NHK義経(48)藤原秀衡の最期
高館(たかだち)(岩手県西磐井郡平泉町平泉)地図
義経が奥州の藤原秀衡(ひでひら)のもとに帰還したのは、1187年初頭であったか。その秋十月に秀衡がなくなった。翌年初め頃から頼朝は、藤原四代目の泰衡(やすひら)にしつこく「義経」を渡せと迫る。あけて1189年文治五年四月に、ついに泰衡は衣川の高舘(たかだち)に居る義経主従を謀殺した。
ところが、それにもかかわらず鎌倉に攻められて、その年の九月に北の藤原四代は滅びた。思えば奥州十八万騎は、義経という鬼神を用いることなく、戦らしい戦もなく鎌倉に蹴散らされたことになる。
その後、頼朝は1192年に征夷大将軍となり、ご丁寧にも翌年、弟の範頼(のりより)を殺している。こういう兄弟親族殺しの頼朝は、どことなく北方騎馬民族が中国で王朝をたてた頃の騒乱に似ている。身内に厳しいのは組織に於いてよい兆候だが、それが度はずれてくると、取り返しのつかない「殺戮」になり、結局自滅する。つまりは、いつも申すのだが、源家は北条家に後日乗っ取られるわけである。
さて、今夜のNHK義経。
義経が無事平泉に入れたのも、秀衡が温かく迎えたのも、幸運だったといえる。そういう幸運の中で、秀衡一族とともに、呪術じみた舞台の舞に見入る姿がよかった。断続的な鈴の音があやしく、月光が鮮やかだった。
秀衡の死があと数年後であれば、と悔やむ心は残ったのだが、来週の義経は歴史に残る高舘・謀殺で生を終えるのだから、一時の平安があって、それもよいと思った。
泰衡の怯えが真に迫っていた。
父の死に怯え、頼朝や後白河法王の督促に気鬱になり、来週はおそらく弟達との反目に怯え、最後には義経を襲った。その表情が、心の動きを上手に捉えて、Muを引き離さなかった。
栄誉栄華をほこり、十八万の軍勢をもちながら、心の闇に光がささぬ限り、すべては灰燼に帰す。たったひとつ、胆力があったなら、義経の盛名を上手に使って、白川の関を開けて打ち出ることもできたろうに。
掌中の珠、最終兵器義経を、扱いきれなかった、というよりも外圧に弱かったのか。ただしかし、このあたりの泰衡理解は、いかにも通俗なので、また後日に考えてみよう。
今夜は、来週の最終回に向けての多くの布石が打たれた。泰衡の、目を見開き脂汗をかいた表情に、それが込められていた。
参考
NHK義経(11)藤原泰衡という男[MuBlog]
高館(たかだち)について
奥州藤原氏の栄光と挫折/今東光[MuBlog]
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コメント
>一時の平安があって、それもよいと思った。
一年と半年ぐらい平穏な日を送ったことになります。「せめてもの慰め」と思って、やるせない気持ちを落ち着かせることにしました。
藤原秀衡の最大の失敗は、後継者の選択を誤ったということでしょうか。歴史ってチョットしたことで、大きく変るんだとつくづく考えさせられました。
投稿: hisaki | 2005年12月 5日 (月) 09時06分
ご意見 ことごとくごもっともです。
国衡が意外と気骨ある人物と描かれておりました。 ともあれ来週は最終回ですね。
TB貼らせていただきました。
投稿: みどりかわ | 2005年12月 5日 (月) 17時22分
hisakiさん、2005年12月 5日 午前 09時06分
そうですね、諸説あるようですが、ちょっとしたことで歴史が変わるというのは、後知恵としてよく納得できます。
別の説としては、たとえば、奥州藤原は平家と同じという説も読みました。誰が後継者になっても、18万の兵は、平和に親しんだ裕福な兵。つまり攻められたらひとたまりもないと、いうことでしょうか。奥州平定して三代も続くと、よほどの武断でないと、戦(いくさ)は無理でしょうね。
投稿: Mu→hisaki | 2005年12月 5日 (月) 18時34分
みどりかわさん、005年12月 5日 午後 05時22分
御説、よませていただきました。
本当にわかりやすかったです。
戦(いくさ)は現代の総力戦とは多少異なり、往古は、職人芸であり、あるいは神懸かり的要素によって左右されるところがあったのだと思います。
しかし、なんとなく、奥州には戦意がなかったように、いまとなっては、思うのです。それほどに、藤原三代は文明文化的に爛熟だったのでしょうね。
投稿: Mu→みどりかわ | 2005年12月 5日 (月) 18時42分
平泉には二度足を運びました。
地図を見ると、参拝して長い参道を降りてくると眼下に北上川が見えました。高館も見えていたんでしょうかね。
芭蕉の句だけが頭にありましたが、義経終焉の地は未見でした。
ま、本当は義経の事ですから、抜け出していたんではないでしょうか?北上川を泳いで逃げたのでは?
しかし、何故戦わなかったのか?不思議ですね。
投稿: jo | 2005年12月 5日 (月) 22時23分
joさん、2005年12月 5日 午後 10時23分
芭蕉さん、奥の細道ですね。
まず、高館にのぼりて~
景色がよかったんでしょうね。NHKが遠望する描写は、そのあたりからだと想像しています。
泰衡らには内紛もあって、兵があつまらなかったんでしょうね。それと、彼は恐怖感その他による鬱じゃなかったかと、想像します。
義経主従は、いつの場合も、兵も兵站もない、なんというか独立専門集団だったから、十倍以上の軍に襲われると、対処できなかったことでしょう。
おそらく、女装して川を泳いで、北海道にいき、蒙古まで行ったことでしょう(笑)
投稿: Mu→Jo | 2005年12月 6日 (火) 09時49分
トラバ ありがとうございます。
これからもよろしくお願いします。
また寄らせてもらいます(^_=)
投稿: かっちゃん | 2005年12月12日 (月) 07時39分
かっちゃんさん、2005年12月12日 午前 07時39分
こちらこそありがとうございました。
投稿: Mu→かっちゃん | 2005年12月12日 (月) 12時12分