甘樫丘展望台から見た多武峯:あまかしのおか・とうのみね
承前[蘇我入鹿邸宅跡?]
酒船石と多武峯
伝・飛鳥板蓋宮跡
ここ数年、蘇我入鹿には随分興味を持ってきた。最近は山岸凉子氏の「日出処の王子」を読み終えたところだが、その主人公の厩戸王子の友人蘇我毛人(えみし)は、蝦夷のことであり、彼は入鹿の父親だった。入鹿が殺害された翌日、この甘樫丘の二つの邸宅を焼き自殺したようだ。
ユリウス・カエサルは元老院で多数の元老達・ブルータスらに殺されたが、日を置かずして名誉は回復された。しかし蘇我入鹿は、死後1400年近く経っても、悪名を残したままである。
追伸
蘇我入鹿の祖父、蝦夷の父である蘇我馬子の墓と言われる石舞台古墳は、地図の右下にある。
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コメント
二枚の写真はイメージが湧きますね。
アタシも二回ほど甘樫丘には登りました。飛鳥を見下ろす眺望は素晴らしいでした。
しかし、甘樫丘とは素晴らしい名前をつけたものですね。
私も記事を書きました。
投稿: jo | 2005年11月15日 (火) 11時07分
joさん、2005年11月15日 午前 11時07分
ちょっと間延びしたコメント返し、失礼しております。
最近、蘇我天皇説とかいう、トンデモ話が気に入りました。
しかし聖徳太子さんのことも、蘇我のことも、みんなして日本書紀は嘘ばかりという説には、ちょっとげんなりしています。
なんというか、藤原不比等が編纂したにしても、いやしくも国史、正史、青史ですから、まるっきり嘘という説にはなっとくできません。大唐の知識人も、蛇の道蛇で、そういう内容は知るわけですからね。そうでなければ、国史編纂して、一等国プライドを見せる意味もなくなる。となると、嘘ばかりじゃ、信用されなくなる。
ただし、解釈の問題はあるでしょうね。入鹿、蘇我にケチをつけたかったから、「入鹿は専横はなはだしかった」、と記すのは一つの解釈として正しい方法論だと思います。
まあ。甘樫丘に立って、眼下の飛鳥板葺宮をみれば、蘇我が天皇というてもおかしくない気分にはなりました。
ただね。聖徳太子は架空だった。書紀記述内容はフィクションだったという説には、ちょっと~ですね。
なんとなく、現代の研究者や評論家は、当時の天皇家とか、朝廷の権威を軽くみているような気がしました。
投稿: Mu→JO | 2005年11月15日 (火) 13時37分
テレビのニュースでは、この場所は日本書紀の(谷宮門:はざまのみかど)という記述どおり、山と山の谷(はざま)にあったというので、研究者が(書紀の記述どおりの場所に、発見されるなんて。)と、やや興奮気味に話しておられました。
投稿: wd | 2005年11月15日 (火) 15時14分
wd さん、2005年11月15日 午後 03時14分
丁度朝からの用務、二つめ完了。
さて。記してあるとおり掘り出されると快感が普通なのですが、それをけなす人もおります。記紀が真を記していると困る人もおるのでしょうね。
話は変わりますがメモ。
日本書紀では、酒船石関連で、斉明女帝を「狂った」と言わんばかりに書いております。たわぶれ心。ですかな。
で、斉明女帝は、正史上では天智天皇、天武天皇の実母です。舎人親王であれ、不比等であれ、自分の上司(天智の系列、天武の系列)にあたる人の実母を、やすやすと「あのオバサン、変やった」と描くのは、まあ、真をできるだけ、解釈交えて記す態度として、日本書紀を高く評価しております(笑)。
その二のメモ。
明日16日は入鹿屋敷の現地説明会らしいです。お近くのようですから、行くことを薦めマス。Muはあいにく、重要会議がありましてぇ(笑)
投稿: Mu→wd | 2005年11月15日 (火) 15時49分