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2005年8月12日 (金)

過去写真 1:登山・高校2年生 

高校二年生・剣岳?

高校二年生剣岳
 夏の葛野の夕暮れに、ふと昔の写真を眺めていた。こういうことは、無意識に、無目的にすることで、めったに過去の写真をみることはない。
 懐かしさはあるのだが、それ以上に、失われた時を深く味わう。二度と、天地が裂ける異変があろうとも、取り戻しはできない。「時」の絶対性を、ただ、胸におさめるばかりである。
 
 Muが京都府立嵯峨野高校二年生のころだったはず。山岳部があって、そこにいた。いつもは近所のblogで畏友が「山、山、信州」と吼えているので控えていたが、実はMuも高校生の頃、短期間だったが山岳部に所属していた。顧問のお名前は、金加先生と言って、英語の教師だった。
 たとえようもなく優れた師であった。

 いろいろな記憶は、この記事を操作する間に次々とよみがえってきたが、それはよしておこう。また、写真のどれがMu本人で、残り4名がだれで、どんな友人だったかも止めておこう。ただ、そこに残った写真を眺めるために、MuBlog に掲載した。
 私的な話である。まあ、blogは日記が主流だから、プライベートなものなのだろう(笑)。

 剱岳の地図

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落ち穂拾い」カテゴリの記事

コメント

 えっ?金加先生ですか。云十年後は、教頭先生でした。

 セピア色のクラブ写真。Muさんもお若い時代があったんですねぇ。
 過去写真1ということは、これからシリーズでいろいろと見せてもらえるんでしょうか?(楽しみ、楽しみ。)

投稿: wd | 2005年8月12日 (金) 21時11分

wd さん、2005年8月12日 午後 09時11分

 すると、英語の金加先生は随分長く嵯峨野におられたわけですね。
 今の子供はませてるから、どうかわからないけれど、高校教師は大切だと思います。生徒への影響は数十年、一生続きます。

 大学教師は、学生が年増になってるから、せいぜい「またりんの授業」で、終わりですなぁ(笑)。

 さて、シリーズ化ですが。
 変な写真が中高大と数葉づつあったので、おいおい閑散期に掲載予定です。

投稿: My→Wd | 2005年8月12日 (金) 21時36分

美男子がおそろいですね(笑)
それにしてもMu先生が山岳部とは…意外ですね。
てっきり文学一筋の青春時代を送られていてかと思いました。

思い出は、そのときに戻ることが出来ないから美しいものなのでしょうね。

投稿: yuhki | 2005年8月13日 (土) 09時46分

yuhki さん、2005年8月13日 午前 09時46分

 意外でしょう。高校三年の夏まで志望学部は、なんと~「宇宙物理学」、あはははっはは。

 さらにさらにぃ~、中学校では「化学クラブ」(科学ではない)部長、だった~んですぞ。外部で、発表もしました(水質検査)、超お笑い。

 人間、どないなことになるか、わかりません。君も、来年「女優」になって、再来年「関東一円で、もっとも霊の強い、占い師」とか、わかりませんでぇ。

 センセの望みは、教え子のいくたりもが、アラブ系かユダヤ系富豪の奥さんになってなぁ~、毎年歳暮代わりの研究補助金がなぁ、……。まあ、よいわ。
 儚い夢です。

注:別のコメントは、また午後の仕事の前にしときます。

投稿: Mu→Yuhki | 2005年8月13日 (土) 10時50分

そんな超玉の輿に乗るような学友がいたら私も一つ助けていただきたいものです(苦笑)

ある意味では、私の現在の姿も一部の人から見れば意外な姿かも知れませんね。
未だに「文学部日本文学科卒」というと「えぇっ!?」と驚く人の顔を見るのはちょっと面白いです(悪趣味!?)

