒気がするなどと言われた日には、それこそちゃぶ台返しをしてしまう。
 やはり。今季助勤2005は、優秀であった、ぞ。
 飲む酒、食べる内容で、よくわかる。
 (Muは侍ロック(日本酒+ライム)一杯と、伏水二杯。焼き鳥3本、鳥ゆっけ一切れ)

参考MuBlog
  葛野追想:葛野図書倶楽部2001創成紀←始まりはこうだった
  初夏の助勤会・2005/07/14←昨夜の顔ぶれ、夏と変わりなく
  パフェ饗宴←話題の2006年の人達

  葛野図書倶楽部2001公式HP

  鳥せい本店地図

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2006年1月19日 (木)

飛鳥寺と蘇我馬子のこと「消えた聖徳太子」

 昨夜NHKの歴史番組で、飛鳥寺と蘇我馬子について、詳細な解説があった。

 「その時歴史が動いた。古代の文明開化・1号寺院飛鳥寺建立の戦略」

 飛鳥に建ったCGによる飛鳥寺の伽藍は興味深かった。Muはしかしそれに見とれながらも、CGの背景に描かれた山々や石垣のようなものに心を奪われていたのだが。
 記録したので何度も観ようと考えたが、一度目の印象は大きいものだ。気になったことがどうしても払拭できないので、ここにメモをしておく。

 聖徳太子さまのことである。
 聖徳太子についてほとんど言及がなされなかった。蘇我馬子を文明開化の第一人者、大化改新で血塗られた蘇我家の滅亡を、馬子の治績で再評価する意図があったのかも知れないが、それにしては馬子と同時代の聖徳太子について、語るところが少なかった。
 聖徳太子は完全に架空の人物と言い切る識者がいるくらいだから、NHKがそういう説に同調し、太子を歴史から抹消する作業に入っている、とまで深読みはしなかったのだが。太子の歴史、治績とおもっていたことの多くが馬子の治績に載せ替えられていた。

 一説に。
 蘇我馬子、蝦夷、入鹿の悪逆振りを描くために日本書紀、その他が記され、悪逆さを際だたせるために聖徳太子を無理矢理捏造し、この子孫山背一族を滅ぼした「悪」蘇我家、その「悪」を滅した中大兄皇子、中臣鎌足の正義。という正史のからくり。だから、聖徳太子は存在しなかった。と、いう話を思い出した。
 昨夜のNHK歴史番組は、その説に荷担したものだったのだろうか。

 よくわからない。が、なにか奥歯にものがはさまったような~。印象が残ってしまった。

 Muの感想。
 聖徳太子さまがいなかった、という説は信じていない。信仰の問題である。Muは仏教徒ではないが、聖徳太子さまはおられたと信仰している。だから、昨夜の飛鳥寺の歴史背景は、非常にわかりやすく納得できたが、そのさらに奥にあるかもしれない、日本書紀・虚構・偽書・小説説には、なにやらうさんくささを味わった。
 ところが、要所で日本書紀を引用しているところはおもしろかった。馬子により仏教が興るという意味のところだったか。隋書「日出処天子」、も曰くありげな引用だった(笑)。

後のMuBlog記事のために整理しておく
  物部守屋の墓・地図(大阪府八尾市太子堂
  物部守屋の墓(史跡より)

  石上神宮・地図(奈良県天理市布留
  石上神宮(天理市)

 飛鳥寺・地図(奈良県高市郡明日香村飛鳥
  飛鳥寺(飛鳥資料館)

追伸
 また後日、飛鳥寺を写した動画を掲載予定。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2006年1月17日 (火)

ぼんやりした火曜日の午前

 昨日だったか、久しぶりに葛野にでかけて一仕事してきた。午前は沢山の期末課題を受け取って、午後は随員達ととなりの大学へ遠征し、刷り物を渡したり、作品を返却したり、成績を伝えたりした。
 随員二名は、葛野よりすぐりの高級幹部を選んだ(笑)。三人で薄味の叉焼麺を食べて、近所でキャラメルなんとかも飲んだ。二人は生クリームてんこもりの、為体の知れない大型カップを飽きずなめ尽くしておった。

 帰学後は会議に参加した、が。
 なんとなくおかしくなってきた。体調というよりも、気力がぼやけてきた。行き帰り、寒空に重い荷物を持って徒歩したのが、効いてきたようだった。と言うわけで会議終了後、たたんでそそくさと木幡に帰った。まだ、食欲が復調していなく、ごろんとねてしまった、昨夜。

 今朝起きた。ひとしごとすませた。
 独逸製とかいう、4711ポーチュガル・アフターシェーブローション、とか同ヘアリキッド。匂いをかいでいたら、気持がよくなってきた。

