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2005年9月22日 (木)

古墳/堀辰雄

親図書 [飛鳥路]

 堀辰雄が奈良ホテルからJ兄あてにあてた書簡風のエッセイである。
 こういう文章をまどろみの中で思い出していると、文学というのは佳いものだと思った。
 ちょっとどころか相当に気取った内容なのだが、それが気にもならなくなって、その気取りがとても気持がよい。
 
 Muはふと思った。
 Muもこういう雰囲気の世界にひたりきって過ごしていたのかもしれない、と。
 運命は不思議なもので、堀辰雄の世界からは極北の地にたっているような気がしてしまう。

 まあそれはよかろう。
 ここでは掘辰雄の世界の一端を考えているのだから、いやイメージしているのだから。

 東京でぼんやりしてしまい、時間がなくなってきたが、ともかく奈良ホテルにきた。そこで三四日は自由に過ごせた。しかし、どうしても倉敷へ行ってエル・グレコの絵をみたいから、ここも明日早朝には旅発つ、……。1941年にこういう文章を書く人が、この日本に居たという不思議さ。

 作家は夢を売る仕事なのかもしれない。
 夢なら夢で、清らかな夢がいい。
 少なくとも、堀辰雄のこの小編には、禍々しさも、露骨さも、世間の狡知もなにもない。

 畝傍のあたりを彷徨って、最終バスを乗り過ごしたから、とぼとぼ迷いながら夕闇の飛鳥路を歩き続けた。駅に着いたときは、月が背中にあった。
 柿本人麻呂が軽の村の愛人の死を偲んで詠んだ歌を思い出しながら、彷徨った。
 黄葉した山の中を亡くなった愛人がまだ悲しそうに彷徨っているかも知れない。
 そして、明日、奈良ホテルを発って倉敷のエル・グレコを観に行く。

 贅沢だ。なにが。
 当時の汽車賃や、東京・京都が8時間以上かかることや、奈良ホテルのツインがいくらかかるやら、……そういう贅沢さではない。

 そういう贅沢さは、いまでは目を剥くほどの贅沢さではない。二十代の青年が普通にすごす情景だ。
 けれど。
 こういう文章を、だれでも残せるかどうかは別のことだとおもった。よほど精神がゆたかでないと、書けはしない。豊かさが明るさとはいえない、そうじゃなくて、叙情の中に張りつめたような美への関心を持ったまま、なおゆったりと、J兄に語りかける仕草が、贅沢だと思ったんだ。

「あすは朝はやく奈良を立つて、一気に倉敷を目ざして往くつもりです。よほど決心をしてかからないことには、このままこちらでぶらぶらしてしまひさうです。見たいものはそれは一ぱいあるんですから。だが、こんどはどうあつても僕はエル・グレコの絵を見て来なければなりません。なぜ、そんなに見て来なければならないやうな気もちになつてしまつたのか、自分でもよくわかりません。僕のうちの何物かがそれを僕に強く命ずるのです。それにどういふものか、こんどそれを見損つたら、一生みられないでしまふやうな焦燥のやうなものさへ感ぜられるのです。」
 奈良ホテル、山辺の道、飛鳥路、倉敷、エル・グレコ、こういう世界がかつてあった、そして今でも、経験しようとおもえば、誰にでも出来る。  ……

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コメント

J兄というのが気になります。

ところで、”風たちぬ”は昔、百恵ちゃんがやりましたよね?一途な女の儚い姿・・・。

最近の若者のあいだでは、どないな按配なんでせうか?昔も、今も若い女性と男性の関係についたは、変わらんのでしょうね。

最近は、又、堀辰雄が見直されているんですか?

投稿: jo | 2005年9月23日 (金) 21時20分

joさん、2005年9月23日 午後 09時20分
 今晩わ、ちょっと失礼しています。
 長年ずっとお知らせしてませんでしたが、うすうすお気づきでしょうね。

 Muは文章(いま、論文)に集中していくと、外見上極端な鬱になってきましてな。要するにメル、それからblog回遊、電話なんてとんでもない、全部駄目になって、自分の文章だけは読める、書ける状態ですのや。

 便利と言えば、便利な性分ですが、結構鬱々しいことです。おそらく脳CPU稼働率が7割を超すと、そうなるのでしょう。

 今日も休日なのに、葛野で6時間休みなく論文書いておりました。ようやく、9割。
 となると、今度は完成した暁の脱力感を先取りして、ますます鬱になるという、気の早さ。
 ……

 さて、堀辰雄さんですね。
 『百年の誤読』という数年前の刊行で、この100年のベストセラーをけちょんけちょん、なで切りにした対談書評がありまして。たとえばジュンちゃん(渡辺某先生)の欠落園?なんか、もう悲惨なたたかれよう。

 意外。
 堀辰雄さんのことは、べた褒めなんです。
 不思議でした。
 堀辰雄さんは、人のこころを正しく描いたことによって、現代文学史に半永久的にのこる人だと妙に感じ入りました。

 ただしくすなおに精妙に人の心をえがくことは大切と、痛切におもいましたよ。

 古墳ですが、よい文章でした。
 J兄というのは、おそらく『飛鳥路』に掲載されている、神西(じんざい)清さんかな、と思います。堀辰雄研究家ではないので、勘でいうております。

 現代若い女性が恋愛をどうとらえているかは、不明です。聞いても、だれもおしえてくれませんよぉ。きっと、太古以来女性の気持ちはわからぬものです、(単純すぎて、と邪笑するひともおりますが)分かろうとせねば、よいのだと思います。

 さて、堀辰雄さんが、ブームなのかどうか、世上にうとく知りません。
 ただ、こういう文章を読むとですね、現代の多くの文章が、なんとなくけったいな、ゲテモノじみて見えてきます。
 なにか、いびつになってしまっているのでしょう。映画でも文学でも、漫画でも。
 
 もしかしたら、正しく心を描こうにも、その心が作者にも読者にもないから、ゲテモノじみたもので奇をてらって人目をひこうとするのかもしれません。

 だから、昨夜は古墳にうっとりして、読み惚れておりました。ということです。

投稿: Mu→Jo | 2005年9月23日 (金) 22時29分

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