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2005年8月19日 (金)

影武者徳川家康/隆慶一郎

影武者徳川家康/隆慶一郎著<カゲムシャ トクガワ イエヤス>.

影武者徳川家康/隆慶一郎
 (BN09587833)
 東京 : 新潮社、1993.8
 3冊 ; 16cm.
 (新潮文庫 ; り-2-5、り-2-6、り-2-7)
 上巻;中巻;下巻
 ISBN: 4101174156(上巻) ; 4101174164(中巻) ; 4101174172(下巻)
 著者標目: 隆、慶一郎(1923-1989)<リュウ、ケイイチロウ>
 分類: NDC8 : 913.6

所蔵図書館 21[By Webcat]

帯情報

上巻
 慶長五年関ケ原。家康は島左近配下の武田忍びに暗殺された! 家康の死が洩れると士気に影響する。このいくさに敗れては徳川家による天下統一もない。徳川陣営は苦肉の策として、影武者・世良田二郎三郎を家康に仕立てた。しかし、この影武者、只者ではなかった。かつて一向一揆で信長を射った「いくさ人」であり、十年の影武者生活で家康の兵法や思考法まで身につけていたのだ……。
  関ヶ原
  大津城
  敗者
  異邦人
  伏見城
  江戸
  源氏の長者

中巻
 関ケ原で見事な勝利を収めた徳川陣営。しかし、嫡子・秀忠による徳川政権が確立すれば影武者は不要となる。その後の生命の保障がないことを知った影武者・二郎三郎は、家康を斃した島左近を軍師に、甲斐の六郎率いる風魔衆を味方に得て、政権委譲を迫る秀忠、裏柳生と凄絶な権力闘争を始めた。そして、泰平の世を築くため、江戸・大坂の力を拮抗させるべく駿府の城の完成を急ぐ。
  千姫
  変転
  大御所
  駿府(すんぷ)
  偃武(えんぶ)

下巻
 いまや二郎三郎は、秀忠を自在に操る家康なみの智将であった。彼の壮大な夢は、江戸・大坂の和平を実現し、独立王国=駿府の城を中心に自由な「公界」を築くことだった。キリシタン勢力を結集した倒幕の叛乱を未然に防ぎ束の間の平安を得るが、秀忠の謀略から遂に大坂の陣の火の手が上がる。自由平和な世を願い、15年間を家康として颯爽と生き抜いた影武者の苦闘を描く渾身の時代長編!
  大坂和平
  反撃
  キリシタン禁令
  大坂冬の陣
  大坂夏の陣
  終焉
    あとがき(隆慶一郎)
    解説 縄田一男

参考
 関ヶ原古戦場
 駿府城 地図 記事(静岡市)
 伏見桃山城[MuBlog
 大坂城 地図

Mu注記
 関ヶ原の合戦が1600年である。それから、家康が亡くなる(1616)まで、ほぼ家康と秀忠とが政権を二分していた。豊臣家が完全に滅亡するのは、1615年の大坂夏の陣である。Muは中学校で日本史を学んで以来、ずっとこの15年間になんの疑問も持っていなかった。
 しかし今回「影武者徳川家康」を読んで、めまいに襲われた。
 つまり。
 小説のように家康の影武者・二郎三郎が関ヶ原以来家康のふりをしてきた、とは思わない。ただ、なぜ豊家滅亡まで15年間かかったのか、その理由の一端が作品によって分明になった。
 家康と秀忠は、日本国の統治について、すべてにおいて闘っていたのかも知れない。その中に当然、朝廷、豊臣家の処遇もあった。

 史上、鍵になるのは家康の六男、妻は伊達政宗の娘イロハ姫、この忠輝の足跡にあるような気がした。忠輝は75万石の親藩であったにもかかわらず、家康存命中に勘当をうけ、二代将軍秀忠の時代、領地を没収され、90歳を越えるまで流浪であった。なお勘当されても領地は没収されない。家康の死とともに、忠輝は領地召し上げ、なのに命だけは助かり、長生きした。このからくりは、隆慶一郎の作品で、すっきりわかる。

 さて。
 超絶な秀作であった。
 あまりに痛快、リアルな作品なので、一夕には語り尽くせない。これは、後日に(笑)

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