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2005年10月28日 (金)

隠された十字架--法隆寺論/梅原猛

隠された十字架 :法隆寺論 /梅原猛著

隠された十字架-法隆寺論/梅原猛
<カクサレタ ジュウジカ : ホウリュウジ ロン>.
(BN02432839)
  東京 : 新潮社、1972.5
  456p、図版[10]p ; 20cm
  ISBN: 4103030011
著者標目: 梅原, 猛(1925-)<ウメハラ、タケシ>
分類: NDC6 : 188.245 ; NDLC : HM121
件名: 法隆寺

所蔵図書館 238 [Webcat 2005/10/28]

目次情報
はじめに
第一部 謎の提起
  法隆寺の七不思議
  私の考える法隆寺七つの謎
  再建論と非再建論の対決
  若草伽藍址の発見と再建の時代

第二部 解決への手掛り

 第一章 なぜ法隆寺は再建されたか
  常識の盲点
  たたりの条件
  中門の謎をめぐって
  偶数の原理に秘められた意味
  死の影におおわれた寺
  もう一つの偶数原理……出雲大社

 第二章 誰が法隆寺を建てたか
  法隆寺にさす橘三千代の影
  『資財帳』の語る政略と恐怖
  聖化された上宮太子の謎
  『日本書紀』のもう一つの潤色
  藤原…中臣氏の出身
  『書紀』の主張する入鹿暗殺正当化の論理
  山背大兄一族全滅の三様の記述
  孝徳帝一派の悲喜劇
  蘇我氏滅亡と氏族制崩壊の演出者…藤原鎌足
  蔭の支配と血の粛清
  権力の原理の貫徹…定慧の悲劇
  因果律の偽造
  怖るべき怨霊のための鎮魂の寺

 第三章 法隆寺再建の政治的背景
  思想の運命と担い手の運命
  中臣・神道と藤原・仏教の使いわけ
  天武による仏教の国家管理政策
  日本のハムレット
  母なる寺…川原寺の建立
  蘇我一門の崇り鎮めの寺…橘寺の役割
  仏教の日本定着…国家的要請と私的祈願
  飛鳥四大寺と国家権力
  『記紀』思想の仏教的表現…薬師寺建立の意志
  権力と奈良四大寺の配置
  遷都に秘めた仏教支配権略奪の狙い
  藤原氏による大寺の権利買収
  興福寺の建設と薬師寺の移転
  道慈の理想と大官大寺の移転  
  二つの法興寺…飛鳥寺と元興寺
  宗教政治の協力者・義淵僧正
  神道政策と仏教政策の相関
  伊勢の内宮・薬師寺・太上天皇をつらぬく発想
  藤原氏の氏神による三笠山の略奪
  土着神の抵抗を物語る二つの伝承
  流竄と鎮魂の社寺

第三部 真実の開示

 第一章 第一の答(『日本書紀』『続日本紀』について)
  権力は歴史を偽造する
  官の意志の陰にひそむ吏の証言

 第二章 第二の答(『法隆寺資財帳』について)
  『縁起』は寺の権力に向けた自己主張である
  聖徳太子の経典講読と『書紀』の試みた合理化  
  斉明四年の死霊による『勝鬘経』、『法華経』の講義

 第三章 法隆寺の再建年代
  根強い非再建論の亡霊
  浄土思想の影響を示す法隆寺様式
  法隆寺の再建は和銅年間まで下る

 第四章 第三の答(中門について)
  中門は怨霊を封じ込めるためにある

 第五章 第四の答(金堂について)
  金堂の形成する世界は何か…中心を見失った研究法
  謎にみちた金堂とその仏たち
  薬師光背の銘は『資財帳』をもとに偽造された
  三人の死霊を背負った釈迦像
  奈良遷都と鎮魂寺の移転
  仮説とその立証のための条件
  両如来の異例の印相と帝王の服装
  隠された太子一家と剣のイメージ
  舎利と火焔のイメージの反復
  金堂は死霊の極楽往生の場所
  オイディプス的悲劇の一家

