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2005年8月31日 (水)

作家の値うち/福田和也

 2000年に飛鳥新社というところから、福田和也『作家の値うち』がでてている。当時の現役作家100人(娯楽作家から芸術作家、半数づつ)の主要作品574作を100点満点で評価したものである。
 Muは当時随分熱心に読んで、そこで選ばれた数作を読んだ覚えがある。

 それ以前にMuが感動して読んだ作品が「人前で読むな、恥ずかしい」と書かれていたり、「なんだこれ」と思ったのが90点(90点を超えると文学、いや世界文学史上残してもよい作品となる)以上あったり、ふむふむとうなずいたりで、なかなかスリリングだった。

 しかし反響がいろいろあって、扱いの難しい図書と今でも思っている。
 おもしろがってこっそり読んでおれば良いのだが、最近気むずかしい本も時には読まなくてはとおもって、今朝ぱらぱら眺めていた。

 索引(INDEX)がおもしろく、つい読み浸った。そこだけ部分・引用してメモとしておく。福田の評価では50点以上が優れた文学となっているようだ。50点以上だと読むに値するのだから。

 90点以上 : 世界文学の水準で読み得る作品。
    96点→『ねじまき鳥クロニクル』(村上春樹) 他古井由吉、石原慎太郎
    90~96に17作品/全574
 80点以上 : 近代日本文学の歴史に銘記されるべき作品
    89点→『海辺の光景』(安岡章太郎) 他阿川弘之、島田雅彦、山崎豊子、町田康
 70点以上 : 現在の文学として優れた作品
    79点→『龍臥亭事件』(島田荘司) 他
 60点以上 : 再読に値する作品
 50点以上 : 読む価値がある作品

 40点以上 : なんとか小説になっている作品
 39点以下 : 人に読ませる水準に達していない作品
 29点以下 : 人前で読むと恥ずかしい作品。もしも読んでいたら秘密にした方がいい

 で、このガイドブックに対するMuの評価だが。
 うむ。
 75点。
 ただし、評価表(各要件の中には、「ともかく良い」「ともかく悪い」というきわめて独断的項目もふくめてよい)の整備と、各作家内での最高と最低との、それぞれ詳細評価があれば、世界文学批評の貴重なガイドブックとして92点。現状と先行投資(笑)とで、足して割って、成績簿には86点優を付けることだろう。素晴らしい。

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2005年8月30日 (火)

十六万アクセス

承前:十五万アクセス

 今回の16万アクセスは、先回15万アクセスが7月27日だったから、約一ヶ月で到達した。先回は2ヶ月かかったので、半分だった。事情は実に簡単で、新規記事を8月に入って順調に書けたからだろう。
 8月は常になく、映画も4本見に行った。(ただ、映画記事へのコメントがあまりない(笑))
 宴会も3度ほどあった。漫画も読み出した。意外に一般書の読書記録が少ないが。

 ただ、そうは言っても最大のアクセス寄与は、おそらくNHK義経だろう。後で分析するが、ドラマ自体が佳境に入ってきたせいもある。先年の新選組!を思い出しながら、来年も再来年もNHK大河ドラマ講釈(笑)は、MuBlog維持のための貴重は財源になるだろう、な。
 とはいうものの、日々コメント下さる方々(五名ほど)には、毎度、熱く厚くお礼申し上げます。

@参考に、15万アクセス以降の記事を、以下掲載。
483 十五万アクセス←MuBlog
484 NHK義経(30)義経&頼朝←MuBlog
485 墓盗人と贋物づくり:日本考古学外史/玉利勲←MuBlog
486 あらしやま:嵐山暮景←MuBlog
487 千年火:せんねんび/瀬木直貴 監督 映画←MuBlog
488 NHK義経(31)屋島と逆艪:さかろ←MuBlog
489 夏の木幡と葛野←MuBlog
490 空色勾玉(そらいろまがたま)/荻原規子←MuBlog
491 過去写真 1:登山・高校2年生 ←MuBlog
492 過去写真 2:修学旅行・高2・桜島←MuBlog
493 ヒトラー ~最後の12日間/オリヴァー・ヒルシュビーゲル監督 (映画)←MuBlog
494 過去写真 3:披露宴手伝いのMu←MuBlog
495 初夏の助勤会・2005/07/14←MuBlog
496 影武者徳川家康/隆慶一郎←MuBlog
497 働くことと、転職探し←MuBlog
498 NHK義経(32)屋島の戦い←MuBlog
499 NHK義経(33)熊野水軍・別当湛増←MuBlog
500 木幡花々平成十七年夏8月←MuBlog

  最近
    日出処の天子(2)/山岸凉子
    NHK義経(34)右筆能子
    さんじょうかわらまち:私の京都1/2
    ある日の雑記帳
    日出処の天子(1)/山岸凉子
    うじがわ・うかいふね・あたごさん:宇治川鵜飼い船・愛宕山

(1)本日記録
  対象日:2005年08月30日(火)晴
  時間 : 午前2時頃(不明)
  累計アクセス数: 160003
  1日あたりの平均: 301.32

 記事数: 507 | コメント数: 2698 | トラックバック数: 312 | ライター数: 1
 [ただしコメント数の半分はMuの返事。TBの八割以上はMuの自己参照]
 129.272 メガバイト (43.09%)[ただし他の小さなblogを3つ含む]

 午前早くに(深夜)、万アクセスを満たすのは珍しいことでした。ご承知のように、この記事の多くは先週一週間のアクセス様態を記録するので、先日あたりからスタイルにしたがって、データを準備はしていたのですが、今朝起きてみてあわてました。
 ともあれ、記事数は507と少ないですが、Muの返礼コメントをのぞき、開設以来通算1300コメント程度をいただいたことになります。

(2)先週:検索ワードランキング(5件以上のみ抽出)
  対象日: 2005年08月22日(月)~ 2005年08月28日(日)
  合計数:1843

順位 検索ワード 件数
1 地図 48
2 京都 48
3 奈良ホテル 43
4 写真 30

 ↑以上の{地図、京都、奈良ホテル、写真}はMuBlog が観光旅行用に利用されている可能性を感じます。世間に観光ガイドが山のようにあるわけですから、その中で京都や奈良に特化したblogとして、ようやく使われ出したのかもしれません。工夫としては、地図と写真です。地図はマピオンさんやMSNさんのシステムを、開設当初から利用させていただいております。写真はヘボ写真も多い中、時にMuが意図しない写真が当たったりして、にんまりします。桜は意図たっぷりでしたが、風景写真は「記録」重視なので、それが喜ばれると、なんとなくこそばゆい感じがします

5 一ノ谷の戦い 21
 ↑これはNHK義経です。{9 義経 13、35 別当湛増 5、36 熊野水軍 5、37 能子 5、42 常磐御前 5}、これをみているとどうやら今年のヒットは「義経」のようです

6 森正 19 ← 三輪そうめんです
7 ゲッペルス 18 ← 映画ヒトラーからです。しかーし、ゲッペルスがヒットとは?
8 水滸伝 17
9 義経 13
10 新撰組 13
11 サンタモニカ 12
12 石舞台古墳 11
13 石舞台 11 ↑ 相変わらず、謎の石舞台(笑)
14 弁慶 11 ← これは弁慶うどんと思います
15 常照皇寺 10
16 平等院 8
17 うどん 8
18 20世紀少年 8
19 そうめん 8
20 今城塚古墳 7
21 ブログ 7
22 美しいサイト 7
23 淡路島 7
24 月の蔵人 7 ← これ不思議。実は毎週そこそこあるのです。
25 歴史 7
26 桜 7
27 北方謙三 7
28 弁慶うどん 6
29 ミスタースタンプス 6 ← 東京の店なのにね、なぜMuBlogへ?
30 読書感想文 6
31 北方 6
32 三島由紀夫 6  ← 意外です
33 NHK 6
34 嵐山 6
35 別当湛増 5
36 熊野水軍 5
37 能子 5
38 ハリウッドハイランド 5  ← 洋行記事は他blogにたくさんあろうに
39 卑弥呼のプロフィール 5
40 映画 5
41 ダヴィンチ・コード 5
42 常磐御前 5
43 ハリウッド&ハイランド 5
44 平安時代 5
45 感想文 5
46 三輪そうめん 5

  やや新しい傾向がでてまいりました。ずばりNHK義経です。NHK大河ドラマ定番blogの位置を確保しつつありますねぇ(笑)

(3)先週:検索フレーズランキング(3件以上のみ)
  対象日: 2005年08月22日(月)~ 2005年08月28日(日)
  合計数:570

順位 検索ワード 件数
1 北方謙三  水滸伝 4
2 水滸伝  北方 4
3 頼朝の愛妾  亀の前  写真 3
4 嵐山  湯葉 3
5 うどん  京都  五条大橋  弁慶 3
6 小川珈琲  アルバイト 3
7 夏の嵐山  写真 3
8 LGA775  メモリの種類 3
9 三輪そうめん  森正 3
10 サンタモニカ  ビーチ 3
11 nhk  玉鋼  安来 3
12 ダヴィンチ・コード  読書感想文 3
13 宇治  地図  黄?  平等院 3
14 同志社大学  ラーネッド記念図書館 3

 (2)のワード検索よりも、このフレーズ検索の方が、アクセス意図が明瞭になります。そして、MuBlogにとっては貴重な一見さんが多いわけです。MuBlogという全体の中から、背景なくして、断片記事にアクセスするわけですから、過去記事のひとつひとつが、ある程度の独自性をもっていないと、再訪の期待はむつかしいですね。

 1と2とは、「北方水滸伝」です。Muは17巻まで手元にあって読みました。あと2巻程度で終わりらしい、ちょっと寂しいです。
 4と7とで、「嵐山暮景」になります。嵐山の写真が、知人達にも好評でした。未知の人も気に入ってくれたかどうか。
 12のダヴィンチコード感想文、これは夏期宿題でしょうか(笑)。息が長いです。
 14の同志社大学というのは、京都の老舗大学です。ラーネッドは、場所は京田辺で、Muは継体天皇史跡見学のおりに、この図書館を撮しました。どうなんだろう、来年大学受験するひとかな。あるいは、図書館関係者でしょうか、謎。