そうか…最終手段は私が玉の輿に乗るという手がありました!!(笑)

投稿: yuhki | 2005年8月14日 (日) 23時06分

yuhkiさん、2005年8月14日 午後 11時06分
 玉の輿という古風な婚姻形態は、しかし普遍性ももっておるようです。

 ラフカディオ・ハーンさんだったかな。ハーンが高給とりの、お雇い外国人教師だったから、若い日本の奥さんは一族郎党の面倒をみてもらったようですね。

 中国でしたか。一人が高官に出世すると、あれあれというまに、一族郎党がよい職につくらしいですね。(昔のことかな)

 yuhkiさんがそうなると、一族郎党、初代全員、顧問、ぜーんぶの面倒をみることになります。

 ここのところは、あえて他の人を、輿に載せた方が楽でしょうね。

 人生、塞翁が馬。
 ほんとに、どうなるかわからないものです。数年後突然、yuhkiさんが医者になったり、映画監督になったら、笑いますよね。

投稿: Mu→yuhki | 2005年8月14日 (日) 23時24分

Muの旦那が山岳部?

驚いたな~~~!高校時代の一時期とはいえど、山岳部に属していたとはね~~?

あの時代は山登りは人気があったんですよね。山男よく聴~~けよ♪なんてね。

しかし、服装だけみると立山の剣に登る服装では有りませんね?大丈夫でしたか~~?
四国の剣山ではないでしょうね?

投稿: jo | 2005年8月16日 (火) 22時17分

joさん、2005年8月16日 午後 10時17分
 意外な事実。

 つまり、中学から結構、それらしくいれこんでおりましたよ。
 しかしそばで、やれ年間300日は山男(単位おとさんかったんかいな)、ほれ山小屋造ったのと、吠えるから、ちょっとものおじしただけどす。

 中学の時、化学クラブ部長してましたが、顧問が無類の山好きで、2年、3年とハイキングクラブ、ちゅうのに同時に入っていて、琵琶湖の南の湖南アルプスとか、北の比良山、皆子山でしたかな、しょっちゅう歩いていました。何度も。
 そして高校一年の冬かな、なんかの都合で、山スキー(短いスキーはいて、すべるより、歩くというか、下駄代わりによじ登るやつです)に、英語の先生と一緒に行って、そこで、なんか、帰ったら知らん間に先輩なんかを交えて、山岳部が出来た次第。記憶間違いでなければ、初代です。(わずかな差で二代かな)。
 剣岳は、記憶では、ピッケルで滑落の練習もしたし、なんや忍者みたいな輪っかもはいたし、鎖をつたって頂上まで行った覚えがあるから、まあ、剣岳は行ったはずどす。

 高校三年でやめたのは、えへへ、なんしろ宇宙物理学者になりたかったんでぇ、受験がおましたし、それに、実家は赤貧洗うがごとしで、山行く金ものうなった。
 というわけ。
 しかし、Joさんの大学山岳部の武勇伝を聞かされ続けると、山行ってたなんて、言えませんでした。

投稿: Mu→Jo | 2005年8月16日 (火) 22時37分

年間100日の間違いダス。

当時は山男と言うのは人気が有りましたね。喫茶店も”ともしび”とか、”山小屋”とか、”チロル”とか、仰山ありました、ほいで、サイホンでコーヒーをいれてくれて、科学実験のようなアルコールランプ?を使いね。

大学時代は山一色でしたが、高校時代は、友人と風流について語り、実践してました。

Muの旦那も、実は山男に憧れた時代があったんやね。ほかに、隠してる事ないですか?

仰山、未だ、あるんやろな?

投稿: jo | 2005年8月17日 (水) 11時19分

joさん、2005年8月17日 午前 11時19分

 冬山は行ってないので、山男にはなれんかった。まあ、山を愛好する青年というか、少年でした。
 卒業してから、数年後、後輩が沢に落ちておぼれ死にしました。顧問の先生、辛かったと思う。現地荼毘。山は、絶対にあなどれないね。
 Muも、ブッシュで前を歩いていた三年生が突然消失、唖然。数メートル下に落ちてはりました。一瞬想像したのは、ピッケル。あれは杖、武器、得物にもなるし、やはり、山は怖い。

 隠し事は、……。ありません(と、きっぱり)
 いや、青春グラフティーなんかやってると、思い出すかも知れない。あはは。

 ああ、大学時代ねぇ、あれはやばかったね。バイク(暴走族じゃないが、まあね)、演劇、それにまあ、なんちゅうか、ノンポリなのに、なにやら危険な世界~(もう、こんな話、やめましょうね) 

投稿: Mu→Jo | 2005年8月17日 (水) 11時51分

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