ヒトラー ~最後の12日間/オリヴァー・ヒルシュビーゲル監督 (映画)
ヒトラーを演じたのはブルーノ・ガンツ、入魂の演技だった。歴史上知られているヒトラー以上に、タイプ「ヒトラー」を造り出したのではなかろうか。
しかしここで、歴史上のヒトラーは考えないことにする。なぜなら、日本はドイツと当時同盟国であり、日本もまた昭和20年8月15日、大東亜戦争に敗北した。アメリカの原爆投下による死亡者はその年だけで20万人を超えた。広島と長崎の上空でボタンを押すだけで、20万人の死亡というのは、多くの日本人が忘れたい事実なのだろう。その後も延々と原爆症で死んでいる。「それで終戦をむかえられた」「それで日本が救われた」などとアメリカの昔の大統領や他国の歴史教科書(見てはいないが)が言うのは勝手すぎるが、それを聞いて「そうだ、そうだ」と納得するわが同胞をみると、嫌みを言いたくなる。20万人という瞬時の虐殺、それもほとんど非戦闘員の虐殺を、黙ってうなずく人は、ヒトラーという映画(原題は「地下壕」となるか)を見ても、「ヒトラーの人間性を描きすぎだ」とか、「秘書の女性は、年をとって若い頃のヒトラー信奉の愚かさを知った」とか、「ヒトラー個人史に過ぎない視野の狭い映画だから、つまらない」とか、なんとも言いようのない評価しかでてこない。
Muはこれを映画としてみた。だから、映画に表現されない様々な歴史的事象は捨てた。背後で600万人のユダヤ人が殲滅され、スターリンがどうしていたかとか、トルーマン大統領がなにを考えていたかとか、第一次世界大戦でヨーロッパ諸国がドイツにどのような条件を突きつけたとか、……。全部忘れた。
さて、映画「ヒトラー」だが。
ナチの高級幹部のうち、秘密警察長官ヒムラーのあっけないベルリン退去が始めにあったので、このナチという組織の異常性が最初はわからなくなった。敗北が明らかだから、幹部の何名かが逃亡する、ないし、別行動するというのでは、まともすぎるパルタイ(党組織)に見えたのである。しかし、宣伝相ゲッペルスが画面に登場したとき、はじめてこの映画の不気味さが骨身にこたえた。ウルリッヒ・マッテスという名前のドイツ人俳優だった。
結論にいたるならば、このゲッペルスと、その妻マグダ(コリンナ・ハルフォーフ)とが夫婦そろって、ナチス(ドイチェ・ナチオナール・ゾーチアリスティッシェ・アルバイター・パルタイ)党組織にあって、どれほど党を支えていたのかということが、痛切に分かったのである。その党への忠節あってこそ、ヒトラーが存在しえた、と映画は表現した。しかも、その忠節の内容が、現代人から考えると異様である。
ゲッペルスは、幹部の中にあって、絶対的にヒトラーの発言を補佐する。観客Muが「これはおかしい」というようなヒトラーの錯乱振りにも、ゲッペルスは逃げをうたない。しかも彼の発言に、幹部たちは頭を垂れる。ゲッペルスのカリスマはヒトラーに匹敵する。その俳優の人間離れした相貌は見ものだった。目が落ちくぼみ、髑髏の顔をした「人」らしき者が、ゲッペルスを演じていた。だから、ヒトラーの重みを言う前に、ゲッペルスの表現に気を取られた。
同じく妻。マグダ。彼女がゲッペルスを上回る人物造形を与えられていた。マグダが現れると上述のゲッペルスの影が薄まる。映画では、ゲッペルスが必ず画面の背景、左右に消える。片隅でじっとしたまま妻の所行を眺めている。それは、夫婦の6人の子供を、マグダが無理心中させるため、毒殺するときでさえ、ドアの影で突っ立っている。マグダは、映画では、子供達を殺したあと、タロットカードを華麗にシャッフルし、占っている様子を見せた。自分達とナチスの運命を占っていたように思えた。
その少し前。
マグダは、ヒトラーと妻エヴァが自殺のために部屋に隠ったとき、制止を振り切りドアを開けさせ、哀願する。「総統がいない世界には耐えられない。どうか、思い直して逃げてください」と。マグダにとっては、総統こそが「神」だったのだろう。神のいないナチス、ドイツは、彼女にとって世界の破滅を意味したに違いない。
