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2005年9月30日 (金)

絵葉書:金沢城と兼六園

承前[MuBlog 禄剛崎灯台]

金沢城と兼六園(金沢市)マピオンBB
 [Mu註:昨日9月末に、マピオンBB地図が大改良されたようですね。マウスの真ん中の車を動かすと拡大縮小ができるみたいです]

金沢城
 旅の終わりは金沢城。と、あいなったようです。一般に金沢のことは膨大な書籍、ネット情報、そして多くの人がおとずれた加賀百万石ですから、ことさらここで一知半解な記事は書かないでおきます。
 Muですら、金沢には数度行ったことがあって、なつかしい所です。また、卒業生も数名このあたりに居て、これも、ときどき、忘れた頃に年賀状なんかいただいておりました。さらに昔の縁で知った同年代の方々も、おりおりに金沢の某組織の幹部におられまして、……。

 それにしても、ここでDeepGからの消息はぷっつり絶たれました。おそらく数名の☆達はここで散会し、近辺小松飛行場から高飛び(こういう言葉、今のミステリではないですね)したり、サンダーバードで関西に隠れたり、あるいは現地で皿洗いでもしながら、身を潜めておるのかもしれません。

 絵葉書メルがとぎれたところから、事件が発生と、まともなミステリならそうなるところですが、さて。
 まあ、絵葉書メル自体が謎につつまれているのですが、こういう決着の作品があっても、よろしいかと(笑)。
 そもそも発端は、昨年末、とつぜん見知らぬDeepGから一行メルがとどきました。発信地は、九州は深夜に近い小倉駅、「いまから南に下る、退屈だからメルした。ちょっと人に聞いてblogを見たことがあるのでメルした。寒い」でしたからね。南というと、鹿児島、宮崎、大分、……琉球!。普通は飛行機でしょうから、電車というのは、経済状態があるていど推測できますが。
 ……
 本人姿形は、年齢性別不明の、トンデモ金太郎風ぼやけた写真だけ(笑)。困ったもんです。

 それが。
 旅の終わりは兼六園。
 なんとも、言いようがない結末でした。
 一番気に入ったのは、東尋坊絵葉書でした。海の色がたまりませんね。わらったのは、ヤセの拷問です。
 ロマンは灯台です。
 よい、幻想写真集ができて、よかったよかった。

兼六園
 庭の中の橋と、松の傷を送ってくれました。説明は当地の案内板付きなので、それを見るのがよいでしょう。DeepGはもしかしたら、密かに以前からMuBlogを見ていたのかも知れません。MuBlogでこれまでやってきた写真の掲載に便利なように、ポイントや案内板が送られてきたからです。
 いや、絵葉書メルは、そうするのが世間の相場なのでしょうか。どちらにしても、写真の姿形だけではなにも分からないMuのことですから、現地案内板がそえてあったので大助かりでした。

虹橋:兼六園

虹橋:兼六園

松の傷:兼六園
松の傷

DeepGへ
 大量の良質な写真をありがとう。MuはDeepGの絵葉書メルで、2005年の晩夏を楽しく過ごせました。
 突然、単独自転車放浪先の城之崎から写真と一行メルが届いたときは、不審、わけのわからなさで一杯でしたが、その後、東尋坊からの絵葉書メルを数日おきにいただくようになって、それなりにMuの中で納得理解した次第です。
 人の心の動きなどは推し量れないのですが、要するに旅が好きで、絵葉書やたよりをするのが趣味なんだとおもいました(笑)。よい趣味ですね。

 はっきりとは、ご承知ないかとおもいますが、Muは大学で先生をしておりまして、最近はblogを使っての情報処理にこころを砕いております。DeepGのなかば気まぐれな、なかば熱心な遠隔情報発信に、それが今夏ぴたりと合致したわけです。

 どんなことでも、人生でもシステムでも、機能を設計構築し動かし、そこそこ目的を果たすことは、なんとなくやってきたMuですが、それが美的か、感動をもたらすか、気持ちよいかという点では、まったく心許ない半生でした。だから、今回の北国紀行DeepG2005も、ともかくいただいた絵葉書メルを記事にし、相互に自己参照トラックバックやリンクをはって、それらしくしましたが、胸はって「どうや、見てみいや!」とはもうしません。
 そういうわけで、いつか後年思い出した折にでも、DeepGの2005年晩夏、旅の思い出を、ご笑覧下さいませ。

追伸1
 Muも携帯(au)をもっていて、1メガ画素のカメラ付きなんですが、とてものこと今回いただいた絵葉書メルのようには写りません。全部虹がかかったように綺麗な色々なんですが、これはぁ~、まともな写真とは申せません。
 ついては、今後も画素数があがったなら(現在2メガ画素と、一行メルにありましたが)、ますますよき携帯で、遠隔情報発信、絵葉書メルを送って下さいませ。楽しみです。

追伸2
 DeepGの推定気性からして、Muが不用意に場所を指定しても、おそらくアマノジャクでしょうが(笑)、期待するところをメモしておきます。
 1.長崎(二度ほど見ているのですが、北のほうが坂道・石段でしたでしょうか)
 2.岩見銀山(洞窟大好きMu)
 3.秋芳洞(洞窟、鍾乳洞大好きMu)
 4.宇佐神宮(ネットで見た写真では、季節によっては翠が鮮やかですね)
 5.東北各地、会津、平泉、三内丸山、……
 6.沖縄、奄美、南海の珊瑚礁
 7.網走番外地
 ……、ようするに、Muは関西周辺しか見たことがないようですなぁ。

追伸3
 われながら、Muは人にお願いするにも、注文がおおすぎて、ほとんどうまくいったことはないのですが、ともかく。
 必ず正確なタイトルを下さい。「ヤセと拷問じゃなかった」ようなぁ。それと、現地案内板もよろしく。
 それと、今すぐとはもうしませんが、数年内に、正式な世間で通っている、姓名・性別・年齢、お仕事など、お聞かせ下さい。
 Muも普通に世間的人間ですから、覆面絵葉書DeepGでは、なんとなく……。

では

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2005年9月29日 (木)

光源と埋蔵物

 古墳のことじゃなくて。

 今夜、気がつくと、BS2で「第一容疑者」という英国警察・女性警視のドラマに魅入ってしまっていた。結局後編だったのだが、2時間見てしまった。
 女性警視は、元部下だった男性署長から、退職を迫られていた。
 英国政府からは、民族・宗教戦争の古傷を暴くなと、恫喝をうけていた。

 8年前に、ボスニア・ヘルツゴビナの戦争の古傷、英国にわたった元民兵が、人を殺して埋めた。それを、いろいろな事情で、元民兵が証言したから、発見されたという背景だった。

 深い穴に人骨がそのまま埋まっていた。鑑識課の人達が、ピンセットで遺体を探っていた。穴の回りには沢山の光源があって、穴の底を照らしていた。

 キューブリック監督の、2001年宇宙の旅で、前半の終わり近くは、月面に掘った穴から黒い石柱が現れ、その回りを沢山の光源が照らしていた。

 埋蔵物がでてくると、穴の回りには光源を置くようだ。
 それだけの話。
 印象深かった。

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2005年9月28日 (水)

絵葉書:能登半島・禄剛崎灯台

承前[MuBlog 千枚田]

禄剛崎灯台(石川県珠洲市狼煙町)マピオンBB地図

禄剛崎(ろくごうさき)灯台

禄剛崎灯台
 ついに能登半島最北端にたどりついたようです。写真だけは鳴り物入りで送ってくるのに、説明が、カンモクショウなDeepGのメル談[映画千年火]によれば、どうも今回のキャラバンはレンタカー&徒歩のようです。自転車ではなかったようです。

 いくつかサイトをみていると、ここからは佐渡も見えるようです。内海と外海との別れるところという一節がありましたが、海の色も変わるのでしょうね。そういうクオリア(質感)は、現地に行かないと実感がわきません。
 Muの灯台経験は、M1君と出雲へ行ったときに日御碕灯台 (ひのみさきとうだい)を歩きました。記憶では中に入ったようなんですが、はて。

灯台の感傷
 職業の上で、自分自身を灯台になぞらえることがあります。他人が聞けば笑止千万かもしれませんが。
 大学の教師は、青年が毎年社会に出て行く姿を眼前に見る立場です。彼等が社会に溶け込んでいくのは、多くの場合、キツイ思いをするものです。だいたい、真面目な学生ほど艱難辛苦の日々を送ることになるものです。そういう、まるで戦場に出向く若者達を見ていると、言葉を無くすことが多いです。

 だから、
 「僕は、灯台みたいにずっと、この大学で送電が切れるまで、うっすらと点滅しているから、格別(貢ぎ物など持って)来なくても良いから、ときどき思い出して自分自身の位置を確認してください」、と言ってきました。
 聞く卒業生も、言うMuも、キザの二乗と思いつつ、です。

 ただ、これは、畏友のふうてんさんがずっと申しておられる「定点観測」と、すこし似通っています。
 そういうこと、……かもしれません。

日本の灯台
 灯台については参考サイトに挙げましたが、Muの知らなかったことが一杯あるようです。
 この禄剛崎の場合、海上保安庁による「日本の灯台50選」、「Aランクの保存灯台」に入っています。つまり、ものすごく有名な灯台の一つなわけです。特に後者入選は、明治時代創立で、景観に配慮すべき灯台なので、さすがに「美しく写るはず」でした(笑)。

 フレネル式レンズを使っているようですが、これについては淡い記憶があります。探し出せなかったのですが、知人が以前明治村に行ったとき写した写真に、これがありました。明治村のカタログも見せてもらった記憶があります。灯台やレンズの解説記事がありました。

参考サイト
  禄剛崎温泉
  禄剛崎と禄剛埼灯台(石川県)
    <灯台用語集
  明治村(菅島燈台付属官舎《重要文化財》)

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2005年9月27日 (火)

τになるまで待って/森博嗣

承前(θ:Gシリーズ2)

 先週土曜日の午後、風呂場をリフォームしている間に『τ(タウ)になるまで待って』を読んだ。森博嗣先生の最新作、Gシリーズ3である。
 変わった作品だった。読者の反応が二分されるような内容を持っていた。だから、一晩読んで日曜の朝に考え込み、月曜は野暮な仕事に終日謀殺(忙殺でしたぁ!)されて、そして今朝、ようやく筆にできた。

 今回は、出版社の帯情報を最初に引用しておく。ちょっと気になった箇所があったので。


森林の中に佇立する《伽羅離館》(がらりかん)。‘超能力者’神居静哉(かみいせいや)の別荘であるこの洋館を、7名の人物が訪れた。雷鳴、閉ざされた扉、つながらない電話、晩餐の後に起きる密室殺人。被害者が殺される直前に聴いていたラジオドラマは『τ(タウ)になるまで待って』。‘ミステリー’に森ミステリィが挑む、絶好調Gシリーズ第3弾!

