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2005年7月24日 (日)

NHK義経(29)常磐の死

承前

 頼朝は義経の武功(一ノ谷合戦)に報いず、後白河法皇への「国司推挙」のリストに義経の名が載らなかった。このあたりの史実はよくわからぬ。一体どういう理で、義経には恩賞がでなかったのか。兄弟の確執をこれほどあからさまに世間や朝廷に見せる必然性が見えない。ドラマでは、義経の人気を厭ってのこととして描かれていたが、武家にとって恩賞は公事なのだから、理屈がないと話が通らぬ。

 頼朝のやりようは、義経を弟どころか御家人とも認めていない。兄・源範頼の家臣、つまり陪臣扱いである。
 それとも、義経の軍功が鎌倉に伝わらなかったのか。それはないだろう。
 と、いろいろ考えるとこのあたりから、頼朝のことが分からなくなる。頼朝は優れた政治家と史上に名高いが、別の言い方ならば、優れた年若い弟・義経ひとり、制御できなかったとも言える。

 ただ、これはドラマだから脚色もある。むしろ、義経が食わせ者で、すでに義仲追討を成功した時点で、後白河法皇としっかりよしみを通じていたとも考えられないことはない。
 生き霊となって義経を訪れた母の常磐が、「鎌倉も、法皇も、上回るような表裏をわきまえた男になれ」という意味で、諭していた。もし、義経がそうであるならば、司馬義経も、宮尾義経も、平家物語も、義経記も要所を外していたかも知れない。
 などと、どんどん妄想が広がる。
 なにしろ、後世、ジンギスカンに身をやつしたかもしれない義経なんだから(哄笑)。

 義経が法皇から授けられた褒美は検非違使(けびいし)をまとめること、つまり都の警察長官である。官職は判官(ほうがん)と呼ばれ、「長官、次官、判官、主典(さかん)」、の四等官の三番目となる。京都は中央官庁なのだから高級官僚である。実質の検非違使長官、20代後半だったはず。
 これが頼朝の機嫌を損じたのは、よくわかる。鎌倉を通さずに、直接法皇から任官されたのだから、頼朝にとっては越権と思えたに違いない。もちろん、法皇からすれば、朝廷の下僕である頼朝などの申し条は聞きとうないという、意思表示だったのだろう。
 源氏の内紛を意図した除目(じもく)・任命は、官打ちの代表例なのかも知れない。無闇に高位高官にしたてあげて、自滅するのを待つ高度な策略である。現代では、ものすごく田舎っぽい手法で「褒め殺し」とも誤認されているようだが。

 こういった政争謀略世間の表裏を、女ひとり生き抜いてきた常磐が、息子の出処進退をはらはら眺めるというドラマ仕立ては、とても自然だ。
 義経の母は、やがて病み、みまかった。常磐御前を演じた稲森某は、たしかに名演技だった。慈しみ、暗さ、気迫、艶姿、すべてを数秒単位で表情にだせる女優だった。
 今夜は、千人の中の第一の美女、常磐御前をしのび、眠ろうぞ。

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コメント

今回は、本当に常盤が良かったです。三人の旦那に仕え、どちらかと言えば無節操の感が強かった常盤でしたが、死を前にその胸の内を義経に、ーーいや後世の人々にもーーハッキリ言いました。子供たちのためだったんです。絶世の美人が今生のワダカマリをスッキリ清算しました。昨夜は、常盤御前を偲んで寝ました。

投稿: hisaki | 2005年7月25日 (月) 08時35分

恩賞については謎ですね?

頼朝の政権基盤は関東武士団ですから、一所懸命の牧場主の連合ですよね(司馬さんの説)。恩賞めあてと一所の安堵が目的で連合している訳ですね。

義経はどういう立場だったんでしょうかね?関東武士団からは、認めてもらってなかったんでしょうか?

それとも、義経の戦闘戦略が余りにも、近代的で蒙古の軍団に驚いた鎌倉武士のように、既に近代戦争の戦略を先取りした稀有の天才だったのかも知れません。

有力武将の首をいくら獲得しても、全体の戦争で負けては何もならん!鎌倉の一騎打ちなんて、阿呆らしい!と、考えていたかも知れません。

それとも、恩賞なんぞは興味なく、あくまで天皇さん中心の国家像をもっていたんでしょうかね。

投稿: jo | 2005年7月25日 (月) 09時47分

hisakiさん、2005年7月25日 午前 08時35分

 当時は今よりもずっと生きにくい時代だったと思います。
 飢饉、疫病、いくさ、治安の悪さ、法精神の苛烈さと無法…
 こういう中で女が男なしで子供を育てるのは、想像を絶するきつさだったでしょうね。
 幸い、常磐御前は器量にめぐまれていたから、源氏、平氏、藤原氏、その三人に見初められて、源・平では子までなした。
 しかし生身の人間ですから、儒教精神なんかとは関係なく、流転を味わっていたことと想像します。

 もし、実際に都で義経と会っていたとしたならば、義経に「生き延びることの」諭しをあたえたことと十分に想像できますね。
 女と言うよりも、ここでは「母」が全面にでてきて、よいと思った次第です。

投稿: Mu→hisaki | 2005年7月25日 (月) 11時53分

joさん、2005年7月25日 午前 09時47分

 はてまた、義経が尊皇だったとは!
 なかなかにユニークな解釈ですね。

 源氏はもともと臣籍降下なのだから、まあ、親元を大切にという思想があってもおかしくない。
 どうかんがえても、義経は関東武士団とは無縁だし、Joさんが以前もうされたように、むしろ鞍馬などを媒介にした山の民に親しい。都ぶりをしった山の民とでももうせましょうか。そのうえ、学問もあるから、大義名分もこころえていたことでしょう。
 家来たちも、まともな武士は、藤原秀衡から授けられた佐藤兄弟だけで、あとは、妖しい人たちばかり。
 おお。楠木正成一党をおもいだすなぁ〜。
 
 ここで、はたと手を打った、Mu。
 義経は、頼朝との兄弟の確執なんかとは無関係に、政治信条として、尊皇主義だったんだぁ。
 だから、逃亡は悲劇ではなく、思想に殉じた。みなさんのもうされるような、政治音痴じゃなかった。考えての行動だった。

 となると、新たな義経像が、できあがるね(笑)

投稿: Mu→Jo | 2005年7月25日 (月) 12時05分

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