 第六章 第五の答(五重塔について)
  塔の舎利と四面の塑像の謎
  釈迦と太子のダブルイメージ
  死・復活ドラマの造型
  塔は血の呪いの鎮めのために建てられた
  二乗された死のイメージ
  玉虫厨子と橘夫人念持仏のもつ役割
  再建時の法隆寺は人の往む場所ではなかった

 第七章 第六の答(夢殿について)
  東院伽藍を建立した意志は何か
  政略から盲信ヘ…藤原氏の女性たちの恐怖
  夢殿は怪僧・行信の造った聖徳太子の墓である
  古墳の機能を継承する寺院
  フェノロサの見た救世観音の微笑
  和辻哲郎の素朴な誤解
  亀井勝一郎を捉えた怨霊の影
  高村光太郎の直観した異様な物凄さ
  和を強制された太子の相貌
  背面の空洞と頭に打ちつけた光背
  金堂の釈迦如来脇侍・背面の木板と平城京跡の人形
  救世観音は秘められた呪いの人形である
  仏師を襲った異常なる恐怖と死

 第八章 第七の答(聖霊会について)
  怨霊の狂乱の舞に聖霊会の本質がある
  骨・少年像のダブルイメージ
  御輿はしばしば復活した怨霊のひそむ柩である
  祭礼は過去からのメッセージである
  舞楽・蘇莫者の秘策
  死霊の幽閉を完成する聖霊会
  鎮魂の舞楽に見る能の起源

 あとがき
 年表
 図版目録
   装幀・山内暲
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図版目録
  (カッコ内は写真撮影・提供者名)

口絵写真
 一 救世観音
 二 聖霊会・蘇莫者の舞い(著者)
 三 中門(小川光三)
 四 金堂と塔(同)
 五 釈迦三尊(同)
 六 薬師如来(同)
 七 塔西面の塑像(同)
 八 玉虫厨子(同)
 九 夢殿(同)
一〇 夢違観音(同) 

本文写真・図版
 二〇頁 法隆寺関係地図
 二二頁 塔相輪の鎌(小川光三)
 三〇頁 法隆寺見取図
 四〇頁 代表的な伽藍配置図
 四六頁 皇室・蘇我氏系図
 四六頁 皇室・藤原氏系図
 五六頁 中門正面図
 六五頁 出雲大社(小川光三)
 七一頁 橘夫人念持仏(同)
 八三頁 塔北面の塑像(同)
 九九頁 多武峰絵巻(談山神社)
一四三頁 飛鳥大官大寺跡(小川光三)
一六八頁 平城京の伽藍配置図
一九一頁 飛鳥寺(小川光三)
一九三頁 極楽坊(同)
一九六頁 義淵像
一九九頁 神社と寺院の相似関係表
二一一頁 榎本明神(小川光三)
二七〇頁 西院伽藍復原図
二七三頁 法隆寺(西院)全景(二川幸夫)
二七三頁 金堂内陣(小川光三)
二七六頁 金堂内陣配置図
二八二頁 薬師如来光背の銘文(小川光三)
三〇五頁 室生寺の釈迦如来(同)
三〇六頁 薬師如来の印相(坂本写真研究所)
三〇八頁 雲岡第六洞仏像(小川光三)
三一三頁 善光寺前立本尊(善光寺)
三一四頁 聖徳太子および二王子像(小川光三)
三一八頁 釈迦如来脇侍の印相(坂本写真研究所)
三二〇頁 戒壇院の邪鬼(小川光三)
三二一頁 持国天と七星文銅大刀(同)
三二二頁 多聞天と百万塔(同)
三二五頁 阿弥陀如来(壁画)(同)
三三四頁 雲形斗◆[木共](同)
三三六頁 舎利容器(講談社)
三四一頁 塔東面の塑像(小川光三)
三四二頁 塔北面の塑像(同)
三四三頁 塔南面の塑像(同)
三五七頁 塔西面塑像中の舎利瓶(同)
三五七頁 夢殿の宝珠(同)
三五七頁 救世観音の宝珠(同)
三五八頁 玉虫厨子の捨身飼虎図(同)
三五九頁 玉虫厨子の施身聞掲図(同)
三六六頁 東院伽藍復原図
三七三頁 行信像(小川光三)
三七四頁 西円堂(同)
三七五頁 興福寺北円堂(同)
三七六頁 栄山寺八角堂
三七八頁 夢殿内部
三八五頁 救世観音の顔(小川光三)
三八五頁 モナ・リザの顔
三九八頁 救世観音の横面
三九八頁 百済観音の横面(坂本写真研究所)
四〇一頁 釈迦如来の白毫(小川光三)
四〇二頁 釈迦如来脇侍の背面(スケッチ)
四〇三頁 平城京跡の人形(奈良国立文化財研究所)
四〇五頁 増長天
四二一頁 聖徳太子二歳像(小川光三)
四二二頁 聖徳太子十六歳像(同)
四二二頁 聖徳太子七歳像(同)
四二八頁 聖霊会・夢殿前での楽人(著者)
四二九頁 聖霊会・東院から西院へ行く菩薩行列(同)
四三〇頁 聖霊会・行列の中心の舎利御輿(同)
四三一頁 聖霊会・轅に乗った諷誦師(同)
四三二頁 聖霊会・薬師如来の前に置かれた舎利と太子七歳像(同)