 お笑いは、6の小川珈琲とアルバイトですね。これは葛野の女子大か、お隣さんの学生が、バイト記事をさがしておるのかもしれません。

(4)先週:曜日別
  対象日: 2005年08月22日(月)~ 2005年08月28日(日)
  合計数:2250

曜日 アクセス数
MON 386
TUE 299
WED 361
THR 322
FRI 363
SAT 201
SUN 318

 先回の15万アクセス時の一週間が合計1597アクセスでしたから、今回の2250はだいぶ増加しました。先週の月曜が386件で最高ですが、昨日月曜も435件ありました。月曜にアクセスが増えるのは、(1)前日の日曜夜定番・NHK義経記事を御覧になる。(2)自宅マシンのない学生さんや、勤め人が、月曜に学校や職場でまとめてアクセスする。と、こんな風に考えています。しかし、職場でMuBlog なんかを見ているとチェック対象になって減給される危険性もありますね。

(5)先週:記事ごとランキング(1%以上抽出)
  対象日: 2005年08月22日(月)~ 2005年08月28日(日)
  合計数:2250

順位 URL パーセント
1 http://asajihara.air-nifty.com/mu/ 12%
2 http://asajihara.air-nifty.com/ 8%
3 http://asajihara.air-nifty.com/mu/2004/04/post_6.html 2%
 ↑奈良ホテル
4 http://asajihara.air-nifty.com/mu/cat573003/ 1%
5 http://asajihara.air-nifty.com/mu/2005/08/post_0254.html 1%
 ↑宇治川鵜飼い船・愛宕山
6 http://asajihara.air-nifty.com/mu/2005/07/post_388f.html 1%
 ↑NHK義経(27)一ノ谷の戦い
7 http://asajihara.air-nifty.com/mu/2005/08/post_0e63.html 1%
 ↑NHK義経(33)熊野水軍・別当湛増

 先週は、1と2とのカレント記事(20%で450)アクセスは妥当としても、3の2004年4月「奈良ホテル」が意外に多いです。45アクセス程度あったようです。記事内容よりも、観光と地図とでの来訪が多いと考えます。
 6と7のNHK義経は、そろそろMuBlogの義経連載も認知されてきたようで、にんまりとほくそ笑んでおります。とくに一ノ谷は一ヶ月前の記事ですから、うれしいです。
 日記じゃなくて、こういうMuBlogの方法で造っていると、過去記事へのアクセスによって、充実感をあじわいますね(笑)

(6)分析
 意識して、そしてやがて無意識にやってきたことが、MuBlogの性格をあらわしてきました。つまり、「観光京都」です。地図や写真が使われ出しています。
 さて。
 NHK義経がようやく勢いをつけだしました。来週あたり「壇ノ浦決戦」があります。blogとは日記の性格が元々ありますので、うまずたゆまず世の中の定番事象を記録していく機能へと拡張できるわけです。それをどうやって、過去にさかのぼって現在や将来に生かせるか、ここ一番の工夫が必要だと思いました。

 やや、堅い読書録が少なくなりました。夏期は、論文その他に時間を取られますので、ハードな読書は辛いところです。じゃ、春や秋は~と、問われますと立ち往生。春や秋は、日常校務もありましてぇ。おお。

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2005年8月29日 (月)

日出処の天子(2)/山岸凉子

承前

日出処の天子-2/山岸凉子
 Muは第一巻のカバー表紙画がとても気に入っている。ところが、この漫画の奥にある主題を表しているのは、この第二巻のようだ。暑いのか、着物をぬぎかけた少年(厩戸王子)の後ろ姿である。
 解釈するならば、80年代当時の漫画ではまだ珍しかった男性の同性愛表現がある。聖徳太子、これがなぜ同性愛として表現されなければならなかったかの深い理由はわからない。作者と氷室冴子との対談では、そのことが少し語られていたが、あたりまえだが作者に真意を問うても、しかたないことがある。作者とは読者を欺き、かつ自らも欺く。騙り騙りしてあらわれたのが作品なのだから、解釈はひとりひとりの読者があじわっていくよりしかたない。氷室のノリのいい質問に、山岸は上手にこたえてはいる。しかしおそらく、作者自身が答えをもってはいない。皮肉なことだが、作者が人に話すテーマは、その時の読者や質問者が求めているものになる。

 ただ、そうは言ってもこれから7巻まで読みひたるMuとしても、基準は示しておく。つまり、意外なほど同性愛が気にならない作品だ。別のTVドラマで言い尽くした感もするのだが、この作品は「美少年の同性愛というものを様式美として採用している」。とりあえず、そうしておこう。
 もっと興味深いのは、山岸の歴史解釈である。いや、これも言葉が誤る。つまり、山岸描くところの、複雑怪奇な人間集団の、ダイナミックな人間相関である。次の相関図を御覧になれば、その複雑さがわかる。
 厩戸王子(うまやどのおうじ)は、蘇我毛人(そがのえみし)を友として、この関係の空を蝶のように舞う。

蘇我氏と朝廷の血縁関係図/山岸凉子

蘇我氏と朝廷の血縁関係図/山岸凉子
 この巻では穴穂部王子暗殺の新解釈、蘇我馬子と物部守屋との戦争、崇峻天皇(すしゅん:泊瀬部大王:はつせべのおおきみ)即位、が描かれていた。
 朝廷にあって軍事と呪術を司ってきた物部が、烏合の衆の朝廷軍(蘇我)にどのように敗れていったかが、じつにわかりやすく、なるほどと納得させられた。こういうところに作者のものすごい力量があるのだろう。
 厩戸王子が、物部を破った。Muにはそう思えた。

 なお、Muはなかなかに、しかめっ面をして、物部がどうの、蘇我がどうのと考えて書いているように見られるかも知れないが、それは間違いだ。Muは、ひたすら厩戸王子の表情の変化、優しげな風情、笑顔の少年、凍った笑顔、怪奇怨霊じみた顔つき、その七変化にうふうふと笑っている。凍り付いた笑顔と、言われる笑顔が、Muはとても好ましいのだ。また、弟の来目王子(くめ)の可愛らしさは、先般亡くした愛猫またりん翁の幼児期をおもいださせ、ふと涙ぐむ。

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2005年8月28日 (日)

NHK義経(34)右筆能子

承前

 さて、と。
 あっというまに終わった。義経の幻の妹・能子(よしこ)が清盛の娘として平家の陣中にいる。行宮(あんぐう)の右筆(ゆうひつ)らしい。しかし、史上の義経に妹がいたことは、知らなかった。総ては物語とはいえ、当時の女性は名さえ残さなかったのが通例だから、能子がいたとしても不思議ではない。義経は、妹に切々と文を書く。

 義経は妹を戦乱から逃そうとし、密書にて、白布を身につけよと教える。
 能子は翌日、平家が安徳天皇(8歳)を親王(7歳)と入れ替えるとの密議を耳にし、見とがめられて納屋に押し込められる。
 その一連の背景が、今夜描かれた。
 義経の文読む能子の涙は、感じるところ多かった。

 場所は彦島のはず。
 彦島のどこに天皇が行在なさったのかは分からぬが、義経の水軍はそこから八キロ北東の干珠島、満珠島あたりに集結したようだ。関門橋は無かったから、義経からは、巌流島(船島)の右奥に平家水軍が見えたかも知れない。
 いずれ平家は、門司区の北端田野浦に兵船をすべて進める。

 史上いわれる壇ノ浦がどのあたりかは、現在の壇之浦町あたりの瀬戸全域をさすのだろうか。このあたりには史跡銘もあるようなので、来週あたりに写真を掲載する予定。以前、近辺の知人からいただいたものがある。

 胸をさらについたのは、組紐を商うと自称するオババが、はるばる西海まで義経に会いにきて、「この戦が終わると、義経さまには何があるのでしょう」と、問いかけたところである。白石加代子の微妙な台詞回しがよかった。

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2005年8月27日 (土)

さんじょうかわらまち:私の京都1/2

承前

 今週は日々終日よく働いたので、土曜は映画にでも行こうと思い、朝から電車に乗った。しかし、貧乏性というか、一日中外でぶらぶらするのも気持が悪かったので、二分の一の京都小旅行に留めておいた。もちろんそれは遁辞であって(笑)、えどるん君たちが秋に友達をつれて、「誰も知らない京都」を探検すると聞き及び、もしかしたらその友人たちも見ているかも知れないので、写真をとって、午後は慌てて掲載準備に入った。

 ちなみに、MuBlogは手が遅く、一つの写真入り記事を造るのに数時間かかってしまう。だから、二分の一京都にしないと、明日の日曜日まで、MuBlogを触ることになってしまい、それはそれで後々ひびく。Muは、実に忙しいのである(笑)

河原町三条の土曜の朝九時半

河原町三条の土曜の朝九時半
 映画は丁度午前十時から始まるので、九時半には河原町三条交差点に立っていた。映画館は「京都宝塚」という、書店の上階にある処だった。Muの記憶では大学生ころもここをよく使っていたから、老舗映画館である。最近のMuは、シネコンとかいう複合映画館ばかりだったが、まあ、たまにはよかろう。そうそう肝心の映画だが、「スター・ウォーズ3」だった。このシリーズは最初のエピソード4~6を、それぞれの時期に封切り上映をみてきたから、Muもこの世界には長い。そうだな。まあ、これで終わったという思いがしたが、後日にしよう。
 撮影地点(南方向)

博多長浜ラーメン

(京都三条木屋町の)博多長浜ラーメン
 映画も終わって、時計をみたら昼を過ぎていた。一階が書店だから、本を見ようと思ったが、空腹に耐えられなくて、あわてて木屋町にもどった。めあては、長浜ラーメンだった。京都の木屋町で博多長浜ラーメンとはこれいかに。実は、この夏休みにえどるん君が帰省していて、いっしょに某邦画を観に行ったとき、教えてくれた店だ。
 思い出した。記憶ではMuも十数年前に一度入ったことがある。しかし、江戸に住む者から、博多長浜ラーメンの情報を、京都で聞くというのも、なんとも奇妙なことだった。おそらく、江戸では「謎の京都・長浜ラーメン」とか、噂になっておるのだろう。叉焼麺昼時間さーびす600円でした。さらさらの白濁スープ、ちょっと甘口でおいしい。あっつ、そういえば、むかし博多で夕方食べたことがあったけ、太宰府に行ったとき。因果は巡る~。
 地図(長浜ラーメンのあたり)