読後感の分かれ目
 さてこういう前置きをして、読者が二分されるかもしれないそこのところをちょっと考えてみる。
1.コアな読者は「館モノ」「密室モノ」の水準を妥当に味わい、「ミステリー」という伸ばす「ー」記号に笑い、落としどころに森世界の広さを味わう。
2.普通の読者は「館モノ」「密室モノ」に驚愕し、落としどころに森世界の不明瞭さを味わう。

読者Muの実像
 さてMuの境界位置、制限をちょっと記しておく。
 Muは、意外にも、土曜の夜の読了直後感は、2だった。「素人読者さん」のようだ。
 そこそこに森博嗣先生の作品を読み、わずかだが綾辻さんや、京極さんや、島田荘司さんや、内田康夫さんや、西村京太郎さんや、笠井さんや、松本清張先生、横溝正史先生の諸作を読んできた割には、うぶいというか、この「館モノ」「密室モノ」の結構に感動したし、うれしかったし、ふむふむとうなずいた。
 それにしても、御名の列挙をみていると、まるで傾向がめちゃくちゃです(笑)

 [Mu自注:これは、よそごとながら、Muは極めて素直というか、ナイーブというか、世慣れていないというか、騙されやすい性格をよく示している。人格判定に、ミステリィをよませて、どう反応するかをみる新しいプロジェクトがあってよいとおもうほどに、Muは、このことに驚きを味わっておる]

解明1:館モノ、密室モノ
 やはり、お上手だと思った。
 伽羅離館、こういう館名にときめきを味わい、巻頭の館平面図に、うふうふと心おどらせ、その立地に、まだ那古野ちかくにこういうところがあるのかと、驚いた。自動車もかよわぬ、徒歩一時間の山中に、濠をめぐらし、四角くて、窓もほとんど無い洋館があるというのに、感動した。

 [Mu自注:こういうところに感動できないと、購入した価値が半減する。ミステリー評論家とか、ミステリー作家とか、コアなファンはある意味で、お可哀想にぃ]

 巻全体の印象は、なんとなく、Muが一番好ましく思っている『笑わない数学者』に近いものだった。これを開放感と見るならば、今図書は、閉塞感からの一挙離脱、という趣だったが。

 一天にわかにかき曇り、豪雨と雷鳴、夜の暗さ、……。
 携帯電話を遮断する館。
 異界にただよう、脳天気な自称美少女・加部谷恵美(かべやめぐみ)。
 双子の姉妹が出てきそうな、吹雪は吹かなかったが、……。

 加部谷が超能力者の助けで異界に彷徨う場面は、佳かった。
 その謎をあっさり明快に解いた海月(くらげ)の聡明さ。
 脱帽でした。
 そして。
 人が一人、密室で死んだ。

 土曜の夜は、巻措いて、ここが問題になった。トリックも、館の結構も、すべて海月君と犀川先生が矛盾なく、それぞれ数分単位で、解を見せてくれた。途中、あらぬ方向に解を抱きながら読んでいたMuは、その結末に、あらためて「驚愕」した。税込み900円、著者90円支払いへの、値うちはあったぁ!
 しかし、犯人は?、何故?
 ……
 つまずきの石は、謎が解明された、その先に残った。

解明2:‘ミステリー’に森ミステリィが挑む
 日曜日の朝、ぼんやりとしていたら、不意に気がついた。その帯情報の一句にである。
 ミステリーと、森ミステリィとは、異なった概念なのだった。
 解の一つを、帯情報にいれるなんて、講談社編集部か、作者かどちらの意思かは分からぬが、こんなことって、「有り~?」嘘でしょう。いや、嘘じゃない。双子の姉妹がセリフにでてきて、吹雪の館が云々館ぬん。
 Muはやはり、焼きが回ったようでも、どっこい、往年の「鋭さ」、その切れ味が残っていた。うむうむ。

 森博嗣先生にとっては、めずらしく、メッセージ性の強い作品だったのだ。森ミステリィとは、世上のミステリーとは違うものなんだ、という芸術家のメッセージだった。

 その結果の妥当性はまた別だろう。
 世上のミステリーには、多数の読者をかかえた歴史があって、Muはその世界に「楽しみ」「生きる力」「驚き」いろいろな恩恵をうけてきた読者なのだ。あげた御名の作品はこれからも、ずっと読んでいくだろう。うふうふと、笑顔うかべて。

 しかし、森先生のそれに気がついたとき、Muは土曜の夜の読後感の、割り切れなさを、別の世界観から消化したほうが、佳い。そういう結論がでてきた。
 まだ結論は出しにくいが、ノヴェルズ一冊分のτは、完本Gの第三章であると明確に割り切ればよい、そう決心した。

 その兆候は、『四季』にすでに現れていた。
 完結しない、統括しない、閉ざされない物語世界。それが、Gシリーズにあっては、ますます顕著になってきた。
 だから、先週末Muの読後に、おりのように残った3割の不明瞭さは、現実そのものの姿なのだ。
 現実世界は、本人の死以外、永遠に終わりも、まったき解決もない。

 こういう贅沢さは、普通の作家にはなかなか難しい。

その他
 読書中、なにかと『笑わない数学者』を思い出していた。館や密室のトリックが、なんとなく解けそうで解けない、その独特のミステリィ感がただよっていて、心地よかった。こういうところが自称素直なMuの得しているところであるわいな。

 おばさま、萌絵さま、加部谷君、おんな達の描写は、本当にお上手だった。
 特に、萌絵のおばさまが、超能力者の教室に通い、その若い美形先生を愛でること、彼に熱をあげることが若さの秘密と萌絵に語り、同時に萌絵に事件がらみで聞かれて、超能力者の氏素性経歴を実に冷静に客観的に語るところなど、この世の「女」の怖さをわずか数行で、Muは深く味わった。そう、おばさまが萌絵に言うように「それとこれとは別」なんだ。

笑わない数学者/森博嗣による自注


 天才数学者の館「三ツ星館」が舞台です。実はその建物の断面図まで決めていたのですが、専門的になりますので結局はカット。こんなシンプルな住居に住みたいものです。
 さて、この作品は、最も、ミステリィファン以外の方に向いているでしょう。5連作[Mu注:S&Mシリーズの3:一般的なSM小説(笑)ではなくて、犀川創平&西之園萌絵シリーズ、のことです]の中で1冊読むならこれにして下さい。5連作の中でもっとも自分の納得のいく作品だからです。
 北村氏より頂いた凝った推薦のとおり、トリックは簡単で、誰でも気づくものです。意図的に簡単にしたのです。しかし、トリックに気づいた人が、一番引っかかった人である、という逆トリックなのですが、その点に気づいてくれる人は少ないでしょうね。でも、少なくとも北村氏は気づいたのですから、森としては、これでもう十分です。(引用URL

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2005年9月26日 (月)

絵葉書:能登半島・千枚田

承前[MuBlog 輪島塗]

白米(しらよね)の千枚田(石川県輪島市白米町)マピオンBB地図

千枚田

能登白米の千枚田
 旅はしてみるものですね、たとえそれが幻視・仮想旅行であっても。この千枚田は、棚田(たなだ)の一つで、日本でも有数の美しさを誇るようです。日本海を見ながら潮風にふかれて水田を作っていくという、この国の真情は縄文期までさかのぼるような気がするのです。もちろん、水田は弥生時代と相場が決まっているのですが、そう幻視してしまいました。

 以前、畏友のJOさんが飛鳥の段々畑や、棚田の話をコメントしてくれたのです。それが脳に沈殿していて、棚田と耳にすると、気持は一挙に古代湖だった三輪や飛鳥に心が飛んで往くと言うわけです。三輪の東の山中からは、縄文時代の遺物が出てくるようですから。

  Jo 09/06/2004 02:47:26 PM (飛鳥の段々畑についてJoメモ) MuBlog
  Jo 11/12/2004 04:00:45 PM (棚田のはじまりについてJoメモ) MuBlog

 さて能登半島の、輪島市から東北東に約10キロ、白米町の海岸沿いに「千枚田」があるようです。ネットをいろいろ見ていると、小さいのは畳2畳分(一坪:3.3平方メートル)からあって、棚になった田んぼが千枚も在るのでしょうか。地図で見ると国道249号線ですね。本当に昔の人はマメだったんですね。

 ここでの田毎の中秋名月は、どんなものなのでしょう。千の月、万の☆。

参考
  白米千枚田
  棚田講義録(2)/牧山正男(茨城大学農学部地域環境科学科)

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2005年9月25日 (日)

NHK義経(38)帰還将軍

承前

 うむ。今夜も魅入った。
 ずっとである。
 この義経は、内心危ぶむところも多々あった。一度目は一ノ谷の数回前。二度目は今夏壇ノ浦が終わった即時。
 先回は、建礼門院吉田山の場面を無事見終わってほっとした。
 今回は、次回以降、もう見ぬかも知れぬとおもってTVの前に枕をおいて、眼鏡をかけて見た。

 そういう観客の気持ちは原作者も演出も心得ているのかも知れない。次週番組予告は、これからの義経、とあった。そう。義経が壇ノ浦を終えて、京鎌倉の政争の中に巻き込まれ没落していく姿をただ延々と、師走まで見続けるのは、拷問である。マゾと化さねば見続けられるものではない。

 それを数分の予告が、ストッパーをかっちり掛けてくれた。
 なんとか滝沢義経、安宅の関までいま一杯の踏ん張りをみせて、意思を露わにするようだ。
 一安心。
 そういう気持に、夜半9時前見終わって落ち着いて、得心して、ようやく今夜も筆がすべる、心もおどる。


 久しぶりに数分見た。ずっと能子(よしこ)、能子と書いたものだから、いい加減ツノがでておるかな、と思っていたが、ようやった。つまりは男が求める女のイメージを演じきった。嘘とか真の問題ではない。あのような義経には、靜のような女があのようになぐさめてこそ、すとんと落ち着く。
 もう一度言う。嘘とか真の問題ではない。
 鬱した男に、どうせいこうせいと、そばの女が取り乱すのは、病人に劇薬を飲ますようなもんだ、なあチャングム。
 女優の人選は、よいと思っている。女が回をへるごとに変身していくのが、とてもよい。
 女優とは、すべからく、魔性なのかもしれない。

頼朝
 政治家である限り、義経をそのように扱わざるを得なかったのは、よう分かった。分かったが、しかし、後年石田三成が大江広元さんの役回りでふるまったばっかりに、関ヶ原で負けたのを思い出した。頼朝もそうだ、あっけなく身内筆頭北条家に源家をのっとられてしまったではないか。

 大江は言うた、いま九郎義経を鎌倉にいれることは、他の御家人に示しがつかぬと。これは小才の官僚の言葉である。凱旋将軍を遇することなく、なにが武人の、武家の統領ぞ。
 古来もっとも老獪陰険な政治家なら、凱旋将軍を迎え、しかる後に毒殺謀殺し、しかるのちに盛大な国葬をあげることだろう。
 砂漠の狐、ロンメル将軍は、そうだったような。
 武人とは、悲しいものである。

 凱旋将軍九郎判官義経を、犬猫あつかいした鎌倉政権は、間違っていた、と今夜はっきりMuは悟った。
 Muがタイムマシンを持っていたなら、さっそく頼朝の寝所へまいり、「徳川さんは、こうしはりましたで」と、いうところである。義経は、九州鎮台にすればよかろう。さすがに、東北に備えるのは、頼朝の立場ならできない相談であろう。
 ところで、北条は、平姓のはず。とすると、源氏は身内の義仲、義経を滅ぼすことで、すぐに平家に逆転されたことになる。

生き残った平家
 それぞれが、それぞれであった。敗北とは辛いものである。
 しかあれど、人は皆死す運命にある。
 気持を全うした上での敗北が余生を豊かにする。たとえ数日後斬首の憂き目にあおうとも、気持がねじ曲がったまま、半生を呪いながらの最期は、つまらぬ。
 そのあたりを、今夜も上手に描いていた。
 宗盛は、しかし、非才を噛みしめ辛いことだったのかも知れない。彼、名優だと思った。