 しかし。年末年始、風邪病臥している数日前まで、たくさん読書したのだが、どうにも全体を把握できない。読んだのか読んでいないのか、ページを閉じてもよく分からないわけだ。体調というよりも、これは心調というか脳調の問題のようだ。そういえばビデオも沢山観たが、どれ一つとして最後まで観たのかどうか思い出せない。

 実は、いまから出かけて、たまりにたまった宿題を葛野でするつもりなのだが。ほとんどイメージがわかない。おそらく長年の経験(笑)によって、それなりにそつなく答えをまとめたり、文書をつくったり、締切仕事をこなすだろうが、内心は「心も脳もまったく動いていないなぁ」である。読んだか観たかわからない図書やビデオのように、仕事が眼前を流れ行く脳。

 この十日間ほどで、体重が正確に3kg減った。「わあ、痩せた」と倶楽部屯所で喜んでいたら、「やつれた、でしょうね」と、大人びた声声が左右から耳に入った。大体3キロ単位で体重が動く。寝ているだけで痩せるなんて便利な話だ。味覚がゼロになると、人間は食事もじゃまくさくなる。空腹感もなくなり、眠ってばかりいた。すると、あっけなく3キロ痩せる、やつれる。これは、覚えておこう。

 というわけで、さて出発。葛野に着いたら、通勤でまたしても、気力がぼやけてしまうかも知れない。しかし、そのうすらぼんやりした独特の精神状態も、この10日間よく味わった。良いものだ。人生、クリアなだけがよいのではなくて、時にはぼよよ~んとしているのも、捨てがたい。覚醒か半睡か、どちらもよいものだ。
 これからは、講義中、ぼやけた薄く膜のかかったよな目をしている者達をみても、あんまり叱らないようにしよう(笑)。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年1月15日 (日)

NHK功名が辻(02)米原と琵琶湖

承前

JR米原駅

 今夜は千代が尾張から、一豊の制止を振り切って美濃の不破家へ行く所だった。不破家は千代の母の妹が嫁いだ先。斉藤家の家臣である。美濃と申せば斎藤道三、義龍(よしたつ)、龍興(たつおき)だが、このころは義龍→龍興時代のようだ。
 ところがこのあたりのことは、司馬先生、ちゃんと『国盗り物語』も記されているので、Muの出る幕はない。
 Muはそこで今夜考えた。
 米原だった。

 NHKでは本編終了後の附録で、米原が千代の生まれたところ(の一つ)と説明していた。一豊の母の墓もあると写していた。そんなことを何も知らずに、Muは物心付くころ幼稚園前後から、暗い光に照らされた「夜の国鉄米原駅」が記憶に重層している。なにかしら甘酸っぱいような、異世界のような、生まれる前の遠い記憶のような、不思議な気持になる。
 千代とは関係も無いのだが、今しるしておいて、米原の占める位置を事前に自ら検証しておく。

 調べれば分かる事だろうが、その頃、いまから半世紀以前、国鉄東海道線はもしかしたら米原を境に、あるいはそれは記憶間違いで、北陸本線が福井、武生、今庄、敦賀、そして南下してここ米原で、蒸気機関車から電気機関車に切り替わる分岐点だったのかも知れない。理屈の上では、福井や今庄にかつて本籍のあったMuは、北陸本線を南下して京都に行く旅程が一番多かったはずなのだが、一方事情で小学校のころには毎夏真衣冬東海道線を静岡まで行って、そこないし富士から身延線に乗り換えて久那土という駅まで往復していた記憶もある。
 いずれにしても夜行列車がほとんどだった。鈍行で終夜かけて東海道線を走った記憶が多い。或いは北陸本線を、南条郡今庄町(今は南越前町今庄らしいが)から米原経由で東海道線に乗り換えて京都に向かったのかも知れない。

 シュッー、シューと、蒸気が立ちこめていた。ゴットンという音で一度揺れ、しばらくしてまたゴットン。これで蒸気機関車と電気機関車双方の入れ替えがあったのだろう。あるいは、当時の電気機関車は交流だったから、モーターの入れ替えでもあったのだろうか(笑)。

 薪水(しんすい)という言葉が幕末の外国条約に良く聞かれたが、蒸気機関車の背中に太いパイプが差し込まれて水を補給していたような記憶もある。もちろん石炭もそうだったのだろう。暗い広い操車場に機関車だけがライトをあびていた。そこが「マイバラー、マイバラー」だった。
 起きているときには大人達に混じってホームで立ち食い蕎麦をたべたような疑似記憶もある、本当だったのかもしれない、おろし蕎麦は生まれたときから食べていたと思うくらいなのだから。

 松本清張のミステリで、米原駅の乗り換えを目撃された女性の話があったような。今は北九州も明るいイメージだが、清張が流行りだした頃の大昔は、月が出た出た月がぁ~でた、みいけたんこうの上にでた。あんまり煙突が長いので、さぞやお月さん煙たかろ、……さのよいよい時代で、清張と言えば黒、暗かった。その清張が描く北陸だからイメージとしては真っ黒のままにMuの中で福井とか北陸本線が焼き付いてしまった。

