甘樫丘東麓遺跡(あまかしのおか・とうろくいせき)と蘇我入鹿邸跡
甘樫丘東麓遺跡・蘇我入鹿邸跡(奈良県高市郡明日香村大字川原)推定地図
ネットの新聞を見ていたら、蘇我入鹿旧邸が見つかったかも知れないというニュースがあった。
その記事にリンクを張っても数ヶ月で削除されるのが通例なので、奈良文化財研究所の、それに近い記事にリンクをした。(大化改新:甘樫丘東麓遺跡)ただし、この記事は、今回2005年11月16日現地報告会の内容ではない。
日本書紀によれば、父親の蝦夷(えみし)の邸宅は甘樫丘の上にあり上宮門といい、息子入鹿(いるか)の邸宅はその下、谷宮門と呼んだらしい。今回の発掘は、入鹿と想定されているので、谷宮門跡がさらに明確になってきたということだろうか。
Muは甘樫丘を以前に訪ねたが、その時はひたすら東にある酒船石の景観をビデオで撮っていた。冒頭でリンクした邸宅跡の地図は想像であって、いつか行ってみるか、あるいは後日に正確な発表がないと特定できない。ただ、蝦夷、入鹿の邸宅がこの推定地あたりならば、斉明天皇時代と思われる酒船石は丁度真東にある。なかなか都合がよい。世上、入鹿は皇極女帝(後の斉明女帝)の寵愛を一身に受けた人物と噂される。地図で、クロス指示点と酒船石とを結んだ、やや右側の南が、丁度飛鳥板蓋宮跡になり、ここで入鹿は凶暴な中大兄皇子(天智天皇)の兇刃に斃れた。それとは逆に北の飛鳥寺にはたしか、入鹿の首塚が伝承としてあったはず。Muもそれを見た。
このあたりは何度も行き、ビデオに収めた。
また機会をつくって行ってみたい。
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コメント
本日、読売新聞朝刊の一面ぶち抜き記事でした。
場所は私もわからないですが、読売新聞の記事では飛鳥寺の西の方角でした。奈文研の資料が正しいんでしょうね。
しかし、蘇我氏は何処に住んでいたか?迄、徹底的に歴史から消されたんでしょうかね。
権力闘争というのは熾烈なもんなんやね?
ところで、何で入鹿という名前なんでしたかね?
投稿: jo | 2005年11月14日 (月) 14時34分
jo さん、2005年11月14日 午後 02時34分
おはよう。
しかし、間が悪いというか、忙しい最中に入鹿の一面記事なんかがでるもんだから、困り果てました。
ようやく二編載せましたが。
……
ビデオのスティル画は荒い写真だけど、なんとか現地の雰囲気はでたと思いませんか。
これを探すのに数時間(笑)。いたずらに、blogに手をそめてはならないと教訓でした。
投稿: Mu→jo | 2005年11月15日 (火) 06時26分