あれこれ
 頼朝、迫真。徐々に目を開く様は入魂であるなぁ。中井さんは素晴らしい。
 今期義経で、始めて中井さんの良さが分かった。

 政子、なかなかにお美しくみうけられる。うむ。
 大姫、九郎のおじさんに逢いたいとは、まこと脚本が泣かせる、感心。
 残った平家一門、みんなよかった。(平家の一門の固有名がわからなくってな、すまない)
 行家のオジキ、まあ憎々しげなセリフまわし、これも迫真。
 弁慶の愛人さん、うふふ。
 お徳おばあさま。
 ……
 ああ、きりがない。大河ドラマの登場人物は、ほんとうに多彩。
 忘れるところでした。
 後白河法皇と鼓さん。このお方達がいてこそ、朝廷の威厳が、伝統が、闇がくっきりと浮かび上がってくる。まりさんは予告でしか見かけなかったが、それにしても、お三人の迫力で、当時の朝廷のすごさを表現するとは、これはこれで、ものすごい話である。

では次週。また見ます。

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日記の日記

☆ 日曜の朝、ぼんやり。起床が8時すぎ、ぼんやり。
☆ 今日は仕事をしようかどうか、迷いだした。今日すませると、心つもりの決着が完了して、よい気持。しかし、ぼんやり。だるいなぁ。

☆ トースターにパンを入れて、新聞を読んでいたら「ポン」、焼けたかなとおもいつつ新聞。トースターを見るとパンが無い。「飛んだ?」その通り、裏に落ちていた。手を隙間にいれてパンをつかむ。「あれ?」冷たい。焼けたパンが冷たいとは? 気がついて、さらにのぞき込んだら、あった。拾ったら、暖かい。埃をはたいて口にした(笑)。いつのものなのか古い焼けたパンは、もったいないが、捨てた。

☆ トースター菌、という言葉が浮かんだ。イースト菌の間違いだろう。トーストとパンとの区別が数十年間分かっていない。喫茶店でのモーニングセットには、バタートーストとか書いてあるような。パンとは書いていない。パンはギリシャの神さまか。若い者達の屯所(右京区葛野の一室)での昼会話を思い出した。「朝はトーストですませました」眼前の学生は、あんパンを食べていた。

☆ 旅をする人達の話をよく聞いてきた。Muは旅好きだがめったに行かない。事情はたくさんあるが、まあよかろう。で、行ってみたい、行ったことが在るところを、今朝思い出していた。変なのか普通なのか。
 「古墳、神社、寺、城、博物館・美術館、風景の良いところ、鍾乳洞・洞窟、山の上、ホテル、旅館、曰く在る旧跡、……」
 決まっていくところが、お城と博物館のセット。不思議なことに、県庁所在地に多い。

☆ お城。明石、姫路、彦根、篠山、松本。小倉、熊本、犬山遠望、岐阜遠望。広島。

★ あさからぼんやりしていると、こんな考えが浮かんできて、気がついたら10時前。

■ 思い出した、昨日土曜日留守番していた。
 25年振りのリフォームで、風呂場が新品になった。職人さんの仕事ぶりが、あらためて凄いと思った。
 水道、ガス、電気、それらの配管、テスト。説明。旧設備破壊、新設備搬入、ガス釜調整(後で中に隠れる)、……。肝心要の組み立て。微調整、十回ほど呼ばれた。入り口を右に一センチずらしてよいか。シャワーの高さ、コントローラの位置、沢山あった。

 9時前から夜の8時まで。汗だくで、一人。もう一人は、新旧設備の搬入搬出。風呂場にいたのは、終始50前後の職人さん。頭が下がる思いがしたよ。
 日本のモラルは、まだ壊れてはいない、そんな一日だった。
 経験とか、年齢。大切だ。おそらく、20代だと、数人で二日以上かかるだろう。現場によって、微妙に条件が変わる。すべての判断の要素を抜き出し、場合によってはオーナーに聞かないとだめ。
 狭い作業場、水道、ガス、電気、……難しい。
 感動した。11時間で、きれいさっぱり仕上げた。
 25年振りに、☆☆☆☆シティーホテルのバスルームみたい(笑)
 人間は素晴らしい。

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2005年9月24日 (土)

絵葉書:能登半島・輪島塗

石川県輪島市地図

承前[MuBlog 能登二見]

輪島塗の箸、お椀

輪島塗の箸
輪島塗のお椀
 さて北国紀行絵葉書たより、今夜は輪島塗です。といっても、撮したDeepGも、記録するMuもどうやら輪島塗がどんなものかは、さっぱり。最初の方の便りでは、「輪島の朝市じゃ~」と言ってきたものですから、編集するMuも、「これが、どうして朝市?」と、わけのわからない始末。

 さっきまたしても、携帯ががんがんごんごん(嘘)何分間もなるものだから、ひょいと覗いてみたら、くるわくるわ大量メル絵葉書。そん中にたったの一行。出店でおばあちゃん達が「買わんかえ!?」と声をかけてくれた市場の雰囲気は、普通のカメラの方に撮し、Mu用のこれらは、店内ディスプレイとのこと。なんだか、騙された気分になった(笑)。

 しかし、よくながめると、これが携帯? と思うほどに鮮明。200万画素らしいです。
 実は、とここで告白。
 箸の方は、最初全部縦写真で送られてきました。それで、店内とわかる方の写真(左上部)は、なにが写っているのかさえ判別できなかった。次に翌日到着した大写しの箸(左下部)を見て、始めて「ああ、箸なんか」と分かった始末。

 ところで、輪島塗がどんな漆器で、どういう歴史があって、どうして石川県輪島なのか、そういう疑問には参考にあげたサイトが全部答えてくれます。

参考
  輪島漆器商工業協同組合 [Mu注:掲載写真とは関係ありません]

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2005年9月23日 (金)

チャングムのこと:2005年初秋

承前[チャングムの誓いと丸薬]

 そういえば、blogの源流のひとつは日記を書く仕掛けだった。
 というわけで、今朝の日記。

チャングム
 昨夜、波瀾万丈というよりも、重いチャングムの顔を見た。優れた女優らしいが、女優という見方が消えてしまっているので、名優なのだろう。言ってみれば、聡明な娘とか姪のような、極めて優れた学生の、そんな味わいである。
 終わった内容だから、ある程度昨夜の詳しい絵解きをメモしておく。

 王様と皇后様がいる。
 王様には前妻の王子が居る。病弱である。後ろ盾は、皇太后、すなわち王様の実母となっている。
 後妻の皇后様には幼い息子がいる。

 当時の朝鮮宮廷王朝の常識として、王が変われば王宮の権力構造ががらりとかわる。
 病弱であっても前妻の王子(皇太子)が王につけば、今居る皇后(後妻)および幼い王子は粛正される。
 おそらく罪を着せられて命を失うか、宮廷から追放される。

 こういう雰囲気は、日本でも6世紀~平安時代初期には、いろいろあって悲劇が残っている。
 しかし日本では、世俗の権力が武家に移ってからは、朝廷では穏やかになった。
 その分、武家の世界では、血で血を洗うお家騒動となったが。
 現代日本でも、世界でも変わらない。

 チャングムは、皇后にも、王にも深い恩義がある。命を救われたことが幾度もある。それはチャングムが王や皇后の危機を救ったからでもある。
 王も皇后も、一介の医女、チャングムを高く評価している。

皇后の依頼
 ある夜、皇后から呼ばれ、皇太子の命を縮めよ、と言われる。命令というよりも、「チャングム、お前を助けたのだから、今度は私をたすけておくれ」「このままでは、私が病気になってしまう」と、こういう関係である。
 皇后は徐々に鬱に入ってきている。確実に、皇后親子が数年後、粛正されるのは、見ていてもよくわかる。実は、チャングムの母親も、そういう宮廷陰謀によって毒殺されたが、友の助けで宮廷を逃れ蘇生する。そしてチャングムが生まれた。

 チャングムは数日後、「出来ません、命をとってください」と皇后に答える。
 医術も料理も、人を殺めるために使ってはならない、そういう意思のもとに、亡き母や旧師・ハンサングンの復讐を成し遂げたのだから、もし皇后の意に従えば、憎きチェ一族と同じ人間になってしまう。

 そのやりとりを、王に聞かれてしまう。
 王に密かに呼ばれる。
 「王命である。皇后に何を頼まれたか、答えよ」
 チャングムの気性性格として、絶大な権力を持つ王と言えども、皇后との信義を売れるわけがない。

宮廷の闇
 これまで、皇后や王が、女官よりも立場身分の低いチャングムを、なにかと、その才能と人柄故に目をかけてきて、たびたびチャングムは九死に一生を得た経緯があるから、昨夜の設定は厳しいものだった。

 そう言う意味では、最大の敵役、チェ一族女官長や、その姪・クミョンですら、ファンが多数つくほどに、憎々しげな陰謀、卑怯、奸計の中に、ふと「しかたないなぁ」と思わせる状況設定があった。

 王すら、まして皇后すら、勝手気ままに振る舞うこともできない。
 王は以前チャングムの復讐心を知った際にも「チャングム、お前を助けることは、またこの宮廷に血をみることになる、それを余にせよというのか」といい、皇后は、「お前が私を助けてくれなければ、……。私はお前に、そばにいて欲しいのだ」といわしめる。

 陰謀・悪意の中に、常に追いつめられた者の状況が鮮明に描かれる。
 恋愛においては、チャングムの復讐の前に破れ、女官職を剥奪され追放されたクミョンの哀切な気持が胸にせまった。
 クミョンとチャングムは、同じ男をずっと、幼い頃から慕っていた。

 ということで、今朝一番の日記は、チャングム、来週木曜はどうなるのだろうね。人生は重いなぁという、感慨で終える。

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2005年9月22日 (木)

古墳/堀辰雄

親図書 [飛鳥路]

 堀辰雄が奈良ホテルからJ兄あてにあてた書簡風のエッセイである。
 こういう文章をまどろみの中で思い出していると、文学というのは佳いものだと思った。
 ちょっとどころか相当に気取った内容なのだが、それが気にもならなくなって、その気取りがとても気持がよい。
 
 Muはふと思った。
 Muもこういう雰囲気の世界にひたりきって過ごしていたのかもしれない、と。
 運命は不思議なもので、堀辰雄の世界からは極北の地にたっているような気がしてしまう。

 まあそれはよかろう。
 ここでは掘辰雄の世界の一端を考えているのだから、いやイメージしているのだから。

 東京でぼんやりしてしまい、時間がなくなってきたが、ともかく奈良ホテルにきた。そこで三四日は自由に過ごせた。しかし、どうしても倉敷へ行ってエル・グレコの絵をみたいから、ここも明日早朝には旅発つ、……。1941年にこういう文章を書く人が、この日本に居たという不思議さ。

 作家は夢を売る仕事なのかもしれない。
 夢なら夢で、清らかな夢がいい。
 少なくとも、堀辰雄のこの小編には、禍々しさも、露骨さも、世間の狡知もなにもない。

 畝傍のあたりを彷徨って、最終バスを乗り過ごしたから、とぼとぼ迷いながら夕闇の飛鳥路を歩き続けた。駅に着いたときは、月が背中にあった。
 柿本人麻呂が軽の村の愛人の死を偲んで詠んだ歌を思い出しながら、彷徨った。
 黄葉した山の中を亡くなった愛人がまだ悲しそうに彷徨っているかも知れない。
 そして、明日、奈良ホテルを発って倉敷のエル・グレコを観に行く。