 そんな『米原』。実に、痛切に懐かしい名前なのだ。
 人は名前だけで、生涯イメージを持つ。一泊もしなくても、生涯その町を村を心に焼き付けてしまう。ほろ苦い、父母が懐かしくて涙がでるほど、寂しい分岐点。それが『米原』だった。

 千代は、もしかしたらその米原の女だったかもしれない。
 地図でも、そしてNHKの附録でも、すぐそばが琵琶湖だった。美しい風景だった。
 Muは琵琶湖がすぐ側だったとは、往時知らなかった。

 今夜はこれで筆をおく。

追伸
 なお、今夜はまだ二回目だが、佳かった。一昨年、昨年と悲劇に包まれた二年間だったので、今年の仲間某女優の明るさがことのほか身に染みわたった。一豊さんは一本気のいい男らしいが、いささか視野が狭いとか、浅慮とか、ぷっつんとか、そういう役回りのようで、……。それにしても、猿はちと小汚すぎる。どもならんのかい、名優なのに。瀬戸内海の化け猫映画が初見だったような。
 軍師竹中某って、一昨年会津中将やった人によく似ておるな。楽しみ。

| | コメント (8) | トラックバック (2)

木幡の午前鳥

 日曜の朝、というても十時ころだったか、木幡池に鳥が沢山おった。
 写してみたが、どれも名前が分からない。
 考え込むと頭痛がする性分なので、止めて「木幡鳥」にした。
 ただし、今後大きいのは木幡大鳥、中くらいは木幡中鳥、ただの小さいのは木幡鳥とする。
 さらに、雀さんや鳥せい鳥(丸焼きのちっこいやつ)は、今後木幡極小鳥にしておく。

木幡鳥(3+3)

木幡鳥(3+3)

木幡鳥(5)

木幡鳥(5)

木幡中鳥(1)+木幡鳥(6)

木幡中鳥(1)+木幡鳥(6)

 木幡池は鳥がたくさんくる池のようだ。これまでもいろいろ撮った覚えがある。
 ついでだから、これまでの鳥記事をまとめて探しておいた。
 しかし木幡鳥は記事が一つしかなかった。もっと沢山写しているのだが、いつも同じ鳥だから掲載していなかったようだ。
 それにしても、鳥たちを見ていて、こういう素人写真を載せられるのも私的blogの良さだなぁ、と一人笑いしてしまった。一体誰が見る~「鳥たちが見ていた」(おっ、ミステリアスなタイトル)

  宇治平等院(2004/04/14)
  木幡の鳥たち(2004/12/17
  私の京都1/2(2005/08/27)
  紅鮎と秋の竹生島(2005/11/19)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年1月 9日 (月)

伊勢・内宮(ビデオ)

伊勢神宮・内宮(皇大神宮)地図

〈皇大神宮(内宮)について〉
 調べてみたのだが、もう二年越しでMuBlogを記している割には「内宮」への言及が全くない。一カ所だけコメント欄に残したが、無いと断言できる。お伊勢さんに興味がないわけでもないし、嫌っているわけでもない。
 いま思い出したが、ひとつ「元伊勢」として檜原神社について初期に記録した。
 あった。

 さて今後なにかと外宮・内宮について考えを記す機会もあると思うので、最初に簡単なビデオを記事にしておく。
 伊勢には20前後から行きだしたが、今回のは津市で講演をした際に、足を伸ばしてお参りしたビデオである。
 高速道路も、近鉄特急も完備しているので、関西からは比較的訪ねやすい中距離圏である。

内宮・禊
内宮禊
ビデオ:内宮の参道と祓「五十鈴川御手洗場(みたらし)」(1.2MB wmv形式)

内宮・遷宮地・本殿
内宮遷宮地本殿
ビデオ:内宮の遷宮地と本殿(千木・鰹木)(1.6MB wmv形式)
 内宮の千木は天辺が水平である。外宮は垂直になる。

参考
 伊勢の神宮

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年1月 8日 (日)

NHK功名が辻(01)近江美濃尾張

 久しぶりの日曜日の夜、大河ドラマは一時間あった。
 山内一豊(やまうち・かずとよ)と千代の、はじまりだった。

 今年は、めでたしめでたしと年末を過ごせるようなので、それでなんとなく例年になく明るくなった。
 見どころは、一豊の人生の節目節目で、参謀千代がどのように指導するのか助言するのか、それに一豊がどう反応するのか、信長、秀吉、家康の時代真っ直中なのだから、後智慧はなんとでも申せるが、一豊の身になってみれば、いつも思案のしどころだったろう。

