千年火:せんねんび/瀬木直貴 監督 映画
福岡県新宮町 地図
夏の土曜の朝に、南禅寺そばの「蹴上げ」まで映画を見に寄った。
題名は『千年火』といって、九州は福岡県新宮町を舞台にした少年の物語だった。瀬木さんという監督の作品だった。
人の心の綾をあつかう映画や小説は幾十年忌避してきたMuなのだが、珍しく「話のスジを記してもよい」映画に感動した。何故だったのか、今夜考えていたのだが、さっき解が出た。
つまり。
少年は話せなくなったのだ。母を幼時に失い、いま最愛の父を交通事故で亡くした少年。東京を去り、祖父母の町、福岡県新宮町に疎開した。
人生のショックで緘黙症(かんもくしょう)になってしまった。だから少年の心の動きは、Muが想像するか、あるいは少年が眼前の少女に送る数文字の「携帯メール」でしか伝えることができなくなった。
こういう条件がMuを快適にした。
先般感心した『姑獲鳥の夏』は過剰な言葉の流出でMuを幻惑し、今朝の『千年火』はその対極にあってMuを再度幻惑した。
その酔いしれる時間の中で、劇場の外にでたとき、発汗が冷えていくようなカタルシスを味わっていた。
「言葉」。
過剰であれ寡黙であれ、言葉に空しさはない。受け取る心があるかどうかなのだ。ただの寡黙は、話すのが億劫なだけにすぎぬ。ただの饒舌は、言語中枢の制御が乱れただけにすぎない。
饒舌と寡黙とを前にして、受け取る心がどうあるべきなのか。というよりも、どういう心で外界を探知しているのか。そこに、受け取る者の人間性、見識、感性の総合力がある。
それが明らかになる。
制作者よりも、観客が穏やかに試される。
同じ11歳の設定だが、明らかに少女は背も高く、雰囲気も大人びていた。もちろんセリフ回しは少年の方が上等だったが、雰囲気としては同格だった。(少女は地元新宮町出身らしい)
少女は言葉少なげに語りかける。少年は表情だけで答える。いや、答えない表情をすることで少女に心を閉ざす。しかし、少女が母のない同じ境遇だと知ったあたりから、少年は眼前の少女に携帯電話を使い出す。わずかに数文字単位である。
『お父さんは?』
「家を出て、行方不明」
この対話が、眼前で穏やかに答える瀬木監督の、まるで普通の人のような雰囲気に、強く重なった。
ああいう映画、つまり徹底的に現代映画を批判しつくしたような作品を造る(反逆)監督が、何も話さない少年そのものに見えたのである。
メッセージ。
瀬木は、マシンも画像処理も使わない、手触りだけで、しかも主役のセリフ抜きで、画面の展開だけで映画を作った。これは強烈なメッセージである。
メッセージにはいつも政治が含まれる。が、鋭敏な(笑)Muの感性は、それを感知しなかった。もし、政治が醤油一滴程度でもあったなら、今夜こんな風には書かなかっただろう。
娯楽に、感性のマッサージに、きわどい政治なんかあってたまるか、がMuの本心である。
それにしても、状況と、自然と、伝承と、美しい少女と、妖しい老人・オキナが配置されただけで、これほどの強い信号を感じ、娯楽の心地よさを味わうとは、Muも長生きはするものだと思った。
殺人もセックスも暴力もない、90分の長尺を維持するために、娯楽として楽しませるための別の要件がそろっていた。
主役、聡少年に、稀代の美少年を得たこと。村田将平。
少女に、はっとさせる「女」を演じさせたこと。山下奈々。
NHK義経の「宗盛」役でおなじみの父親の哀感。鶴見辰吾。
とぼけた田舎医者にして、千年の火を守るオキナに、丹波哲郎をあてたこと。
一輪車(ネコ車)を立てて回転させて一人踊る漁師。これには、一人で笑った。
船上での葬式。
海辺でナベサダがサックスを吹いていた! 何故? と、思うまもなく聞き入った。
狐踊りの手の丸めようが不気味だった。ネコ化けを思い出した(笑)
映画を映画として完結させるために、想像以上の工夫が必要なのだと、悟った。