 贅沢だ。なにが。
 当時の汽車賃や、東京・京都が8時間以上かかることや、奈良ホテルのツインがいくらかかるやら、……そういう贅沢さではない。

 そういう贅沢さは、いまでは目を剥くほどの贅沢さではない。二十代の青年が普通にすごす情景だ。
 けれど。
 こういう文章を、だれでも残せるかどうかは別のことだとおもった。よほど精神がゆたかでないと、書けはしない。豊かさが明るさとはいえない、そうじゃなくて、叙情の中に張りつめたような美への関心を持ったまま、なおゆったりと、J兄に語りかける仕草が、贅沢だと思ったんだ。

「あすは朝はやく奈良を立つて、一気に倉敷を目ざして往くつもりです。よほど決心をしてかからないことには、このままこちらでぶらぶらしてしまひさうです。見たいものはそれは一ぱいあるんですから。だが、こんどはどうあつても僕はエル・グレコの絵を見て来なければなりません。なぜ、そんなに見て来なければならないやうな気もちになつてしまつたのか、自分でもよくわかりません。僕のうちの何物かがそれを僕に強く命ずるのです。それにどういふものか、こんどそれを見損つたら、一生みられないでしまふやうな焦燥のやうなものさへ感ぜられるのです。」
 奈良ホテル、山辺の道、飛鳥路、倉敷、エル・グレコ、こういう世界がかつてあった、そして今でも、経験しようとおもえば、誰にでも出来る。  ……

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2005年9月20日 (火)

高齢者(老人)差別

 最近、新聞で高齢者(老人)差別の記事があった。アメリカや欧州での話が題材だった。
 いろいろな差別がある。人種差別、性差別、貧富差別、学歴差別、容色外見見栄え差別、出自差別、……。
 なにかで差を見つけると、ことさらに優位性を誇り、劣等を作り上げる。人間の歴史始まって以来、戦争と差別とはつきもののようだ。

 アメリカではずっと、人種差別、性差別が深層にうごめいてきた。なんとか取り繕ってきたが、両方とも根が深い。おもうに、レディーファーストなんかは、徹底的な性差別の裏返しに見えてしまう。勿論我邦でも差別は数多あり、似たような問題はあるのだが。

 身近な例でもうすなら、私の祖母は、医師、歯科医、眼科医、薬剤師に対して激しい差別観を孫の私に吹き込んでいた。いまの医学部、薬学部を目指す人が知ったら、驚くだろう。その内容もしっかり覚えているが、差し障りも多いので、ひかえておく。(昔の同窓生には、この関係者息子が全種いた)

 やっと、本題。高齢者差別である。
 年齢的に、若年時のことを思い出すと汗が出る。確かに差別してきた。だから、今度は私が今から、いや数年前から差別を味わいだした。アメリカでは、仕事がまだできるとアピールするために、私の年代の人はビタミン剤を飲んで、シミを整えて、皺を整形して、ジョギングに励むのが、よく見られとのことである。これは表層の問題だが、深層からにじみ出す防衛態勢なのだろう。

 日本社会ではどうだろうか。そして私は。

 確かに、体力は落ちた、根気もつきてきた、判断力もときどき機会を一瞬見逃す、対応がおっとりしてきた。もちろん、良い面も多いが、そうでないことを多く自覚してきた。
 それだけなら良いのだが、社会的に差別と感じるのは、再就職などで一番味わうのだろう。あるいは、リストラ問題。

 高齢者、65歳以上の人口が20%、5人にひとりがそういう時代になってきた。差別を受けたとしても、私はおそらく言わないし、blogにも書かない。真の差別は、人に声高に言えないところに潜む。なにが、というよりも、諦念が強くなりすぎて、引きこもりになっていく可能性が気になる。

 周知のように、アメリカが風邪をひくと、しばらくして日本は、大病になる。
 アメリカや欧州で、高齢者の差別が目立ってくると、日本もそうなる。
 さて、どう対応すべきなのか。なかなか考え込むところである。

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2005年9月19日 (月)

金魚鉢というよりも水槽

承前[金魚と住む]

 昨日は日曜だったが、朝から出町・川端通りへでかけ、金魚鉢を買った。というよりも、四角い水槽である。
 こんどのは幅が45cmもあって、水も沢山はいる。
 
 あと、それようの浄水ポンプ、水を入れ替えようのサイフォン・ポンプ、綺麗な小石、それと田舎の風景セット。
 あわせて七千円ほどの出費だったが、まずまず。

 昼はそば定食をひさしぶりに食べて、卵焼きやヒビキの添え物も食し、満足した。
 それから野暮な話になるのだが、葛野へ行って仕事した。
 なんとも、せっぱ詰まってくると、仕方ない。
 多分、今日もそうなる。

 昨日日曜なのに、大学には学生がいて授業をしていた。補講とか集中授業とかがいくつもあるようだ。
 おまけに、倶楽部の人も忙しげに屯所を出入りしていた。
 みんなそれぞれに、仕事があるようだ。

 帰路、北の空に雲のかかった満月が見えた。
 さて。
 今日は休日だが。

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2005年9月18日 (日)

NHK義経(37)帰京

承前

帰京
 今夜は久しぶりに鎌倉の、頼朝がでてまいった。
 京都官僚の大江広元の言上による、先に後白河院より、鎌倉に無断で任官した三浦一党、合計二十数名の処分である。頼朝は、義経をリストからはずし、その者らへの沙汰を義経に、言わしめよ、とした。実は、無断任官の筆頭は義経だった。
 沙汰は、美濃のスノマタ川より東へわたってはならぬ。もし破れば領地没収、斬罪に処すとのことだった。

 義経は、リストから外されたことを、兄の弟への温情と思い、弁慶と喜色をかわす。
 梶原の軍目付報告には、政子も頼朝も、九郎は戦の作法を知らぬままに大将になったと、とがめ少なし。
 しかし、義経が無断で神器鏡と勾玉を院へ返却せしこと、頼朝激怒。
 「九郎は、何も分かってはおらぬ」と。
 以後、都に急使「義経に従ってはならぬ」と。

 義経主従、都にて孤立。

建礼門院徳子
 祇園八坂神社の東にある、長楽寺にて落髪。
 義経、徳子らが親王と住まう吉田山(?)へ訪れる。
 義経、親王が実は安徳天皇であることを知ったが、胸に納める。
 徳子は、義経に秘やかに頭を下げる。
 「こののち、親王も仏門にはいり俗世を離れ、恨みもなにもない世界へ行く」という風に伝える。
 義経を見送る徳子、能子、明子(あきらけいこ)、……

感想
 義経は兄・頼朝の勘気の理由がわからない。とうぜん郎党の誰一人として、分からない。
 わずか一日で、平家を全滅させた軍功を持つ義経が、何故。

 人は言う。
 政治を知らない、愚かな義経。
 それを支える政治顧問、参謀を一人も持たなかった、哀れな義経。
 戦、それも奇襲、機略、戦いのエチケットを知らない義経。
 ……
 義経までが自問自答する「戦(いくさ)の終わった今、私はもう兄の役に立てないのだろうか。マツリゴトには、参画できないのだろうか」と。
 鞍馬の師匠は言う「重荷をすてなされ。修羅に疲れたなら、逃げなされ」と。
 義経答う「郎党を捨て去ることはできない」と。

 いろいろ、司馬遼太郎先生も、そして宮尾さまも、言うておられるが、Muは今夜あっさり気持が収まった。
 義経が、もし鎌倉殿ならば、義経の思うままにすればよい。それが法理。

 だから、勝った義経は、院につくか、奥州藤原につくか、西国、九州で独立国を打ち立てるか、その三つ。
 兄頼朝は、関東御家人に取り込まれているのだから、もう義経の役には立たない。
 Muならば、平家ゆかりの武士団を統合し、西国、九州に国を建てる。
 ……
 そう思った。
 そういうイリュージョンの中で、これから師走まで、義経の最期をみてとろう。なにしろ、大モンゴル帝国の創始者かも知れない人のことだから。

推定地図
  六条堀川義経新邸(昔の五条は現在の松原橋あたりらしいから、ちょっとずらして)
  長楽寺(これは、今あるところ、多分正確)
  吉田山(と、耳にしたが、どうしてか)
  大原関係は、また後日に、もっと物語がはっきりしてから。

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2005年9月17日 (土)

絵葉書:能登半島・機具岩(はたごいわ)能登二見

機具岩(石川県羽咋郡志賀町富来生神)マピオンBB地図

承前[MuBlog 厳門]

機具岩(はたごいわ)能登二見
 さて、この能登二見(機具岩)は、先回の厳門(笑)からみて、地図上で真北2キロのところにある。ちなみに先回間違った「ヤセの断崖」は、この機具岩から直線で、北北西11キロあたりに位置する。だから先回の「ヤセの断崖・看板」は、厳門とは切り離して再編成すべきかもしれないのだが、なに、そこは未知の領域故に、こういう間違いがあっても、ご愛敬(笑)。

風景写真の誤認話
 地元の人が観れば怒るかも知れないが、Muも、京都を訪れて写真をとった旅人が、後で嵐山と宇治とを間違えても、斑鳩の法隆寺と太秦の広隆寺とを撮し間違えても、なになに金閣、銀閣をまちがってさえ、まあ、そばにありますから、ようまちがえはりますなぁ、ですませておこう。
 程度の問題だが、そのうち、寺と神社を間違え出すと、多少はMuもムカッとするけど。だれかが三輪の大社を撮して、「寺~」なんてほざいたら、怒髪冠を刺す。(本当は難しい事ですが、神仏習合)

 だがまてよ、京都市民、奈良市民でも、大澤、広澤、猿澤の三澤・池の写真をみて判別できる人は、何パーセントだろうか。おそらく、ゼロコンマ以下だろうなぁ。
 (と考えると、ゼロの焦点、ヤセの断崖と、厳門とを見間違えても、……。うむ、ここまでMuも屁理屈男だったのか)

 この掲載写真を見て案の定、最初Muは、左下の丸っこい岩を、機具岩と誤認した。しかしこれは、どう考えても、単に標識代わりに使ったものなのだろう。機具岩(はたごいわ)は、右下の二見岩を指すと思っている。いや、もちろん後日に、DeepGから一行メル「すみません。あれは、伊勢鳥羽の二見でしたぁ~」となるかもしれないが、まあ、それもご愛敬。

機具岩伝説
 古代、お姫様が賊におそわれて、えいやっと機具(機織り機のどこでしょう?)を投げつけたら、それが夫婦岩になったとかいう伝説らしい。案内板には、そのお姫様がヌナキイリヒメノミコトと、だけ記してある。
 さて、ここからが大問題である。ヌナキイリヒメノミコト、これはどこかで目にした耳にした。
 神名は似ている柱もおはすから、簡単には言えないが、近所のナンデモ海部族史家にもお伺いをたてないと、あとで泣きを見るのだが、たしかに、北陸関係の御姫様に「ヌナ」の付く神は、おはしたはず。たしか、翡翠と関係が深いような(調べりゃ分かるだろうが、まず推論)。そして、ああ、思い出した。