六曜社のプレート

六曜社のプレート
 お腹もふくれたので、もう一度書店にもどり、ちらちらみた。今日は気分のせいか、ミステリばかりさがしていた。以前はコンピュータや科学ものばかりだったが、日によって好みが変わるらしい。こんど書店に行ったら、たぶん古代史だろう(きまぐれな男)な。しかし、目当ての森某さんのGシリーズの三冊目はなかった。みつからなかった。書店の人に聞くのもめんどうだったので、執着せずに(アナキンは恋人に執着しすぎたために、暗黒世界に落ちたのだからなぁ)、そのまま六曜社の地下に行った。
 この店はとてつもなく有名な店だ。Muも学生時代出入りした。さて、お味は。そりゃそうですよ、アイスコーヒを注文したのだが、サイフォンでしこしこと濃いのを造り、それをおもむろに、氷を入れたコップに流し込む。まあ、当たり前だが、作り置きではなくて、とれとれのアイス珈琲がででてくる、400円。おいしいぞ。
 地図(六曜社のあたり) 六曜社のマッチもすっきりした良いデザインです。

Hotel Fujita

Hotel Fujita
 さてと。ここで実は迷った。清水の舞台でも写して、これが京都じゃぁ~と、江戸のえどるんやその眷属一党に見せてやろうともおもったが、なあ。それじゃ、雑誌と変わらぬ。外地(?)の者達の方が、京都のことは良く知っておる。で、ホテル藤田を撮しておいた。この宿は畏友の梅翁や、南座の関係役者が常宿とする宿だから、現代の大型ホテルとはひと味ちがった、居心地のよさ。その遠景を撮っておいた。
 地図(ホテルフジタ京都あたり)

鴨川と鳥たち

鴨川と鳥たち
 三条大橋から鴨川を覗いたら、鳥たちがいた。世の中は不思議なもので、鳥を見るだけで脂汗を流す御仁もおるし、それが同時に、焼き鳥を食べるとなると目の色が変わる、むしゃむしゃと。そういう不思議世界でも、やはり鳥の姿は美しい。Muはふつうの男だから、美しい鳥をみると毛嫌いせずに、シャッターを押したくなる。撮った一枚が、この写真。鴨川が、水は少なかったが、透明で清浄に見えた。
 地図(三条大橋あたり)

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2005年8月26日 (金)

ある日の雑記帳

 今日も朝から葛野にきていた。
 6時半頃に、西京極のセブンイレブンによって昼食を買うか、あるいは木幡出を遅くして昼近くに、絶品のおいしい昼食を、どこかでとるのが日課なのだが、……。

 気分返しに、昼は葛野から歩くことにした。そうそう、しばらく足を痛めていたので、なおってからも研究室で食べることが多かった。やはり、昼くらいは、のそりと研究室から外の大気、太陽に身をさらさないと、吸血鬼。レスタトはお笑いだが、まあ歩くというのは大切だと、なにかと指導がいつもどこかかんか、天の声がしてくる。

 青少年期のハイキング倶楽部に山岳部、歩くのは嫌いではない。ただ、責務に身をさらし続けていると、なにもかもじゃまくさくなって、歩くのも息をするのも食べるのも生きていることさえ、じゃまくさくなる。

 というわけで。
 昼前にそとにでた、おお太陽がいっぱい。と、おもったがすぐ目の前に「ザ・めしや」が目に入り、自然に中にはいってしまった。入ってから食べずにでるのも間が悪くそのまま料理をえらんでしまった。松茸お吸い物、ほうれん草卵焼き、ヒラマサ(?)お造り:これは、多分ヒラメなんじゃろう、ご飯小。帰りがけにレシートをみたら、おお、1020円。ものすごい、天に唾する贅沢をしてしまった。よく考えたら、ヒラマサのやつが4切れで475円もしよった。

 と、帰ろうと思ったが。知ってる者はしっておろうが、このメシヤは勤め先の目の前。これでは歩いたことにはならぬので、そのまま帰らずに東に向かった。
 なんか、あった。
 キリン堂。これは学生達がよく話題にしている。一体なんの店? キリンの剥製がうりなんじゃろうか? うむ。間口は、まあコンビニ程度。こんな店へ、子供達はなんでしげしげとかようのじゃろうかと、かねがね疑問。
 入った。
 おおすごい、奥行きが~、かすんでおる。おお、品揃え。いったいこれはなんなんだ。たとえば一種類10mほどもある陳列台に、Muの好きなお風呂の芳香剤というか、温泉の素だけずらっと並んでおる。化粧品なんて、いったいどこの女達が、いや男もか、こんなにたくさん買うのじゃろうか、と、どう考えてもわからないほど、並んでおる。あれだけあれば、どんなやつでも、おはだぴかぴかになりそうなもんじゃが、~ふう。

 で、目薬を買った。500円。小型の電球を買った、400円、ところが後で研究室で座金が合わなかった。ついでにだまされて、6倍の明るさ、10万時間(これはあとで知ったが、電池がそれだけ持つのじゃなかった(笑))の懐中電灯、まるでスターウオーズのライトセーバー(刀)みたいなの、1000円くらいだったか。ポストイット、電池単4の8本入り(懐中電灯は3本ですむのだが、ばら売りをしていなかった)。お部屋の消臭剤の入れ替えセット。
 レジに行ったら、あああ、おおおお、3200円~。
 もうだめだ。

 合計、昼の数十分で4000円も。

 こんな無駄遣いしていたら、身がもたない。
 やはり外に出ると、身ぐるみはがされる。
 いつもの、おにぎり百円、みそ汁230円が似合っておるな、せいぜい「アタリメ」100円。

 しかしながら、あのキリン堂、いろいろ変なおもろい品物があった。
 今度いったら、元気が出るユンケルとかいうドリンク・セットを買って、ちょっと一本ひっかけて景気づけしてから、仕事をしようかいのう。酒じゃないから、ユンケルのんで研究しても、だれも文句はつけぬじゃろう。

追伸
 座金のあわない電球はむろんのこと、よく考えたら懐中電灯も、消臭剤も(そうじすればすむこと)、ポストイットも(紙を切ってつくればよい)、目薬も(洗顔すればすむ)、すべて無駄なものだった。一体なにに使うのか知らん、と部屋にもどって、べそかいた。

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2005年8月25日 (木)

日出処の天子(1)/山岸凉子

 山岸凉子さんの「ひいづるところのてんし」。
 かねがね気になっていた漫画を、全7冊購入した。昨夜、その1を、おもむろに読み楽しんだ。

日出処の天子-1/山岸凉子
 いろいろな観点からメモを残したくなる第一巻だった。漫画、その絵、その物語そのものから。正史とされる日本書紀に描かれた聖徳太子との関係。Muも多少の縁ある日本仏教の始祖との見方から。

 聖徳太子は不思議な人で、様々な伝承の中から、現代の太子像が定着している。一般には、中学校や高校での日本史で得たイメージと思われるが、仏教系の世界ではもう少し濃く、仏教始祖としてイメージされている。Muの勤務大学でも美麗豪華な「太子堂」というものが安置されていて、政治における推古天皇の摂政というよりも、宗教的色彩が濃い。

 さてしかし。やはり、漫画そのものとして見るのが良かろう。
 なぜなら。

 いやなぜ、このようなことで最初に筆が前後するかというと、上記三つの観点のうち、政治的正史、宗教的仏教史、この二つの観点では、この漫画が「話にならぬ」と一蹴される危険性があるからだ。と、それは逆に、正史や仏教史での、その太子イメージを根底的に覆す思想が含まれている。
 そういうドラスティックな漫画が、1980~1984、少女まんが誌に掲載されていた。
 そしてMuが手に取った白泉社文庫版は1994年初版、2002年第36刷りである。
 多くの、若い女性が、この漫画を読んでいる可能性が高い。

 いま、Muの現状の背景をあらかじめ記しておく。
 ここ数年、聖徳太子と蘇我と物部と、そして大化改新(645)と言われる変、さらに壬申の乱、あのあたりをおりにふれて、ドラマや小説や学術啓蒙書、学術図書などで考えてきた。まだまだ結論めいたことはかけないが、滅びた物部や蘇我の役割は、Muがならった教科書とは正反対の意味をもっていたかもしれないという、感触である。だから必然的に太子像も変わってきた。

 正史では、天智天皇と中臣鎌足が蘇我(入鹿)を打倒し、大化改新という偉業を成し遂げたとなっている。そして、聖徳太子は入鹿の父・蝦夷、祖父・馬子の時代、知識人であり、宗教人であり、蘇我の出でありながら、摂政としてひたすら民のことを考え、政治が正道にたつことを願った。と、なっている。

 さて。山岸・太子像はどうなのか。
 蘇我蝦夷が毛人(えみし)と呼ばれ、第一巻では主人公だった。そして、厩戸王子:うまやどのみこ(聖徳太子)は、とらえどころのない妖しい少年だった。王子が十歳~十三ほどの時期だが、当時の朝堂で、物部や蘇我、他の皇子たちを、もちろん年長の毛人を、幻惑する。
 その様子は、鬼道をよくしたと記された「卑弥呼」を思い出させる。
 ともかく妖しい。その妖しさが度はずれている。謎を呼ぶ。一体、厩戸王子は何物なのか。

 読み出せば、止まらなくなる。

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2005年8月24日 (水)