 信長が多少年輩(笑)に見えたところがご愛敬だが、下知する声のトーンがこれまでにない良さがあった。今川義元役の江守さんのメークが、気に入った。しかし足が短いから乗馬が無理で輿にのるとは、本当だったのかどうか。現代の小柄なジョッキーの足が長いとも思えぬが。

 旧浅井(あざい)領だった湖北の長浜はよくドライブしたところだ。そこから美濃(岐阜県)、尾張(愛知県)がしばらく舞台の中心になりそうだ。

 ……

補注
 さて。Muはどうにも風邪がぶり返したようで終日悪寒と咳で難渋した。身体の節々も痛いのう。ドラマ内容が明るくて本当によかった。が、千代は両親をなくした。戦乱とはそういう日々だったのだろう。

| | コメント (11) | トラックバック (1)

2006年1月 7日 (土)

昨日の図書館新年会と今日の倶楽部仕事

 初仕事は、4日から始めているが、半公式の行事が昨夜と、今日の終日あった。二つとも気持ちよく終えたので大切に記録しておく。

1.図書館新年会(昨夜)
 昨夜は、京都の麩屋町「左近太郎」で図書館の新年会があった。こていな料理屋さんで、部屋は入ったところ、出窓のある所だった。無論、昔の町屋を改装したもので、現代の京都らしさが隅々まで行き渡っていた。
 いつもなら写真を撮って掲載したいところだが、昨夜は風邪で半ばぼんやりしていたので、ひたすら食事と会話の渦に飲み込まれたままだった。
 席の両隣は、なんとなく幹事さん達の計らいで、教え子が座ってくれた。これはこれで、アットホームな感じだった。が、~なんと3人目、もう一人の教え子は、日を間違えて来られなかったようだ(笑)。
 幹事さんの心遣いは、カラフルな名札(席指定の)とか、おみやげとか、盛りだくさんだった。
 料理は、創作料理だが、身体に合っていた。伊勢エビもつき豪華だった。Muは、梅酒を飲んだ。
 なかなかに、楽しい一夜だった。
 <麩屋町 左近太郎

2.Truth 14号完成(今日)(葛野図書倶楽部2001機関誌)

Truth 14号完成
 機関誌14号が完成した。Muはそばで見ていただけだが、毎年この季の号は難渋する。それは中心となる「副長」たち4年生が卒業論文提出数日前であることと、しかも一月の最初の授業に間に合わせて作らねばならないからである。後期の共同演習のグループ成績上位の結果や、それにたいするMuや助勤(演習支援学生)達の講評など、盛りだくさんの記事を短期間に作成し、製本までこぎつけなければならない。三年生を含めた関係者達は、今日も早朝の土曜日というのに、多数集まって、印刷やら製本、チェックに励んでいた。
 ともかく無事完成したので、みなでケーキを食べ、Muも寄せてもらった(笑)。

追伸:いま倶楽部blogをみてみたら、副長2005の熱いメッセージが入っていた。こういう小さな仕事の積み重ねで人生が豊かになっていく、祝す也。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2006年1月 6日 (金)

木幡の朝風呂と異国のこと

 今朝早くに朝湯につかった。湯気がたちこめて温泉気分だった、というよりも温泉と思いこんでいる。湯温は42度cにしているが、これだと延々と湯船にいられる。極楽。

 極楽の中で娑婆のことが頭をかすめた。気がつくともう金曜日、週末で、明日七日土曜日から授業が始まる。そわそわする。授業関係の大きな宿題は4日と5日の両日でほぼすませたが、委員会や図書館の宿題は(笑)、明日と明後日が「勝負」になる。ならば本日はどうなのだと自問自答する。あれと、これと。あれかこれかという悩みがなくなって数十年。常に、あれもこれもなさねばならぬ、キルケゴールからは遠い世界。

 三日のことだったか、家人たちがケーキを囲んで笑っていた。柿が載った、チョコ風味の変わったものだった。Muも一つ食したが、なかなかに。しかしそのケーキ屋さんが行列の出来る三条木屋町キルヘボン、そこでは店員さん達がフランス語を使っているらしい。で、なぜ笑ったかというと、Muが京都で学生時代から通った中華のミンミンでは、数十年も昔から中国語を使っていたからだ。正しい北京官話かどうかはしらないが、耳には「ちゃおず、りゃんがぁ」とか「ぱうろぉ、いーがー」とか聞こえていた。してみると、キルヘボンさんもそのノリかもしれない。

 だが、フランスがこようが、中国がこようが、英国、韓国、米国がこようが、鷹揚にというか熱烈に受け入れてしまう本邦は、実に柔軟というか、節操がないというか、強靱な國だとおもった、今朝。

 湯船の湯気の中に、回覧文書や会議風景が浮かんだ。なんとなくむつかしいそうな、マネジメント・米語がもりだくさんあって、Muはいつも途方にくれていた。Muは特殊な日本語しか、完全には判読できないようだ。学生日本語は、いつも優秀な翻訳官が数名おるから、不自由はない(笑)

