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2005年9月15日 (木)

飛鳥の幻/坂口安吾

親図書 [飛鳥路]

 無頼派の作家・坂口安吾の名探偵ぶりによると、蘇我天皇というものがあって、蘇我蝦夷・入鹿の親子がそうだ、となっていた。
 根拠は、岩波文庫[Mu推定:1941年刊]の上宮聖徳法王帝説には、決まった箇所に虫食い文字があり、その場所が丁度、蝦夷や入鹿の役職を表すところにあたる。その虫食いに見える欠字は、人為的なものではなかろうか。この現在に伝わる上宮聖徳法王帝説は何かを隠している、となる。

 日本書紀は欽明天皇のころから躍起になって、後年の、645年のクーデター(蘇我入鹿が後の天智天皇や後の藤原鎌足に、謀殺された、いわゆる大化改新)を正当化するような記事の書き方が始まる。ヒステリックに、予兆、物の怪、妖しい唄が流行っていたと書き連ねる。おかしい。蘇我が滅ぼされたのは、多くの予兆の結果、まるで自然現象のように描こうとしている。

 聖徳太子と蘇我馬子(入鹿の祖父、蝦夷の父、聖徳太子の親戚)が、氏族伝承や歴史を集め編纂した天皇紀、国記、氏族の本記は、一部が蘇我の館から持ち出され中大兄皇子に献じられたが、残りは蘇我の滅亡で焼失したとある。だが、これは、焼いたのは蘇我ではなくて、政変を成功させた中大兄皇子や鎌足だったと言っている。入鹿を殺した後、当事者達は草の根をわけて聖徳太子の残した歴史書を探し出し、すべて焚書したのだろう。

 つまり、本当の歴史は全部焼き、蘇我が天皇だったことを隠したのが日本書紀である、と推理が進む。

 さて、小難しい雰囲気になってしまったが、安吾流の書きっぷりは実に爽快だ。
 昭和20年代初期に、蘇我は大國主命の系列だとか、蘇我天皇がいたとか、飛鳥に散歩してうそぶくなんてのは、時代はかわれど、おもしろい人は探せばおるのだな、と、うれしくなった次第である。

Mu注記
 この安吾の小論の初出は、親図書の『飛鳥路』巻末にしるしてあった。
 『安吾新日本地理』第四回「文藝春秋」昭和二十六年六月号。

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コメント

継体王権の後が、王朝並立したという説を聴きましたね。

問題は、継体王権時代に磐井の乱が朝鮮半島の動乱と大いに関係があるという説だと思います。

安閑・宣化王権が正当な王朝であり、欽明王朝は別の王権であり、蘇我氏という百済系に支えられた王権であったという説でしたね。

可能性としては、あるかも知れません、だから古代史は面白いです。

投稿: jo | 2005年9月15日 (木) 07時10分

jo さん、2005年9月15日 午前 07時10分

 坂口安吾さんも、後日触れる予定の小林秀雄「馬子の墓」さんも、蘇我の先祖は武内スクネ説を中心に、あれこれ書いていはります。

 「蘇我天皇」蝦夷がヤツラノマイ(天皇しか催してはならないらしい)を屋敷で行ったとか、天皇の振る舞いをしたとか、蘇我天皇だと思えば、当たり前にみえますね。

投稿: Mu→Jo | 2005年9月15日 (木) 07時34分

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