[Mu注記]
 2003年に新潮文庫から改版がでている。
 掲載図書の30年後の新版である。内容の一部、加筆訂正があるようだ。
 今回Muは初版を再再読している。改版は、必要に応じて照応させることがあるかもしれない。しかし「現代の古典」として扱うのだから、改版は別本と見なした方が良いのかも知れない。
 誤謬があったとしても、30数年前に「1972年6月2日23:18読了」と、当時のMu(現在からみると別人)が丁寧に記しているのだから、その状態を保って読み直している。多少の異同は、読んだ際の熱情とか息吹の前には、消えてしまう。つまるところ、歴史書としてよりも、思想書・文学書として読んだということだろう。

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コメント

興奮しましたね

 隠された十字架が最初に読んだ梅原猛さんの本でした。
神々の流竄、水底の歌と続きました。
子供の頃学校でチラチラ聴いてボンヤリとしていた奈良時代がいきなりそこに生身の人間が生きているように思えました。
夢中になって梅原古代学にのめり込みました。

 以来、奈良は古都ではなく(都)だと感じるようになりました。
まだ現役なんや、続いとるんやと思うようになりました。

投稿: ふうてん | 2005年10月28日 (金) 22時15分

ふうてんさん、2005年10月28日 午後 10時15分

 はやばやとコメントありがとうございました。
 しかし、ここでのコメント返しは簡略に。
 というのも、
 目次などととのえて、じっくり部や章単位で、梅原法隆寺論のエッセンスを記事にしようとおもっているからです。こういう学術図書は、一気呵成にああこういうてもしかたない。章節単位で、メモをとる気分です。

 昼間、薬がききすぎて長時間ねむってしまいました。いまごろ目が冴えて、かといってハードな仕事するほど快調でもなし。ズキズキします。立ち上がるとよろけます、なんとなく鈴鹿山のヤマトタケルの気持がようわかります。

 というわけで、後日すこしづつ要約したとき、またお考えをお聞かせ下さい。

 なお、神々の流竄、水底の歌……、つまりは同時代似たような世界にはまっていたということですな、工学部電気の御仁がねぇ。
 さっきMu流の「現代の古典」にセットしました。やはり、これと水底の歌は、梅原先生の作品のなかで、Muの古典です。
 神々を留保しているのは、簡単です。あれはMuの世界ですから(笑)

投稿: Mu→ふうてん | 2005年10月28日 (金) 22時36分

法隆寺

今でも、検索エンジンから私のblogに来る人がおられます。

この本は衝撃的でしたね、もう30年も前の話なんやね。

最近、古い本ですが、岩波ジュニア新書43の”奈良の寺々”という本に懇切丁寧な建築に関する基礎的な事が述べられており、読みました。

1982年に出版された本ですが、建築様式に関する勉強にはいい本でしたね。作者は太田博太郎先生でした。

法隆寺の見方ですが、最近の私の捉え方は、斑鳩全体で捉えないと法隆寺は判らないのではないか?と、考えるようになっています。

これだけ、地元の人々に崇敬され千数百年間も大事にされて来たその事が驚異です。

日本人というのは、目に見えない何かを大事に守るという、素晴らしい伝統をもっているんですね。

投稿: jo | 2005年10月29日 (土) 14時59分

jo さん、2005年10月29日 午後 02時59分

 斑鳩全体で捉えるということ、理解できます。
 夕方になって、脳がうまくまわらないのですが、お説ごもっともです。

 なんとなく飛鳥からは遠いですよね。直線でも二〇キロメートルありますから、道のりとしては六里というとこでしょうか(里を四キロ換算)。ということは、散歩すると片道五~六時間、これは遠い。