 崇神天皇の御代。そうでした。
 荒ぶる神々が祟りに祟ったとき、天皇はどうされたか。宮居に併せ祀っていた天照大神と、大国魂神とのために、巫女をたてました。一人は、アマテラスさんを、娘のトヨスキイリ・ヒメノミコトに、一人は、オオクニタマさんを、娘のヌナキイリ・ヒメノミコトに預けて、宮から出ていただいたわけでした。
 ところが、うまくいかなかったのです。国中の疫病やまず、ことに渟名城入姫命は髪がおち、やせ細ってしまい、大国魂神(おおくにたまのかみ)を祀ることも出来なくなったのです。
 さて、その崇神天皇の皇女・渟名城入姫命は、この能登半島、日本海に面した二見岩に祀られ伝承を生んだという渟名木入比咩命(ぬなきいりひめのみこと)と同じ方、いや神様と思って良いのでしょうか。

ヌナとも謎に
 とここで、翡翠の話になると、「渟名(ぬな)」という名前が別の方と関連を持ってきます。万葉集に関連するのですが、浅学故に、他の人の記事をあげて、お終い。(歌語り風土記・奴奈川姫:新潟県

 またこれは、古事記(上巻)にも、ぬなとももゆらに~という言葉があって、国語辞典レベルでも意味がありました。つまり、「ぬ」は玉、「な」は「の」の意味で、玉の擦れ合う音、すなわち漢字表記で「玲瓏」になっていきます。
 要するに、ヌナとは、玉の意味を持っていて、さてそれから翡翠、北陸、機織りとどう続くのか、おそらく識者にはよおくおわかりなのだと思いますが、浅学Muは、今夕これにて失礼つかまつりまする。

 願わくば、写真が鳥羽の二見岩でないことをねがって、また次回。

参考までに
  保田與重郎『機織る少女』がありまする。Muの記紀の知識の多くはこういう図書から承けています。

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日出処の天子(4)/山岸凉子

承前

日出処の天子-4/山岸凉子
 この巻は雨乞いと巫女と、伊勢斎宮と石上斎宮(いそかみさいぐう)と、仏教と神道のことが、一つの解釈としてよくわかる。また、人と人との愛憎についても、ようやく明確になってきた。いや、分かってはいたのだがこの世界に徐々になれてくるまでは、理性が拒絶していたのだろう(笑)。理性などあると思ったこともないが、ようやくこの半ば、4巻になって、Muは立場や性別を超えた「愛」というものを、山岸がどう描こうとしているのか、自然に飲み込めるようになってきた。

 愛の複雑な相関を、ここでメモしておく。多岐にわたるので、その中の要点だけを記す。
 なお、↑↑は強い愛情、執着。↑は、好意。毛人(えみし)の、厩戸王子への愛情は、まだ明確ではないが、強い。

        厩戸王子(うまやどのおうじ:のちの聖徳太子) 男
          ↓↓↑
        蘇我毛人(えみし:蝦夷) 男
        ↑↑↓  ↓↓↑↑
 蘇我・刀自古郎女 物部・布都姫:石上斎宮(巫女)
 (とじこのいらつめ)  (ふつひめ)女:物部守屋の娘
  女:毛人の実妹 

 妹が実兄(えみし)を物狂おしく、しかも心中深く押さえ込み、愛する姿。刀自古は大王(おおきみ:崇峻天皇)からの入内要請を嫌悪し、婚礼の前日に入水自殺を図るが、別の用で偶然通りかかった厩戸王子の通報で、生を得る。もちろん何故自殺未遂を起こしたかは、大王を嫌っていることは分かるが、廻りのだれも、それが兄への執心であるとは気がつかない。

 一方、兄の毛人は、橿原に隠れ住む石上斎宮布都姫と相思相愛になる。言葉もほとんど交わさずこうなってしまうというのも、男女の仲。それは不自然な描き方ではなかった。そうなるだろうな、という流れであった。ところが、二重三重に制限が生じる。厩戸王子の冷徹な洞察と計算によって、大王は布都姫を知ってしまう。女狂いに近い大王は、后にむかえようとする。しかし、巫女を妻にすることは天が許さぬ、地が許さぬ。石上斎宮辞任を画策する動きが、雨乞いとなる。
 布都姫は複雑な立場だった。彼女は、滅びた物部守屋の実の娘でもあった。残った物部一族にとって、蘇我の毛人は敵(かたき)でもあったのだ。

 さて。厩戸王子。彼は異能の人であった。天地神祇を自在に操る、魑魅魍魎を手なずける、心を読む、母親でさえその才能、異能の前に、実の息子厩戸王子を避ける。その王子が唯一ままならぬこと。それは、毛人なしでは、自らは欠落のある人間であるという自覚である。しかるに、毛人は王子のそこまで深い、切実な要請に気がつかない。どころか、布都姫への愛の前には、王子への理解が遠のく。

 なんと複雑な人間関係。
 そして、Muがどこまでそれらを、4巻目までひたりきって、得心できたのか。
 少しく、後巻のためにメモをしておく。

1.毛人と布都姫との愛情
 これは、厩戸王子の思いに賛成するので、ただの男と女の相思相愛に思える。お互いに、相手の才能などを必要とする愛ではなくて、「困窮の中、助けてくれた毛人さま」「布都姫、あなたほどの美女は二人といない、」そもそも、発端はそうだった。だから、まあ数ヶ月フェロモンの狂乱に、狂っただけのごく普通の恋愛。
 雨乞いを失敗した布都姫に厩戸王子は冷たくつぶやく、「恋をした、ただの女に、神慮は見えぬ」というようなセリフだった。たしかに、布都姫の顔がなにかの事情で醜女風になったら、毛人、どうする!
 ただし2点メモすると、作者が布都姫を今後どうするのか、まだMuは知らない。
 それと、布都姫という存在、守屋の娘にして巫女、石上斎宮を、出してきた作者の力量には、唖然としている。感嘆である。  

2.刀自古の、兄・毛人への愛情
 当時ならぶものなき才能を持った厩戸王子から、切実に求められるほどの毛人。その毛人を兄として、幼時から慣れ親しんできた妹・刀自古。まだぼんやりした男に描かれているが、毛人(えみし)は蘇我一門を引き継ぐ長男である。長きにわたる信頼と兄妹愛が、いつしか、兄を「男」として見てしまっていた。
 記紀にある近親相姦の様態からみると、あり得る話として、リアルに思えてきた。また、集中、女性としての描かれ方は、ここまででは刀自古が一番冴えている。(布都姫の場合、七支の秘刀を捧げ持つ巫女姿が一番だったが)。
 史実としては、刀自古は厩戸王子の妻(正妻は、貝蛸姫か、芋蛸南京姫か? この世界の史実はMuには分からない)となるはずだ。さて、この世界ではどうなるのかぁ。

3.厩戸王子の毛人への愛情
 一番問題が深いので、今日はここまで(笑)
 ただ、メモとして、つまり人間存在の深奥で、欠落した部分を補う他の存在。それが、王子にとっての毛人(えみし)だった。たまたま相手が同性の男だったという描かれようである。
 ただし、どうなるのかは最終巻まで、それはお楽しみ。ヘテロ野郎のMuにも、そういう機微は興味深く思える(笑)。

 愛情問題に筆をとられて、肝心な事を書くのを忘れるところだった。
 厩戸王子は、伊勢斎宮を、神仏を含めた新たな「神」としてとらえていた。
 それに対して、石神斎宮を、古き神だけのものとして、含意していた。

 このあたりの、筆致は、またしても作者の力量を仰ぎ見るMuでありました。単なる知識の列条ではなく、物語の流れにおいて、要所要所で厩戸王子に、朝廷を、百官を、そして読者をうならせるセリフを吐かせる。うむうむ。

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2005年9月16日 (金)

絵葉書:能登半島・ヤセの断崖看板と、巌門

ヤセの断崖(石川県羽咋郡志賀町前浜)マピオンBB地図
巌門(石川県羽咋郡志賀町富来牛下)マピオンBB地図

承前[MuBlog 福井県の東尋坊]

能登半島:ヤセの断崖
 人とは贅沢なもので、数日前に東尋坊の綺麗な写真を受け取ると、一昨日は「メル絵葉書はまだか、次はまだか」と仕事の合間に心待ちするしまつ。しかし、メルで督促するのも行儀が悪く、また相手がなにかと「トンデモ・天邪鬼」と見抜いてもいたので、捨て置いた。すると、昨日午後。
 くるわ、くるわ、携帯電話が鳴りっぱなし(笑)。なんというか、DeepGのやりようは以前から、激しい。で、文面は一行だけ「圏外でしたぁ」。

 というわけで、今日はその中の二編をMuBlog幻の北陸紀行にまとめ入れることにした。残りは後日に。

 Muは、昔職場の親睦旅行で能登へ行くはずだった(30年も昔の話)。ところが台風接近というので取りやめになった。Muは若くて愚かだったから、幹事たちに悪態をついた記憶がある。「台風くらいで、やめるなんて、根性がない」。もう、20代のMuは対人も対社会も、いまから思い出すと赤面するくらいむちゃくちゃだったようだ(赤面)。

 その能登へDeepG達はたどり着いたようだ。東尋坊からどうやって、どのくらいのグループで、電車なのか徒歩なのかバスなのか、そこらは全く不明だが、写真だけは着いた。
 
 「ヤセの断崖」(看板)。これは、大昔小説でも読んだし、TVドラマでも見た。松本清張の名作『ゼロの焦点』の名舞台になったところだ。TVドラマでは、この地方のお葬式、野辺の送りがとても印象深かった。しかし、清張さんもようまあ、ああいう状況設定を考えたものよ。と、未読の方は御覧あれ、たしか新潮文庫でした。

 ところで、おまけに、近所には義経の舟隠しもあるそうだ。今年のNHK義経がどこで終わるのかは知らないから、なんとも言えないが、もし舞台になったら楽しみだ。

参考までに
  絵葉書:東尋坊[MuBlog]
  ヤセの断崖(石川 能登)
  義経の舟隠し
  巌門(じゃらん)

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2005年9月15日 (木)

飛鳥の幻/坂口安吾

親図書 [飛鳥路]

 無頼派の作家・坂口安吾の名探偵ぶりによると、蘇我天皇というものがあって、蘇我蝦夷・入鹿の親子がそうだ、となっていた。
 根拠は、岩波文庫[Mu推定:1941年刊]の上宮聖徳法王帝説には、決まった箇所に虫食い文字があり、その場所が丁度、蝦夷や入鹿の役職を表すところにあたる。その虫食いに見える欠字は、人為的なものではなかろうか。この現在に伝わる上宮聖徳法王帝説は何かを隠している、となる。

 日本書紀は欽明天皇のころから躍起になって、後年の、645年のクーデター(蘇我入鹿が後の天智天皇や後の藤原鎌足に、謀殺された、いわゆる大化改新)を正当化するような記事の書き方が始まる。ヒステリックに、予兆、物の怪、妖しい唄が流行っていたと書き連ねる。おかしい。蘇我が滅ぼされたのは、多くの予兆の結果、まるで自然現象のように描こうとしている。