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年1月 4日 (水)

呪われし者の女王/アン・ライス

承前[MuBlog:ヴァンパイア・レスタト

呪われし者の女王

呪われし者の女王/アン・ライス
 二冊、ずっしりとした読み応えだった。
 今回は、以前の主役だったヴァンパイア・レスタトの役割が説明しがたいところがあった。先回の結末は、最高のロックスターとして復活したレスタトに向かって、世界中のヴァンパイアが憎悪と憧憬を持って米国サンフランシスコへ集まったわけだが。
 憎悪は嫉妬と怒りだった。輝くような不死を持ったレスタトへの嫉妬。そして怒りは、呪われし者達=ヴァンパイアの秘密をすべてさらけ出し、ステージに身をさらし歌い踊り狂う、はた迷惑な危険性。ヴァンパイアは人類に狩られ滅亡してしまうという恐怖。
 憧憬は、それらの逆転置した感情の嵐だった。
 『ヴァンパイア・レスタト』は、レスタトが数万の観客を魅了している真っ直中に、ヴァンパイア全体の「母」、女王アカシャが突然襲いかかり、レスタト達が這々の体で危機を脱出したところで終わった、そんな風に記憶していたのだが。

 扶桑社の文庫は上下二冊で、1995年のものだった。原作は、c1988版で随分昔の本とも言える。しかし、ヴァンパイア・クロニクルズ・シリーズの第一作「夜明けのヴァンパイア」は1976年原作だから、本当にこのシリーズは息が長い。 

 三作目にあたる本書は、序章と、第一部~五部に目次が設定してあり、「主人公がだれなのか悩む」とMuが言ったのは、レスタトは序章と、第三部で大きく取り上げられはするが、読者Muの目は、女王アカシャ、そして後半にその姿が大きくなってくる魔女「マハレ」、この二人に吸い寄せられてしまう。

 アカシャはほぼ六千年ぶりに目覚めたとたん、人類の半分を滅亡させる無謀な計画を実行しだし、その助手をレスタトに強要する。レスタトが、不承不承女王の意にそったのは、アカシャの絶大な力の前に、反抗出来なかったからである。アカシャは、念じるだけで、ヴァンパイアも、人も、枯れ木のように爆発的に燃え上がらせてしまう力をもつ。一種のテレポーテーション能力によって、空間を瞬時に移動し、空を飛ぶ。
 なぜ、モンスターのようなアカシャが目覚めたのか。原因は、前作によると、レスタトのたわいない好奇心からだった。

 何故、母と言われるものが子孫のヴァンパイアを紙くずのように燃やし、なぜ女王は人類の半分を殲滅しようとするのか。何故、何故と謎が深まる。

 さて見どころ読みどころはというと。
 クロニクルズというだけあって、遠く六千年の昔、エジプトとメソポタミア文明の原初の時代から、現代にいたるヴァンパイアの歴史が解かれている。これは前作で「マリウス」が体験したよりも、さらにさかのぼり、女王アカシャの誕生の秘密、ヴァンパイア誕生の秘密までたどり着く。アカシャはメソポタミア文明、ウル王朝の姫君だったことまでが分かる。
 女王アカシャがなんらかの理由で六千年眠っている間、それに拮抗する魔女マハレの一族は、遺伝子学「イブの末裔」で有名な女系遺伝子(Mu註:物語にはなかったが、これはミトコンドリアDNAであろう)の系譜を何百世代も保ち、世界を覆っている。
 このバランス、この拮抗を描くところが、なんとも深遠な人類史のアンダーグラウンド、暗黒世界を見るようで興がつのった。

 もう一つは、レスタトやレスタトの母ガブリエルのヴァンパイアスタイルにしても、何人もの「歳を経たヴァンパイア」を描き分けるにしても、家具調度品、屋敷を描くにしても、ライスの筆致は何重にも重なり合い、知らず知らずのうちにその堅固な世界に溶け込んでしまう。その雰囲気が全編ゴシックの女王と作者ライスが呼ばれるように、名状しがたい、抜け出せない世界である。これは、ライスならではのものと断言する。前作では深ヨーロッパ薄明の時代を描くに力があったが、今作は、現代そして古代エジプトを「ゴシック」で描ききった。これは不思議なハーモニーを奏でていた。

 そう言うわけで、読み終わってしばらくは、ぼんやりしてしまった平成18年の正月だった(笑)。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2006年1月 3日 (火)