うじがわ・うかいふね・あたごさん:宇治川鵜飼い船・愛宕山

昼の鵜飼い船

昼の鵜飼い船(宇治川)
 京都の嵐山の鵜飼いと等しく、宇治川の鵜飼いも人に知られている。嵐山は職場から、夕刻気晴らしに観に行くこともあるが、宇治川の鵜飼いは観たことがない。また、どこで行われているのかも知らなかった。
 過日ぶらりと宇治川を観に行った時、偶然その場所や、そして飼われている海鵜までみることができた。場所は、地図に記しておいた。夜にうろつくことはまずないが、川面がまるで鏡のように静かだったので思わず写した、たった一枚の写真である。
 ここでもまた、嵐山と宇治との相似に気がついた。この夏に嵐山暮景を撮ったが、場所もMuには同じような地点と思えた。

 撮影地点(北西に向かって)

宇治川からみた愛宕山

宇治川からみた愛宕山
 嵐山暮景で思い出したのだが、その写真には愛宕山が写っている。Muはここ宇治でもまた不思議な体験をした。つまり、長年宇治に住み、宇治川は散歩道、宇治上神社や平等院なんかは庭扱いしてきたが、この宇治川沿い(宇治神社直下)から、まさか遠く離れた愛宕山が見えるとは、思ってもいなかった。それが、見えたのである。
 それが見えたとき、本当に驚いた。Muも歩けばなんかに当たる。ぼんやり、てこてこ散歩していても、何十年来気がつかなかったことに、はっとする。人間は遠くを見渡せる直立歩行の生物なのだから、もっとあれこれ現地を歩いてみなくては、と、そう思った。

 撮影地点(北西に向かって)

参考サイト
  宇治川の鵜飼


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2005年8月22日 (月)

木幡花々平成十七年夏8月

 さて、この木幡花々記事で、やっと丁度500記事になりました。
 (アクセス数をいまみたら、157488件、1日あたりの平均: 301.12でした)
 (ついでに、 コメント数は2673でした)

 節目が花々記事なので、気持ちはよいです。

 2004年3月7日の森博嗣『四季』愛蔵版から数えて、一年半ほどかかったわけですね。記事数は、比較的少ないと思っています。ただ。500記事を書くのはわりに、息がきれます。次の500となると、天を仰ぎます。だから、記事数は観ないようにします(笑)

木幡の朝顔 こればっかりは朝顔のはず

木幡の朝顔

木幡の朝顔朝顔 これも、確かに朝顔

木幡の朝顔朝顔

木幡の変わった朝顔 本当に?

木幡の変わった朝顔

木幡の花、1 (笑)

木幡の花、1

木幡の花、2 ふふふ、なんでしょう

木幡の花、2

木幡のなすび 隠れていますが確かに茄子:Muにもわかりますで。

木幡のなすび

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2005年8月21日 (日)

NHK義経(33)熊野水軍・別当湛増

承前

闘鶏神社(和歌山県田辺市湊)地図
 さて今夜は熊野水軍、別当の湛増と弁慶の話である。
 ところが、この熊野水軍、短時間では調べることができなかった。

 水軍というよりも、海賊のようにも思えるが、一方で湛増は田辺を拠点にする、熊野三山の別当である。ならば熊野三山とはなにかともうすと、三島由紀夫に『三熊野詣』があり、Muは初版初刷を発行時に入手している(なんだか、話がおかしくなってきた)。熊野本宮大社(本宮町)、熊野速玉大社(新宮市)、熊野那智大社(那智勝浦町)、詳しくはサイト参照。別当とは、この三社を束ねる管理人というか、代表者のようである。

 で、要するに義経は背後になる熊野水軍を味方にすべく、弁慶を熊野別当湛増のもとに派遣した、というのが今夜の話だった。
 先の話だが、壇ノ浦では平家の軍船は800、対するに義経の軍船は500だったらしい。この500のうち200は、熊野水軍が味方したと、いうことである。

 と、ここまで記してきて、はたと筆が止まった。
 要するに今夜は、まだ、前哨戦とまではいかないエアポケットだった。とはいいながら義経が、急げば四日で着く彦島まで、数週間かけて兵を海に慣らすといったのは、なるほど、と思った。
 また来週。

参考
  熊野については、今夜はMuも調べる余力がなかった。
  わかりやすいサイトがあったので、挙げておく。

 湛増と源平の帰趨
 闘鶏神社
 田辺弁慶まつり

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2005年8月20日 (土)

NHK義経(32)屋島の戦い

承前

絵地図・屋島の平家と義経軍(NHK義経より引用)

屋島の平家と義経軍
 先週の日曜日は、夜に懇親会があって、やむを得ず録画した。鑑賞は本日土曜日午後まで持ち越されたが、なかなかに感動の作品となっていた。
 全編の中でも、Muはなにかの因縁で、一ノ谷とこの屋島の戦いとを録画せざるをえなかった。となると、数週間後の壇ノ浦、および弁慶安宅の関くらいは録画したほうが良いかも知れない。

 それほどに出来映えがよかった。
 やはり、遠く京の都の別荘地(笑)宇治の木幡から毎週念じるように見ていると、その念が関係者に乗りうつるのかも知れない。
 二つあった。ひとつは、那須与一と扇の的。もひとつは、佐藤継信の死。断片画像(カット)では、扇を持った能子(よしこ:義経の妹)、最終場面・波打ち際で瀬戸内海の夕日を眺める義経、弁慶のシルエット。伊勢三郎の機略もよかった。

1.扇の的
 史実はおくとして。
 義経の妹が平家の中にあって、尼・時子に自ら扇の的を持つ役を、願い出るところから哀切感がただよってきた。敵味方別れ、能子は兄を見分けられても、義経はそれが妹とは、しかとはわからない。
 瀬戸内海に漂う小舟にのって、金色の扇を持ち長い髪を風にゆらせ、すくと立つ能子。これは絵になった。Muが日頃もうすところの「様式美」を完璧に表現していた。女優の選択もよかったのだろう。この役は、この名前もしらない女優でないと、絵にならなかったと、思った。

 その扇を、海の風、山の風、見分けて見事射落とした那須与一。こやつもよかった。
 与一を義経が選択する経緯がよかった。役柄として17歳の少年武者、戦の経験もなく、揺れる的を射るのは鳥を地元で射落とすほどには簡単ではない、と武者達の間で堂々という。義経は、その用心深さ、精密な状況把握をした与一をこそ、選んだ。これが慧眼というものなのだろう。

 と、そういう人や風景や人選の様式を、きっちり描ききったところに、様式の完成をみた。
 付言するならば、義経が、あの役者だったからこそ、うまくはまった。
 世評はしらぬが、今回の義経役、および屋島の戦い、これはNHK大河ドラマ殿堂(そんなんあるんかいな、笑)に上位入賞納めてよかろう。と、映画評論家Mu大皇帝は太鼓判を押したのだった。うむ、よかった。

2.佐藤継信の死
 この方は、佐藤兄弟の兄にあたり、奥州藤原秀衡から義経護衛を任された武将だった。
 海、山の、道々の輩(ともがら)ばかりの義経郎党の中では、すでに格式ある武士だった。
 その武士が、義経の危機をかばうために、自ら矢面にたった。胸と腹に、二本の矢が立った。矢とは恐ろしい武器である。鎧を射通して身体に深くささり、場合によっては鏃が外に出ることもある。だが、モドシのついた鏃が体内に刺さったままだと、絶命せざるを得ぬ。

 みたち(御館)秀衡の命、自ら望んだ主従とはいえ、遠く見知らぬ土地へ付いてきた。そして、弟を残し、義経を残し、輩を残し、戦に斃れる。これも、ひとつの様式だった。その様式を、今回あますところなく描いた。

 人は死するものである。
 死は万人に等しくある。
 しかし、生者はその死を眺めて限られた生を生きる。だから、どのような死を迎えるかは、大切なことである。古典は、様々な死を様々に描いてきた。犬死にもあろう。憤死もあろう。狂死もある。
 継信は、義経を守るために矢面に立ち死を迎えた。

 死を美化するなどと浅薄なことを言いたいのでは毛頭ない。
 そういう死がおそらくあった、あってもよい、それをきっちり様式の一つとして描いた。だから、NHKドラマ評論家Muは、感心したのである。

 これもまた、見守る義経役がよかったのは当然だが、継信役者も実に自然だった。武士とはこうであった、かもしれない、とそう思わせる役者だった。いままでも、なにかカッコウ付けする役柄ではなかったに、この最期を演じるために、あった。うむうむ。

 というわけで、Muはますます、世評はしらぬが、今期NHK義経が気に入ったのである。
 (くどいが、Muは、映画や小説、学生・卒業生(笑)、手当たり次第褒めるわけでは決してない。褒めるには褒めるだけの理由が明確にある)

追伸
 わすれるところだった。平家の宗盛、最近「千年火」をみたせいか、とても気に入りだした。
 また、梶原景季(かじわら・かげすえ:にくにくしげな父親景時の息子役)の、何とも言いようのない清廉潔白そうな風情も気に入りだした。
 女優は、~まあ、また今度。

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働くことと、転職探し

 昨夜遅く、メルが躍り込んできた。着替えもしていない半睡だったので、目覚めた。
 差出人は、昨年一年間、一科目だけMuの受講生になったMKK君だった。
 今年の三月中頃、卒業祝いやもろもろ兼ねて、数名で祇園へ繰り出した間柄だった(微笑)。

 京都からはまことに遠隔地の人だった。
 昨年中に就職も決まり、その点ではおっとりしていたようだ。しかし、外からみていると営業も絡む、手厳しそうな全国網羅会社だった。卒業学科が外国語なので、それに適していたようにも思えたが、いくつか不安はあった。もちろん、黙っていた。
 就職難である。
 最終面接まで数回の試験、面接を経たうえでの合格である。他人が水をさすことではない。
 なによりも、故郷の支店に就職できることを、ひそかに「良し」としていた。

 で。
 「合格しました」のメルが昨夜届いた。
 もちろん、今春勤めたところではない。
 新たな、職場だった。
 一応一科目でもMuの教え子なのだが、教えた内容が役にたつような職場だった。
 Muは快哉をあげた。

 MKK君は丁寧に、試験や面接内容を知らせてきてくれた。
 ここに記録し、祝いとする。

小論文:司書に必要な素質とは何か(800字・一時間)
     「提示された多数の要素」を参考に自分の意見を述べるもの
面 接:試験官3対受験生1人。
     志望動機・通勤方法・仕事はいつ辞めるのか・趣味・
     休みの日の過ごし方・人とコミュニケーションをとるのは好きか・
     自分の性格分析と自己アピール
注 記:資料組織(共同演習)の話で盛り上がりました。

 Muは、こういうことは大昔に東京と京都と広島とで、3日続けて合計3回だけなので、まことにうとい。そうなのか、面接ではそういうことを聞かれるのかぁ(笑)、とひとしきり感心した。Muなら、落ちるな。

 Muの想定解答Mu26歳ころを想定
 志望動機は< 就職しないとお嫁さんを維持できないし、再度はもらえないから。
 通勤方法は< とうぜん、バイク一発です。
 今の仕事はいつ辞めますか< さぁ、そのうちにねぇ~。
 趣味< 本当のこというと落ちるから、言いません。是非にと言われるなら、はあ、バイク曲乗りです。
 休日の過ごし方< 走っています、バイク。
 人とのコミュニケーション< 小さいころから、人嫌いでした。だから、別に話なんかしたくないですねぇ。
 自己アピール< 結構マジですぜ。

 以上のような難しい、十重二十重の陥穽、罠をすりぬけて、MKK君は合格した。乾杯!
 
