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2005年12月29日 (木)

大学の話をしましょうか/森博嗣←感想文

 中公新書ラクレ(195)を720円と消費税を入れて一昨日に買い、昨日に読了した。

1.うっすらとした情報

別に細々(こまごま)としたことを正確に覚えなくても、だいたいどんなものがあって、どんな関係にあるのかをうっすらと把握していれば充分なのです。必要なときに、そのうっすらとした関係を瞬時に思い出せれば、それでOK。必要ならば、すぐに調べ直せばよいだけのことです。人間の力とは、つまり、うっすらとした情報をいかに的確に思い出せるか、ということに尽きます。←p50

 だから森先生の申されることにはいつも感服している。学生の前でのどもとまで出かかる、Muの思いをこうしてはっきりと、日本語で表現されるので、Muは教室でこれを読み上げるだけにしよう。

2.どこを見ているか

学生や、これから大学へ進学しようとする若者たちは、大学の先生が学生へのサービスに努める姿を求めているわけではない。また当然ながら、研究予算を獲得するために忙しく申請書類を作っている姿に憧れているわけでもない。学者として、研究者として、自分がしりたいもの、解決したいもの、作り上げたいものへ向かっている視線に魅力を感じるのだろう。←p136

 しかり。まさしく至言なり。
 これはMu流にもうすこし補足してみる。つまり、大学生は20前後なのである。すでに子供ではない、いや子供であっては困る。ひょっとしたら、まだ子供かも知れない学生に、レストランやお店のような、ものわかりのよい笑顔、サービスをあたえても仕方がない。それはどう言いつくろっても、だまし、詐欺であろう。
 たとえ青年50%の進学率であっても、大学とは、幼児期を脱するとは、かくあるべしと言うものの見方を見せないとならない。教えるのではない、自己確認してもらわないとならない。でないときっちりした大人になれない(笑:なぜ笑う、そりゃどうみてもまっとうな大人とは、……。Muさんを思い出してさ)。
 根本的に、大学の先生に日常的ぬるま湯的サービスを求めるのは、猿に空飛べというようなものじゃなかろうか。教育には飴と鞭があり、研究には鞭しかない。
 つまりこうである。学生がその「視線に憧れる」かどうかの以前に、そういうところに目をくばり、注視する物の見方を養うところに、大学という人類の作った偉大なモラトリアム・システムがある。
 当然だが、Muは大学を職業訓練学校であるよりも、人格・自己養成大学とみている。

3.思い出は全部綺麗です
 これはpp183~186にある、かつて三重大学に奉職されていたころのエッセイです。森先生が24歳の頃の話でしょうね。

そうそう、夏には、朝の四時に起きて、大学のグラウンドで模型飛行機を飛ばして遊びましたね。あれは綺麗な思い出です。たぶん、死ぬときに一番思い出す情景だと思われます。これから、あれよりも楽しい時間があると良いのですが……。

 こういう文章が基底にあるから、かねがねMuは森先生の作品を愛惜してきた。なかなかに、天の邪鬼っぽいエッセイが多い方だが、それはそれとして知的嵐に巻き込まれ混迷に突き落とされもするのだが、こういうエッセイにふとまみえるとほっとする。「森先生、ロボットじゃなかったなぁ」と。
(Mu注:森ファンの諸氏、Muはロボットという言葉を実に深い意味で用いている。悪くとらぬように)

 さて。この読書対象者をどう定めるか。
 若い人、大学の関係者、文部科学省関係者、……うむ。

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