« NHK義経(49)源九郎義経の最期 | トップページ | 昨夜の京都 »

2005年12月12日 (月)

葛野の夜明け

 先々日の土曜日の早朝に、事情で葛野へ登庁した。そこで夜明けをみたので、あわててSONYのディジタルビデオを持ち出し、粗い画素だが長年使ってきたスティル機能を試してみた。
 それなりに、葛野の夜明けと、朝とが撮れていた。今思い出したのだが、研究棟の七階の、バルコニーから写した。「夜明け」の方が光学10倍、「朝」の方は、ノーマルで写した。太陽がもにゃもにゃとした光を放っていた。

葛野の夜明け

葛野の夜明け

葛野の朝

葛野の朝

|

« NHK義経(49)源九郎義経の最期 | トップページ | 昨夜の京都 »

葛野」カテゴリの記事

コメント

枕草子の世界ですね

 京都だと太陽は山から登り山に沈むのでしょうか。
東京ではなかなかこういう景色には出会えません。
花鳥風月、雪月花。
やはり太陽は直接は見られませんものね。
曙、残照となるのでしょう。
写真を拝見してそんなことを考えました。
江戸には(山の端)という言葉はございませぬ。

投稿: ふうてん | 2005年12月12日 (月) 15時13分

ふうてんさん、2005年12月12日 午後 03時13分

 まことに、ご無沙汰しております、いましばし(笑)、師走は本当ですね。

 幼児期は幼稚園から高校まで、嵯峨野の山懐ほどではないが、すべての世界が愛宕山まわりだったので、山が自然そのものでした。
 だから北海道とか東京とか、周辺に山がないと、落ち着きがなくなります。
 山の端ということばは、ごく自然に会得できましたが、ふうてんさんも、愛媛はそうだったのだと想像します。

 逆に映画でみる、でっかいビルの窓からみる都会の夕焼けっていうのも、なにかと興をそそりますが、お話では、今の東京ではめったに見られないようですね。

 ということで、関西にはまだ山が残っていた、がオチでしょうか。

投稿: Mu→ふうてん | 2005年12月12日 (月) 15時57分

伊予では太陽は海に沈みます

 当方の育った家は山の中腹にありました。
朝日はほんネキの山から昇ります。
山が段々と階層的に降りて往き、やがて瀬戸内海になります。
その瀬戸内海に日は沈みます。
愛媛は東が山で西は海なのですね。

 子供の頃、家の向こうの山を越えたところはどういう世界なのだろう?と思いました。
日の沈む海の向こうはどうなのだろう?とも思いました。

 還暦近くになった今でもまだその思いは残っているような気もします。

投稿: ふうてん | 2005年12月13日 (火) 02時48分

ふうてんさん、2005年12月13日 午前 02時48分

 よく分かりました。図にして理解しておきます。

          ↑北

                  ↑旭
                 へ◎
  ↓○          ■へへへ
~~~~<愛媛>   へへ山へへへ
~~~~
~~海~~~

 こういう塩梅ですね。■が、ふうてんさんの生家。いや、実にわかりやすい話です。

投稿: Mu→ふうてん | 2005年12月13日 (火) 07時31分

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 葛野の夜明け:

« NHK義経(49)源九郎義経の最期 | トップページ | 昨夜の京都 »