追伸
 MKK君は給与も待遇も激変するだろう。未来の吉禍はわからない。だれにとっても。ただ、Muは比較的長く生きてきたから、おおよそ若い者をみていて、想像は付く。それも、当たるも八卦、当たらぬも八卦だが。
 確実に、うまく行くと思っている。

 世の中、みんなが畏友のふうてん爺さんや、Jo爺さんだと、こまったことになる。ふう爺さんもJo爺さんも、大企業を無事に卒業した(かな?)ようだが、ぜったいに「司書」なんかつとまらないよねぇ。

 司書は、本当は難しい(いばってます)。Muとか、Muが見込んだ若者しか、勤め上げることはできません、のやぁ。あ、ははは。

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2005年8月19日 (金)

影武者徳川家康/隆慶一郎

影武者徳川家康/隆慶一郎著<カゲムシャ トクガワ イエヤス>.

影武者徳川家康/隆慶一郎
 (BN09587833)
 東京 : 新潮社、1993.8
 3冊 ; 16cm.
 (新潮文庫 ; り-2-5、り-2-6、り-2-7)
 上巻;中巻;下巻
 ISBN: 4101174156(上巻) ; 4101174164(中巻) ; 4101174172(下巻)
 著者標目: 隆、慶一郎(1923-1989)<リュウ、ケイイチロウ>
 分類: NDC8 : 913.6

所蔵図書館 21[By Webcat]

帯情報

上巻
 慶長五年関ケ原。家康は島左近配下の武田忍びに暗殺された! 家康の死が洩れると士気に影響する。このいくさに敗れては徳川家による天下統一もない。徳川陣営は苦肉の策として、影武者・世良田二郎三郎を家康に仕立てた。しかし、この影武者、只者ではなかった。かつて一向一揆で信長を射った「いくさ人」であり、十年の影武者生活で家康の兵法や思考法まで身につけていたのだ……。
  関ヶ原
  大津城
  敗者
  異邦人
  伏見城
  江戸
  源氏の長者

中巻
 関ケ原で見事な勝利を収めた徳川陣営。しかし、嫡子・秀忠による徳川政権が確立すれば影武者は不要となる。その後の生命の保障がないことを知った影武者・二郎三郎は、家康を斃した島左近を軍師に、甲斐の六郎率いる風魔衆を味方に得て、政権委譲を迫る秀忠、裏柳生と凄絶な権力闘争を始めた。そして、泰平の世を築くため、江戸・大坂の力を拮抗させるべく駿府の城の完成を急ぐ。
  千姫
  変転
  大御所
  駿府(すんぷ)
  偃武(えんぶ)

下巻
 いまや二郎三郎は、秀忠を自在に操る家康なみの智将であった。彼の壮大な夢は、江戸・大坂の和平を実現し、独立王国=駿府の城を中心に自由な「公界」を築くことだった。キリシタン勢力を結集した倒幕の叛乱を未然に防ぎ束の間の平安を得るが、秀忠の謀略から遂に大坂の陣の火の手が上がる。自由平和な世を願い、15年間を家康として颯爽と生き抜いた影武者の苦闘を描く渾身の時代長編!
  大坂和平
  反撃
  キリシタン禁令
  大坂冬の陣
  大坂夏の陣
  終焉
    あとがき(隆慶一郎)
    解説 縄田一男

参考
 関ヶ原古戦場
 駿府城 地図 記事(静岡市)
 伏見桃山城[MuBlog
 大坂城 地図

Mu注記
 関ヶ原の合戦が1600年である。それから、家康が亡くなる(1616)まで、ほぼ家康と秀忠とが政権を二分していた。豊臣家が完全に滅亡するのは、1615年の大坂夏の陣である。Muは中学校で日本史を学んで以来、ずっとこの15年間になんの疑問も持っていなかった。
 しかし今回「影武者徳川家康」を読んで、めまいに襲われた。
 つまり。
 小説のように家康の影武者・二郎三郎が関ヶ原以来家康のふりをしてきた、とは思わない。ただ、なぜ豊家滅亡まで15年間かかったのか、その理由の一端が作品によって分明になった。
 家康と秀忠は、日本国の統治について、すべてにおいて闘っていたのかも知れない。その中に当然、朝廷、豊臣家の処遇もあった。

 史上、鍵になるのは家康の六男、妻は伊達政宗の娘イロハ姫、この忠輝の足跡にあるような気がした。忠輝は75万石の親藩であったにもかかわらず、家康存命中に勘当をうけ、二代将軍秀忠の時代、領地を没収され、90歳を越えるまで流浪であった。なお勘当されても領地は没収されない。家康の死とともに、忠輝は領地召し上げ、なのに命だけは助かり、長生きした。このからくりは、隆慶一郎の作品で、すっきりわかる。

 さて。
 超絶な秀作であった。
 あまりに痛快、リアルな作品なので、一夕には語り尽くせない。これは、後日に(笑)

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2005年8月18日 (木)

初夏の助勤会・2005/07/14

祇園のNEXUS
辰巳橋界隈地図

食前の記念写真

食前の記念写真
 この7月に、授業を一緒にしてもらっている助勤さんたち5名と祇園のNEXUSへまいりました。この五名が2005年の倶楽部の4年生です。あとに三年や二年の人達がたくさんおるのですが、この日は助勤デー、すておいて出かけるのです。場所は、祇園の辰巳大明神北の「NEXUS」です。雰囲気のあるお店です。Muはカナーン96という研究会の人達と1997年頃に一度行った記憶があるのです。

食後の記念写真

食後の記念写真
 Muは最近なんとなく気がついてきたのですが、夜間撮影でフラッシュを使わないと、随分趣のある写真が撮れますね。それと、ひそかにblog掲載を考えていたので、あんまり鮮明すぎるのもなんとなく、申し訳なくて。というわけで、これはフラッシュなしで撮しました。みんな、食べて飲んで、随分ごきげんのようですねぇ。学生達に気働き良く手伝ってもらうには、言葉は不要、祇園あたりで一晩食べさせれば半年もつ。などと、無駄口をたたくと、鉄槌が落ちてきそうですなぁ。

中国茶と煎茶とマフィン

中国茶と煎茶とマフィン
 この茶房は何十回行っても名前を覚えられません。三条大橋近くの「がんこ寿司」の、道を挟んだ南側のビルの6階あたりにあります。このMuBlog でもいくつか断片記事があるはずですが~。たくさんのお茶があるので、Muのように珈琲まみれの男には、普通には一人で入ることはまずないです。ただ、珈琲嫌いな若い娘っこたちと行くには、大抵喜んでくれますね。なによりも、三条京阪駅が近くなので、夜の9時過ぎにさっと特急に乗れるというのも、Muがよく案内する理由でしょう。つまり、Muの夜9時は一般人の深夜零時のようなものなので、歩きながら寝ている始末の時間帯。さっと、空いた電車に乗れる快適は捨てられません。

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2005年8月16日 (火)

過去写真 3:披露宴手伝いのMu

25歳のMu

Mu25
 過去写真を掲載するなんて、ちっと恥ずかしいと思いながら、未整理写真を片付け終わろうとしたら、比較的大きな写真があって、Muが見あたらなかった。知人の結婚披露宴写真だった。整理整頓によそ様の写真を保管するほどの大きな心もないので、すてようとしたら、あっ、なんだか写真の片隅にけったいな「物」が写っていた。

 その気になってよくみたら、まさしくMuの面影があった。
 しかし、数えてみると25歳ころの写真である。そのころのMuの体細胞も脳細胞も、いまはまったく影形も残ってはいないはず。これは別人なのだ。

 考えてみると、Muの時系列的自我統一、そんなものがあるのだろうか。この25歳のMuと今のMuとは、全く別人なのだろう。そうすると、わけがわからなくなった。Muは突然最近この世に姿をあらわしたわけでもないし。
 書いていると、記憶はよみがえってきた。
 Muは職場の先輩にあたる人の結婚披露宴に、その下働きに出かけたのである。そうしてよく見ると、大きく写っている来賓の方々は、知った人だった(まあ、状況からしておどろくほどのことでもない)。今までは、眼がそこに行って、Muが写っていた記憶はまったくなかった。

 訳が分からないままに記事を終えるのは気持ちが悪い。ここで一言、つまり「Muは写真の中にMuを再発見した。しかし、そのMuと今のMuとの関係が、よくわからない」と、そういうことである。

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2005年8月15日 (月)

ヒトラー ~最後の12日間/オリヴァー・ヒルシュビーゲル監督 (映画)

ヒットラー ~最後の12日間
 見終わって、重い映画だと思った。
 ヒトラーを演じたのはブルーノ・ガンツ、入魂の演技だった。歴史上知られているヒトラー以上に、タイプ「ヒトラー」を造り出したのではなかろうか。

