« 甘樫丘東麓遺跡(あまかしのおか・とうろくいせき)と蘇我入鹿邸跡 | トップページ | 甘樫丘東麓と飛鳥板蓋宮の標高差 »

2005年11月15日 (火)

甘樫丘展望台から見た多武峯:あまかしのおか・とうのみね

承前[蘇我入鹿邸宅跡?]

蘇我入鹿邸推定地図
甘樫丘→酒船石→多武峯・御破裂山 地図

酒船石と多武峯

酒船石と多武峯:甘樫丘展望台から東を撮す
 昨日の朝刊では、第一面に華々しく蘇我入鹿(そがのいるか)邸宅跡について記事があった。Muは発掘現場を見ても遺跡の分析が出来ないので、それは報告が出た時点でまた読んでみる。ここに掲載した二葉の写真は、数年前に甘樫丘展望台(地図では、「飛鳥歴史公園甘樫丘地区」と記されたあたり)から、酒船石や多武峯の地形を把握するために撮したビデオ内容である。入鹿(いるか)邸は「谷宮門:はざまのみかど」、父親の蝦夷(えみし)邸は「上宮門:うえのみかど」と呼ばれ、甘樫丘の東麓にあったらしい。だから、ここで撮した映像は、ほぼ入鹿らが見ていたイメージに近いものだと思う。その時に、酒船石があったかどうかは分からない。皇極(後に斉明)天皇に深く関係しているので、入鹿が「大化の乙巳(いっし)の変」で亡き後に造られた物なんだろう。この入鹿が惨殺されたのは645年、いわゆる大化改新時代である。

伝・飛鳥板蓋宮跡

伝・飛鳥板蓋宮跡:甘樫丘展望台から東南を撮す
 カメラをやや南に向けると、伝・飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)跡が中央に広がる。入鹿はこの宮で、皇極天皇の目前で、天皇の息子・中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)によって惨殺された。入鹿は皇極女帝の寵愛を受けていたと思われるので、後の天智天皇=中大兄皇子は母親の愛人を、その眼前で惨殺したことになる。異様な事件と言ってよいだろう。ゆゆしいことである。その影には当然、後の藤原氏の礎を築いた中臣鎌足(なかとみのかまたり)が動いていた。

 ここ数年、蘇我入鹿には随分興味を持ってきた。最近は山岸凉子氏の「日出処の王子」を読み終えたところだが、その主人公の厩戸王子の友人蘇我毛人(えみし)は、蝦夷のことであり、彼は入鹿の父親だった。入鹿が殺害された翌日、この甘樫丘の二つの邸宅を焼き自殺したようだ。
 ユリウス・カエサルは元老院で多数の元老達・ブルータスらに殺されたが、日を置かずして名誉は回復された。しかし蘇我入鹿は、死後1400年近く経っても、悪名を残したままである。

追伸
 蘇我入鹿の祖父、蝦夷の父である蘇我馬子の墓と言われる石舞台古墳は、地図の右下にある。

|

« 甘樫丘東麓遺跡(あまかしのおか・とうろくいせき)と蘇我入鹿邸跡 | トップページ | 甘樫丘東麓と飛鳥板蓋宮の標高差 »

飛鳥」カテゴリの記事

地図の風景」カテゴリの記事

コメント

二枚の写真はイメージが湧きますね。

アタシも二回ほど甘樫丘には登りました。飛鳥を見下ろす眺望は素晴らしいでした。

しかし、甘樫丘とは素晴らしい名前をつけたものですね。

私も記事を書きました。

投稿: jo | 2005年11月15日 (火) 11時07分

joさん、2005年11月15日 午前 11時07分

 ちょっと間延びしたコメント返し、失礼しております。

 最近、蘇我天皇説とかいう、トンデモ話が気に入りました。

 しかし聖徳太子さんのことも、蘇我のことも、みんなして日本書紀は嘘ばかりという説には、ちょっとげんなりしています。

 なんというか、藤原不比等が編纂したにしても、いやしくも国史、正史、青史ですから、まるっきり嘘という説にはなっとくできません。大唐の知識人も、蛇の道蛇で、そういう内容は知るわけですからね。そうでなければ、国史編纂して、一等国プライドを見せる意味もなくなる。となると、嘘ばかりじゃ、信用されなくなる。

