NHK義経(31)屋島と逆艪:さかろ
今夜もおもしろかった、またあっという間に時もすぎた。だから書くことは少ないのだが。いくつか。
1)猟師
一ノ谷で知り合った猟師が義経のもとに駆けつけてきた。三郎という名が伊勢の三郎と混同するので、熊とよぶことになったとか。突然だが、朝鮮の「金」などはどうしてきたのだろう。全国みんな親戚扱いで良い面もあろうが、……。
山の民が全面にでてきた。そして屋島に渡る大阪湾では、海の民が全面にでてきた。
先般来畏友Joさんが申してきたように、義経は海と山の民に庇護されて育ち戦い、それは天皇に直結するバイパス路。
これまでもやもやとしていた義経の源像がはっきりとしてきた。
戦も、平地平野での大軍同士の会戦よりも、ゲリラ的な戦法。
梶原・軍目付(いくさめつけ)と争うのは当然だったろう。
2)逆艪
海戦で退却を容易にする艪を舳先に付けるには数日かかる。
義経が反対したのは、この時間が惜しかったからだとおもった。
「退路を用意するのは、士気に関わる」「この一戦しかない」と、ドラマで義経が息巻いたのは、事実はどうか分からぬが(笑)、「時」をやり過ごすことに反対したのだろう。
梶原景時の申し状はいちいちもっともである。Muが目付ならば同じことを言うだろう。しかし実際は150人程度が先乗りしたのだから、義経が短慮だったとは思わない。別働隊と考えれば、パターンは一ノ谷と同じになる。(と、Joさんもいうてはりました)
*)まとめ
JoBlog解説では海の民も山の民も、農耕とは異なる。梶原のセリフ「我らには守るべき領地がある。九郎殿にはそれがないから、あのような捨て身の戦さばかりする」からして、鎌倉関東御家人は百姓、屯田兵みたいなものだったのだろうか。戦が無いときには、鍬で畑を耕しながら、師弟に武術や読み書きを教えていたのだろう。
とすると、義経も、その郎党も、全く別の世界の住人だった。「狩猟漁撈」は、百姓とは生き方が異なる。だから、戦さも世界観も違っていたのだろう。
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コメント
断片的に観ました、先週分は昨日観ました。
Muの旦那も私の意見に近くなって来ましたね?(笑)
国の統治には実利の世界だけでは、無理なんやね。企業にもCEO(会長)とCOO(社長)が必要なんです。
日本列島を統治するには、氏神様の盟主が必要であり、あらゆる民を精神面、実利面で統治する必要があります。
梅原先生は日本の国のかたちを決めたのは、藤原不比等であると言われたが、多くの歴史家も概ね賛同してる筈ですね。天皇を君臨すれど、統治せずとしたかたち、です。
私は、天皇という存在は目に見えない諸々全てを、今でも気を使う存在の方であると思います。
義経の生まれ育ちを考えると、関東牧場主連合の盟主たる鎌倉殿とはどうも、違うと思いますね。
義経の戦争手法は勿論、楠木正成に似てますが、秀吉の戦争手法にも似てますね。彼は川中衆とかノブセリを使いました。そして、関白として国を治めたわけです。
投稿: jo | 2005年8月 7日 (日) 22時59分
joさん、2005年8月 7日 午後 10時59分
調べる前にJoさん頼みが多いのですが。
Muはずっと義経の腕にある腕章みたいな、デザインが気になっとります。
なんとなく現代的なデザインですが。なんなのだろう。
海山連合隊のマークだろうか(笑)
投稿: Mu→Jo | 2005年8月 8日 (月) 05時44分
今回は、楽しく観る事ができました。特に、景時が言った「所領を持つものと持たぬものの違い・・・」は聞かせました。そうすると、所領を持たぬ義経は、どうして生活しているのか気になります。私は今、池宮影一郎著平家(三)(角川書店発行)を読んでいますが、この書では、義経のバックは、後白河法皇になっています。奥州へ行かせたのも、鎌倉へ行かせたのも、法皇が、金売り吉次に実行させたんです。法皇は、清盛の後継者は義経と踏んで保険をかけたとのこと。こういうことなら、私にも分かりやすいんですけど、どうでしょうか。
投稿: hisaki | 2005年8月 8日 (月) 09時06分
hisakiさん、2005年8月 8日 午前 09時06分
おもしろそうな読書をなさっているのですね。うらやましい。
さて、法皇と吉次でしたか。これまで吉次はてっきり奥州の藤原秀衡との関係ばかり想定していましたが、吉次もなんとなく闇商人のような、もし実在していたなら、まるで水滸伝の闇塩商人(梁山泊の中枢に居る)みたいな人だったかもしれません。
天皇家が常にまわりまわって社会の裏と直結している話を想像すると、法皇がバックとなった説も、わかりやすいですね。
清盛の後継者義経、という絵もあったわけですね。
ということで、hisakiさんの考え、感じ方には今朝同感です(笑)
投稿: Mu→Hisaki | 2005年8月 8日 (月) 09時57分