 しかしここで、歴史上のヒトラーは考えないことにする。なぜなら、日本はドイツと当時同盟国であり、日本もまた昭和20年8月15日、大東亜戦争に敗北した。アメリカの原爆投下による死亡者はその年だけで20万人を超えた。広島と長崎の上空でボタンを押すだけで、20万人の死亡というのは、多くの日本人が忘れたい事実なのだろう。その後も延々と原爆症で死んでいる。「それで終戦をむかえられた」「それで日本が救われた」などとアメリカの昔の大統領や他国の歴史教科書(見てはいないが)が言うのは勝手すぎるが、それを聞いて「そうだ、そうだ」と納得するわが同胞をみると、嫌みを言いたくなる。20万人という瞬時の虐殺、それもほとんど非戦闘員の虐殺を、黙ってうなずく人は、ヒトラーという映画(原題は「地下壕」となるか)を見ても、「ヒトラーの人間性を描きすぎだ」とか、「秘書の女性は、年をとって若い頃のヒトラー信奉の愚かさを知った」とか、「ヒトラー個人史に過ぎない視野の狭い映画だから、つまらない」とか、なんとも言いようのない評価しかでてこない。

 Muはこれを映画としてみた。だから、映画に表現されない様々な歴史的事象は捨てた。背後で600万人のユダヤ人が殲滅され、スターリンがどうしていたかとか、トルーマン大統領がなにを考えていたかとか、第一次世界大戦でヨーロッパ諸国がドイツにどのような条件を突きつけたとか、……。全部忘れた。

 さて、映画「ヒトラー」だが。
 ナチの高級幹部のうち、秘密警察長官ヒムラーのあっけないベルリン退去が始めにあったので、このナチという組織の異常性が最初はわからなくなった。敗北が明らかだから、幹部の何名かが逃亡する、ないし、別行動するというのでは、まともすぎるパルタイ(党組織)に見えたのである。しかし、宣伝相ゲッペルスが画面に登場したとき、はじめてこの映画の不気味さが骨身にこたえた。ウルリッヒ・マッテスという名前のドイツ人俳優だった。

 結論にいたるならば、このゲッペルスと、その妻マグダ(コリンナ・ハルフォーフ)とが夫婦そろって、ナチス(ドイチェ・ナチオナール・ゾーチアリスティッシェ・アルバイター・パルタイ)党組織にあって、どれほど党を支えていたのかということが、痛切に分かったのである。その党への忠節あってこそ、ヒトラーが存在しえた、と映画は表現した。しかも、その忠節の内容が、現代人から考えると異様である。

 ゲッペルスは、幹部の中にあって、絶対的にヒトラーの発言を補佐する。観客Muが「これはおかしい」というようなヒトラーの錯乱振りにも、ゲッペルスは逃げをうたない。しかも彼の発言に、幹部たちは頭を垂れる。ゲッペルスのカリスマはヒトラーに匹敵する。その俳優の人間離れした相貌は見ものだった。目が落ちくぼみ、髑髏の顔をした「人」らしき者が、ゲッペルスを演じていた。だから、ヒトラーの重みを言う前に、ゲッペルスの表現に気を取られた。
 同じく妻。マグダ。彼女がゲッペルスを上回る人物造形を与えられていた。マグダが現れると上述のゲッペルスの影が薄まる。映画では、ゲッペルスが必ず画面の背景、左右に消える。片隅でじっとしたまま妻の所行を眺めている。それは、夫婦の6人の子供を、マグダが無理心中させるため、毒殺するときでさえ、ドアの影で突っ立っている。マグダは、映画では、子供達を殺したあと、タロットカードを華麗にシャッフルし、占っている様子を見せた。自分達とナチスの運命を占っていたように思えた。

 その少し前。
 マグダは、ヒトラーと妻エヴァが自殺のために部屋に隠ったとき、制止を振り切りドアを開けさせ、哀願する。「総統がいない世界には耐えられない。どうか、思い直して逃げてください」と。マグダにとっては、総統こそが「神」だったのだろう。神のいないナチス、ドイツは、彼女にとって世界の破滅を意味したに違いない。
 だが、哀願するマグダを見て、錯乱狂気の女性信者を想像しない方がよい。そのあと、実に冷静に冷徹に子供達6人を毒殺する。まず睡眠薬を医者に調合させ、4時間持つと聞いた上で、熟睡した頃に、一人一人の口に毒薬アンプルを含ませ、顎を押さえ、ガラスを破り死に至らしめる。
 そして、ゲッペルス夫婦は、庭にでて互いに銃で頭を撃つ。予定通り、瞬時に兵士三人がガソリンを持ち駆け寄って、火葬する。

 ヒトラーの妄想、すでに無い軍団を地図机上で動かし、じれる。達成できようもない命令に違反した高級将校、将軍を銃殺する。会議では、終戦調停を拒み、幹部達をののしりなじり、粛正した将官の代わりに別の将軍をベルリン守備総責任者に任命する、……。

 ヒトラーの会議での激高錯乱は、どはずれていた。ドイツ語も分からないのに、一語一句が恐怖の矢として突き刺さってきた。ののしりが、耳をついて離れなくなってしまった。

 この映画は。
 組織崩壊の、敗戦の、人間の崩壊を、その動きを実に丁寧に描ききった。
 なぜ激高し、なぜ泣き、なぜ自殺するのか、親子心中をするのか、その経緯をあますところなく描いた。
 人間ヒトラーを描いたとか、そういう風には思わなかった。
 かく、人は狂い死にしていくものかと、Muは重い教訓に胃がもたれた。

 そして、自殺を厳に戒めたキリスト教に背き、つぎつぎと人が自殺していく様子をみて、ナチズムは明確すぎるほど、わかりきったことだが、新宗教なのだと思った。古代の、ケルトの、ゲルマンの多神教ではなくて、一神教の系譜を、ヒトラーという一神によって継いだのだろう。

追伸
 烏丸四条、古今烏丸ビルの3階にある「京都シネマ」、100席の小劇場だったが、入るときのチケット番号が1時間前に到着で29番。開演前にロビーが埋まり、完全な満席となった。終了時も次の入れ替えで、ロビーが人であふれていた。
 見渡したところでは、30歳以上の中高年。ずいぶんな高齢者も多数いた。
 そばの40代男性が頭を抱え込むようにして、見入っていた。人いきれの聞こえそうな小劇場だったが、二時間半の長時間、観客席は沈黙で満たされていた。

 多くの日本人にとっても、この映画は、重いものだったのだろう。

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2005年8月13日 (土)

過去写真 2:修学旅行・高2・桜島

高校二年生・桜島

高校二年生・修学旅行・桜島
 先回、急に思い立って過去写真を掲載するにいたった原因は、この写真にあった。結論を先に言うと、つまり、この写真の下部にある写真説明を読むまでは、おそらく40年以上の長きにわたり、「Muは鹿児島、桜島を見たことも無い」と信じ切って、昨日まで生きたきたのである。

 『修学旅行記念 於 鹿児島 桜島 38.11.4』

 先年、北九州の卒業生が、「小学校の時、はじめて桜島を汽車の窓から見て、感動したのを覚えている」と語った折にも、あるいは鹿児島の卒業生がそのあたりの話題を口にした折にも、あるいは、……。そこここの九州関係者と話した折にも、Muは「いやぁ、僕は桜島だけは行っていないし、見てもいない。阿蘇や宮崎は修学旅行で行ったんだけどね」と、押し通してきた。
 いま、思い出してきた。百万遍にいたころ、図書館のアルバイト学生が典型的な薩摩っぽで、「自動車の屋根やボンネットに火山灰が」と聞いた時にも、「鹿児島って、行ったこともないけど、ものすごいんやねぇ」と、彼に眼を丸くして言ったことも、昨日のことのようだ。

 ただ、それだけの過去写真だった。
 しかし、高校二年生は、Muには青春まっただ中だったのだろう。殆どの生徒たちの行状をありありと思い出した(笑)。特に、数名の男子生徒のばかっぷりは、今思い出しても、わらけてくる。現在は女子学生達の抱腹絶倒な毎日の行状にはらはらしているが、当時は「おもろいやっちゃ」と思ったのは、男子生徒だけだった。女子生徒は、なんかわからない、つかみどころのない宇宙人だった。
 左の先生が、たしか、音楽担当で「宝光井」とおっしゃったような。(別の愛称で呼んでいたので、調べないと、漢字がわからない。すみません、先生)。右の先生は、教頭先生か校長先生だったようなぁ。

 ずっと、記憶について考えている。現在は、『脳のなかの幽霊/ラマチャンドラン』と言うのを、少しづつ、笑い転げながら読んでいる(一応、科学啓蒙図書で、決してトンデモ本ではありません)。なんとなく、Muはある小さな一定領域「桜島」と、かたどられた神経細胞のネットの一部分を、消してしまったのかも知れない。いわゆる、精神分析的な、外傷というか、なんというかトラウマがあったわけではない。それどころか、修学旅行はすべてにおいて、たのしいことばかりだった。阿蘇の雄大さに心底仰天したし、瀬戸内海航路の夕日に陶然としたし、宮崎の日南海岸の青さが今も記憶にある。帰りは生まれて初めて汽車で海底(関門トンネル)をくぐった感動が、昨日のことのようだ。

 なのに、桜島。完璧に記憶にない。
 この写真は。
 もしかしたら、ねつ造されたものかもしれない。「Muよ、君は高校二年生の時に、桜島をみているんだよ」と、耳元で、なにかがささやく。
 人は、記憶で自我を保っている。その記憶が、無くなったり、改変されていたならば、なんとも悲しいことであるなぁ。「僕は本当に、桜島を観たのだろうか」。

ついでに、桜島地図

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2005年8月12日 (金)

過去写真 1:登山・高校2年生 

高校二年生・剣岳?