新選組副長 土方歳三の最期

承前[MuBlog:NHK新選組、最終回

新選組!! 土方歳三最期の一日
 土方歳三が、「新撰組副長 土方歳三」と名乗って討ち死にしたことで、私は満足した。陸軍奉行並でもなく、変名でもなく、新撰組副長であったことに、人の世の意気地を見た。
 既に消え去った新撰組の旗を函館五稜郭まで持ちこたえ、すでに無くなった役職「副長」として土方は死んだ。これが伝承なのか、事実なのかよりも、作者三谷幸喜がそう描き、またかつて司馬遼太郎「燃えよ剣」でもそうであった、その事実が重い。
 享年35歳、一年前に斬首された近藤勇と同じ歳だった。

 死は死であり絶対であり、如何なる修飾も無意味な世界、幽明異にする事象である。しかし死ぬ者がどのように感じ死に、それを生者がどのように受け止めるかは、また別のことである。

 一昨年「新選組!!」は、局長近藤勇の死で終わった。しかし、旗は残り、副長も残った。それが会津に続き、五稜郭まで北上した。土方はしたたかなリアリストであり、負ける戦はなかった。死に場所を探していたと安易には思えない。勝機はつねにあり、軍艦も兵もあった。北海道に独立国をつくるという榎本武揚(えのもと・たけあき)の夢に殉じたとも思わない。

「榎本さん、新しい国では、近藤局長は罪人ではないのだな」と、土方。
「そう、建国の礎(いしずえ)を築いた英雄だ」と、榎本総裁。

 一人の人生、多摩の百姓から、京都での騒乱の五年、そして函館で建国の実現を前にした今、土方は「青春の新選組副長」として生を終えた。盛名を誇ってのことではない、悪名の武威のためでもない、土方歳三の人生にとっては、盟友近藤勇とかけぬけた京都時代こそが、「生」であり「現実」だったのだろう。そして函館新政権での建国は、榎本の夢だけではなく、土方歳三の夢であった、と今夜のドラマは描いていた。
 そこに新しい土方像ができたと感じた。
 他人の夢に殉じたのではなく、自分の夢を守るため、不運にも討ち死にした。

 土方は、榎本を前にして「京都時代は土方が概略を練り、細部を山南が詰めた」と話した。その作戦は織田信長の桶狭間(おけはざま)と言った。つまり横に伸びた大軍の弱いところを突き、間道を抜けて隔てられた敵軍の大将を取るという作戦だった。ドラマ全体に「死に戦(いくさ)」からは遠く離れたリアリズムがあった。「勝てる」と思わせるものがあった。そして、突然の死が訪れた。現実世界だと、思った。
 
 私はかねがね土方が榎本とどのような関係にあったか、気になっていたが、今夜の描き方は納得できた。
 別に安部公房になる『榎本武揚』が小説と戯曲と二つあり、これはまたおもしろい作品であったが。

 ただ、史実によれば、榎本はこの五稜郭戦1869年33歳だった。降伏後1872年まで入牢し、その後北海道開拓の調査に力をつくし、文部大臣、農商務大臣、外務大臣などの要職を歴任した。1874年38歳の時には特命全権公使として、ロシアと樺太千島交換条約を締結した。

 大河ドラマが終了後、一年後に新たな番外編を組むのは珍しいことだと思う。新選組はそれだけ、視聴者の関心をまねき、また新選組は近藤局長と土方副長という、両輪で一つだったことの証かもしれない。
 旧勢力の武闘派、とだけ思われてきた新選組は、土方の洋装、合理性、新たな夢を目にし、それを「ロマンチ(笑)」と見るようになるかも知れない。三谷幸喜の作品によって、歴史観が少しかわったかもしれない、と思った正月三日の夜だった。

追伸:明治維新政府内部での確執は、ますます興味深くなった。その後の北海道をどうあつかったか、そして薩長閥をどう切り分けて、近代国家に成長したのか。あらためて興味がわいた。
再伸:大鳥圭介(おおとりけいすけ)の描き方も役者もよかった。後日学習院院長も歴任している。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年1月 2日 (月)

鮒寿司とスチルトンチーズ

 お正月の二日目。元日も今日も明日も朝食は決まっている。
 昆布出汁だけで湯がいた丸餅三個。これを椀にとり、汁もいれ、上に黒砂糖少し。これであっさり、餅の味が引き立つ。
 あと相方(あいかた)は、棒鱈、かまぼこ、数の子、焼き大海老、……すこしずつ。今年は、元日から黒豆がよかった。
 ところが、お昼過ぎ、お腹は空くが御馳走は入らない。で、今日二日の昼は鮒(ふな)茶漬けと、スチルトンチーズのデザートだった。

鮒茶漬け
 中くらいの器に、ご飯少し。鮒寿司県民(註:滋賀県人)じゃないから、薄切り(数ミリ)をほんの三切れほど。周り一面に海苔を敷き、わさびをちょっと。熱い茶をたっぷり。さらさら。相方は京漬け物。
 鮒寿司は確かに匂いは強いが、口に入れると味わいが出てくる。ご飯がおいしい、これぞ究極の「お茶漬けの味」。