町民達が、相撲部屋を借り切った60人のスタッフ達のおさんどんを、たった数名の主婦だけで一ヶ月以上続けた話。少年達の試練(オーディアル)、3キロ離れた島への遠泳を撮影するために、50隻以上の漁船が海を守ったこと。鮫も出る海だったらしい。
聡少年が疲労困憊になったとき、海中からとらえた彼の映像が「立ち泳ぎ」になっていたのが、リアルだった。海中で精も根も尽き果ててくると、クロールも背泳ぎも平泳ぎも出来なくなってしまうものだ。立ったまま、なんとかこうとか前進する。
昔、Muもうっすらと覚えている、映画「夜明け前」の撮影時代を思い出していた。なにかしら、太秦や嵯峨の関係者が、損得抜きで映画撮影に協力したような、記憶がある。監督が話す、新宮町・当時の撮影現場が、目に浮かんだ。
第11回キンダーフィルムフェスト・きょうと
毎年この映画祭はあるようだ。
ただ、Muは「大人(笑)」なので、今回のような、映画会場をでたあとも尾を引くようなものが毎年鑑賞できるとは思ってはいない。こういうものは、一流のガイドがいて、無理矢理にMuをひっぱらないと、そういう異世界に容易に手をだせるものでもない。
昨年は知らない、来年も知らない。しかし今回は、むしろ子供たちが、瀬木監督に自然に質問していたのが、おもしろかった。もちろん、昨日も上映されたのだから、事前学習はあったろうが、Muは20分程度のインタビューと質疑応答を十分に楽しんだ。
京都国際交流会館(京都市左京区粟田口鳥居町)映画祭会場地図
参考サイト
キンダーフィルムフェスト・きょうと
映画『千年火』オフィシャル・サイト(新宮町文化振興財団)
千年火/RiFF:リージョナル・フィルム・フェスティバル
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コメント
初めまして。
僕は映画「千年火」のプロデュースと脚本を担当した
高坂圭というものです。
なんとなくネットサーフィンをしていたら、このサイトに
たどり着きました。
素敵な感想をどうもありがとうございました。
こんな時代だからこそ「生きる」ことをなんとか
肯定する物語を書きたいと思い、この映画を作りました。
少しでもその気持ちが届いたとしたら、こんなに嬉しいこと
はありません。
瀬木さんとは現在、次回作に取り組んでるところです。
今度は「死」をテーマに、生を考えてみたいと思って
います。
出来上がったらぜひまた観て下さい。
では毎日暑い日が続きますので、お身体ご自愛下さい。
投稿: 高坂圭 | 2005年8月12日 (金) 06時26分
高坂圭さん、2005年8月12日 午前 06時26分
お早うございます。
はじめまして。
お目にとまったですか。うれしいような気恥ずかしいような。と、それはそちらも同じかな(笑)
「脚本」は分かるのですが、「プロデュース」というのがMuは昔からわからないことでした。監督と助監督との関係は、想像出来ます。映画は総合、みんなで作るから、実際にやってみないと分からないところがあるんでしょうね。
で、「脚本」。総合だから部分を部分として分析評価は無理なんだろうけど、きっと「脚本」も良かったんですよ(笑)
導入の、交通事故の前後がとても良かったです。どうよかったか。つまりすっと、海に行ったような記憶です。
悲惨を悲惨として眼前に押しつけられると、Muはそれを表層的悲惨として処理してしまい、あとを受け付けなくなったかもしれませんでした。
すっと、海に行った。ああいうところが心に深く残ってしまった。そんな気がしています。
それと。随分ユーモラスなところが一杯あって、一人でうぐうぐと笑って見ていました。
『「死」をテーマに、生』
さて、どんなんだろうなぁ。
高坂さま、コメントありがとうございました。
投稿: Mu→高坂圭 | 2005年8月12日 (金) 08時25分