 聖徳太子と蘇我馬子(入鹿の祖父、蝦夷の父、聖徳太子の親戚)が、氏族伝承や歴史を集め編纂した天皇紀、国記、氏族の本記は、一部が蘇我の館から持ち出され中大兄皇子に献じられたが、残りは蘇我の滅亡で焼失したとある。だが、これは、焼いたのは蘇我ではなくて、政変を成功させた中大兄皇子や鎌足だったと言っている。入鹿を殺した後、当事者達は草の根をわけて聖徳太子の残した歴史書を探し出し、すべて焚書したのだろう。

 つまり、本当の歴史は全部焼き、蘇我が天皇だったことを隠したのが日本書紀である、と推理が進む。

 さて、小難しい雰囲気になってしまったが、安吾流の書きっぷりは実に爽快だ。
 昭和20年代初期に、蘇我は大國主命の系列だとか、蘇我天皇がいたとか、飛鳥に散歩してうそぶくなんてのは、時代はかわれど、おもしろい人は探せばおるのだな、と、うれしくなった次第である。

Mu注記
 この安吾の小論の初出は、親図書の『飛鳥路』巻末にしるしてあった。
 『安吾新日本地理』第四回「文藝春秋」昭和二十六年六月号。

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2005年9月14日 (水)

ちょっと考え込んだこと

 blog以外では、顔を出さない日常なので。

 普通に生きているつもりだが、そうとばかりみられていない視線も感じる。
 しかし、そんなMuでも、なんとなく苦笑いというか、判断に窮することもときどき味わう。
 いろんな人がおるんやなぁ~という、おかしみ。
 状況の背景ぬきでどこまで「窮したさま」が伝わるか、こころもとないのですが、メモしときます。

1.先般、ある日の午後に突然メルがあった。「おや?」で、読んでみた。
 「先生! さっき、男の子が生まれましたぁ~」
 うむ。最近は、こういう速攻連絡もありなのかぁ(笑)
 こういう職業(教師)ならではの経験に、ある種おかしみを味わいました。

2.昨日葉書がついていた。
 「私のことを覚えてらっしゃいますか? 夏に入籍し、もうすぐ海外で式をあげます」
 うむ。おぼえているのかなぁ~(笑)
 まあね、他の職業では経験しない、なんとなく笑える状況ですよ。

3.これは、身近なところで、目点がまだ元に戻らない話。
 「内定、ことわりました」
 「どうしてかなぁ。で、どうするの?」
 「さぁ~」と、妖しの微笑。
 幾度もの面接を経た上での内定をとりけして、今はもう秋。
 うむむ、わからない。

4.最後はお笑い。
 「就職、どうやろうねぇ~」
 「まだ、まだ」と、あっさりした様子。
 で、そこからスペシャリスト談義が始まった。

 要するに、広島焼き原産地の人なんだが、えんえんと、ソースばかり塗る仕事、青のりばかりふりかけるスペシャリストの話になった。
 そのまえに、広島焼きとは、どのように作るかの講釈をその者から聞いた上でのこと。
 結論は、時給換算すると、一日千枚は焼かないと成り立たないスペシャリストと、でた。
 (実は、12年前に、似た話があって。その時は、たこ焼きに爪楊枝を立てるスペシャリスト談義だった)

 というわけで、Muの頭の中は、いつも「?」が連続で行進している、毎日でした。

Mu注記:ケース1と2とは、いま気がついたのですが、年齢が全く同じ。要するに、今を去る「ん年前」、同学年のひと達でした。

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2005年9月13日 (火)

絵葉書:東尋坊

東尋坊(福井県坂井郡三国町)地図

東尋坊の夏

東尋坊の夏
 以前は四季折々に絵葉書が届いたものだ。筆無精の身には、返事を出さなくても良い絵葉書は、心にしみる。相手が旅先や別荘地で、長期滞留の者なら、返事を書こうと焦るところだが。
 ところが、最近はメール絵葉書が届くようになった。
 東尋坊、これは知り合いのDeepGからもらったものだ。

 実は、この8月には城之崎から温泉写真が不意に届き、驚いた。文面がだった。自転車で単走しているとのことだった。真夏に一体どうして? と思った。メールだから、すぐに「一体、何をしておるのか」と、問い合わせたが、返事もなかった。もともと以前から「トンデモ金太郎」と呼んでいるDeepGのやることなすことは、理解できないので、そのままにした。なぜトンデモ金太郎なのかは、まあ、実物を観ればわかるのだが、詳細に記すのはやめておこう(笑)

 昨日、また不意に絵葉書メルが届いた。今度は福井のようだ。電車の切符も写っていたから、自転車単走ではないなと思ったら、あんのじょう、旅の行く先々で友人達と合流しながら、国内を旅しているとのことだった。

 そういうわけで、幻想の旅の記念にMuBlogで使わせてもらうことにした。Muは心で国内のあちこちへ行きたいと思いつつ、なにかしら、木幡と葛野しか知らないままだ。代わりに、方々へ手の者を派遣しているとおもえば、それも旅かもしれない。

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2005年9月12日 (月)

白鳥異伝(はくちょういでん)/荻原規子

承前:勾玉三部作(1)空色勾玉

白鳥異伝/荻原規子 作<ハクチョウ イデン>

白鳥異伝/荻原規子
 (BN15137558)
 東京 : 徳間書店, 1996.7
 598p ; 19cm.
 (BFT[Mu注:徳間書店のシリーズで、Books for teenagers。つまり少年少女むけ図書])
 注記: PTBLは背から
 ISBN: 4198605408
 著者標目: 荻原、規子(1959-)<オギワラ、ノリコ>
 分類: NDC8 : 913.6 ; NDLC : KH454

所蔵図書館 84[By Webcat 20050911]

帯情報

 遠子(とおこ)と小倶那(おぐな)は双子のように育った。都に出る日、小倶那は誓った……必ず遠子のもとに帰ると。けれども小倶那は「大蛇(おろち)の剣」の主(ぬし)として帰り、遠子の郷(さと)をその剣で焼き滅ぼしてしまった……。
 「小倶那はタケルじゃ、忌(い)むべき者じゃ」大巫女(おおみこ)の託宣を胸に、何者にも死をもたらすという伝説の勾玉の首飾りを求めて旅立つ遠子。だが、ついに再び会う日が来たとき、遠子の目に映った小倶那の姿は……?
 神代から伝えられた「力」をめぐって、「輝(かぐ)」の未裔(すえ)、「闇(くら)」の未裔の人々の選択を描く、ヤマトタケル伝説を下敷きにした壮大なファンタジー。

Mu注記:感想
 荻原規子による勾玉三部作の、その2にあたる。

 さて本書はヤマトタケル伝説を下敷きにしていると帯にあった。もちろんそうなのだが、ファンタジー、物語としてその完成度は非常に高い。また謎も多い。そして、神と人との狭間にたつ小倶那(ヤマトタケル)の悩みも深い。一々の表現、描写の密度も高い。そうじて、これを十代向け幼童話としての装いを持たせるのは、もったいない。荻原規子は、先回の『空色勾玉』までは未読の人だったが、今生、巡り会えて喜びがわき上がってくる。相当に読まれている図書と見当をつけているが、もしこの大部な『白鳥異伝』、あるいは勾玉三部作、あるいは最近の『風神秘抄』が多数の少年少女に読まれているならば、わが国の将来にもうっすらとした光が見える。

 Muが特に感心したのは、そう、目から鱗がおちたのは、神と人との狭間にたつ古代の英雄の悩みというものを、本書であますところなく味わったというところである。小倶那(おぐな)は、ある種因縁によって強力な剣(つるぎ)を扱う者としての出生を自覚する。その力は、多くのアニメや、漫画に表現されてきた最終兵器、あるいは現実世界に存在する核兵器のようなものと考えれば想像がつく。これを、本書は「神の力」とする。野山を殺し、村人を殺戮し、敵を破壊し、恋人を殺し、そうして最期に我が身すら殺す、神の力である。

 この神の力がどれほどすさまじいか、その中で巫女というものがどれほどの力をもつものか。本書によって、Muは震えながら、そのイメージを感じ味わった。
 恵みをもたらす神とは、同時に荒ぶる霊でもある。
 その荒ぶる様とは、大雨が降り、疫病がはやる程度のものではなかった。

 この力は一体何なのか。まほろばの大王(おおきみ)の妹、齋王モモソヒメが長らく齋(いつ)き奉ってきた大蛇の剣(おろちのつるぎ)にその秘力がある、とMuは思ってきた。それを操れるのは、小倶那(ヤマトタケル)一人であると思ってきた。しかし、終盤にいたり、小倶那は恋人の遠子につぶやく、「あれは、ヨリシロにすぎない」と。

 謎は深まるばかりである。

 小倶那がその破壊兵器である大蛇の剣を、その剣の力を捨てることが出来るのかどうか。剣の破壊力に立ち向かえる唯一の武器は、伝説の玉の御統(みすまる)しかない。しかし、その五つの勾玉を連ねた御統(みすまる)は、本書では完成しない。五つの勾玉を探して、遠子は、出雲のスガルとともに九州に渡る、東国に渡る、四つは見つかった。四つの勾玉は「死」をもたらす。しかし、小倶那に一身化した邪霊の執心を破ることは、四つの玉の「死」をもってしてもできなかった。どうなるのか、……。

 謎多き物語だった。そのほとんどは、解き明かされる。だが、残った謎も多い。
 
 小倶那とは、何者なのか。その父は、母は。本書の中盤に、小倶那は登場しない。その間を、スガルという長身、赤毛、女好きのする若者が遠子を導く。この、絶妙の人物に読者は惹きつけられるだろう。そして小倶那はようやく終盤に、現れる。これ以上ないほどの、うち捨てられたおびえ、ふるえながら、なお英雄として部下や村人にあがめられる小倶那(ヤマトのタケル)として、遠子の前に立つ。

 遠子とは、何物なのか。ただのやんちゃな少女が、何故「玉の御統(みすまる)」を操れるのか。
 小倶那と遠子は、なぜ、憎み合いながらも惹かれるのか。
 多くの謎は、解き明かされつつも、その底になお深いものがあり、それに触れてまた謎が生じてくる。

 神と人との狭間に苦悩する姿は、わかりやすく人間の絆の相克に表現されている。
 ともかく、父殺し、母殺しをしなければ、かえして、恋人さえ殺さざるをえなくなり、また自らも破滅するという関係を、古代ロマンの中にこれほど、迫真の筆致で描いた物語は、あまり経験がない。人の匂いのするそういう関係が、神と人との相克に直結するという文学を、十代少年少女の為だけに読ませるのは、もったいないことである。長く生きてきた者達こそが、さらに深く玩味するところであろう、か。

補注
 精緻に記すことはしないが、倭媛命ではなくて、ヤマトトトビモモソヒメらしき人が大王(景行天皇比定)の妹である結構に、Muはいたく感心した。ここに、記紀風土記を下敷きにしたとはいえ、創造の力がみなぎっている。また、倭建命の命と引き替えに海原に身を投じたオトタチバナヒメに比定される人物は、櫛を海辺に残してはいるが、……(笑)。いや、物語に飽きない、倦まない。巻を閉じたとき、楽しさ、うれしさが全編をおおっていた。

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2005年9月11日 (日)

NHK義経(36)壇ノ浦置きみやげ

承前

 故あって気がつけば夜半九時を過ぎていた。しかしすぐに、義経が選挙番組で19:15から始まって、すでに終了していたことにも気付いた。さっき、ようやくBS2で見終わった。BS2はチャングムだけと思いきや、義経も放映していた。便利な世の中だ。