 宇治木幡と嵐山ほどの距離です。自動車で空いていても40分~60分。

 なんだか、中心地からみると、遠隔ですよね。
 ……

投稿: Mu→Jo | 2005年10月29日 (土) 18時43分

昨日か一昨日の朝刊で小川光三さんが撮った二上山の写真が、奈良版に載ってました。ちょうど二上山のふたこぶらくだの間に真っ赤な夕日が沈む写真で、とってもきれいでした。こんなにうまく山の間に夕日が沈むところを撮すには、何度も何度もこの地に通わないとダメなんだろうなぁ~って思いました。

 あっ。法隆寺の話でした。電車で10分で行けます。駅からは遠いのかなあ。

投稿: wd | 2005年10月29日 (土) 22時58分

 「小川光三」って、よく耳にしますね。もう三十年も以前に、そんな疑問と好奇心をもって、そして今でもそうです。
http://asajihara.air-nifty.com/mu/2004/03/post_8.html

 もしも、「大和の原像」の著者なら、77歳くらいの方で、その方がいまも二上山の落日を撮っておられるなら、Muにも生きる力がみなぎってきます。

 この著書は、ずっとたえまなく心にかかってきた方なのです。

 これから、なんどもなんども宇治や京都や嵯峨野や三輪や当麻や飛鳥や滋賀や伊勢に行く算段をかんがえてみます。

 法隆寺は関西本線でしょうか。往時、この「ほうりゅうじ」駅にふうてんさんと、Joさんと、Muとが三人でぼんやり汽車(電車)を待っていた、ある日のことを思い出しましたよ。

 その時、宝物館かなにかが修復中だった記憶があります。写真もメモもなんにもないのですが、イメージの断片を思い浮かべます。

 たしか行きは、奈良市から豪勢にタクシーで行ったような。車中で、MuのPHS電話が鳴って、電子図書館研究会という会のメンバーから難しい連絡が来たような気がします。

 法隆寺はいつ、だれとどんな風に行ったかを忘れさせる不思議な寺です。寺前の店で、葛きりにMuが腹を立てていたのも思い出しました。

 人間って。こういう記憶の断片で人格を形成しているわけでしょうね。

投稿: Mu→Wd | 2005年10月30日 (日) 03時55分

 (小川光三)

 写真家。奈良市生まれ。77歳。
 奈良では有名な、奈良国立博物館の北向かいにある写真ギャラリー『飛鳥園』主宰の方です。
 http://www.askaen.co.jp/

 三輪山の日の出と二上山の日没を撮るために、何度も何度も麓に通い、多(おお)神社から撮る「春分の日の三輪山の日の出」が最高の角度だとおっしゃっています。そして、その正反対には二上山が見える、と『サライ2005 秋版』に(小川光三)さんの特集記事が組んでありました。

投稿: wd | 2005年10月30日 (日) 06時28分

wdさん、2005年10月30日 午前 06時28分

 日曜の朝というのに、早起きされるのですね。近所の古墳周濠で水垢離(みずごり)でもされるのかな(鎮護国家、家内安全、旦那給与倍増、……)

 飛鳥園、ありがとうございました。見ました。記憶にありました。
 サンプル写真がよかったです。特に撮しにくい三輪山のアングルが、池の中州と箸墓と、植生を交えて、綺麗にありました。
 石舞台も、こういう風にとるのかと、感心しました。

http://www.askaen.co.jp/sample/fukei/fukei_f.html

 Muも、ちょっくら真似ていきたいとおもいました。
 ありがとうございました。

投稿: Mu→Wd | 2005年10月30日 (日) 08時16分

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