NHK義経(26)一ノ谷前夜
西海の平氏は三種の神器と安徳天皇をたてまつり、兵十万、摂津は一ノ谷に布陣する。援軍は阿波の水軍。一方都の源氏は範頼(のりより)、義経兄弟と六万の兵。この年1184年寿永三年、一月義仲征夷大将軍、朝日将軍、旬日を経ずして敗死、同二月一ノ谷の決戦となる、その前夜が今日の「義経」だった。
女が幾人もでてきた。
巴、靜、うつぼ(あづみさん)。前二者は実在なれど、うつぼは義経の数ある恋人達のひとりのタイプであろうか。
夏木マリ(丹後局)、政子、磯禅尼(靜の母)、時子。大姫(義高の幼妻)
この中で、巴、靜、うつぼの三名がいずれも丸顔(うつぼはやや四角)、目が大きく、小柄に見えるところに今回の義経の面白さを味わった。総じて可愛らしい。なんとなく演技も丸みを欠き、ぎくしゃくしている、それが良い。芸達者が多い年輩女優に混じって、軽い違和感をもたらすこういう若い女優達こそ、「義経」の現代解釈として楽しんだ。
今夜の巴の汚れ役はよかった。
靜の静かな語り口が耳から離れない。なによりも烏帽子水干姿はいつみてもよい。
うつぼの涙は上手だった。
靜とうつぼとの対決は、義経が都育ちである故にこそ、稀代の舞姫靜に傾くのはいたしかたない。
男達。
言及を出来る限りさけてきたが、梶原親子は今後も目を離せない。父景時(かげとき)は義経を失脚させて、頼朝死後は一族滅亡する。息子景季(かげすえ)は、父とは別に義経に好意的にえがかれている。宇治川の先陣争いは描写されなかったが、文武にすぐれた若武者だったようだ。
しかし義経の近未来を思うに、あれだけ梶原景時の讒言にあい、頼朝の猜疑と憎悪をまねき、なお延々と奥州にまで生き延びた生命力には感心する。
なぜ梶原父子への言及をさけ、今後も筆にしたくないかというならば、現世への「あきらめ」があるからである。どのようにしても、義経と梶原景時とは反目しただろうし、いかようにしても頼朝は景時を重んじたであろう、その摂理への絶望感からである。この世で出会ったのが地獄の一丁目。そんな、諦観がある。
Muが景時ならば、なんとしても義経を排斥するだろう。組織の異分子だから。
Muが義経ならば、景時を侮蔑し、無視するだろう。世界観の異なる男だから、故。
さて附録
義経は丹波路を、篠山、社(やしろ)経由で南進し一ノ谷の背後に迫った。
両地とも懐かしい山国である。
篠山は城跡に大広間が再建され、よく整った美しい町だ。旧家老屋敷も整備され残っていた。蕎麦がまことに美味しい町だった。
社は、事情で一年間住んでいた。よい町だった。
この二つの村を義経が主従と走り抜けた。我が身に合わせ思い起こすなら、呆然とする歴史である。
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コメント
一ノ谷合戦前の各陣営の様子のまとめ、楽しかったです。静は色気もあり、それでいて、ままごとの夫婦みたいな雰囲気もあって、本当に義経のイメージにぴったりだと思いました。「オダマキ」の花もでてきました。後に、頼朝の前で静が「しずやいず しずのおだま・・・」と舞ったときのおだまき(苧環)とかけてあるんだと思うんですけど。
Blogのお陰で私なりに楽しく見れています。
有難うございました。
投稿: hisaki | 2005年7月 4日 (月) 10時11分
hisaki さん、2005年7月 4日 午前 10時11分
平家は一旦太宰府まで逃げていたようですね。10万の軍勢をつれて東征できたのは、いつも思うのですが、不思議です。
足利尊氏も、すぐに盛り返して東征したようです。
九州の地には、東征ときくと、血がたぎる人がおおいのじゃないでしょうか。われも行かん!と。
一ノ谷の合戦も、もし義経が山から落ちるように攻めなかったなら、源平のバランスも変わっていたことでしょう。
歴史は。ひとつひとつの戦史をみるだけでも、なんか、感歎します。そういえば、関ヶ原もそうでした。
で、義経後半は、そういう見せ場が多くなりますから、これまでの様式美に加えて、手に汗握る場面が増えるかも、そうあればよいのにねぇ(笑)
投稿: Mu→hisaki | 2005年7月 4日 (月) 17時13分
義経を琉球で観ました
私も律儀やね、琉球のホテルで観ました。綺麗なおなごはんに囲まれて、義経はんはよろしいな?
次回は一の谷の合戦ですね、少しは戦闘場面はでてくるんでしょうか?それとも、篠山、社、一の谷への搦め手の戦術が観れるんでしょうか?