 ただし、解釈の問題はあるでしょうね。入鹿、蘇我にケチをつけたかったから、「入鹿は専横はなはだしかった」、と記すのは一つの解釈として正しい方法論だと思います。

 まあ。甘樫丘に立って、眼下の飛鳥板葺宮をみれば、蘇我が天皇というてもおかしくない気分にはなりました。

 ただね。聖徳太子は架空だった。書紀記述内容はフィクションだったという説には、ちょっと~ですね。

 なんとなく、現代の研究者や評論家は、当時の天皇家とか、朝廷の権威を軽くみているような気がしました。

投稿: Mu→JO | 2005年11月15日 (火) 13時37分

 テレビのニュースでは、この場所は日本書紀の(谷宮門:はざまのみかど)という記述どおり、山と山の谷(はざま)にあったというので、研究者が(書紀の記述どおりの場所に、発見されるなんて。)と、やや興奮気味に話しておられました。

投稿: wd | 2005年11月15日 (火) 15時14分

wd さん、2005年11月15日 午後 03時14分

 丁度朝からの用務、二つめ完了。
 さて。記してあるとおり掘り出されると快感が普通なのですが、それをけなす人もおります。記紀が真を記していると困る人もおるのでしょうね。

 話は変わりますがメモ。
 日本書紀では、酒船石関連で、斉明女帝を「狂った」と言わんばかりに書いております。たわぶれ心。ですかな。
 で、斉明女帝は、正史上では天智天皇、天武天皇の実母です。舎人親王であれ、不比等であれ、自分の上司(天智の系列、天武の系列)にあたる人の実母を、やすやすと「あのオバサン、変やった」と描くのは、まあ、真をできるだけ、解釈交えて記す態度として、日本書紀を高く評価しております(笑)。

 その二のメモ。
 明日16日は入鹿屋敷の現地説明会らしいです。お近くのようですから、行くことを薦めマス。Muはあいにく、重要会議がありましてぇ(笑)

投稿: Mu→wd | 2005年11月15日 (火) 15時49分

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 甘樫丘展望台から見た多武峯:あまかしのおか・とうのみね:

» 甘樫丘東麓と飛鳥板葺宮の標高差 [MuBlog]
承前  一昨日に、甘樫丘東麓遺跡のニュースを見て以来、落ち着きがなくなった。なにかそわそわするのだ。かといって、仕事を休んで今から飛鳥へ走る気持もない。今日は蘇 [続きを読む]

受信: 2005年11月16日 (水) 04時24分

» 蘇我氏の邸宅発見? [時評親爺]
14日付毎日新聞が報じているが、奈良県明日香村の「甘樫丘東麓遺跡」から、蘇我一族の邸宅と見られる建物跡が見つかったらしい。今更説明するまでもないが・・・蘇我氏といえば、稲目→馬子→蝦夷→入鹿と続く権勢を誇った一族であり、聖徳太子の姻戚(+血族)でもある。正確には「蝦夷」の姉妹である「刀自古郎女」が太子の嫁さんに当たるが、そもそも太子の祖先を遡ると、「用明天皇」または「穴穂部間人皇女」→「小姉君」または「堅塩媛」となり、後者の2人は「馬子」と姉妹にあたる。 蝦夷と入鹿はいわゆる「大化の改新」(=... [続きを読む]

受信: 2005年11月16日 (水) 09時13分

« 甘樫丘東麓遺跡(あまかしのおか・とうろくいせき)と蘇我入鹿邸跡 | トップページ | 甘樫丘東麓と飛鳥板蓋宮の標高差 »