 で、今夜の義経は。

 女優達、平家の上臈達がみな素晴らしかった。役者というのは、いつも入魂と思いはするが、それにしても白々しいドラマに比較して、この大河ドラマは夏を過ぎる頃になると、おそらく質ある人達は、その世界に没入しているのではなかろうか。八ヶ月も同じ役をこなしていると、肌から離れなくなった仮面が素面になって、顔や形になじんでしまう。それは観る方も演じる方も、そうなのだろう。

 建礼門院徳子と、そばのお二人。髪がみだれ面やつれした様は、眼前に一千年前の壇ノ浦にいるような気持にさせられた。徳子は、以前からだまっておったが(笑)、そりゃそうだ、帝の御母君、国母さまであらせらる、まことに魅力的なお方になっておられた。怨ずる目元、口元、さもあらん、と妙に得心した。

 戦にやぶれ入水し、助けられた後のお方とはこうであろう、とそのまま見入っていた。目の動き、演出のなせるわざと思いつつ、帝の行方に秘めるささやかな目のきらめきが、印象に残った。

 さてまた、能子(よしこ)。
 くだくだしくは書くまい。おそらくこの女優は、開眼したのだろう。この人は、セリフが哀調をおびる。明るい脳天気な若い女性達が、心を情景・対象に投入すれば、今夜の能子のようになるかもしれないと、ふとおもった。が、瞬時に、やはりこの女優だから、能子だったと思った。

 義経は。
 デルファイの神託、というのかアポロン巫女の神託ともうせばよいのか、ギリシャ悲劇になる。お徳の呟きが、まだ晴明な今は、義経は生きている。しかし、お徳の呟きが地の底からわきあがる呪詛になったとき、義経は生を終える。そうおもった。
 お徳が義経を呪詛するのではない。義経を死に至らしめた運命を呪詛するのだ。
 そうであれば、義経は燦然光彩陸離とした「悲劇」になる。
 壇ノ浦が悲劇の始まりだった。世のありようを変えてしまった義経には、それしかない。そのように断じたのは、お徳だった。Muにはお徳の呟きがそう聞こえた。

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飛鳥路

飛鳥路
  亀井勝一郎、小林秀雄、保田與重郎、坂口安吾、
  堀辰雄、神西清、折口信夫、山本健吉、入江泰吉
  地図(石舞台周辺

飛鳥路/亀井勝一郎 ほか著
 飛鳥路/亀井勝一郎 [ほか著]
  <アスカジ>. -- (BN02314107)
  京都 : 人文書院, 1970
  177p ; 20cm
  内容: 飛鳥路 / 亀井勝一郎 ; 蘇我馬子の墓 / 小林秀雄 ; 桧隈墓の猿石と益田の岩船 / 保田与重郎 ; 飛鳥の幻 / 坂口安吾 ; 古墳 / 堀辰雄 ; 白い道のうへに / 神西清 ; 軽の蓮池 / 神西清 ; 飛鳥をおもふ / 折口信夫 ; 古事記の空・古事記の山 / 折口信夫 ; 飛鳥路をゆく / 山本健吉
  注記: 写真: 入江泰吉
  著者標目: 亀井、勝一郎(1907-1966)<カメイ、カツイチロウ> ; 入江、泰吉
  (1905-1992)<イリエ、タイキチ>
  分類: NDC6 : 291.65 ; NDLC : GC176
  件名: 奈良県 ーー 紀行

所蔵図書館 19[By Webcat 20050908]

目次情報
 飛鳥路/亀井勝一郎
 蘇我馬子の墓/小林秀雄
 檜隈墓の猿石と益田の岩船/保田與重郎
 飛鳥の幻/坂口安吾 [→MuBlog記事]
 古墳:一九四一年十二月/掘辰雄 [→MuBlog記事]
 白い道のうへに/神西清
 軽の蓮池:或ひは、古市幻想前記/神西清
 飛鳥をおもふ/折口信夫
 古事記の空 古事記の山/折口信夫
 飛鳥路をゆく/山本健吉
 写真*入江泰吉 
 飛鳥地図

写真情報 (入江泰吉による、モノクロ)
  川原寺の礎石(カバージャケット)

全般、および亀井勝一郎関係
  剣池、孝元陵のそばから西方に畝傍山を望む
  大原の里、後方の山は多武峯(とおのみね)
  飛鳥寺本堂
  香久山から西方に畝傍山を望む
小林秀雄関係
  石舞台
  石舞台、玄室口
保田與重郎関係  
  天武・持統帝 桧隈大内陵
  鬼の俎(まないた)
  欽明陵の杜(右)と猿石のある吉備姫王の墓(左の木叢)
  猿石の一つ
  猿石の一つ
  益田の岩船、台石上の碑脚穴

神西清関係
  古の軽の地といわれる見瀬の里
  菖蒲池古墳、玄室口
  石川の里、精舎跡
  五条野の里、孝元陵への道
折口信夫関係
  稲淵(南淵)の里から北方を望む
  飛鳥川(川原寺の東方)
  甘橿の丘から見た飛鳥坐神社の杜
  飛鳥坐神社正面
山本健吉関係
  甘橿の丘から北方の眺望 右に香久山、左に耳梨山、左手前の杜は雷の丘
  [Mu注記:耳梨山は、現代表記では耳成山が一般的か]
  甘橿の丘から西北方の眺望 上方が畝傍山
  浄見原宮址 上方右に香久山、左に耳梨山
  山田寺址

Mu注記
 収録された各エッセイについては、おりおりに別記事を立てていくつもりだ。
 葛野の机上に以前からこの本一冊が所在なくおいてあった。意識してではなく、なにかと重宝だから、身辺から手放さなかったのだろう。

 最近のMuBlogで飛鳥の石舞台がよくアクセスされる。数多いblog記事の中で、MuBlogに巡り会うのも多生の縁。少し追加記事を書いてみたいと昨年から考えていたのだが、そのことは以前『墓盗人と贋物づくり』を読んだときにもよい機会があったのだが、……。優柔不断の常なれば、ついついぼんやり日を過ごしてしまった。

 と。実は、本書には小林秀雄の『蘇我馬子の墓』が入っている。高校を卒業したころに、文庫で読んだものなのだが、これは石舞台古墳のエッセイそのものである。とは言っても、馬子の先祖かもしれない史上妖しき武内宿禰の物語に目を奪われて、……。小林秀雄というひとは、上手やなぁ~と、感心して頁を蓋してしまった。あまりの上手に触れると、とやかく言いたくなくなるものだ。

 それにしても、坂口安吾という、Muの知らない時代に活躍した作家の名探偵ぶりには、うふうふ。

 と、あれこれ書いていくと、また頭がかんかんになって、日常のお仕事に差し支えるので、今日はこれでやめておこう。文学とか歴史とは、まあ、Muにとって毒薬のようなところがあるので、摂取量を加減しないと、日常廃人になってしまう(もう、遅いとも耳にするが)。

 そうそう。この35年前の図書をとってみて、編纂する、編集するという行為は大切だと思った。時が過ぎても、往時の一級の文筆家、写真家の仕事を、まとめて手に取ることができる。堀辰雄の小文がこんなところに入っているなんて、ながく気がつかなかった(いや、忘れていた)。編集は、著作に匹敵するという考えは、時に味わう。で、今日も、この図書を見ていて、切実にそう思った。

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2005年9月 6日 (火)

またりん君に朝顔を

朝顔一輪

またりん君に朝顔を
 朝顔の一輪を部屋に飾った。たくさん咲いていたので、部屋も花にした。花の好きな猫君だった。なんともいいようのない性格だった。おとなしくて、ふくむところがあって、聡明で、上品で、じっと外界を見つめていた。なによりも頑固だった。そのまたりん君に朝顔を、この言葉が自然にでてきた。

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2005年9月 5日 (月)

日出処の天子(3)/山岸凉子

承前

日出処の天子-3/山岸凉子
 この3巻は、崇峻天皇(泊瀬部大王:はつせべのおおきみ)が暗殺される前夜と考えて良い。このあたりの血縁関係は複層しているのでいくつかの親族視点がありうるのだが、厩戸王子(うまやどのおうじ)を中心にすると、現天皇は、母の穴穂部間人媛(あなほべのはしひとひめ)の同母弟にあたる。つまり叔父である。
 さらに先代の用明天皇は実父で、その父の姉は実力者額田部女王(ぬかたべのひめみこ)となる。かの女は、実は先々代の敏達天皇の后だった。つまり、額田部女王は厩戸王子の伯母にあたり、やがて推古天皇となる女性だ。
 で、さらに重要な点は、後の推古女帝と厩戸王子の母とは、異腹の姉妹になる。
 ここで、第3巻に話を戻す。

 つまり、この漫画は非常に精細な古代史を描いている。親戚血縁の複雑さの中で、その関の人間関係をリアルに再現しているのである。こういう点は、絵からもキャラクターが特徴的に描き分けられているので、1巻目ですでに、厩戸王子の母と、叔母とは一目でわかる。また、血縁図もある。

 さて、Muが作品に真のリアルさを味わったのは、才能ある厩戸王子を母が後ろ盾するのか、叔母が後ろ盾するのか、この複雑な様子をすっきりと描いているところにあった。二人の女は共に先の后、先々代の后である。後の推古女帝は、菊見の宴にさそった厩戸王子が、招待に応じるか、あるいは同日、母と弟たちと自家の菊見に参加するのか、試みる。その時のセリフが鋭いものだった。

「あの子は、間人媛(はしひとひめ)の器量には大きすぎる息子なのかもしれない」
 叔母の誘いを断ることもできた王子は、乗った。
 そして、実母の間人媛はいう、
「あの子はわたしよりも額田部女王さまを選んだ……」

 これはしかし、息子、甥にかかわる、女性の感覚的・生理的ぶんどり合戦話ではない。明確に権力の維持、政争が絡んでいる。愚かしく描かれた現天皇(崇峻:泊瀬部大王)の次代は、才能見識血筋から、厩戸王子であるとは衆目の一致するところであった。次の天子を、異腹姉妹のどちらが手中にするかによって、両家には、様々な波及がある。もちろん、漫画自体は実母と王子との関係を、さらに陰影深いものとして描いている。

 多少、話が理屈に傾いたが、もうひとつ記しておくならば、ここに蘇我蝦夷(毛人)と王子との複雑な愛情がからまる。しかも、毛人(えみし)は実質的最高実力者、大臣蘇我馬子の息子であり、なおしかも、厩戸王子の母方叔父が馬子なのである。

 新出の人物として、石上(神宮)・斎宮の布都媛(ふつひめ)が毛人の前に現れる。この人物は2巻の巻末座談会で作者と氷室とが、ふたりして笑っていたキャラクターなのだが、Muはある事情から作者の意図とは別に、重要視している。まず、専門家でない限り、この漫画の愛読者でない限り、だれも天理市にある石上神宮に、当時斎宮がいて、それが物部守屋の縁者だと、想像することは出来ないだろう。真偽を言っているのではなく、歴史の状況設定の巧みさである。そういう、歴史のツボを、山岸はいともあっさりと描ききっている。恐るべき力量と、Muは瞠目した。

 なお、この3巻まできて、Muはふとあることに気がついた。ここに描かれた厩戸王子は、丁度邪悪な安倍晴明という趣だったことにである。

注記
 巻末対談は作者と梅原猛である。これは、すばらしいことだ。

 また、Muはまことにわかりにくく理屈じみたことを記したが、漫画自体は、そういう系図の複雑さなど「うざったきこと」を一切感じさせない。そこがまた、不思議なほどよくできている。