だが、哀願するマグダを見て、錯乱狂気の女性信者を想像しない方がよい。そのあと、実に冷静に冷徹に子供達6人を毒殺する。まず睡眠薬を医者に調合させ、4時間持つと聞いた上で、熟睡した頃に、一人一人の口に毒薬アンプルを含ませ、顎を押さえ、ガラスを破り死に至らしめる。
そして、ゲッペルス夫婦は、庭にでて互いに銃で頭を撃つ。予定通り、瞬時に兵士三人がガソリンを持ち駆け寄って、火葬する。
ヒトラーの妄想、すでに無い軍団を地図机上で動かし、じれる。達成できようもない命令に違反した高級将校、将軍を銃殺する。会議では、終戦調停を拒み、幹部達をののしりなじり、粛正した将官の代わりに別の将軍をベルリン守備総責任者に任命する、……。
ヒトラーの会議での激高錯乱は、どはずれていた。ドイツ語も分からないのに、一語一句が恐怖の矢として突き刺さってきた。ののしりが、耳をついて離れなくなってしまった。
この映画は。
組織崩壊の、敗戦の、人間の崩壊を、その動きを実に丁寧に描ききった。
なぜ激高し、なぜ泣き、なぜ自殺するのか、親子心中をするのか、その経緯をあますところなく描いた。
人間ヒトラーを描いたとか、そういう風には思わなかった。
かく、人は狂い死にしていくものかと、Muは重い教訓に胃がもたれた。
そして、自殺を厳に戒めたキリスト教に背き、つぎつぎと人が自殺していく様子をみて、ナチズムは明確すぎるほど、わかりきったことだが、新宗教なのだと思った。古代の、ケルトの、ゲルマンの多神教ではなくて、一神教の系譜を、ヒトラーという一神によって継いだのだろう。
追伸
烏丸四条、古今烏丸ビルの3階にある「京都シネマ」、100席の小劇場だったが、入るときのチケット番号が1時間前に到着で29番。開演前にロビーが埋まり、完全な満席となった。終了時も次の入れ替えで、ロビーが人であふれていた。
見渡したところでは、30歳以上の中高年。ずいぶんな高齢者も多数いた。
そばの40代男性が頭を抱え込むようにして、見入っていた。人いきれの聞こえそうな小劇場だったが、二時間半の長時間、観客席は沈黙で満たされていた。
多くの日本人にとっても、この映画は、重いものだったのだろう。
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コメント
偶然ですが
先週、女房が久しぶりに山崎夫人(ホスト・ファミリーの幹事役)と立川へ映画を見に行くと出かけました。
何ぞオモロイ映画があるの?と聴くと(ヒットラー)とのお答え。
そうですか、そういう映画だったのですか。
女房とはこの映画について話し合っていませんが、重い映画なのですね。
コチラからは聴かないことにしましょう。
女房はコチラが付き合いそうにない映画には(お友だち)を誘って時々出かけます。
そういうのはダンナとしては悪くない気分ですね。
少しだけ気が楽になります。
投稿: ふうてん | 2005年8月16日 (火) 02時46分
ふうてんさん、2005年8月16日 午前 02時46分
そうですね。食卓の話題にはなりにくいですね。
席もうまり、ロビーも一杯だったのが不思議でした。
ああいう重苦しい映画を見る人が国内に比較的多いというのは、配給元というか、関係者もわからなかったんじゃないでしょうか。男女比も一緒でした。
Muなんか、がらがらで数名と思って行きましたから。
ドイツ映画をあんまり知らないから、Muは行ったと補足しておきます。ドイツ語のリズムを聞いておきたかったのです。意味は全く不明でしたが、発音が明瞭でした。ああいうリズムを持つ言語だと、ちょっと文明観も違うものだなぁ、と思いました。
投稿: Mu→ふうてん | 2005年8月16日 (火) 05時25分
はじめまして。ココログの検索でこちらのブログにたどりつきました。
トラックバックさせていただきました。
ときどきおじゃまさせていただきますので、今後ともよろしくお願いします。
投稿: Marius | 2005年10月19日 (水) 22時36分
Mariusさん、2005年10月19日 午後 10時36分
blogは過去の記事にもコメントやトラックバックがあって、良いと思っています。
投稿: Mu→Marius | 2005年10月20日 (木) 04時09分