NHK義経(43)検非違使・判官義経
六条堀川義経の舘はこのあたりか?(地図)
土佐坊昌俊(とさのぼう・しょうしゅん)という鎌倉御家人の家来の者が郎党を引き連れて、密かに義経の六条堀川屋敷を襲った。義経郎党これを排撃し、土佐坊を生け捕り、おって義経自ら六条川原で斬首した。検非違使屋敷を襲ったのだから、現代ならば警察庁長官の住まい、ないし警察庁長官室を襲ったに等しい。
義経はこれをもって、後白河法皇に頼朝追討の院宣を願い、聞き入れられる。しかるに頼朝兵十万を率いて上京。義経、行家の周旋にもかかわらず寡兵数百。以後、義経の逃亡が始まる。
何故、義経は平泉の兵を求めなかったのか。
これが今夜の、Muの疑問だった。
だが冷静に考えれば、後に義経が尾羽うちからし逃亡し、懐に戻った故に、藤原秀衡は確固とした地盤平泉で義経一行を庇護したともいえる。
義経が京都に構えたまま、要請したとしても、遙か平泉から京に向けて兵十数万、出兵する決断はなかったことだろう。
結果として、義経は、舟に乗り西国、九州を目ざした(来週)。しかし嵐にあい、離散する。
やんぬるかな。
すべてにおいて時機を失した。若く、参謀のつかない身であれば、Mu20代後半であっても同じ愚をおかすことだろう(笑)。だから、義経を愚かとは思わない。軍神は、兵あってこそ神になる。郎党数十名では、いかんともしがたい。
法皇にすり寄って、院宣を求める前に善後策をねるべきだったのかもしれない。行家が暴走したともいえよう。
それにしても、頼朝が自ら兵十万を率いて鎌倉を出たのは電光石火の早業ともいえる。それだけ義経を怖れたのかも知れない。手をこまねいて、時機を見逃せば、法皇と義経と西国九州諸国の平家地盤の結託は侮りがたいものとなる。
保田先生が、大昔、木曾冠者(MuBlog:木曾殿最期)でもうされたように、頼朝にとっての総ての敵は、すべて義経を名目に攻略していった。上京し法皇の権威を失墜させたのも義経が名目、そして諸国に追捕使をおいたのも、義経探索が名目だった。ついには、奥州藤原という強敵を落としたのも、義経をかくまったことが発端だった。
義経は、やはり時代の趨勢、鎌倉幕府の前では蟷螂の斧だったのか。
物語に身をそわせれば、如何にも夢がない。政治政略だけが進んでいく。それが、現実なのだろう。
後日、足利幕府の時代、後醍醐天皇皇子、懐良(かねよし)親王は征西将軍宮として九州に南朝王国をひらいた。菊池氏が援助したわけである。このことは、物語として「武王の門/北方謙三、新潮文庫上下」がある。まさしく圧巻だった。
今夜少し煩わしかったのは、義経が靜に向かって「都に止まると多くの民が難儀する」という長セリフだった。ドラマとしての緊張を削ぐ思いがした。これを義経に、ここで言わさなくても、これまでの義経からみて、視聴者は分かるはずだが。
なんとなく好ましかったのは、正妻萌?だった。襲撃の夜に長刀を持って打ってでたのはよかった。鎌倉の密偵とさえ疑われる立場の苦しさのなかで、けなげだった。(と、いつものMuの女優贔屓)
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コメント
>頼朝にとっての総ての敵は、すべて義経を名目に攻略していった。
これでスッキリします。義経はそれだけ大物だった証拠だし、頼朝は実弟を恐れてやっているうちに天下が転がりこんだと考えると気が楽になり、ドラマが楽しめます。
それにしても、義経の理想の国は、戦の無い静かな国のように受け止めました。ハッキリ言って、戦のプロである武士の長の姿勢かと疑ってしまいます。そうではなくて、戦の厳しさを知り尽くした義経の言葉として重く受け止めることに、私はしました。
投稿: hisaki | 2005年10月31日 (月) 08時46分
頼朝は何故に10万もの兵を率いて鎌倉をでたんですか?院宣に対抗する為なんでしょうね。
しかし、義経は公家政権から武家政権への移行のハザマで殉死したようなもんですね。
もっと、世渡りをうまく出来なかったんだろうか?しかし、そうであれば、歴史に残らんかったんでしょうね。
このあたりが、難しいとこでんな。
投稿: jo | 2005年10月31日 (月) 15時19分
hisaki さん、2005年10月31日 午前 08時46分
そうですね。
今回のNHK義経は、まず様式美、次に男女の清潔さと、細やかな心理描写、そして華麗なる壇ノ浦・風景としての戦(いくさ)、でしょうか。
逆からみると、どうしても、戦史分析、武将・知将・猛将の働きは、ちょっと鋭さにかけて、柔らかいですよね。これはこれで、しかたおまへん。(それで、ええねん。と関西風にもうしておきましょう)
HISAKIさんの最後の解釈は、いささかほめすぎですよぉ(笑)
投稿: Mu→HISAKI | 2005年10月31日 (月) 18時39分
joさん、2005年10月31日 午後 03時19分
「義経は公家政権から武家政権への移行のハザマで殉死」
なかなかに、心にしみ入る解釈ですね。
そう思いました。
殉死とは、はぐくんだ都風、尊皇精神に対するものでしょうなぁ。
Muなどは、時代の転換における「生け贄」とも味わいました。
武将故に、長命は難しいでしょう。短命だとおもいます。さすれば、天才として四つの戦さを乗り切ったのだから、綺麗に天に召されたとかんがえても、よろしいようで。
司馬さんもうされるに、千年に一人の鬼神となるわけですから、もって瞑すべし。
世渡り上手は、リアリストとしては必要でしょうが、所詮は人の子、軍神・鬼神と、凡たる策略家とは並立しないでありましょう。
投稿: Mu→Jo | 2005年10月31日 (月) 18時46分