高校二年生剣岳
 夏の葛野の夕暮れに、ふと昔の写真を眺めていた。こういうことは、無意識に、無目的にすることで、めったに過去の写真をみることはない。
 懐かしさはあるのだが、それ以上に、失われた時を深く味わう。二度と、天地が裂ける異変があろうとも、取り戻しはできない。「時」の絶対性を、ただ、胸におさめるばかりである。
 
 Muが京都府立嵯峨野高校二年生のころだったはず。山岳部があって、そこにいた。いつもは近所のblogで畏友が「山、山、信州」と吼えているので控えていたが、実はMuも高校生の頃、短期間だったが山岳部に所属していた。顧問のお名前は、金加先生と言って、英語の教師だった。
 たとえようもなく優れた師であった。

 いろいろな記憶は、この記事を操作する間に次々とよみがえってきたが、それはよしておこう。また、写真のどれがMu本人で、残り4名がだれで、どんな友人だったかも止めておこう。ただ、そこに残った写真を眺めるために、MuBlog に掲載した。
 私的な話である。まあ、blogは日記が主流だから、プライベートなものなのだろう(笑)。

 剱岳の地図

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2005年8月10日 (水)

空色勾玉(そらいろまがたま)/荻原規子

空色勾玉/荻原規子 作<ソライロ マガタマ>

空色勾玉/萩原規子
 (BN15137751)
 東京 : 徳間書店、1996.7
 366p ; 19cm.
 ISBN: 4198605394
 著者標目: 荻原、規子(1959-)<オギワラ、ノリコ>
 分類: NDC8 : 913.6
 注記: 2005年6月 25刷

所蔵図書館 82 [by Webcat 20050810]

帯情報

村娘狭也(さや)の幸せな日々に、影を落とすのは昔の記憶……「鬼」に追われた六歳の自分。十五になった祭の晩に、「鬼」はついに追いついた。<おまえは「闇(くら)」の氏族の巫女姫だ> と告げられて、憧れの「輝(かぐ)」の宮に救いを求める狭也。だが、宮の神殿で縛(いまし)められて夢を見ていた「輝」の末子(すえご)、稚羽矢(ちはや)との出会いが、狭也の運命を大きく変えていく……

神々が地上を歩いていた古代の日本「豊葦原(とよあしはら)」、光と闇がせめぎあう戦乱の世を舞台に、「水の乙女(おとめ)」と「風の若子(わかご)」の冒険と成長、運命の恋を描き、圧倒的な人気を博したファンタジー。

表紙画:いとうひろし


Mu注記・三部作
 荻原規子<勾玉>三部作の宣伝があった。それによると、白鳥異伝(ヤマトタケル伝説と勾玉)、薄紅天女(長岡京を舞台にした最後の勾玉)。読んでみたい気もしてきた。

Mu注記・感想
 夏の不思議な読書体験だった。
 この作品というか、著者はこの図書でデビューし、日本児童文学者協会新人賞を受賞し、米国翻訳もされたようだ。
 児童文学というものに暗いので、その水準においてはなにも申せぬが、普通の物語として一気一晩で読み終えた。ハリーポッターを児童文学と呼ぶことを嫌う人もいるようだが、詳細はわからない。ただ、のめり込んでいく雰囲気は少し似ていた。Muが珍しく一晩で読んだのだから、相当な物語性を秘めているのは事実だし、名作だと思った。

 この図書はいわゆる「筋を見せない方がよい」作品であろう。児童図書(10歳以上)だからなのか、総ルビがふってあって、難しい漢字もふりかえらなくてもすぐに読める。しかし、物語は複雑である。複雑さを意識させないで進んでいくのが、気持よかった。
 少しくらい内容を明かしておこう。作者のことは全く知らないし、気むずかしいミステリ作家とは違って、お怒りにはならぬだろう。ましてこのMuBlog の読者は平均年齢50歳以上だから、読書対象者は読まぬ(笑)。
 で。
 一番気に入った人物というか、人か魔物かわからないキャラは、稚羽矢(ちはや)である。年齢性別一切不詳である。わけのわからない「物」で、Muはヒロインがチハヤに出会ってから、もう、巻措くあたわず状態になってしまった。デビュー作でこういうキャラを造られた作者の才能は輝いてまぶしい。
 稚羽矢をどう言い表して良いのか、筆が踊らぬが、いうてみればプッツン、天然の極端な一種であろうか。読み進むに従って、唖然が重なり、呆然となってしまった。もちろん、押さえ処はちゃんとあって、最後は締まりがあったが、異能の天然という、なんとなく古びた言いぐさが、今のMuの頭の中を駆けめぐっている。

 さて。闇(くら)と輝(かぐ)との相克。
 月代王(つきしろのおおきみ)と照日王(てるひのおおきみ)との関係。とくに照日王の、これまた年齢性別不詳の色っぽさがよい。総じて、でてくる人物というか神というか、すべて宝塚の麗人という趣が、うまくMuなどの年齢や趣向に収まっていた。
 天地を揺るがす情景描写、輝くようなまほろばの宮殿描写。目を覆う國津神の禍々しさ。こういう世界観を、ファンタジーとは言いながら、実に丁寧にリアルに描く物語は、珍しいのではなかろうか。
 ……、と、やはりこれくらいにしておく。一言でも口を滑らせると、刃が飛んできそうな面白さなのだから。

追伸
 やはり、一言。
 著者が後書きで一定の断りを入れてはいるが、Muは月読命を大胆に起用したところが、古事記世界であると考えた。月読命とは、だれかさんの兄弟姉関係で、涙で地を枯らしたという、実に変わった神様である。涙を流せば水浸しになると思うだろうが、実はその逆もある(本図書とは無関係の話です)。


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2005年8月 9日 (火)

夏の木幡と葛野

ある日の一日

 5:00  起床
       珈琲、メル
 5:30  洗顔完了
       朝食(大抵トースト一枚)
 6:00  文学(調査、読書、メモ)
     <平均5時間>
11:00  出発

12:00  昼食(いろいろ、御馳走)
13:00  葛野到着
       大学メル、湯沸かし(笑)
13:30  論文執筆開始
15:00  倶楽部をのぞき見る(だれか、おる)
       ひやかし
     <論文平均5時間>
15:30  論文再開
18:30  論文終了
19:00  葛野出発

20:00  木幡到着
       新聞。暗黒にして外界刺激を絶つ
20:40  夕食(山海の珍味)
22:00  風呂
22:30  すやすや

 大体こんな生活が夏期中続きます。論文は、データ整理と、典拠確認に時間を取ります。本筋なんかは一週間ほどで完了します。最近は倶楽部部屋が近所なので、葛野で日に平均一人か二人と口をききますが、この12年間、夏期の間は全く無口、独り言程度です。電話もないし、うろうろもしない。
 実に効率の良い人生だと、自画自賛していますが、これを達成するための「変人ぶり」は小泉首相もおどろくほどの、豪腕ぶりですわな。不義理、付き合いの悪さ、それを達成してこそ、はじめてこの世の極楽、いや涅槃に近づけるのです。

 快適です。
 辛いのは、終日マシン相手による、目や肩の疲労です。だから、最近は平均10時間労働という中には、四時間ほど居眠りや、漫画読みが入っているかも知れません、なぁ。
 MuBlog や小説葛野記が書かれない日は、実は、病気じゃなくてひたすら論文書いておるとお考え下さい。

 以上が、田舎教師の夏の一日です。
 お金もかからないし、政争にあけくれもしないし、まるで晴耕雨読です。
 (これくらい心身を鍛えて、始めて授業期間を乗り切れるのですぞ)

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2005年8月 7日 (日)

NHK義経(31)屋島と逆艪:さかろ

承前

 屋島のあたり地図

 今夜もおもしろかった、またあっという間に時もすぎた。だから書くことは少ないのだが。いくつか。

1)猟師
 一ノ谷で知り合った猟師が義経のもとに駆けつけてきた。三郎という名が伊勢の三郎と混同するので、熊とよぶことになったとか。突然だが、朝鮮の「金」などはどうしてきたのだろう。全国みんな親戚扱いで良い面もあろうが、……。
 山の民が全面にでてきた。そして屋島に渡る大阪湾では、海の民が全面にでてきた。
 先般来畏友Joさんが申してきたように、義経は海と山の民に庇護されて育ち戦い、それは天皇に直結するバイパス路。
 これまでもやもやとしていた義経の源像がはっきりとしてきた。
 戦も、平地平野での大軍同士の会戦よりも、ゲリラ的な戦法。
 梶原・軍目付(いくさめつけ)と争うのは当然だったろう。

2)逆艪
 海戦で退却を容易にする艪を舳先に付けるには数日かかる。
 義経が反対したのは、この時間が惜しかったからだとおもった。
 「退路を用意するのは、士気に関わる」「この一戦しかない」と、ドラマで義経が息巻いたのは、事実はどうか分からぬが(笑)、「時」をやり過ごすことに反対したのだろう。
 梶原景時の申し状はいちいちもっともである。Muが目付ならば同じことを言うだろう。しかし実際は150人程度が先乗りしたのだから、義経が短慮だったとは思わない。別働隊と考えれば、パターンは一ノ谷と同じになる。(と、Joさんもいうてはりました)

*)まとめ
 JoBlog解説では海の民も山の民も、農耕とは異なる。梶原のセリフ「我らには守るべき領地がある。九郎殿にはそれがないから、あのような捨て身の戦さばかりする」からして、鎌倉関東御家人は百姓、屯田兵みたいなものだったのだろうか。戦が無いときには、鍬で畑を耕しながら、師弟に武術や読み書きを教えていたのだろう。
 とすると、義経も、その郎党も、全く別の世界の住人だった。「狩猟漁撈」は、百姓とは生き方が異なる。だから、戦さも世界観も違っていたのだろう。

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2005年8月 6日 (土)

千年火:せんねんび/瀬木直貴 監督 映画

福岡県新宮町 地図

 夏の土曜の朝に、南禅寺そばの「蹴上げ」まで映画を見に寄った。
 題名は『千年火』といって、九州は福岡県新宮町を舞台にした少年の物語だった。瀬木さんという監督の作品だった。