義経という人は、思うにラッキョみたいな人ではないか?戦争をするときにまず、1000人おれば先ず、700人くらいを本体としておき、自分は300騎を率いて別働隊となる。
そして、又、250騎をおき去り自分は別働隊となり50騎を率いる。常にカラを脱ぎ捨てながら
最後は一人で大将の首を取る戦略。
ラッキョの例えは上手くないけど、脱皮しながら最後に核爆弾が相手大将の頭上で炸裂するような戦略と思う。
別働隊は相手側も瞬時に捉えにくい、相手大将に別働隊隊長をやられると、一番怖いですね。
常に自分は少数を率いるところが、ミソですね、相手の諜報部隊はまさか相手の大将が別働隊に行くとは思わない。ここが、義経の時間感覚と相手諜報部隊を惑わす凄いとこではないでしょうか?
ま、これからが楽しみですね。
投稿: jo | 2005年7月 5日 (火) 16時55分
joさん、2005年7月 5日 午後 04時55分
そういう義経の虚をついた戦法、戦史は今回描写されるのでしょうか。楽しみではありますが、なんとなく、別の楽しみを見つけるのが、これまでの放映では、よいように思えます。
戦争技術者としての義経を描くよりも、疑似父、母、女、主従、兄、兄嫁という人間関係の中の義経を描く大河ドラマのようですね。
しかし、Joさん描く義経を、専門に(笑)活写した作品は、過去あったのでしょうか。これも、記憶を探ると、無かったようにも思えます。
投稿: Mu→JO | 2005年7月 5日 (火) 20時49分
Muの旦那
なんか、疑ってませんか?(笑)昔、詳しく義経の一の谷の行動記録を調べたことがあるんです。
全て、理にかなう行動でした。戦いは時間との勝負なんやね、商売と同じや。ぼや~~と、考えていたら負けやね。
私が尊敬する、戦闘戦略家は4人やね、信長の桶狭間、楠正成の赤坂城、義経の一の谷、
東郷連合艦隊指令長官、秋山の日本海海戦ですね。
いかん、ヤマトタケルを忘れていた。初期のタケルは謀略の天才やね、女装して熊襲兄弟、出雲タケルは木刀とスリカエ、ホンマ戦闘とは心理戦ですな。
投稿: jo | 2005年7月 5日 (火) 22時00分
joさん、2005年7月 5日 午後 10時00分
疑ってるのじゃなくて、無知なんです。
それよりも、戦史分析については、Joさんの方がドラマやMuより数枚上手でしょから、今後コメントをよろしく。
信長、正成、義経、東郷・秋山
よい、わかりやすい、人選ですね。
で、おひまなおりに一言ください。
関ヶ原のことです。
やはり、不思議でしかたない。
投稿: Mu→Jo | 2005年7月 5日 (火) 22時22分
関が原の戦いですか?
あれは、世界中の戦史研究家が全員言います、西軍の勝ちであると。軍略的に見ても、西軍は山の上に陣取り全てに優勢でしたね。
しかも、馬鹿タレ息子の秀忠の大軍が到着していない。家康は全体絶命の戦局です。
西軍に欠けていたのは、コーポレートガバナンスやね。今風の会社経営論で言うとね。
最後に、小早川の裏切りが無ければ、といいますが、西軍は社長が嫌いやったんやろね。真面目にやらんかった、最後に島津は大変でしたね。
ま、戦争とか戦闘とは心理戦の部分が大きいのかも知れませんね。
投稿: jo | 2005年7月 5日 (火) 23時39分
joさん、005年7月 5日 午後 11時39分
心理戦を根性論にしてしまう悪癖がよく見受けられますね。
心身は一体と、よくわかります。
ところで、戦史というのは、昔読んだ塩野さんのローマもの(Muはオクタビアヌス皇帝で、中断したまま)で実にローマの歴史がよく分かりますね。
ローマでも日本でも中国でも、だれかがきっちりと記録しておったんでしょうね。従軍記者でしょうか。
それ以上に、武士団の中では、語りがあったと想像しとります。将校クラスでないと、全体をつかむのは無理かも知れませんが。
はい。
関ヶ原、コーポレイトガバナンス問題に帰結するわけですね、Jo先生。
投稿: Mu→Jo | 2005年7月 6日 (水) 08時42分
戦場は武士の稼ぎの場
Muさん戦国時代は記録が重要だったようですよ、なんせ勤務評定で稼ぎが違うからね。
戦争がないと稼げない訳ですからね。戦いのあとの申告と論功業賞は一族の収入に関わる話ですから。
蒙古襲来の時は鎌倉幕府は金が無くて苦労したようですね。なんせ、蒙古からは金がとれなかったからね。
信長公記とか増鏡とか詳細に書かれていますよね。壬申の乱の時も毎日、戦場で記録をとっつたそうです。当時はノートパソコンが無いので携帯の筆と木簡(紙は雨とか風で破れる)に記録したそうです。
投稿: jo | 2005年7月 6日 (水) 10時56分
joさん 2005年7月 6日 午前 10時56分
そう言えば、現代感覚からすると異様なまでの、耳塚、鼻塚、首塚とか、あれこれありますな。
投稿: Mu→Jo | 2005年7月 6日 (水) 22時18分