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2005年9月 4日 (日)

NHK義経(35)壇ノ浦残照

承前(NHK義経)
承前(壇ノ浦の今)

 今夜のNHK義経は、お徳が語ったように、悲しいとか可哀想悲惨とかという情感をこえて、「空」、強いて人間的に申せば、寂寥感を味わった。だから、ここでそれを縷々語り記すことは、今は、はしたないことと思った。いつか、総集編のころに、思い出しつつ、とつおいつ、記録しておこうと考えている。

 ただ、イメージとして深く焼き付いた映像がいま、眼前をフラッシュバックしていく。

 義経の、知盛を前にしての八艘飛びが金色に光っていた。砂金が空に舞っていたのだ。
 知盛が、見るべきほどのものは見つ、いまや自害せんと思うにいたった流れが心に染みこんだ。
 義経は、人ではなかった。彼もまた時代に橋を架けた鬼神だったのだ。

 二位尼の義経に向けての微笑がえもいえぬものだった。人は死すとき、呆然となって入水する直前、あのように世界を人を眺めるのかも知れない。

 明子(あきらけいこ)の、堰を切った涙が実に自然で、そして切実だった。涙流すよりすべはなかったのだろう。

 いつにもまして息を止めて見ていた。
 記録も採った。そして、そのような技術的記録をしていたことに、西海に陽が沈んだとき気がついた。そこに、現世に生きる、生の実感を味わった。おそらく、芸術とは、オブジェクト(対象)そのものの資質よりも、それをどのように味わい銘記するのかに要点があると、今夜知った。

 平家物語を持ち、義経伝承をもち、毎日曜の夜にNHK義経を見て生を味わい、美の様式を心にはぐくむことの出来る現世は、この日本は、優れた時代を持っていると言えよう。なぜ、人はそれに気がつかぬのだろうか。乏しき時代なのではない、乏しき精神故なのだ。

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壇ノ浦の今:義経・壇ノ浦戦・前哨

承前

 昨日に続いて、NHK義経・壇ノ浦の合戦を見る前に、予習をしておく。
 現在の壇ノ浦がどんなふうなのか、知っておきたかったからである。
 (となると、来年は大坂城や、関ヶ原へ行かねばならぬのだが、功名が辻・司馬遼太郎)
 大学卒業の2月か3月、卒業旅行へ資金難ゆえにいけなかったMuは、貧しき友と語らい3人で、車に寝起きするだけの旅行をした。その時、萩から下関にでて、門司・小倉・博多・太宰府と進んだ記憶がある。
 当時、あっというまに渡った九州だが、いまそこがどうなっているのか。写真で見ておこう。

関門橋

関門橋
 この橋は1973開通なので、Muの時代にはなかった。だからトンネルを使ったのだろう。現在、トンネルと関門橋の棲み分けがどうなっているのか、ふと気になったが、まあ「壇ノ浦の合戦」には縁も遠いのでよしておく。Muは、こういう橋をこういう角度で撮ったり見たりするのが好ましい。いつかはここを走ってみたいと、そんな気持になる。全長一キロ程度だが、こちら側の壇ノ浦PKも、向こうのレトロ門司港近くの和布刈(めかり)パーキングエリアも景色が良いとのことだ。九州は浪曼に満ち、そして関門はフグの薄造りに満ちている。よきかな、よきかな。

壇ノ浦

壇ノ浦
 撮ったのが年末の、曇りがちの日のようだ。冬の海なんだろう。どこに立って、向こうがどこかは、正確にはわからない。ただ、ここが壇ノ浦だということは分かる。ここを源平の兵船が入り乱れて戦った。双方あわせて1200艘ほどだったのか。飛んだ矢は、浮いたのか沈んだのか。鎧兜に身を固めた武者が船上で争った、というのは、水泳の好きなMuにはわかりにくいことでもある。映画小説と異なり、靴を履いたまま、ズボンのままでは、水中では相当に動きが鈍る。海だから、浮力はあろうが、鎧兜は重いだろうから、落ちたら沈む。この海に、落ちた源平、目に浮かぶ。

壇の浦古戦場址

壇の浦古戦場址

安徳帝御入水之処
安徳帝御入水之処

御裳川橋
御裳川橋

参考サイト
  義経伝説紀行 第19話
  壇ノ浦の合戦、平家の最期

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2005年9月 3日 (土)

長州砲:義経・壇ノ浦戦・前哨

壇ノ浦のあたり、詳細地図概略地図

 明日の日曜日は、NHK義経も、ようやくクライマックス、山場のひとつ、壇ノ浦の戦にたどりつく。今日はその前哨戦(笑)として、19世紀末の、日本と諸外国の海戦模様の残照を見ておきたかった。
 以前、このあたりの知人から写真数葉をいただいてしばらく忘れていたが、今日と明日に使わせてもらう。
 で、本日はくだんの馬関戦争(四国連合艦隊下関砲撃事件)に関係する、長州砲のことである。

天保製長州砲

天保製長州砲
 1864年、下関事件とか馬関戦争という名で、壇ノ浦あたりが戦場になったようだ。まだ未生の時代だから、どんなふうだったのかは未詳である。そもそもは長州藩が、早鞆ノ瀬戸(はやとものせと)という、下関壇ノ浦と門司和布刈(めかり)とを挟む700mに満たない水道にむけて、大砲を撃った。相手は米仏蘭の船だったようだ。で翌年1864年、米英仏蘭の四カ国が艦隊を率いて下関を攻撃し、上陸し砲台なんかをぶち壊したらしい。その時、持ち去られた砲の一門がフランスで発見された。そのことは次の説明に記してある。

長州砲の解説

天保製長州砲解説
 長州藩は高杉晋作がでてきて四カ国と和議を結んだらしい。Mu思うに、このとき対岸の門司、つまり小笠原藩はどうしていたのだろうか。また長州はなんでそんな無謀なことを、と思うと同時に瀬戸内海という内海を、その四カ国は勝手にうろうろしていたのだろうか。もちろん幕府との関係、長州藩との関係、調べ出すと司馬遼太郎(笑)、Muもそこまで酔狂ではないと書けば司馬先生や幕末研究家や地元史家にもうしわけない。

 壇ノ浦の戦いが1185、寿永4年3月24日、今を去る820年前。
 馬関戦争と壇ノ浦戦は680年ほどの時代差がある。
 地勢は、いつの時代にも、人間に影響をあたえるのかもしれない。
 たとえば、壇ノ浦の戦いは、まず平氏が彦島からでて、門司北端の田野浦に船団をまとめた。そして幕末の四カ国船団も同浦に集まった。つまり、早鞆の瀬戸の潮の流れを避けるためである。

 なお馬関とは、下関の旧称「赤間関」からきているらしい。これが「赤馬関」と書かれ、赤をとって馬関。ほんまかな?
 そして最大のMuらしい疑問。神武天皇さん時代、この瀬戸の様子はどうだったんだろう、ということ。

参考サイト
  下関・門司・長府めぐり

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2005年9月 2日 (金)

嵯峨野トロッコ列車の鉄橋渡り

嵯峨清滝展望台(京都市右京区嵯峨清滝)マピオン地図

嵯峨野トロッコ列車遠望

嵯峨野トロッコ列車遠望
 過日気晴らしに清滝へ行った。このあたりまではMuの庭だった。展望台から見える地域、この山の中からも小学生の頃、友達が嵯峨小学校へ通っていた。落合という所は、神秘の瀬だった。オチアイと兄たちから聞くだけで、ぶるぶるだった。深い透明な冷たい水、そんな記憶がまだ残っている。

 カメラを廻りにむけていると、鉄橋があった。なにかが動いていたので、シャッターを押したはずだ。汽車(電車をみても旧国鉄を走るのは、汽車と、Muの脳には定着している)と、思ってそのまま忘れていた。昨日、大きな原版をトリミングする話を書いていたので、おなじくやってみた。
 あった。
 ぼんやりと、トロッコ列車だった。
 これはめずらしい。
 地図で見ると500m離れたところから、光学3倍ズームで撮したことになる。

 保津峡といえば保津川下りと嵯峨野トロッコ列車が定番だ。以前、船下りを十数名の学生としたとき、別の者達はトロッコに乗ったはず、と思い出した。京都以外から来ている学生は、入学のおりに京都見物の家族と乗ったりすることが多いようだ。あとはグループやカップルで。

 この日は、偶然にもそれを遠くから撮してしまっていた。
 いつかトロッコ列車に乗ってみたい。その時は、望遠レンズで展望台を撮すだろう。となると、また、500m離れていても高精細に写る高級なカメラが欲しくなる。人間は、きりがないな。
 ただ、5年間ほど使ってきたディジタルビデオがあるので、そのレンズだと、光学20倍ほどあったろうか、もっとちゃんと写るだろう。ほんと、きりがない。

参考サイト
  嵯峨野トロッコ列車(公式HP)

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2005年9月 1日 (木)

平等院梵鐘、桐原水のトンボ

 数ヶ月前に、4メガピクセルの小さなデジカメを入手した。使い方に慣れず、うろうろしてきたのだが、最近巨大画素カメラの良さがようやくわかってきた。つまり、望遠レンズの効果とはまた異なるのだが、高精細度なので、ある程度自由にトリミングをしても、なかなかディスプレイ上では100%原寸表示ができず、これが逆に良い結果をもたらすことに気がついたのだ。
 もちろん、こういったblogで表示するには、640x480程度の画像ファイルにしないと、現状では扱いが悪くなるという限界も作用している。つまり。トリミングを極端にしても、640x480なら、そのまま100%画像として蓄積できるという利点というか、効用があったのだ。
 なかなか、いわんとすることが伝わりにくいものだ(笑)
 
 えっと、原板が2272x1704もあるので、640x480までトリミングしても、100%精度が可能ということだ。
 まだ、つたわりませんか?
 ならば、実例をお見せする。以下の二つの写真は、ほぼ100%である。なかなかに、離れて撮った写真も、ふと気がついて細部をトリミングしても、精度が残るということです?

梵鐘:平等院:レプリカ

梵鐘:平等院:レプリカ
 これは平等院の宝物館のそばにある梵鐘です。国宝らしい。といってもレプリカです。Muは、高校生のころ、ここに本物があったのを見ています。さて、この模様は何なんでしょう。なんとなく、ライオンが噛みついているように思えるし、龍かもしれない。本当は、ここで美術書なんかを見れば解答があるのでしょうが、ちょっと無粋ですので、ここのところは、龍が雌獅子に噛みついていると想像しておきます。どうなんでしょう。

参考宇治平等院[MuBlog]

桐原水:宇治上神社:トンボ

桐原水:宇治上神社:と、トンボ
 これは泉に水の輪が次々と現れては消えていく一瞬です。よくみると、トンボがいました。最初、まったく気がつかなかったのです。100%表示して、走査していて始めてトンボと分かりました。泉とは、世界遺産・宇治上神社の境内にある桐原水です。覆屋があって、その中は石垣で廻りがかこってあります。なんとなく怖い雰囲気でした。「桐原」というのは、ここが宇治天皇の桐原宮だったという伝承からでしょうか。それとも、桐原だったから桐原宮?(笑)

参考宇治上神社の桐原水[MuBlog]

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