 人の心の綾をあつかう映画や小説は幾十年忌避してきたMuなのだが、珍しく「話のスジを記してもよい」映画に感動した。何故だったのか、今夜考えていたのだが、さっき解が出た。
 つまり。
 少年は話せなくなったのだ。母を幼時に失い、いま最愛の父を交通事故で亡くした少年。東京を去り、祖父母の町、福岡県新宮町に疎開した。
 人生のショックで緘黙症(かんもくしょう)になってしまった。だから少年の心の動きは、Muが想像するか、あるいは少年が眼前の少女に送る数文字の「携帯メール」でしか伝えることができなくなった。

 こういう条件がMuを快適にした。
 先般感心した『姑獲鳥の夏』は過剰な言葉の流出でMuを幻惑し、今朝の『千年火』はその対極にあってMuを再度幻惑した。
 その酔いしれる時間の中で、劇場の外にでたとき、発汗が冷えていくようなカタルシスを味わっていた。

 「言葉」。
 過剰であれ寡黙であれ、言葉に空しさはない。受け取る心があるかどうかなのだ。ただの寡黙は、話すのが億劫なだけにすぎぬ。ただの饒舌は、言語中枢の制御が乱れただけにすぎない。
 饒舌と寡黙とを前にして、受け取る心がどうあるべきなのか。というよりも、どういう心で外界を探知しているのか。そこに、受け取る者の人間性、見識、感性の総合力がある。
 それが明らかになる。
 制作者よりも、観客が穏やかに試される。

瀬木直貴 監督 インタビューに答える
 舞台に居る瀬木監督を眺めながら、子供(Muは「子ども」とは表記しない)達の質問に応じる声を聞きながら、シーンを再構成していた。蘇ってくるのは、少年と少女との対話が一番多かった。

 同じ11歳の設定だが、明らかに少女は背も高く、雰囲気も大人びていた。もちろんセリフ回しは少年の方が上等だったが、雰囲気としては同格だった。(少女は地元新宮町出身らしい)
 少女は言葉少なげに語りかける。少年は表情だけで答える。いや、答えない表情をすることで少女に心を閉ざす。しかし、少女が母のない同じ境遇だと知ったあたりから、少年は眼前の少女に携帯電話を使い出す。わずかに数文字単位である。
 『お父さんは?』
 「家を出て、行方不明」
 この対話が、眼前で穏やかに答える瀬木監督の、まるで普通の人のような雰囲気に、強く重なった。
 ああいう映画、つまり徹底的に現代映画を批判しつくしたような作品を造る(反逆)監督が、何も話さない少年そのものに見えたのである。

 メッセージ。
 瀬木は、マシンも画像処理も使わない、手触りだけで、しかも主役のセリフ抜きで、画面の展開だけで映画を作った。これは強烈なメッセージである。
 メッセージにはいつも政治が含まれる。が、鋭敏な(笑)Muの感性は、それを感知しなかった。もし、政治が醤油一滴程度でもあったなら、今夜こんな風には書かなかっただろう。
 娯楽に、感性のマッサージに、きわどい政治なんかあってたまるか、がMuの本心である。
 それにしても、状況と、自然と、伝承と、美しい少女と、妖しい老人・オキナが配置されただけで、これほどの強い信号を感じ、娯楽の心地よさを味わうとは、Muも長生きはするものだと思った。

 殺人もセックスも暴力もない、90分の長尺を維持するために、娯楽として楽しませるための別の要件がそろっていた。
 主役、聡少年に、稀代の美少年を得たこと。村田将平。
 少女に、はっとさせる「女」を演じさせたこと。山下奈々。
 NHK義経の「宗盛」役でおなじみの父親の哀感。鶴見辰吾。
 とぼけた田舎医者にして、千年の火を守るオキナに、丹波哲郎をあてたこと。
 一輪車(ネコ車)を立てて回転させて一人踊る漁師。これには、一人で笑った。
 船上での葬式。
 海辺でナベサダがサックスを吹いていた! 何故? と、思うまもなく聞き入った。
 狐踊りの手の丸めようが不気味だった。ネコ化けを思い出した(笑)
 映画を映画として完結させるために、想像以上の工夫が必要なのだと、悟った。

 町民達が、相撲部屋を借り切った60人のスタッフ達のおさんどんを、たった数名の主婦だけで一ヶ月以上続けた話。少年達の試練(オーディアル)、3キロ離れた島への遠泳を撮影するために、50隻以上の漁船が海を守ったこと。鮫も出る海だったらしい。
 聡少年が疲労困憊になったとき、海中からとらえた彼の映像が「立ち泳ぎ」になっていたのが、リアルだった。海中で精も根も尽き果ててくると、クロールも背泳ぎも平泳ぎも出来なくなってしまうものだ。立ったまま、なんとかこうとか前進する。

 昔、Muもうっすらと覚えている、映画「夜明け前」の撮影時代を思い出していた。なにかしら、太秦や嵯峨の関係者が、損得抜きで映画撮影に協力したような、記憶がある。監督が話す、新宮町・当時の撮影現場が、目に浮かんだ。

第11回キンダーフィルムフェスト・きょうと

キンダーフィルムフェスト・きょうと
 世界のアニメ、子供たちの映画を、少年少女が審査員になって独自に審査するシステムのようだ。初めてのことだったので、少し面食らったが、その初めての経験が『千年火』だったことに、Muは幸運を感謝した。
 毎年この映画祭はあるようだ。
 ただ、Muは「大人(笑)」なので、今回のような、映画会場をでたあとも尾を引くようなものが毎年鑑賞できるとは思ってはいない。こういうものは、一流のガイドがいて、無理矢理にMuをひっぱらないと、そういう異世界に容易に手をだせるものでもない。
 昨年は知らない、来年も知らない。しかし今回は、むしろ子供たちが、瀬木監督に自然に質問していたのが、おもしろかった。もちろん、昨日も上映されたのだから、事前学習はあったろうが、Muは20分程度のインタビューと質疑応答を十分に楽しんだ。

京都国際交流会館(京都市左京区粟田口鳥居町)映画祭会場地図

参考サイト
  キンダーフィルムフェスト・きょうと
  映画『千年火』オフィシャル・サイト(新宮町文化振興財団)
  千年火/RiFF:リージョナル・フィルム・フェスティバル

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2005年8月 5日 (金)

あらしやま:嵐山暮景

渡月亭碧川閣(京都市西京区嵐山中尾下町)地図

夏の嵐山暮景

嵐山暮景
 人影のなくなった夏の京都・嵐山を撮してみました。実はこの後の、かがり火に映える鵜飼を目指したのですが、すべて真っ黒け(笑)の写真だったので、夕暮れを掲載しました。
 今夜は葛野の図書館主宰、納涼会だったのです。
 Muもそれなりにご挨拶しました。
 とはいうものの、関係者のうち三名も教え子が居たので、なんとなく、日頃の学生打ち上げ懇親会的風情もありました。

 場所は大層な料理旅館の一室でした。湯葉懐石でしたなぁ。やはり、学生達と日頃うろつく所とはひと味違いますね。

 と、いうわけであっという間に時が過ぎました。
 教え子達の口から出る話題はたった二つ。十数年前のMuの授業で、覚えているのは、「わけもなくしんどかったなぁ」、そして「またりん」。
 後者は六月に十八年の生涯を閉じた愛猫「またりん翁」のことなのですが、十年たっても(それだけ!)覚えていてくれた。授業に行くときは「またりんに行ってくる」だったとか。
 またりん翁もMuも、持って瞑すべし也。

註:なんとなく、職場の納涼会を同窓会ノリにしてしまって、他の職員さん達には申し訳なかった。黙祷。

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2005年8月 3日 (水)

墓盗人と贋物づくり:日本考古学外史/玉利勲

 『墓盗人(はかぬすびと)と贋物(にせもの)づくり』は平凡社の選書142で、1992年に刊行されている。
 著者の玉利勲(たまり・いさお)さんは30年間ほど朝日新聞記者を勤め、朝日ジャーナルの編集長でもあったよし。奥付上の著者紹介にあった。1924年鹿児島生まれなので、今は80歳を越えておられるのだろうか。

 今から十数年前の刊行だから、入手を危ぶんだが、近頃閉店の京都丸善に注文しておいたら、意外にもすぐに到着した、六月ころだったろうか。2300円。今日になって、あっけなく読了した。やはり、選書形態は比較的絶版の憂き目にあいにくいのだろうか。

 入手し、読んで良かった。
 盗掘といえば、中国やエジプトのお家芸と思っていたが、なんのことはない、日本にも累々と墓暴きの風習があるようだ。考古学者にもよるが、未盗掘の古墳に出くわすのは、研究者生活中数度しかないようである。

 20世紀初頭の宮崎県では八十数基の古墳が村民総掛かりで暴かれ、多数の副葬品が転売されたとか。20世紀末の関東北部では、組織的に古墳が掘られ闇商人が暗躍しているとか。奈良県北部の某村では江戸時代、村をあげて天皇陵を発掘(笑)していたとか、不敬の限りなり。

 圧巻は。
 これは森浩一先生の調査研究に密接に関係するのだが、仁徳天皇陵(大仙古墳:この書き方が難しい。伝仁徳天皇陵古墳とか、文字使いに注意を要するようである)にあっては、明治初期の堺県令だった税所篤(サイショ・アツシ)は、すさまじい古代史マニア癖が昂じて、天皇陵そのものを、自らの強権をもって盗掘した形跡がある。伝仁徳天皇陵出土品が米国ボストン美術館所蔵とはよく聞く話だが、国外流出したのは税所・堺県令によってのことと推測される。
 玉利さんによると、学会では森浩一先生とは異なる意見も少数あるようだが、私の感想では、この税所という薩摩っぽは維新の元勲だったから、権力を駆使して盗掘癖を助長した形跡がある。つまり、堺県令は途中で奈良も管轄にはいり、それこそあちこちお宝の山の中で、税所県令の顔が残った。

 他にも、浜田耕作さんの戯刻壁画とか、今から考えると汗がでそうなお笑い話もある。全部で十一編あるが、どの編も「そうだったのか」と、奇妙に納得させる内容だった。


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