スチルトン・デザート
 スチルトンチーズ、ちょっと辛いような苦いような。英国女王がお好みらしい。で、女王仕様のデザート。
 チーズ国民ではないから、親指と人差し指で輪っかを作ったくらいの高さ幅。これを小綺麗な小皿に載せて、上から「さくらんぼ」蜂蜜をとろりとたらす。ポートワインが似合うと聞いたが、相方は煎茶。ブラック珈琲もよさそうだ。
 上等なケーキにくらべて、量も調整できて、砂糖・バターまみれの感触はゼロ。Muは一度で気に入った。お正月は佳いものだ。

参考サイト
  ふな寿司の坂井
  スチルトン:英国の伝統を訪ねて

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2006年1月 1日 (日)

石舞台古墳の状景(ビデオ)

承前[MuBlog:石舞台古墳

<ビデオのこと>
 以前から上記に記した承前「石舞台古墳」へのアクセスは多い。しかし、MuBlogでは長きにわたり対応を怠ってきた。本日元旦、関係記事を追加することにした。新知見を披瀝するつもりではなくて、ビデオを掲載する試みである。

 ビデオの掲載については、すでに「ふうてん」さんが経験済みである。Muも何年来、ああでもないこうでもないと考え実験してきたが、結局大規模に公開することはできなかった。事情はいろいろあるが、要するに技術と品質とのバランスを見極めることができなかったわけだ。
 で、今回の結論は、通信がISDN64KBPS程度でも、ぎりぎり鑑賞可能なまでに品質をおとし、なおビデオがもつ静止画とは異なる現地の臨場感を味わえるようにしたい、となった。

 ここでまとめておくと。
  木幡研では、マイクロソフト社の仕様である、WMVファイル形式を用い、大体1MB~3MB程度のビデオにする。これは残念ながらWindowsマシンでないと、見られないだろう。普通に実装されている、「Windows Media Player」で鑑賞が可能である。
  葛野研では、アップル社が採用しているQuickTimeで行うが、これは後日になる。

<石舞台古墳のこと>
 いろいろ考えはあるが、今日はとりあえず、小さなビデオファイルを二つ用意した。詳しくは、また現地に行って観察し、考えてみる。蘇我馬子の墓と言われているのだから、今はそう考えておく。ただ、周りの景観の中で、この古墳がここにあったことが、どうにもわかりにくい。もっと勉強しないと、わからないことが多い。

石舞台の外
石舞台の外
  ビデオ:石舞台古墳の外 (1.8MB wmv形式)

石舞台の内
石舞台の内
  ビデオ:石舞台古墳の内 (1.7MB wmv形式)

参考
  石舞台古墳[MuBlog]
  飛鳥発掘物語/河上邦彦[MuBlog]
  飛鳥路[MuBlog]
  墓盗人と贋物づくり:日本考古学外史/玉利勲[MuBlog]

| | コメント (8) | トラックバック (2)

大晦日の祇園界隈と長楽館(平成17年末)

承前[MuBlog:大晦日の鍵善と八坂神社

2005年・大晦日の祇園界隈と長楽館
  花見小路界隈・一力あたり(地図
  円山公園の長楽館(地図


0.はじめに


戌年の破魔矢
 何十年も欠かさずに、大晦日になると八坂神社へ行って、破魔矢・絵馬を手にする年月なのだから、毎年変わらず、同じパターンで記事にはしがたいと思いながらも、不易の良さは良さであり、これも生の証と思って、一筆啓上。

 数時間前、2005年の12月31日、夜の八坂神社あたりを歩いてきました。メンバーはMuを入れて3人、2004年末とは若干入れ替えがありました。昨夜は、ちょっとした事件に冷や汗をかき、そして意外な見学もできましたが、大過なく、今日のよき元旦を迎えました。写真は戌年の破魔矢です。


1.鍵善良房の本店


鍵善
 例によってMuは黒蜜のくづ切りをいただいて、今年も口にできたなぁ、とほっとした次第。余人は、粟ゼンザイ、これも変わりなく。ところで、当夜は例年と異なり、席待ちを五分ほどしました。鍵善は、いつもは夕方の六時ころ閉店ですが、大晦日はたしか八時ころまで開いております。入った所のくづ菓子コーナーが混んでいるのはいつものことですが、奥の喫茶部が席待ちとは、記憶になかったことでした。エドルン君の話では、最近関東の方で新しい雑誌が京都を盛んに取り上げて、多分鍵善さんもリストアップされているのだろうと、申しておりました。

 で、ここ数年、毎年のお話「とうちゃん、わたしは大学生になるまで、鍵善のくづ切りは大晦日にだけ食べる特別なものとおもっておりました」。幼児期以来、大晦日になるとくづ切りを、くだんの「とうちゃん」が食べる姿を見続けていると、そういう世界観ができてもおかしくないようです。

 お店の入口の天井近くに羽子板(Mu註:こりゃ羽子板じゃなくて、葛菓子の型枠ですよね)が並べてあることにはじめて気がつきました。河合寛次郎(参考サイト)さんの立派な焼き物と重厚な飾り棚は、入って右手にありましたが、なんとなく写真を撮すのが申し訳なくて、羽子板だけを写しました。


2.なんとなく祇園花見小路


祇園花見小路
 鍵善を後にして、再び戻ってくるとはつゆ知らず、花見小路を一力あたりから建仁寺までぶらりぶらりと歩いておりました。瀟洒なお店、これぞ都振りと思えるような店々が明かりを点けておりました。木幡の田舎からたまにでてくると、この界隈は夢幻の都の風情です。途中、軒先に「佳つ乃」とかいう名前も見えて写真に撮っておきました。

 ところが建仁寺から左(東)におれて東大路にでようとしたあたりで、愕然としました。Muは車のキー、家のキー、研究室のキー、無くなっていたことに気がついたのです。呆然。よろよろと路上に崩れ落ちるほどの大ショック。当夜は円山駐車場が午後九時で閉まり、愛車をおいて帰ることを想像し胸が痛くなりました。頭を抱え込んでいると、さっそくにエドルン君を中心とした綿密な捜査が始まり、次に尋問。要するに経路確認です。ほどなくエドルン君、携帯電話で鍵善に通知し、確認。しばらくおいて返信あるも、「鍵善には、鍵は無い」とのこと。

 仕方なく建仁寺あたりから四条花見小路まで路上確認しながら、再び鍵善へ現地再確認。しかし、無かった。

 とは申しても、八坂神社に一年間のお礼なしでは相済まない。とぼとぼと石段下へ向かい、信号で立ちすくんでいると、右手に交番。ともかく遺失物確認ということで、エドルン君たちに引っ張られて、警察官の前に立ったが、言葉が出ず、あとはすべてエドルン君が状況説明につとめた。Muがしたことは遺失物申請書にサインをしたことと、

「ところで、鍵に特徴はありますか?」と、若い、なんとなく本当に織田某俳優のような警官。
「はい、アトム」と、言葉少なげなMu。
「つまり、アトムのキーホルダー付きなんです」と、エドルン君の助言。
 さっそく若い警官は電話をまわし近辺の交番に確認。
「えー、つまり、鉄腕アトムのキーホルダが付いているようなんですが」
 ここで、Muは「アトム」に「鉄腕」が付加されたことに、ものすごい驚きを味わった。ここは、日本なんだなぁ。若い警官は、アトムと聞いただけで、「鉄腕アトム」と、ずばり推定した。うむ。

 交番を後にして、Muは最後の頼みの綱というか、一人駐車場に戻った。
 そして、そこでみたものは、意外な場面だった。
 それが写真の右下。銀色に鈍く光るドアに、なにかがぶら下がっていた。
 交番に戻って報告をすると、奥からその若い警官もでてきて、一件落着。Muも、四人いた警官達も、みんな笑顔だった。


3.神に感謝


大晦日の八坂神社
 お参りするまえに、2.のような事件があったので、昨夜の大晦日の祈りはいやましに深くなった。家族安泰、大学安泰、おまけに国家鎮護、世界平和まで祈念した。お賽銭も毎年の十倍はずんだ。まことに、素戔嗚尊の霊験霊力は絶大であると、全身がうちふるえた。この世にやおろずの神々はいますが、Muはことのほか、京都では八坂神社にかねがね深いものを味わってきた。佳き一夜の祈念であった。


4.長楽館


長楽館の正面
 お参りしたあと、長楽館に行って一休みした。明治の伊藤博文が京都の常宿としたロココ調の内装を残した建物である。レディースホテル、レストラン、喫茶を備えていて、重厚である。昨夜は一階が満席だったので、二階の中国風内装の部屋に案内された。これは意外な経験となった。部屋は隅々まで凝った意匠で飾られて、まるで明治時代に戻ったかのような気分になった。しかも、それが中国風にアレンジされているところがおもしろかった。

長楽館の二階:中華風

 というわけで、毎年変わらない同じパターンでも、それなりに変化がある。とりわけ昨夜の大晦日は、ハラハラドキドキし、最後は美味しい珈琲でしめとなった。

 また、今年の年末まで、365日。

参考
  河合寛次郎記念館
  長楽館 [公式HP]

Mu注記
 長楽館の二階の中国風意匠だが、Muは無学無知なだけで、実は当時の欧州ロココ風にはシナ風を取り入れていたのかも知れない、とふと思った。真偽のほどは建築史の専門家に聞かないとわからない。

| | コメント (6) | トラックバック (2)

« 2005年12月 | トップページ | 2006年2月 »